同盟領の西端、帝国領と隣接するグロスタール伯爵家の居城。
重厚なマホガニー材で設えられた執務机の上で、赤い封蝋が乾いた音を立てて砕かれた。
「ふむ……ラディスラヴァ将軍からの、ミルディン大橋への援軍要請か」
エルヴィン=フリッツ=グロスタール伯爵は、羊皮紙の末尾に押印された帝国の双頭鷲の印璽を親指の腹でなぞり、太い息を鼻から吐き出した。彼の視線は書状の文字の羅列から、壁一面に掛けられた同盟領の広域地図へとゆっくりと移動する。
「わざわざ『手柄の共有』などと、恩着せがましい文言を並べてきている。大橋の防衛にかこつけて我が領内に帝国の正規軍を進め、そのまま駐留させるための口実作りに過ぎまい」
机を挟んで立つ紫色の髪を整えた青年――ローレンツ=ヘルマン=グロスタールが、自身の銀色の胸甲に右拳を軽く当てた。金属同士が触れ合う硬質な音が執務室に響く。
「父上。ここはこの僕が出陣し、同盟の残党を速やかに片付けてまいりましょう。大橋の防衛に寄与し、帝国の将に恩を売り、同時に我がグロスタール家の武威で戦果を示すことで、彼らもこれ以上は無闇に領内に踏み込めまいでしょうし」
ローレンツの背筋は真っ直ぐに伸び、その声帯は貴族の矜持を帯びて強く張られていた。
グロスタール家は、強大な帝国軍の侵攻から領地と領民を護るため、戦術的かつ政治的な計算のもとで「親帝国派」の看板を掲げている。エルヴィンは徹底した現実主義の為政者であり、彼の脳内に大国への無条件の忠誠心などは一ミリも存在しなかった。
エルヴィンは机の上に積まれた帳簿――領民の秋の収穫予測と税収が緻密に記された束――へ一瞥をくれ、顎を引いた。
「よかろう。大橋にはすでに帝国の本陣が敷かれているとはいえ、戦場において絶対の安全は存在せん。敵の残党が捨て身の奇襲に出る可能性もある。周囲の索敵を徹底し、くれぐれも警戒を怠るな」
「はっ。……ああ、それともう一つ。この出陣の動きをどこからか聞きつけたアケロン=レーテ=フレゲトン卿が、『ぜひともグロスタール家の軍に同道させてほしい』と、自身の私兵を率いて城門の前に陣取っておりますが……」
エルヴィンの眉間にかすかな皺が寄る。
「あの手柄に飢えた風見鶏め……。まぁよい。正面から飛んでくる矢や魔法に対する、道中の物理的な弾除けくらいにはなるだろう。連れて行け」
エルヴィンは羊皮紙を机の端へと押しやり、新たな羽ペンをインク壺に浸した。
ローレンツは深く一礼し、ブーツの踵を鳴らして執務室を後にする。
彼らは、羊皮紙のインクの成分も、封蝋の材質も、本物の帝国軍のものと一切の差異がない事実を視覚情報として確認していた。だが、その完璧な『帝国の印璽』自体が、彼らの軍勢を大河の激流という絶対の死地へと誘い込むための、極めて精巧な『偽装(エサ)』であることには、まだ思考が及んでいなかった。
数時間後。ミルディン大橋、東側(同盟領側)の入り口。
朝靄が薄れ始め、巨大な石造りの橋脚がアミッド大河の冷たい水脈の上にその全貌を現し始めていた。川面を撫でる冷たい風が、兵士たちの持つ旗を重々しく揺らしている。
「いやぁ、ボクちゃんも運が向いてきたねえ! ここで帝国の将軍に上手く取り入って恩を売っておけば、ボクちゃんの名前を皇帝陛下が直接覚えてくれるかもしれないし……」
金色の派手な装飾が施された軽鎧を纏うアケロンが、手綱を不器用に操りながらローレンツの隣へと馬を寄せる。彼の視線は橋の奥――安全な帝国本陣があるはずの方向――を欲深くなめ回していた。
ローレンツは馬の歩調を崩さず、前方の石畳の継ぎ目へと視線を落とした。
「貴殿のような輩に、グロスタール家の高貴な戦いぶりを見せておくのも悪くない。……それにしても、静かだな。小競り合いが起きていると報告を受けていたが、血の匂いも、魔法による空気の焦げた匂いすらしない」
ローレンツが手綱を握る手の力を強め、大橋の中央部へと目を凝らした。
松明の火は完全に消え、巡回する歩哨の人影は一つも見当たらない。風の音と川のせせらぎの音だけが、異様なまでの静寂を際立たせていた。
「――っ!? 前方の街道より、所属不明の軍勢が迫ってきます!」
先頭を進んでいた斥候の切羽詰まった声が響く。
ローレンツが視線を上げると、橋の西側から、土煙を上げて一斉に突撃してくる重装歩兵の横列があった。彼らの掲げる旗には、帝国の双頭鷲も、同盟の三日月も描かれていない。
「なんだと!? 帝国の守備隊はいったいどこへ行ったのだ!」
ローレンツが馬の腹を蹴り、愛用の槍の石突を掌で滑らせて迎撃の構えを作ろうとした。
その直後。彼らの『背後』である東側の森の木々が、不自然なほどの爆発的な揺れを見せた。
「――全軍、伏せろっ!」
ローレンツの叫びよりも早く、凄まじい地響きと共に、もう一つの軍勢が雪崩を打って森の斜面から橋の東端へと殺到してきた。
「な、なんなのお!? 前からも後ろからも、挟み撃ちなのおぉ!?」
アケロンが馬上で身をすくませ、情けない悲鳴を上げて手綱から手を離す。
「悪いな、ローレンツ。……ここはお前たちの墓場だ」
背後から奇襲を仕掛けてきた軍勢の先頭。
ユーリスが、紫色の瞳を妖しく光らせながら、石畳の表面を滑るような低い姿勢で距離を詰めていた。彼の右手には、すでに抜身の短剣が逆手に握られている。刃の反射光は彼の手のひらと袖によって完全に隠蔽され、無音のまま殺傷圏内へと侵入してくる。
「ユ、ユーリス!? 君がなぜここに……それに、君たちのその装備は……教団の残党か!」
ローレンツが驚愕に目を見開き、馬の首を背後へと反転させようとする。
「教団の残党じゃありません。私たちは……新生軍です!」
橋の欄干の上の死角から、黒い外套を翻したリシテアが跳躍し、空中で杖を振り下ろす。彼女の杖の先端に極限まで圧縮された魔力が収束し、アケロンの私兵部隊の足元の石畳に向けて正確に放たれた。
ドゴォッ!!
局所的な重力崩壊(ルナ)が石畳を粉砕し、深いクレーターを形成する。アケロンの部隊の馬の蹄がその窪みに取られ、前脚の骨を折る鈍い音が連続して響き渡った。
「ひいぃぃっ! 落馬する! 待って!ぼくちゃん降参するから殺さないでえええ!」
アケロンの乗る馬が前傾姿勢で転倒し、彼は悲鳴と共に泥と砕けた石の破片の中へと転げ落ちた。金色の派手な甲冑は泥にまみれ、彼は這いつくばったまま両手を頭の上に組み、完全な戦意喪失の姿勢をとる。
「アケロン卿! 貴様には貴族の誇りというものがないのかっ!」
ローレンツが激怒して叫ぶ。だが、彼の目の前の空間は、すでに絶望的な質量によって完全に封鎖されていた。
「ローレンツくん、ごめんねー。でも、あたしたちはもう負けられないの」
ヒルダが、巨大な英雄の遺産フライクーゲルを右肩に担ぎ、ローレンツの馬の前方を完全に塞ぐ位置に立っていた。彼女の足幅は肩幅よりも広く取られ、大斧の重心はいつでも強烈な横凪ぎの一撃を放てる位置に固定されている。
「ローレンツ殿。抵抗すれば、貴殿の命はありません。剣を引いてください」
イングリットが、ペガサスから降りた徒歩の状態のまま、冷徹な表情で銀槍の穂先をローレンツの喉元へと正確に合わせる。槍の切先は、彼の呼吸の上下に合わせて寸分違わず追従していた。
「くっ……! このローレンツ=ヘルマン=グロスタール、このような罠で無様に屈するわけには……っ!」
ローレンツは奥歯を噛み締め、イングリットの槍の軌道を弾き落とすべく、自身の槍を大上段に振り上げた。馬の腹に蹴りを入れ、強引な突破を図るための筋肉の収縮。
だが、その槍の柄が最高到達点に達した瞬間。
石畳を蹴る音すら発せず、ローレンツの馬の死角から跳躍した小さな影があった。
ツィリルである。
彼は空中で身体を捻り、手斧の『平(腹)』の部分を、ローレンツが槍を握りしめている右腕の尺骨神経――手首の関節のわずかに下――に向けて、凄まじい速度で叩き落とした。
「がっ……!?」
刃の斬撃ではなく、硬質な金属の質量による局所的な打撃。
痺れと激痛がローレンツの手首の神経を一瞬で焼き切り、彼の指の筋力は強制的に弛緩させられた。手から抜け落ちた槍が、カランと虚しい音を立てて石畳に転がる。
ローレンツが痛みに顔を歪め、左手で手綱を引き直そうとするよりも早く。
着地と同時に身を沈めたツィリルが、手斧の冷たい刃の側面を、ローレンツの喉元にある胸甲の隙間へとピタリと押し当てた。
「……っ」
「動いたらダメだよ」
ツィリルの平坦な声が、ローレンツの耳元に届く。
「無理に暴れたら、手首の骨が折れるよ。ペンも持てなくなったら、領地の仕事ができなくなるでしょ。……それに、ベレト先生からもアナタを怪我させるなって言われてるんだ。だから、大人しく馬から降りて」
喉元に手斧の冷たい刃を押し当てられたまま、ローレンツはツィリルの声の波形を聴覚情報として処理する。彼の喉の奥から、毒気を完全に抜かれたような乾いた呼気が漏れた。彼はきつく噛み締めていた奥歯の力を緩め、手綱を握っていた左手の指先からゆっくりと力を抜いていく。
「……僕の、負けだ。好きにしろ」
ローレンツは深く息を吐き出し、ゆっくりと馬の鞍から足を抜き、石畳の上へと降り立った。
かくして、グロスタール家の嫡男と、アケロンの軍勢は、流血と負傷を最小限に抑えた形で新生軍によって完全に捕縛されたのである。
***
その数日後。
同盟領西端、グロスタール領の居城。
重厚なマホガニー材の執務机に向かっていたエルヴィン伯爵の耳に、廊下を走るけたたましいブーツの足音が届いた。
「申し上げます! ローレンツ様が……新生軍の罠に落ち、生け捕りにされました! さ、さらに、ミルディン大橋はすでに新生軍の手に落ち、帝国のラディスラヴァ将軍も捕縛されていたとのことです!」
急使の兵士が、膝をつきながら息も絶え絶えに叫ぶ。
「……何だとっ!?」
エルヴィンの指先で、羊皮紙に文字を綴っていた羽根ペンがパキリと真っ二つに折れた。黒いインクが、秋の収穫予測の帳簿の上に無惨な染みを広げていく。
「ば、馬鹿な……帝国の精鋭部隊と魔道砲台が守るあの絶対防衛線が、たった数日で陥落したというのか!? しかも、ローレンツが人質に……っ!」
エルヴィンが勢いよく立ち上がり、壁の広域地図へと詰め寄る。
だが、絶望的な情報の奔流はそれだけでは終わらなかった。
「そ、それだけではありません! 我が領地の背後にある『コーデリア家』の軍勢が、突如として我が領地との境界に集結! 兵站線を断つ位置に陣を敷き、いつでも領内へ攻め込める構えを見せております!」
「コーデリア家だと……!? 彼らは帝国に恭順の姿勢を見せていたはずでは……っ、はっ!」
エルヴィンは、広域地図上の『ミルディン大橋』の座標と、『コーデリア領』の境界線の座標を交互に見比べた。
彼の頭の中で、散らばっていた情報の断片が、恐るべき速度で一つの戦術的帰結へと収束していく。
ミルディン大橋の物理的な奪取と、帝国軍の無力化。
偽装の伝令による、自軍の最大戦力たる嫡男部隊の誘い出しと生け捕り。
そして、背後からのコーデリア家による物理的な包囲網の完成。
これらはすべて、偶発的に発生した事象の連鎖ではない。自分たちグロスタール家を『逃げ場のない完全な袋小路』へと追い込むために初めから計算し尽くされた、緻密で悪辣な盤面整理のプロセスだったのだ。
「……やられた。あの『卓上の鬼神(クロード)』に……完全に手玉に取られたというわけか」
エルヴィンは、乾いた息を漏らしながら、重く椅子の背もたれに体重を預けた。
彼の視線は、机の上に広がるインクの染みと、その横に置かれた領民の戸籍簿に向けられている。
彼にとって、選択すべき戦術的な最適解はすでに一つしか残されていなかった。
大橋(前門の虎)は抜けず、背後(後門の狼)は塞がれ、何より『次期当主』の命を完全に握られている。ここで帝国への義理立てや貴族の面子のために徹底抗戦を選べば、グロスタール領の市街地が魔法と砲撃によって焼け野原になり、領民が死に絶え、家が断絶する。それは、領地と民を護るという彼の絶対の基準に照らし合わせて、最も避けるべき致命的な損害であった。
「……全軍、武装を解け」
エルヴィンは、静かに、しかし室内の空気を震わせる断固たる声で臣下に命じた。
「城門を開き、新生軍の使者を迎え入れる準備を整えろ。……我々グロスタール家は、これより一切の武力抵抗を放棄し、新生軍へ降伏する」
臣下が息を呑み、そして深く首を垂れて部屋を退出していく。
かくして、一滴の血を流すこともなく、同盟最大の親帝国派であるグロスタール家は陥落した。
クロードの恐るべき知謀による盤面の完全支配と、新生軍の圧倒的な制圧能力が完全に噛み合った瞬間であった。
同盟の内部を分断していた最大の障害は、これで完全に排除された。新生軍の進路を遮るものは、もう何一つ残されていなかった。