同盟最大の親帝国派、グロスタール家が無血開城した翌朝。
アミッド大河の激流に跨る巨大な石造りの建造物、ミルディン大橋の東岸には、朝日を受けて黄金色に輝くレスター諸侯同盟の旗印が、文字通り地平線を埋め尽くすほどの規模で集結していた。
すでに橋の要所は新生軍の先陣によって完全に制圧され、帝国軍が放棄したバリスタや天幕の解体作業が粛々と進められている。その制圧されたばかりの石畳の街道を、パルミラ産の筋骨隆々たる駿馬が軽やかな蹄の音を立てて進んできた。
「いやぁ、まさか本当に一滴の血も流さずに、あの頑固な親父殿を屈服させちまうとはな。先生の指揮も、ツィリルたちの潜入工作も、相変わらず無茶苦茶やりやがる」
集結した数万の同盟軍の先頭で手綱を握る長身の青年――レスター諸侯同盟の盟主、クロード=フォン=リーガンが、飄々とした笑みを浮かべて馬から飛び降りた。彼の背後には、巨大な戦斧を背負った桃色の髪の猛将ホルスト=ジギスヴァルト=ゴネリルの威容をはじめ、ダフネル家、エドマンド家など、同盟を支える主だった有力諸侯の軍勢が、地響きのような足音を立てて整列していく。
クロードの視線の先では、漆黒の外套を纏ったベレトが、血糊の一切付着していない天帝の剣を腰の鞘に収めるところだった。ベレトは歩み寄り、戦果の報告に代えて静かに顎を引く。
「クロード。君が描いた事前の盤面整理のおかげで、我々は最小限の物理的損害で大橋の制圧を完了し、帝国への進軍路を確保できた。礼を言う」
「なぁに、礼を言うのはこっちの方さ。お陰で、同盟内の意思統一を阻んでいた厄介な障害(グロスタール家)を物理的に無力化して、こうして同盟全軍の兵力を完全に一つにまとめ上げることができたんだからな」
クロードは腰の弓の弦を指で軽く弾きながら、ずらりと整列した新生軍の面々、そして自らが率いてきた同盟諸侯の将たちへと順番に視線を巡らせた。風が止み、数万の兵士たちの息遣いだけが大橋の上に満ちる。
「……さて。主要な将が全員揃ったところで、俺から一つ、このフォドラの歴史の前提を根本からひっくり返す『大盤振る舞い』の提案がある」
クロードの金色の瞳から、先程までの飄々とした光が完全に消え失せた。それは同盟の若き盟主ではなく、より巨大な大陸の覇権を見据える野心家の鋭い眼光であった。
「……今日、この日、この瞬間をもって。俺たち『レスター諸侯同盟』は、その歴史的役割を終え、解体する」
「……は!?」
静寂に包まれていた大橋の上に、爆発的な動揺が広がった。
その突拍子もない宣言が持つ政治的意味を瞬時に理解したローレンツをはじめとする同盟の貴族たちはもちろん、新生軍の将兵たちでさえも、驚愕に目を見開いてクロードの顔を凝視した。
「なっ……! クロード! 貴殿はいったい何を血迷ったことを言っているのだ! 建国より三百年続いた同盟を、当主の一存で解体するなどと……!」
ローレンツが激昂して前に進み出るが、クロードは掌を突き出してその言葉を物理的に遮った。
「慌てるなよ、ローレンツ。現実の戦力差を直視しろ。俺たちがこれから相手にするのは、大陸の半分を支配する帝国という巨大な化け物だ。五大諸侯が円卓でチマチマと利害調整の会議をしているような『同盟』という合議制のシステムは、意志決定の速度において圧倒的に不利なんだよ。この戦争に勝つためには、強力な一つの旗の下に、すべての兵力と物資を統合した『強固な一枚岩の軍隊(国)』を今すぐ構築する必要がある」
クロードはローレンツから視線を外し、真っ直ぐにベレトの瞳を見据えた。
「先生。……あんたが指導者として率いるこの『新生軍』の指揮下に、俺たち同盟諸侯は全兵力をもって合流する。そして俺は、リーガン公爵家が保有する一切の地位、権限、そして領地を、すべて指導者たるあんたに譲渡する」
「な……っ!」
「同盟の筆頭たるリーガン公の領地を、教団の……新生軍の指導者に完全割譲するだと!?」
同盟諸侯の陣幕から、悲鳴にも似たどよめきが沸き起こる。それはレスター地方における三百年の権力構造が、一人の青年の宣言によって物理的に崩壊した瞬間であった。だが、クロードによる盤面の作り替えは、そこで終わらなかった。
「それだけじゃねえ。……ツィリル、前へ出ろ」
不意に名前を呼ばれ、最後尾で弓の手入れをしていたツィリルが、不思議そうな顔で歩み出た。彼の装備は教団の従者としての簡素な軽鎧のままであり、同盟諸侯の煌びやかな甲冑の中にあってはひどく場違いに見えた。
「俺は、今まさに俺たちが立っているこの地……『フレゲトン領』の全域を、これまでの多大な軍功に報いる形として、ツィリル、お前に割譲する」
「……えっ」
ツィリルの喉から、純粋な疑問符が漏れた。彼の金色の瞳が、クロードの顔と、足元の石畳を交互に見比べる。
「元領主のアケロン卿は、目先の利益に目が眩んで帝国に内通した上、領地の治水工事すら怠って農地を荒れ放題にしていた。もはや奴に数万の領民の生命を預かる統治者の資格はねえ。……それに、ここフレゲトン領はこの『ミルディン大橋』を抱える、帝国からの防衛線上における最重要拠点だ。こんな戦略的急所を、あんな風見鶏の貴族に任せておくわけにはいかない」
クロードは歩み寄り、ツィリルの小柄な肩にポンと手を置いた。その手には、確かな力が込められている。
「ツィリル。お前がこの地の新たな領主となり、帝国軍の侵攻を防ぐ『防波堤』となれ。……そしてもう一つ」
クロードは周囲の諸侯に聞こえる声量で、言葉を紡ぐ。
「お前はパルミラ出身だろ? ……いずれ俺が、フォドラの東の壁の向こう側、パルミラという国をまとめ上げた時。大司教の右腕であり、この帝国の喉元であるフレゲトンを統治するお前こそが……フォドラとパルミラという二つの巨大な国家を物理的・政治的に繋ぐ『最大の懸け橋』になれ。これは俺からの、同盟の命運を懸けた特大の依頼だぜ?」
それは、クロードが抱く「フォドラの喉首を覆う壁を壊す」という途方もない夢の実現に向けた、あまりにも巨大で緻密な盤面整理であった。
同盟という旧時代の枠組みを解体し、ベレトという『大義の柱』と、ツィリルという『実利の柱』の二つを新たに打ち立てることで、指揮系統を完全に一本化する。
そして何より、この宣言が行われた瞬間……ツィリルという身寄りのない無愛想な少年は、単なる「教団の従者」という身分から、『大司教(指導者)の右腕』であり『パルミラとの境界線を治める要衝の領主』という、フォドラの歴史を左右する絶大な権力を持つ超重要人物へと、物理的な身分の上昇を果たしたのである。
「……ツィリルが、領主……? しかも、ミルディン大橋を抱える要衝の……」
クロードの背後で事の成り行きを静観していたイングリット、ヒルダ、コンスタンツェ、リシテア、マリアンヌたちが、一斉にゴクリと生唾を飲み込んだ。
これまで、彼女たち名門貴族の令嬢が「身分も領地もない教団の従者(ツィリル)」に個人的な好意を抱き、嫁ごうとすることには、家門の利益を優先する貴族社会からの猛烈な反発という、越えがたい政治的ハードルが明確に存在していた。
だが、彼が同盟の盟主から正式に広大な領地を譲り受け、フォドラの歴史的特務を帯びた要職に就くとなれば、その政治的力学は完全に反転する。
ツィリルに嫁ぐことへの「歴史的・政治的な正当性」ひいては「家門への莫大な利益」が、クロードの手によってこの瞬間、完璧に用意されてしまったのである。
「……オーッホッホッホ! 素晴らしい! 実に素晴らしい展開ですわ、ツィリル様! これで、わたくしのヌーヴェル家復興の悲願も、要衝の領主となられたあなたの強大な庇護と資金力の下で、完全に叶うという計算が成り立ちますわね!!」
誰よりも早く動いたのは、没落貴族の令嬢であるコンスタンツェであった。彼女はもはや一切の貴族的な建前や羞恥心をかなぐり捨て、狂喜の笑い声を上げながらツィリルの右腕に物理的な拘束をかけるように強く抱きついた。
「ち、ちょっと待ってくださいコンスタンツェ! フレゲトン領は、私の実家であるコーデリア領と境界線を接するすぐ隣じゃないですか! 地政学的に考えても、領地経営の基礎知識がないツィリルには、隣国との連携が不可欠です! ですから、私が妻として夜遅くまでつきっきりで執務と税の計算を教えてあげます!」
リシテアが、地理的な優位性という完璧な政治的口実を盾にして、顔を真っ赤にしながらもツィリルの背中へと回り込み、その腰に両腕を回してしがみつく。
「あーっ! リシテアちゃん、実家の場所使ってずるい! ツィリルくん、領地のお仕事なんて堅苦しくて面倒なことは全部リシテアちゃんに任せちゃえばいいのよ! あたしはお城の奥で、ずーっとツィリルくんの個人的なお世話と身の回りのことだけをしてあげるからね!」
ヒルダもまた、実務の放棄と引き換えにした絶対的な従属という強烈なカードを切り、豊かな胸の膨らみをツィリルの左腕にギュッと押し付けて物理的な密着度で対抗する。
「……ツィリルさんの新しい領地、前領主のアケロン卿の乱脈経営のせいで、農地も治水も荒れ果てているはずです。……私が義父様(エドマンド辺境伯)に書状を書いて、領地復興に必要な莫大な資金と物資をすべて支援させます。ですから……私も、ずっとお城に……っ」
マリアンヌが、同盟随一の財力という『圧倒的な実利』を武器に、普段の大人しさからは到底想像もつかないほどの強烈な独占欲を瞳に宿らせ、三人の隙間を縫うようにしてツィリルの正面へと割り込んでいく。
「っ……あ、あなたたち! 諸侯の御前であるというのに、はしたないにも程がありますよ! ツィリルの正室……ごほんっ! 新たな領主を支える者たるもの、まずは彼を敵対勢力の凶刃から物理的に護る絶対の『盾(騎士)』が常に傍らに控えるべきです! 領地の警備隊長はこの私にお任せを!」
イングリットもまた、生真面目な口調で風紀の乱れを説教しながらも、優秀な騎士という自らの物理的な実用性をアピールし、生存競争の本能に従ってその揉み合いの輪の中心へと飛び込んでいく。
「……みんな、重いよ。それに、鎧がぶつかって痛いし、暑い」
ツィリルは、五人もの美しい令嬢たちに全方位から物理的に絡みつかれ、圧迫される肺から息を押し出して呟いた。
彼の思考回路は、令嬢たちの熱烈なアプローチを「恋愛感情の発露」としてではなく、彼女たちが次々と提示してくる『隣国との連携』『領地の治水と復興資金』『警備隊の再編』といったのっぴきならない実務課題に対する『極めて優秀なプレゼンテーション』として処理することに完全に追われていた。
さらにそこへ、突然のしかかってきた『何万もの領民の命と生活を背負う』という規格外の重圧が加わり、彼の情報処理能力は完全に許容量を超え、物理的なショートを起こした。
「……ごめん。みんなが何を言ってるのか、もう全然わかんない……」
ツィリルの声は普段の平坦さを完全に喪失し、微かに上ずりを見せる。彼の顔は茹でダコのように真っ赤に染まり、金色の瞳は完全に焦点を失って涙目を形成していた。
「教団の床掃除とか、馬の世話ならわかるけど……。何万人のご飯の手配とか、冬を越すための計算なんて、ボク、どうしていいか全然わからないよ……っ」
冷徹な従者の仮面は完全に剥がれ落ちた。そこにいるのは、巨大な責任と大人たちの事情に押し潰されそうになり、パニックを起こして助けを求める年相応の少年の素顔そのものであった。
「「「「「「「…………っ!!」」」」」」」
その、普段の冷徹さからは想像もつかない、無防備で弱り切った「素の子供」の反応。
それが、令嬢たちが抱く庇護欲と母性本能という最も危険な火薬庫に、特大の物理的引火を起こした。
「あああっ、もう! ツィリル様が混乱して震えていらっしゃいますわ! わたくしが今すぐ落ち着かせて差し上げますわ!」
コンスタンツェが狂喜の表情でツィリルの頭を胸元に抱き込む。
「ツィリルくん可愛すぎ! 領地なんてどうでもいいから、もう一生あたしが甘やかしてあげるーっ!」
ヒルダがツィリルの左腕にしがみつき、頬をすり寄せる。
「だ、駄目です! ツィリルを落ち着かせるのは妻である私の役目ですっ!」
リシテアが真っ赤な顔で抗議しながら、ツィリルの右腕を引っ張る。
「わ、私がツィリルさんの心のケアを……っ!義父様に頼んで、領地に最高の癒やしのベッドを建設させますからっ!」
マリアンヌが財力と治癒という実利を武器に、彼の背中から覆い被さる。
「貴女たち、ツィリルが窒息してしまいます! まずは私が安全な場所で保護しますから、全員速やかに退きなさいっ!」
イングリットが風紀の乱れを注意する体裁を保ちながら、ちゃっかりツィリルの身体ごと持ち去ろうとする。
「ツィリル様が助けを求めている……っ! ああ、私が領地の面倒な実務も、ツィリル様の悩みとなる者も、すべて完全に排除(おそうじ)して差し上げますからね!」
モニカが狂気的な奉仕の笑みを浮かべ、縄を片手に物理的な障害排除を宣言する。
「あらあら、可哀想に……。ツィリルは今まで一人で無理しすぎなのよ〜。お姉さんがギュッとして、いいこいいこしてあげるわね〜」
そこへ騒ぎを聞きつけたメルセデスが後方から合流し、特大の年上の母性を発揮して、ツィリルの頭を優しく撫で回し始めた。
「はっはは! こりゃあ、フォドラを統一するより前に、ツィリルの新しい領地の城の寝室の割り振りと、食糧庫の拡張工事についての軍議が最優先で必要みたいだな!」
バルタザールが豪快に笑い飛ばし、ユーリスやカスパルたちも、凄まじい修羅場と化したツィリルの足元を見て呆れたように肩をすくめる。
笑い声が広がる中、ベレトが静かに陣幕の前へと歩み出た。漆黒の外套が風に翻り、彼が腰の天帝の剣の柄に手を掛けると、数万の軍勢が一瞬にして静まり返る。
「……これで、兵力も、後方の兵站線も、政治的な大義も、すべてが我々『新生軍』の下に統合された。……行こう。帝国を打ち倒し、フォドラの戦乱を終わらせるために」
ベレトが、黄金に輝く天帝の剣を高く天空へと掲げた。
「おおおおおおおおおおおおっ!!」
ミルディン大橋に集結した数万の兵士たちの地鳴りのような鬨の声が、アミッド大河の水面を震わせ、夜明けの空を物理的に揺るがした。
レスター諸侯同盟という旧来の枠組みを壊し、強固な指揮系統を持つ完全な一枚岩の軍隊へと変貌を遂げた新生軍。彼らはついに、皇帝エーデルガルトの待つ帝都アンヴァルへ向け、その圧倒的な質量をもった怒涛の進軍を開始するのであった。
前方に広がるのは、フォドラ最大の激戦地となるであろうグロンダーズ平原。
ツィリルは、自らの腕に絡みつく令嬢たちの重みを確かな「守るべき重み」として感じながら、新たな領主としての重圧を背負い、決戦の地へと続く石畳を力強く踏み締めた。