擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十三章①

煉獄の谷アリルでの死闘から数日が経過した。

ガルグ=マク大修道院の城門には、日の出と共に絶え間なく荷馬車が引き入れられていた。重い木製の車輪が石畳の表面を削りながら軋む音、荷馬を引く手綱の擦れる音、そして兵士たちが木箱を運び出す際の短い号令が中庭の空間に響き渡っている。

 

合流を果たしたジュディット率いるダフネル軍の補給隊、そしてイングリットが単騎で先導し、谷を越えてきたガラテア軍の輸送部隊が持ち込んだ物資の総量は、修道院の備蓄庫の床面積をたちまちのうちに埋め尽くした。麻袋に限界まで詰められた大量の小麦、塩漬けにされた肉と魚が隙間なく敷き詰められたオーク材の樽、そして新しく鍛え直され、油を引かれた鋼の剣や槍の束。長らく疲弊と欠乏に喘ぎ、配給の麦粥すら底を突こうとしていた大修道院は、今ようやく、数千の兵が万全の継戦能力を備え、最低でも三ヶ月は籠城に耐えうる「軍の拠点」としての機能と熱気を取り戻していた。

 

作戦会議室の中央に据えられた長方形の巨大な石のテーブルには、フォドラ全土の地形と街道、関所、主要な砦を精緻に描いた羊皮紙の地図が広げられている。地図の四隅は鉄の重りで固定され、その上には各勢力の兵力と現在位置を示す木製の駒が配置されていた。

 

「……兵力も物資も、ひとまずは申し分ない。これより、我々新生軍は二手に分かれる」

 

セテスが、地形図の中央に置かれた『炎の紋章』が彫り込まれた赤い木駒を指先で強く叩いた。硬い音が室内に響く。

 

「一つは、この大修道院に残り、防衛と後方からの兵站支援を担う守備部隊。……そしてもう一つが、帝国領へ直接侵攻し、最終的に帝都アンヴァルを目指す主力打撃部隊だ」

 

セテスの低く、乾いた声に、会議室の空気が一瞬にして張り詰める。室内に集まった各将たちの表情から先の戦闘を生き延びた安堵の色が完全に消え去り、実戦の血生臭さを想定した険しい視線が地図へと注がれた。

 

「ガルグ=マクから南下し、帝国領へ深く入るには、フォドラの中央を横断するオグマ山脈の険しい山岳地帯を大きく迂回せねばならん。西の旧王国領回りのルートは、すでに大半の諸侯が帝国の支配下に入っており、彼らの私兵が関所を固めている。そこへ我々の主力部隊を進めれば、進軍速度が著しく落ちるだけでなく、両側面から挟撃を受ける危険性が高すぎる。……我々が取るべき進路は、地形的に軍の展開が容易な東の同盟領回り一択だ」

 

「東回りってことは……同盟と帝国を分ける『アミッド大河』を渡るってことですよね」

 

イングリットが、地図上に引かれた青い太線をなぞるように指を這わせた。彼女の纏う銀色の甲冑の接合部が、微かな金属音を立てる。その指先が、大河に架かる一点で止まった。

 

「大河を南へと渡るには、最も修道院に近い『ミルディン大橋』を落とす必要があります。ですが、あの橋は帝国領への入り口を塞ぐ最大の関所。多数の魔道砲台が橋の上に配置され、帝国軍の正規兵が強固な防衛線を敷いているはずです」

 

「ええ。それに、ミルディン大橋の手前の土地は、同盟の『グロスタール領』に属していますわ。親帝国派の筆頭であり、強大な私兵を抱えるグロスタール伯が、私たちのような反帝国の軍勢を自領内にすんなり通してくれるとは思えません」

 

コンスタンツェが、忌々しげに紫色の扇子を広げて口元を隠し、地図の東側を睨みつけた。

 

修道院の防衛という受動的な戦術から、未知の敵陣営への能動的な侵攻戦略へ。

アミッド大河という強固な自然の要害と、そこに架かる要塞化された大橋。そしてその手前に立ち塞がる、グロスタール家という政治的かつ軍事的な障壁。その二重の壁の高さと分厚さに、会議室の誰もが押し黙り、地図上の敵の駒の配置を睨みつけた、その時だった。

 

「……そのことなら、ご心配には及びませんよ」

 

大広間の重い木扉が金属製の蝶番を軋ませて開き、一人の青年が歩み入ってきた。

 

「イグナーツ……!」

 

ベレトが、扉の方へ視線を向け、目を細める。

 

「お久しぶりです、先生。アリルでの大暴れ、お疲れ様でした。……実は、先生方がここへ帰ってくるのを見計らって、クロードくんから手紙と……一つ『取引』を預かってきました」

 

イグナーツは、土埃と馬の汗で汚れたマントを揺らしながら歩み寄り、テーブルの前に立つと丁寧に一礼した。そして、革の鞄から厳重に蝋で封をされた書状を取り出し、テーブルの上に置く。同時に、彼は地図の上の『リーガン領』と『グロスタール領』の二箇所に、自らの両手の人差し指を押し当てた。

 

「同盟を一つにまとめ上げるには、親帝国派の筆頭であるグロスタール伯の戦力を物理的に削ぎ、実力で黙らせる必要があります。ですが、リーガン家が直接兵を差し向ければ、同盟内で大規模な内戦が起こり、兵力と物資が著しく消耗する。……そこで、クロードくんがリーガン家の本軍を動かして、グロスタールの兵力を『同盟内の領地争い』に見せかけて、東の国境沿いへと引きつけます」

 

イグナーツは円形の眼鏡を人差し指で押し上げ、地図上のグロスタール軍を示す駒を東へと滑らせた。ミルディン大橋へ続く街道の防衛が、地図上で手薄になる。

 

「その隙に、先生方新生軍に兵力が手薄になったグロスタール領を素通りしていただき、一気にアミッド大河のミルディン大橋を落としてもらいたい……とのことです。『橋が落ちて帝国の援護が完全に絶たれたと知れば、あの徹底した現実主義のグロスタール伯は、絶対に自領の街や畑を焼くような無駄な抵抗はしない。同盟は、俺たちリーガン家の武力の下に綺麗に一つにまとまるはずさ』……と、手紙には書かれています」

 

「……なるほど。こちらの進軍路を安全に確保する見返りとして、我々の武力を利用し、同盟内部のパワーバランスを彼らにとって都合よく作り変えたい、というわけか」

 

セテスが腕を組み、かつての教え子が描いた盤面を細部まで確認する。自らの兵を極力消耗させず、外部の戦力を利用して内部の不穏分子の退路を断つ、極めて実利的な戦術。

 

「先生方にとっても、無傷で大橋のたもとまで兵力を温存して辿り着ける良いお話だと思いますが……先生は、どうされますか?」

 

イグナーツの問いかけに、ベレトは迷うことなく、腰に佩いた天帝の剣の柄に右手を置き、力強く頷いた。

 

「……受けよう。大橋を落とし、帝国への反撃の足がかりとする」

 

「ありがとうございます。……ツィリルくんも。君たちの暴れっぷり、クロードくんも期待してましたよ」

 

イグナーツが視線を移し、壁際に立つ少年に向けて笑いかける。

ツィリルは、手斧の刃の欠けを小さな砥石で削っていた。シュッ、シュッという硬質な摩擦音を止め、手斧を腰の革製ホルダーに深く差し込むと、彼は短く息を吐いた。

 

「別に、クロードのためじゃないよ。ボクたちの寝床をこれ以上荒らされないために、帝国の連中を掃除しに行くだけ。……で、クロードは橋を落とした後、ご飯はいっぱい食べさせてくれるんだよね。アリルから帰ってきたばかりで、みんなお腹空いてるから」

 

「ははっ! ええ、約束します。最高のご馳走を用意して待っていますよ!」

 

会議が終わり、各々が出陣の準備に取り掛かるため、慌ただしく広間を後にしていく。

ブーツが石畳を叩く音や、武器庫へ向かう兵士たちの声が遠ざかっていく中。

 

「……ツィリル」

 

修道院の石造りの回廊。開け放たれた窓から吹き込む風が土の匂いを運んでくる場所で、ツィリルは背中の矢筒に新しい矢を一本ずつ補充し、弦の張りを指先で弾いて確認していた。

その背中に向けて、真っ直ぐな声がかけられる。

 

彼が振り返ると、そこにはイングリットが立っていた。

泥と煤にまみれていたアリルでの顔とは違う。顔の汚れは拭き取られ、以前のような迷いや、孤立無援の地で領民を背負っていた表情ではない。

 

「ダフネル軍との連携、そしてガラテア領への物資の補給路の確実な確保。……これで、私の領民が飢えることはなくなりました」

 

イングリットは、ツィリルの目の前で両足の踵を揃え、姿勢を正した。そして、右手の拳を左胸の装甲に打ち当てる、古風で格式高い騎士の礼をとる。

 

「私はもう、何の後顧の憂いもありません。これからは……あなたの剣として、盾として、前線に立ち、この命を懸けてあなたを護ります」

 

彼女の緑色の瞳は、瞬きすら忘れ、ツィリルの金色の瞳孔の奥だけを鋭く凝視していた。

 

ツィリルは、矢の羽の具合を確かめていた手を止め、無言で彼女の身体を頭の先から足元まで観察した。

 

「……護るなんて言わなくていいよ」

 

彼は、一切の抑揚のない平坦な声で事実だけを口にした。

 

「イングリット、右足の運び方、少し庇ってるでしょ。アリルで無理したせいか、靴擦れか何かで足首を痛めてる。それに、左腕の籠手の下、布がちょっと焦げてる。火傷の処置、まだ完全に終わってないよね」

 

「え……っ、それは……っ」

 

イングリットの肩が微かに揺れる。ツィリルは、彼女の動揺を意に介さず、淡々と言葉を繋いだ。

 

「怪我したまま無理して前線に出たら、足がもつれて槍を躱せなくなるよ。そしたらイングリットは死ぬ。イングリットが死んだら、助かったガラテアの人たちも悲しむし、先生も困る。……ボクだって、困る」

 

彼は一歩前へ踏み出し、イングリットとの距離を詰めた。

ツィリルの身長は彼女と同じか少し高い程度に成長していたが、その肩幅と腕の筋肉の厚みは、かつての少年のものとは異なっている。

 

「だから、イングリットがボクを護る必要はない。ボクがイングリットを護るから。……ボクの背中の後ろにいれば、矢も魔法も当たらない。敵が近づく前に、ボクの弓と斧で全部潰す」

 

ツィリルは、イングリットの両肩を掴み、自らの背後――窓のない石壁に守られた安全な空間へと、物理的に彼女の身体を移動させた。

 

「もう二度と、ボクの目の届かないところには行かせない。イングリットは、怪我が治るまで、ずっとボクの背中にいればいい」

 

ツィリルはイングリットの肩を掴んでいた手を離し、自らの矢筒の位置を腰の中心へとずらして射線を確保した。

その手際の良い一連の動作の直後、イングリットの首筋から顔面にかけて急速に血が巡り、肌が限界まで赤く染まる。彼女はツィリルの背中の布地を無意識のうちに強く握りしめ、言葉を発することなく、自分よりも一回り大きくなったその広い背中をただ見上げた。

 

「あーっ! ツィリルくん、こんなところで何してるのー!?」

 

重厚な静寂を破り、巨大な魔斧を肩に担いだヒルダが、ドスドスと分厚いブーツの足音を立てて回廊の角から姿を現した。その後ろには、分厚い魔道書を抱えたコンスタンツェや、腰に短剣を提げたモニカたちが連れ立っている。

 

「もうすぐ出撃だよ! あたし、ミルディン大橋じゃツィリルくんと一緒の部隊じゃないと絶対にやだからね! ツィリルくんがいれば、あたしサボっても死なないし!」

 

ヒルダが、強引にツィリルの右腕に自らの腕を絡めようと突進してくる。

 

「わたくしだって、ツィリル様をお護りする魔法の準備は完璧ですわ! 橋の上の雑兵など、わたくしのサンダーストームで一網打尽にしてご覧に入れます!」

 

「ツィリル様、お怪我はありませんか? 鎧の留め具に不具合があれば、私が直します! 陛下をお護りするためにも、ツィリル様の万全の働きが必要ですし!」

 

コンスタンツェが紫色の魔力の火花を指先で散らし、モニカがツィリルの胸甲の隙間を素早くチェックしようと手を伸ばす。彼女たちが一斉にツィリルの周囲の空間を埋め尽くす。

イングリットもまた、自らの銀色の槍を握り直した。

 

「わ、私だって負けません! 私はペガサスに乗って空から索敵を行います! ツィリルの背中は私が……!」

 

彼女もまた、顔を赤くしたまま、その喧騒の輪の中へと力強く踏み込んでいった。

 

「……はぁ。うるさいなぁ」

 

ツィリルは右耳を手のひらで塞ぎ、首を傾げた。

ヒルダが彼の腕に体重をかけ、コンスタンツェがマントの裾を踏み、モニカが胸甲の留め具に触れているが、彼は誰の手も振り払わなかった。

彼の金色の瞳孔だけが、開け放たれた窓の外と回廊の両端を一定の周期で走査し続けている。ヒルダが窓枠に身を乗り出そうとすれば、ツィリルは無言で半歩動き、自らの身体で物理的な壁を作って彼女の重心を内側へと押し戻した。

 

「……相変わらず、賑やかな子たちだねぇ」

 

回廊の喧騒から少し離れた中庭。石造りのベンチに座っていたハピが、その騒ぎを遠目に眺めながら、大きなあくびと共に背伸びをした。彼女の赤毛が、日差しを受けて微かに揺れる。

 

「まぁ、あいつはああいう奴だからな! オレも負けてられねえ! 橋の守備隊なんて、オレの斧で全員ぶっ飛ばしてやるぜ!」

 

隣に立っていたカスパルが、身の丈ほどもある巨大な斧を両手で握り、空に向かって激しく素振りを繰り返していた。ブォン、ブォンという重い風切り音が、中庭の空気を連続して震わせる。

 

「……カスパル。アンタ、橋の上でまた魔獣が出たらどうすんのよ。アミッド大河に落ちたら、その重い鎧じゃ助からないよ」

 

ハピが、伏し目がちにカスパルの足元の防具を見つめながら口を開く。

 

「出たらオレが倒す! 落ちる前に魔獣ごと橋を叩き割る! それだけだろ! ハピはオレの後ろで見てりゃいい!」

 

カスパルは、斧の柄を右肩に担ぎ直し、腹の底から息を吐き出して言い切った。彼の視線は中庭の空を越え、はるか南の帝国領へ向いている。

ハピは、カスパルの顔を数秒間見つめた。彼女の喉の奥から漏れそうになっていた微かな溜息の音は、斧の柄がカスパルの肩甲骨を叩く鈍い音にかき消された。

 

「……バカすぎて疲れる。でも……まぁ、いっか」

 

ハピは立ち上がり、差し出されたカスパルの傷だらけの拳に、自分の拳を軽く合わせた。硬い革の手袋越しに、鋭い衝突音が鳴る。

 

それぞれの想いと、生存への渇望と、狂おしいほどに実利的な執着を抱え。

新生軍は、装備の金属音を一斉に鳴らしながら、帝国への逆襲の第一歩となる『ミルディン大橋』の奪取へと、確実に歩みを進めていった。

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