擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十三章②

月の光を浴びて、アミッド大河の暗い水面が静かに波打っていた。

 

「……ツィリル様。作戦通り、大橋の手前の森まで、本隊の進軍を悟られずに到着しました」

 

血の染み込んだ魔道書を抱えたモニカが、分厚い雲に隠れた月の闇に紛れてツィリルの元へ報告に走る。彼女のブーツは泥で汚れ、息は微かに弾んでいた。

 

「ありがと、モニカ。……で、橋の様子は?」

 

「はい。敵の将は、帝国の猛将ラディスラヴァのようです。防備は固められていますが……彼らの目は、西の街道側、グロスタール領の同盟軍の動きにしか向いていません」

 

ツィリルは、木々の隙間から、アミッド大河に横たわる巨大な『ミルディン大橋』の輪郭を見据えた。

無数の松明に照らされた大橋の上には、帝国兵の重装歩兵が密集して陣を張り、魔道砲台が西の街道側に向けて砲口を並べている。

敵の正規軍は、この大河を正面から渡ってくる同盟軍の大規模な侵攻を想定し、橋の上に強固な縦深陣形を敷いていた。

 

「……あんなところに真っ正面から突っ込んだら、いくら命があっても足りない。だから」

 

ツィリルは、弓の弦の張りを指で弾いて確かめると、自身の後ろの暗がりで武器の柄を握り締めて控えるユーリス、バルタザール、そしてカスパルたちを振り返った。

 

「ボクたち遊撃隊は、正面の街道からは行かない。……この暗い河に潜って、橋の橋脚の基礎をよじ登り、敵の本陣、ラディスラヴァの背後に直接出る」

 

「ははっ、相変わらず無茶苦茶な盤面を引きやがる。……だが、嫌いじゃねえぜ。暗殺と夜襲は、俺たち灰狼の十八番だ」

 

ユーリスが、腰の鞘から音もなく短剣を抜いた。金属同士が擦れる音すら、周囲の川のせせらぎに溶けて消える。

 

「……ただし、一つだけ条件がある」

 

ツィリルは、部隊の最後尾で震える手で杖を握りしめていた二人の少女――リシテアとマリアンヌを指差した。

 

「リシテアとマリアンヌは、魔法の触媒と杖の機構が濡れたら使えなくなる。だから、ボクとバルタルザールが二人を背負って河を渡る。絶対に、水にはつけない」

 

「えっ……! べ、別に私は、自分の足で……っ!」

 

リシテアが慌てて声を上げる。

 

「ダメ。アンタたちの魔法と回復は、ボクたちの一番の武器なんだから、濡らして魔法が不発になったり、杖が壊れられたら困る。大人しく捕まってて」

 

ツィリルは、彼女の背中から膝裏へと腕を回し、ヒョイと彼女の体を自らの背中に担ぎ上げた。

 

「っ〜〜〜! わ、わかりましたわよ……っ!」

 

リシテアは言葉を飲み込み、ツィリルの太い首にギュッと腕を回した。

 

「マリアンヌも、いいな。オレ様の背中から落ちるんじゃねえぞ」

 

バルタザールが、山のような背中を向け、マリアンヌの身体を両腕で軽々と背負い上げる。

 

「は、はい……。皆様の怪我は、私が必ず治しますから……っ」

 

マリアンヌは、バルタザールの分厚い肩の筋肉にしがみつきながら、しっかりと頷いた。

 

「……じゃあ、行くよ。帝国の連中のお掃除だ」

 

夜闇の中。

ツィリルを先頭にした遊撃隊の群れは、装備の金属音を布で封じ、音もなくアミッド大河の冷たい水脈へと潜っていった。帝国の本陣を内側から食い破るための奇襲が開始された。

 

***

 

冷たく、淀んだアミッド大河の激流。

月明かり一つ届かない漆黒の橋脚の裏側に、音もなくへばりつく影の群れがあった。

 

「……っ、ふぅ……」

 

滑りやすい苔と泥に覆われた巨大な石柱を、ツィリルは片手で手斧の刃を岩の隙間に深くねじ込み、それを支点に身体を引き上げながら足場を作り、一段ずつ確実に登っていく。

彼の背中には、黒い外套に身を包んだリシテアが、水飛沫に小さな身体を震わせながら必死にしがみついていた。

 

「リシテア、しっかり掴まってて。もう少しで上に出るから。滑って落ちたら、あの激流じゃ助からないからね」

 

「わ、わかっていますわよ……っ。でも、腕が……」

 

激しい水飛沫と冷たい夜風が体温を容赦なく奪っていく中、リシテアはツィリルの太い首にさらに強く腕を回し、顔を赤く染めたままその背中の布地を強く握りしめていた。

 

「マリアンヌも、しっかり捕まってろよ! ここでお前を落としたら、ツィリルに殺されちまうからな!」

 

隣の巨大な橋脚では、バルタザールがマリアンヌを軽々と背負いながら、素手で岩壁をわしづかみにしてよじ登っている。

 

「はいっ……! 私の力が必要なら、絶対に……離れませんっ」

 

マリアンヌは、バルタザールの首にしっかりと腕を回し、自らの杖を胸元で強く抱きしめた。

 

やがて、先頭を登り切ったユーリスが、橋の上の石畳の隙間からそっと視線を這わせ、敵陣の状況を視覚情報として処理する。

 

「……読み通りだ。帝国の連中、西側のグロスタール領の同盟軍の動きにばかり気を取られて、足元が完全に留守になってやがる」

 

ユーリスは鞘から音もなく短剣を抜き放ち、その刃の反射光を手のひらで隠した。

 

「さあて。……俺たち灰狼の十八番、見せてやろうぜ」

 

大橋の中央に敷かれた帝国軍の本陣。

将であるラディスラヴァは、篝火の不規則な明かりの下で、テーブルに広げられた地図を険しい顔で睨んでいた。

 

「グロスタール家周辺で、同盟軍同士の小競り合いが起きているとの報告ですが……解せません。この時期に、なぜ?」

 

「警戒を怠るな。どのような形であれ、敵が来るのであれば正面の街道からだ。弓砲台の射角の調整と、魔道士部隊の詠唱準備を急がせろ!」

 

ラディスラヴァが副官に指示を飛ばした、その瞬間だった。

 

「――っ!?」

 

陣の『後方』から、声にならない鈍い打撃音が響いた。

ラディスラヴァが振り返ると、背後を固めていたはずの重装兵たちが、首の頸動脈からおびただしい血の泡を吹き出しながら、次々と音もなく石畳の上へ崩れ落ちていくところだった。

 

「なっ……後方!? いったいどこから……っ」

 

「オーッホッホッホ! どこからとは愚問ですわね! わたくしたちの独壇場である、この漆黒の闇の中からに決まっておりますわ!」

 

コンスタンツェが、橋の欄干の上の死角から、極限まで圧縮した強烈な火球(ファイア)を、帝国軍の陣幕の中央へと撃ち込んだ。

 

ドォォォォンッ!!

 

「うわあああっ! 敵襲だ! 敵が陣のど真ん中に……!」

「怯むな! 陣形を立て直……ぐはっ!?」

 

混乱し、武器を構え直そうとした帝国兵の首が、強烈な突風と共に宙を舞った。

 

「ごっめーん!ちょっとお掃除させてもらうねー!」

 

ヒルダが、ピンク色の髪をなびかせながら、巨大な英雄の遺産フライクーゲルを振り回し、本陣の護衛の重装兵たちを、その分厚い装甲ごと薙ぎ払っていく。

 

「貴様ら……っ!教団の残党か!」

 

ラディスラヴァが激怒し、愛用の斧を構えて前線へと飛び出そうとした。

 

だが、その彼女の背後に、音もなく一つの影が着地した。

 

「イングリット、右の二人」

「承知しました!」

 

冷徹な少年の短い指示の声と同時に、銀色の閃光が走る。

ペガサスを降り、徒歩で遊撃の機動部隊に加わっていたイングリットの槍が、ツィリルの死角から襲いかかろうとした二人の帝国兵の胸部装甲の隙間を正確に貫いた。

 

「なっ……イングリット=ブランドル=ガラテア!? 王国軍の貴族が、なぜ同盟の橋に……っ!」

 

予期せぬ顔ぶれにラディスラヴァが動揺し、動きがわずかに止まった。そのコンマ一秒の隙を、ツィリルは見逃さなかった。

 

「……よそ見しないで」

 

タンッ、と石畳を蹴る乾いた音。

次の瞬間、ツィリルの手斧が、ラディスラヴァの顔面のこめかみめがけて真横から叩き込まれた。

 

「くっ……!」

 

ラディスラヴァは間一髪で自らの斧の柄を盾にして手斧の刃を防ぐが、その一撃の異様な質量と運動エネルギーに、腕の骨がミシリと軋む音を立てた。

 

「皇帝陛下の道を阻む逆賊め……! このラディスラヴァが、血肉に代えてもここを死守する!」

 

彼女は気力を振り絞り、渾身の力でツィリルの斧を押し返し、大振りの反撃の横凪ぎを繰り出そうとした。

 

「……大振り。隙だらけ」

 

ツィリルはラディスラヴァの斧を躱すことすらせず、その柄の根元の手首に近い部分に、自分の手斧の腹を思い切り叩きつけた。

 

「あっ……!」

 

強烈な打撃による痺れがラディスラヴァの手首の神経を襲い、斧が指先からこぼれ落ちて石畳へと弾き飛ばされる。

 

「リシテア、足元」

「言われなくても、分かっていますわ!」

 

ツィリルの短い座標指示に呼応し、彼に背負われたままのリシテアが、ラディスラヴァの足元の石畳に向けて魔力(ルナ)を放つ。

ドゴォッ! と地面が局所的に爆ぜ、ラディスラヴァの体勢が完全に崩れ、膝をついた。

 

「お終い。……動かないで」

 

倒れ込んだラディスラヴァの喉仏に、ツィリルの手斧の冷たい刃がピタリと押し当てられた。

あと一ミリでも動けば、頸動脈が裂ける絶対の死地。

 

「……殺しなさい」

 

ラディスラヴァは、屈辱に唇を噛み切りながら、血を吐くように言った。

 

「私は皇帝陛下の将……! 貴様ら教団の犬どもに、尻尾を振る気など毛頭ない!」

 

「殺さないよ」

 

だが、ツィリルの声はどこまでも平坦だった。

 

ラディスラヴァの喉の奥から、ヒュッと空気が漏れる音が鳴った。彼女は頸動脈に手斧の冷気を感じたまま、瞬きすら忘れて目の前の少年の平坦な顔を見つめている。

 

「ツィリル様! 捕縛の縄、私がご用意いたしました!」

 

そこへ、厚手の麻縄を抱えたモニカが小走りで駆け寄ってきた。彼女はラディスラヴァの装甲の隙間に麻縄を食い込ませ、関節の可動域を完全に奪う拘束を数秒で完了させる。

その間、モニカの視線は縛り上げている敵将の顔には一瞥も向けられず、ただツィリルの手斧の動きと彼の足元だけを静かに追従していた。

 

「将軍が……ラディスラヴァ将軍が捕らえられたぞっ!?」

「馬鹿なっ、いつの間に本陣が……!」

 

指揮系統の要を失ったミルディン大橋の守備兵たちは、たちまち恐慌状態に陥った。

正面から来るはずの敵を警戒していた彼らの背後に、夜の闇から湧き出した『灰色の悪魔たち』が牙を剥いていたのだ。

 

「……よし、掃除の第一段階は終わりだ」

 

ユーリスは、拘束されたラディスラヴァを一瞥した後、未だ混乱の渦中にある橋の西側へと血濡れた短剣を向けた。

 

「お前ら、残りの連中を片付けるぞ。……先生たちが来る前に、この橋を俺たちのものにする」

 

「はいっ! ツィリル様の通る道は、私がすべて血で洗い流しておきます!」

モニカが両手から巨大な爆炎(ボルガノン)を放つ。圧縮された熱量が空気を膨張させ、橋上の木箱や柵を粉々に吹き飛ばした。

 

「オーッホッホッホ! 逃げ惑うネズミどもめ、わたくしの魔法の前にひれ伏すがいいですわ!」

コンスタンツェが夜空に向けて扇子を振り上げる。重たい雷鳴と共に落雷(サンダーストーム)が連続して橋上に突き刺さり、密集していた重装兵たちの装甲を紫色の閃光が焼き焦がした。

 

魔法の爆炎と落雷が、大橋の空間を暴力的な光と熱で満たしていく。

だが、その苛烈な魔法戦の最中。

 

「っ……げほっ、かはっ……」

 

激しい咳き込みと共に、リシテアの顔から一気に血の気が引いた。

過剰な魔力の連続行使。彼女の小さな身体が限界を告げ、膝の力が完全に抜け落ちる。彼女はツィリルの背中から、ずるりと石畳へ向けて滑り落ちそうになった。

 

「リシテア!」

 

ツィリルは手斧を即座に腰のホルダーに差し込み、振り返りざまに彼女の細い身体を正面からガシッと抱きとめた。彼女の体重がツィリルの腕の筋肉にのしかかり、その額からは汗が吹き出している。

 

「離して……くださいっ。私なら、まだやれ……!」

 

「ダメ」

 

ツィリルは、抵抗して立ち上がろうとするリシテアの身体を、自らの胸元へと引き寄せ、膝裏と背中に腕を回して強制的に抱え上げた。

 

「ここで倒れられたらボクたちの火力が減るし、リシテアが怪我したらみんな困る。……ボクも嫌だ。だから大人しく背負われてて」

 

彼は平坦な声で事実と気遣いだけを口にし、彼女の額に浮かんだ汗を、自らの親指の腹で無造作に拭き取った。

 

「っ〜〜〜〜!」

 

ツィリルの両腕がリシテアの身体を強固に固定する。分厚い制服越しでも明確に伝わる彼の高い体温と拘束力に、リシテアの口から反論の言葉は出なかった。彼女は限界まで赤く染まった顔をツィリルの肩口に押し付け、両手で彼の服を力強く握りしめた。

 

「……バルタザール! ラファエル! 後は前衛だけで押し潰すぞ!」

 

ユーリスの鋭い号令が響く。

 

「おうよっ! 俺様の拳で、橋ごとぶっ叩き割ってやるぜ!」

「オデの筋肉も全開だぞおおっ!」

 

バルタザールとラファエルの巨体が、石畳を砕かんばかりの踏み込みで前衛へと突進する。

魔法の飽和攻撃によって陣形を崩された帝国軍の残存兵力に対し、彼らは巨大な拳と太い腕力による物理打撃を叩き込んだ。重装兵の盾がひしゃげ、兵士たちが次々と大河へと転落していく。

 

そこへ、さらに空からの死神が舞い降りた。

 

「……そこですっ!」

 

徒歩で遊撃の機動部隊に加わっていたイングリットの銀槍が、逃げ惑う兵士たちの急所を正確に貫いていく。

5年間、血反吐を吐きながら領民を護り抜いてきた彼女の槍術は、無駄な動作を完全に削ぎ落とした機能美を備えていた。彼女の視線は常にツィリルの周囲の空間を走査し、彼の死角から接近しようとする敵兵を、冷徹な突きで次々と排除していく。

 

「イングリット、ありがと。助かるよ」

「当然です! 私は……あなたの盾なのですから!」

 

イングリットはツィリルの背後を確保したまま、接近する槍兵の穂先を自らの槍の柄で弾き落とし、そのまま反転して相手の胸部装甲を貫いた。

 

「……はぁ。イングリットちゃんってば、ツィリル絡みになるとホント容赦ないよねぇ」

 

ヒルダが、フライクーゲルの血糊を振り払いながら呆れたようにため息をつく。

 

「でもまぁ、あたしもツィリルくんの隣は譲れないし? いっちょ、派手にやっちゃおっかー!」

 

ヒルダが再び大斧を大上段から振り下ろす。ピンク色の髪が夜風に舞い、巨大な刃が帝国軍の防盾ごと数人の兵士を薙ぎ払った。橋上の敵陣はこれで完全に崩壊し、反撃の意志を示す者は一人としていなくなった。

 

そこへ、西の街道側から重たい蹄の音と金属の擦れる音が響き、ベレト率いる新生軍の本隊が到着した。

 

「……まさか、我々が到着する前に、大橋の制圧を完了させているとはな」

 

セテスが馬から降り、死屍累々の惨状と、後ろ手に縛り上げられた敵将ラディスラヴァを見て、息を漏らした。

 

「先生、遅いよ。……ボクたちで、もう大半の掃除は終わらせちゃった」

 

ツィリルが、魔力切れで脱力したリシテアの身体を腕に抱きかかえたまま、ベレトに向かって報告する。

 

「ああ。……よくやった、ツィリル。皆も無事で何よりだ」

 

ベレトが静かに頷き、周囲の状況を視界に収める。

これで、帝国への侵攻ルートである『ミルディン大橋』は、新生軍の手によって物理的に確保された。

 

だが、彼らの戦術目標はまだ達成されていない。

大橋を越えた先には、親帝国派の筆頭である『グロスタール領』が待ち受けていた。

 

大橋の制圧から数時間後。

夜明け前の薄暗い橋のたもとに設置された仮設テントの中で、セテスがラディスラヴァから押収した帝国軍の印璽を手に、盤面の整理を行っていた。

 

「よし。これで、グロスタール家へ送る『偽装の伝令』の手配は完了だ。……内容はこうだ。『同盟軍の小規模な残党が襲撃してきたが、我が帝国軍が抑え込んでいる。後詰めの兵と、事後処理、すなわち手柄の共有のため、至急グロスタールの軍を派遣されたし』」

 

セテスが書き上げた羊皮紙に、ラディスラヴァの印璽を押し当てる。

 

「なるほどね。手柄に飢えた風見鶏の貴族どもを、安全だと思い込ませてこの橋のど真ん中におびき寄せるってわけだ。えげつねえ手口だぜ」

 

ユーリスが、テントの柱に寄りかかりながら、紫色の瞳を細めて笑う。

 

「だが、万が一ということもある。罠に落ちた軍を叩き潰したとしても、大元のグロスタール家のエルヴィン伯爵が徹底抗戦を選んだ場合、我々は同盟のど真ん中で泥沼の市街戦を強いられる危険があるぞ」

 

フェルディナントが、持ち前の生真面目さで戦術的な懸念を口にする。彼の視線は地図上のグロスタール領の市街地に向いていた。

 

「……その時は、ボクがエルヴィン伯爵の寝首を掻きに行くよ。そうすれば、戦わずして終わるでしょ」

 

ツィリルが、テントの隅で手斧を砥石で研ぎながら、極めて物理的かつ最短の解決策を提案する。

 

「お、おいおい! ツィリル、流石に同盟の五大諸侯の当主を暗殺するのは、後々マズいんじゃねえか!?」

 

カスパルが慌てて身を乗り出して止める。

 

「なんで? 当主の首を物理的に落とすのが一番早いよ。兵士も死なないし、誰も怪我せずに済む。ボクが夜に忍び込めば終わる話だ」

 

ツィリルは砥石の手を止め、カスパルを真っ直ぐに見つめて事実だけを述べる。再びシュッ、シュッと一定の周期で手斧の刃を削る音がテント内に響き始めた。

 

その極端な事物の処理方法に、テントの空気が一瞬凍りつく。

だが、そこに一つの涼やかな声が響いた。

 

「……それには及びませんよ、ツィリル」

 

振り返ると、小柄な銀髪の少女――リシテアが、水筒を手に持ち、毅然とした態度で立っていた。彼女の顔色はまだ少し悪いが、その瞳には強い知性の光が宿っている。

 

「私の実家であるコーデリア家は、すでにクロードたちの働きかけにより、裏で反帝国側に付くことで話がまとまっています。……そして、コーデリア領はグロスタール領のすぐ隣です」

 

リシテアは、ツィリルの元へと歩み寄り、彼が手斧を置いたのを確認してから、その袖をギュッと掴んだ。

 

「エルヴィン伯爵は、計算高い人です。大橋を落とされ、背後のコーデリア家が完全に敵に回ったと知れば、自領を灰にするような無駄な抵抗は絶対にしません。……だから、暗殺なんて危険な手段をとらなくても、政治的包囲だけで十分に機能します」

 

「そう? リシテアがそう言うなら、信じるけど」

 

ツィリルが完全に斧から手を離すと、リシテアは小さく息を吐き、そのまま彼の腕に半歩すり寄った。

 

「……それに」

 

リシテアは、顔を少し赤らめながら、周囲に聞こえるか聞こえないかの小さな声で付け加える。

 

「暗殺なんて危ない役目、あなたにさせたくありませんから。……あなたは、私を守るために、ここにいてください」

 

ツィリルは、自分を見上げるリシテアの銀髪を一瞥し、短く頷いた。

 

「……わかった。ボクはリシテアの側にいる」

 

「……ふふっ。リシテアちゃんも、すっかりツィリルくんにメロメロだねー」

 

ヒルダがニヤニヤと笑いながらからかう。

 

「ち、違いますっ! これは戦術的な進言で……!」

 

リシテアは顔を真っ赤にして慌てふためき、ツィリルの腕から手を離して早口で言い訳を始めた。

 

かくして、ミルディン大橋を制圧し、迎撃のための陣形を完全に再構築した新生軍。

偽りの伝令を握り締め、手柄を求めて大橋へと向かってくるのは、グロスタール家の嫡男ローレンツと、“風見鶏”アケロンの軍勢である。

東の空が完全に白み、冷たい朝の光がアミッド大河の水面を照らし出していた。橋の上に並んだ新生軍の兵士たちの武器が、朝日に反射して鋭い光を放っている。次なる戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。

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