マグドレド街道を抜け、王国と同盟の境界へと足を踏み入れた新生軍は、その過酷な環境に息を呑んでいた。
大地は乾ききってひび割れ、あちこちの亀裂から硫黄の不快な臭いと共に赤黒い炎とマグマが噴き出す不毛の地。かつて女神の怒りによって焼かれたと伝わる“煉獄の谷”アリルである。
頭上からは容赦ない太陽光が降り注ぎ、足元からは靴底を溶かさんばかりの地熱が立ち昇る。吹き抜ける風すらも熱波を帯びており、呼吸をするだけで肺の粘膜が焼かれるような苦痛を伴った。
「暑い……もう駄目だ。干からびて死にます……帰りたい……」
リンハルトがうわ言のように呟きながら、重い足を引きずっている。彼の緑色のローブはすでに汗で肌に完全に張り付き、杖を握る手は白く力弱かった。
「ペトラ、暑さで頭やられています。見えている幻覚、でしょうか。……あの岩山の陰、人影が……」
ペトラが朦朧としながら、熱気で景色が歪む前方を指差した。
「……ッ、止まれ! 伏せろ!」
セテスが鋭い声で号令をかけ、全軍が即座に岩陰や窪みへと身を隠す。
陽炎の向こう側、巨大な岩の陰から、武器も持たない一人の少年がフラフラとこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。銀色の髪は土埃と煤で汚れ、足取りは極端におぼつかない。
「……斥候か?」
シャミアが冷徹に弓を引き絞り、矢の先端をその影の胸元に定めた、その時。
「待って、シャミアさん。あれ……アッシュだ」
弓の弦の張りを確かめていたツィリルが、その見覚えのある銀髪の少年に目を丸くした。
「はぁっ、はぁっ……先生! 良かった、間に合って……っ!」
アッシュは両手を顔の高さまで上げ、自分に武器がないこと、敵意がないことを必死に示しながら、転がるように新生軍の陣へと駆け込んできた。そのまま力尽きたように膝をつき、激しく肩を上下させる。
「アッシュ……? 君は、ローベ家の兵になっていたのではないのか?」
セテスが地形図から目を離さず、警戒を解かずに問う。
「違います! 僕は……知らせに来たんです!」
アッシュは、極度の喉の渇きに咳き込みながらも、這いずってきた背後の谷を真っ直ぐに指差した。
「ローベ家のグェンダル将軍が、帝国からの命を受けて、あなたたちをここで待ち伏せしています。……この先にある、すり鉢状の盆地の底に誘い込み、崖の上から完全に包囲して一網打尽にする作戦です」
アッシュは、荒い呼吸を整えながら、真っ直ぐにベレトと、ツィリルの目を見つめた。
「ロナート様の恩義と、帝国への反発の間でずっと悩んでいました。でも……先生たちを騙討ちにするような卑怯な真似、ロナート様が絶対に許さない! だから僕は、夜の間に一人で陣を抜け出して、あなたたちに警告しに来たんです!」
ベレトは、自らの正義を貫き、死のリスクを冒してまでかつての仲間を救いに来た教え子の言葉を視界と聴覚で処理し、天帝の剣の柄から手を離して深く頷いた。
「アッシュ、教えてくれてありがと。……で、その罠が張ってある盆地は、ここからどれくらいの距離?」
ツィリルが、アッシュの前に水袋を差し出しながら、事実関係の確認を急いだ。
アッシュが水を受け取り、地面の砂を指でなぞって正確な配置と距離、伏兵の規模を図示する。それを隣で見ていたユーリスが、紫色の瞳を三日月のように細めて悪辣に笑った。
「……なるほどな。底に俺たちを誘い込んで、崖の上から弓と魔法で串刺しにするって寸法か。なら……」
ユーリスは、地形図とアッシュの砂絵を見比べ、ツィリルと顔を見合わせた。
「連中が崖の上に展開して『罠にかかるのを待っている』そのさらに上、背後の尾根伝いから、俺たちが奇襲をかければいい。完璧なグリル会場の出来上がりだ」
「ああ、……バルタザールとラファエルに正面から囮として底を歩かせよう。ユーリスたちは上から一気に敵の本陣を潰してくれ」
ベレトの指示に、各員が即座に武器を取り、配置につく。
アッシュの決死の警告により、新生軍にとって致命的となるはずだった死地は、逆にローベ家を無慈悲に粉砕するための『極悪な逆奇襲』の盤面へと塗り替えられた。
***
「遅いのう。……炎の紋章を掲げた賊どもは、まだ姿を見せぬか」
すり鉢状の盆地。
その周囲を囲む切り立った崖の上で、老将グェンダルは分厚い装甲に身を包み、腕を組んで眼下の入り口を見下ろしていた。
「将軍! 谷の入り口に、敵の先鋒と思われる重装兵たちの姿が!」
「よし、罠にかかったな。奴らが盆地の底に入り切ったところで、一斉に……」
グェンダルが采配を振り下ろそうと腕を上げた、その瞬間。
彼らの『頭上』に位置する死角の岩場から、鼓膜を劈くような魔力圧縮音と、強烈な暴風が叩き込まれた。
「なんだと!? ぐあああっ!」
「上だ! なぜ敵が、我々の背後の高台に……っ!」
「はっははは! そっちが俺たちを見下ろしてるつもりだったんだろうが、残念だったな!」
ユーリスが崖の上から跳躍し、着地と同時に剣を横凪ぎに振り抜く。彼に続くようにコンスタンツェとハピが魔力を解放し、ローベ家の弓兵や魔道士たちが次々と火だるまになって谷底へ転落していく。
「はぁ……もう、暑すぎて最悪。息するのもしんどいし……」
熱波に体力を奪われたハピが、岩陰でだらりと腕を下げ、深いため息をついた。
その瞬間、谷の底を走る巨大な亀裂から、周囲のマグマを吸い上げた巨大な野生の魔獣が咆哮と共に這い出した。魔獣は完全に混乱しており、もっとも近くに密集していたグェンダルの重装歩兵の陣営へと理不尽に突っ込んでいく。
「うわあああ! 魔獣だ、なぜこんなところに!」
「っしゃあ! デカい獲物じゃんか!」
ハピの呪いによって引き寄せられた魔獣を見るや否や、カスパルが目を輝かせて巨大な斧を構え、嬉々として魔獣と敵兵の群れが入り乱れる激戦区へと飛び込んでいった。
「ハピ、お前は危ねえからすっこんでろ! オレが全部ぶっ飛ばす!」
「……は? どんだけバカなの、あの青髪……」
自分の抱える重い呪いを「ただの腕試しの的」としか認識しないカスパルの単純な力業に、ハピは呆気にとられながらも、胸の奥にこびりついていた重い泥がふっと軽くなるのを感じた。
その横で、凄まじい魔力を放ち続けていたリシテアが、熱気と連続詠唱による疲労でガクッと膝をついた。
「っ……くっ、この程度の暑さで、私が……!」
「リシテア、無理しすぎだよ。ここで倒れて頭でも打ったら怪我するでしょ」
倒れかけた彼女の体を、ツィリルが背後からガシッと肩を掴んで支えた。彼の声は平坦だが、その手には彼女を確実に支えるだけの力が込められている。
「ツ、ツィリル!? 離してください、私はまだやれ……!」
「歩く体力があるなら、全部魔力に回して。……ほら、乗って」
ツィリルはリシテアに背中を向け、低く屈み込んだ。そして彼女の膝裏に腕を回し、ヒョイと背中に背負い上げる。
「リシテアの魔法は、ボクたちの一番強い武器なんだから、ここで倒れられたらみんな死んじゃう。……ボクの背中から撃ってよ」
「な……っ!」
ツィリルはリシテアの返答を待つことなくその太腿を自らの両腕で強固に固定した。分厚い制服越しでも明確に伝わる彼の高い体温と、足元で爆ぜるマグマの地響きすら完全に吸収してしまう強靭な体幹の安定感に、リシテアは一瞬呼吸を詰まらせ、耳の裏まで一気に血を上らせた。
「わ、わかりましたわよ……! その代わり、絶対に私を落とさないでくださいねっ!」
リシテアはツィリルの首にしがみつきながら、彼が確保する最適な射線に合わせて、容赦なく闇の魔法(ダークスパイク)を敵の重装兵の足元へ雨あられと降らせた。
「おのれ、小賢しい真似を……! ええい、わしが直接出る!」
陣形をズタズタにされ、自軍が壊滅していく様を見た老将グェンダルが、自ら巨大な戦斧を構えて躍り出る。
だが、その首筋にはすでに、ベレトの天帝の剣と、ツィリルの手斧の冷たい刃がピタリと突きつけられていた。
「……見事な戦術だ。完全にこちらの裏をかかれたわ」
グェンダルは、血を吐きながらも武器を手放し、騎士らしく己の敗北を受け入れた。
「若造ども……見事なり……」
老将が崩れ落ちたことで、ローベ家の軍勢は完全に無力化された。
アッシュの勇気ある決断が生み出した、新生軍の圧倒的な完全勝利であった。
戦闘から数時間後。
谷の安全なエリアで休息を取る新生軍の元に、黄色い軍旗を掲げた一団が到着した。
「おや、戦闘はもう終わっちまったのかい。……クロードの坊やから話は聞いてるよ。あんたが噂の『先生』だね?」
豪快な笑い声を響かせながら現れたのは、ダフネル家の当主、“烈女”ジュディットだった。
「援軍、感謝する。だが……ジュディット殿。兵を率いてきてもらったのはありがたいが、正直なところ、我々にはこれ以上の兵を食わせる兵糧の余裕がないのだ」
セテスが、兵糧の帳簿を握りしめながら、苦渋の表情で実情を打ち明ける。
「ああ、それなら心配いらないよ」
ジュディットがニヤリと笑った、その時だった。
「……ツィリルさん」
ツィリルの背後から、恐る恐る、しかし確かな決意を持って歩み出たのは、マリアンヌだった。
「マリアンヌ? どうしたの」
「兵糧の件なら……私が、義父であるエドマンド辺境伯に手紙を書きます。……義父様は、同盟で最も豊かな財を築いている方です。私から頼めば、必ず新生軍への支援を取り付けてみせます」
彼女は両手を胸の前で固く握りしめている。己の呪われた血を忌み嫌い、誰かと深く関わることを極端に避けていたマリアンヌからの、信じられないほど前向きな申し出だった。
「いいの? マリアンヌ、養父さんにあんまり借りを作りたくないって言ってたのに」
「……はい」
マリアンヌは、ツィリルの金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ツィリルさんの、この軍のためなら……私は、自分の立場を、血を使います」
ツィリルは、弓の手入れをしていた布を腰のベルトに挟み込み、マリアンヌの前に立った。
「マリアンヌ。顔、上げなよ」
彼は、彼女の震える肩を真っ直ぐに見据えて、事実だけを口にした。
「マリアンヌが義父さんに頭を下げて手紙を書いてくれるなら、ボクたちは誰も餓死せずに済むし、怪我だって治せる。すごく助かるよ。だから、マリアンヌはボクたちの群れに絶対に必要な人だ。ずっと側にいてね」
「っ……あ、はい……っ!」
ツィリルの言葉に、マリアンヌは両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「……天然のタラシだねえ」
ジュディットが呆れたように笑い、それから谷の入り口を指差した。
「さて。私からの兵糧の心配がなくなったところで……もう一つ、あんたらに特大の『手土産』を連れてきてるんだよ」
ジュディットの言葉に合わせるように、空から大きな羽ばたきの音が聞こえた。
見上げれば、数騎のペガサスナイトが谷へ向かって降下してくるのが見える。
その先頭。
蒼い鎧に身を包み、美しい金糸の髪をなびかせた少女が、ペガサスの蹄が完全に接地するよりも早く、飛び降りるようにして地に降り立った。
「……イングリット」
ツィリルの平坦な声が、微かに震えた。
「ツィリル……!」
イングリットは、泥と汗にまみれた顔をくしゃくしゃに歪ませながら、周囲の目も気にせずにツィリルの元へと真っ直ぐに駆け寄った。
「ジュディット殿の協力のおかげで、ガラテア領の交易路を確保し、民が飢える心配はなくなりました……! 私は、次期当主としての責務を、すべて果たしてきました!」
彼女はツィリルの目の前で足を止め、震える両手で、彼が手斧を持つ右腕をギュッと力強く握りしめた。
「5年間……ずっと、あなたに会いたかった。……もう、誰にも文句は言わせません。今度こそ……あなたの側に、ずっといさせてくださいっ!」
王国の騎士としての苛烈な状況を自らの力で打開し、彼女は再び、自らの意思でツィリルの前に立った。
「……うん」
ツィリルは、自分を握る彼女の指の上に自らの左手を重ね、さらに強い力で握り返した。そのまま、彼女の身体を自身の胸元へと引き寄せる。
「もう絶対に、ボクの目の届かないところには行かせないから」
彼の金色の瞳孔は、彼女の身体を自らの胸元へと強固に引き寄せる動作とは裏腹に、一切の感情を排した機械的な精度で谷の入り口と周囲の尾根の走査をすでに開始していた。イングリットの背中に回された彼の左手は、彼女の青いマントの分厚い布地を引き裂く寸前まで白く握り込まれており、その極端に浅く速い呼吸が、周囲の空気を物理的に圧迫するほどの重い熱と威圧感を生み出していた。
熱く乾いた煉獄の谷の底で、イングリットもまた、新生軍への集結を果たしたのである。