グロスタール家が無条件降伏を受け入れ、レスター諸侯同盟の全戦力がクロードの指揮下に一枚岩の軍隊として再編されてから数日後。
アミッド大河の激流を跨ぐ要衝、ミルディン大橋の東岸には、新生軍の広大な本陣が形成されていた。無数の天幕が整然と立ち並び、次なる帝都アンヴァルへの進軍に向けた兵站の整備と武具の修繕が慌ただしく進められている。
その活気に満ちた本陣の中央、ひときわ巨大な指揮官用の天幕の前に、一騎の馬が転がり込むように駆け込んできた。
馬の腹は荒い呼吸で激しく上下し、騎乗する老騎士の分厚い甲冑は、長きにわたる逃避行と戦闘を物語るように泥と乾いた血糊にまみれていた。
「……ギルベルト!? なぜ君がここにいる!」
天幕から顔を出したセテスが、目を見開いて驚愕の声を上げた。セイロス騎士団の古参であり、五年前に姿を消したはずの男の突然の出現は、周囲の兵士たちの視線を一斉に集める。
「ミルディン大橋を落とされたとのこと。あの強固な防衛線を打ち砕くとは、実にお見事な采配でした」
ギルベルトは重い金属音を響かせながら馬から転がり降りた。膝を突き、深く一礼してから疲労の濃い顔を上げる。その声には、限界まで張り詰めた糸のような切迫感が宿っていた。
「回りくどい挨拶は無用だ、ギルベルト。なぜ今になって、君が我々の前に姿を現したのだ?」
セテスの問いに対し、老騎士は静かに、しかしすがるような熱を帯びた声で報告を紡ぎ出した。
「私は今、かつての主君……ディミトリ様に、再びお仕えしております。あの方は五年前の王都での処刑を逃れ、フラルダリウス領にて密かに反攻の準備を進めておられました」
「……! ディミトリは、まだ生きていたのだな!」
セテスの声に反応し、天幕の奥から漆黒の外套を纏ったベレトと、弓を手にしたクロードが歩み出てきた。次期国王の生存という戦略的に極めて重要な情報に、周囲の空気が一気に張り詰める。
「ええ。生きておられます。ですが……今の殿下は、凄惨な復讐の妄念に完全に囚われておいでです」
ギルベルトは苦渋に満ちた表情で首を振った。
「味方の兵士の疲労度や、帝国軍との絶望的な戦力差のデータを一切顧みず、このまま一直線に帝都へと進軍する構えを崩そうとされません。我々残党軍の戦力では、帝国の本軍が待ち受ける平原に出た瞬間に、完全にすり潰されてしまいます」
ギルベルトは、ベレトとクロードへと向き直り、額が石畳に触れるほど深く頭を下げた。
「どうか、あなた方の力を……今やフォドラ最大の勢力となった、その大いなる軍事力をお貸しいただけないでしょうか。手を携え、共に帝都を目指し……殿下をお救いいただきたいのです」
沈黙が落ちた。数秒後、クロードが顎に手を当てて冷静な声音で口を開く。
彼の金色の瞳には、旧友の生存を喜ぶ感情の揺らぎは存在しなかった。そこにあるのは、数万の兵を預かる軍の指導者としての、極めて冷徹な損害予測の計算のみであった。
「……ギルベルトさん。ディミトリが生きているのは喜ばしい事実だが、少し待ってくれ。あんたの口ぶりと現在の状況証拠から察するに、今のディミトリはどうやら指揮官としてまともな意思決定ができる状態じゃないようだが?」
クロードは容赦なく、軍事的な現実を突きつける。
「復讐に囚われ、周囲の兵站や被害状況が見えていない軍勢を、俺たちの陣形に組み込むことは出来ない。目的が暴走している部隊との連携行動は、前線崩壊の最大の要因となりかねないんでね」
クロードの軍事合理性に基づく正論に対し、ギルベルトは一切の反論を構築できず、ただ絶望に唇を噛み締めることしかできなかった。彼自身、ディミトリ軍の現状がいかに破綻しているかを誰よりも理解しているからだ。
だが、その重い沈黙を破るように、ベレトが静かに一歩前へ出た。
「……見捨てる気はない。かつての教え子たちを、むざむざ死なせるつもりもない」
ベレトの静かで力強い言葉に、ギルベルトの顔が弾かれたように上がる。
「だが、クロードの懸念も戦術的に完全に正しい。新生軍の指導者として、彼らの無謀な復讐戦に我々の数万の兵を無条件で付き合わせる決定は下せない。……だから、ファーガス軍の残党を保護して、支援する上で譲れない条件を提示したい」
ベレトは、教師としての厳しさと、指揮官としての冷徹さを込めた瞳で老騎士を見据えた。
「ディミトリを含むファーガス全軍を、我々『新生軍の完全な指揮下』に組み込ませてほしい」
「……っ」
「対等の同盟関係は結べない。代わりにこちらの命令系統の下におかせてもらう。……彼らを死なせたくないのなら、この条件に同意してくれ」
「……殿下に、軍の決定権のすべてを譲渡しろと仰るのですね」
ギルベルトは息を呑んだ。それは一国の王位継承者に対し、軍門に降れと要求するに等しい。
しかし、その冷酷な響きを持つ要求こそが、狂気に走り全滅へ向かう主君の足を強制的に止め、「管理し、救い出すため」の唯一の命綱であるという軍事的事実を、老騎士の頭脳は正確に理解していた。
「……承知いたしました。殿下には私から伝え、強引にでも従わせます。感謝いたします……先生」
ギルベルトが重々しく頭を下げたことで、契約は成立した。
新生軍はディミトリ軍の残党を自らの指揮系統下に吸収し、帝国軍の本隊が待ち受けるフォドラ最大の激戦地、グロンダーズ平原へ向けて進軍することが正式に決定したのである。
軍議が解散し、各部隊の将が慌ただしく出撃準備と兵站の再計算に取り掛かる夜。
ミルディン大橋の巨大な石造りの欄干のそばで、イングリットは一人、黒く波打つ大河の水面を重い表情で見つめていた。
彼女の腰には、英雄の遺産『ルーン』が冷たい重量感を伴って帯びられている。
(私は、飢餓に苦しむ領民の命を物理的に維持するため、ガラテアの家を継ぎ、ダフネル家の伝手を通じてこの新生軍の庇護下に入った。……だが、王位継承者たるディミトリ殿が生存しておられた事実が確認された今、私のあの行動は……)
イングリットは、ルーンの柄を白く鬱血するほどきつく握りしめる。
祖国ファーガスが名実ともに存続していたという事実。それにもかかわらず、自分は狂乱した主君の行方を捜すこともせず、早々に他国の勢力(新生軍)に身を売るという政治的選択をした。
その客観的事実がもたらす『不忠の罪悪感』が、彼女の生真面目な騎士としての精神を激しく締め付け、呼吸を浅くさせていた。
「イングリット。顔色が悪いよ。どこか痛いの?」
背後から不意に声が掛かり、イングリットは肩を弾かせて振り返った。
そこには、自身の背丈ほどの長さの手斧を肩に担いだツィリルが、いつも通りの平坦で凪いだ眼差しで彼女の顔を見上げていた。
「ツィ、ツィリル……。私は……」
イングリットの口から、堰を切ったように自らの内奥の葛藤が漏れ出した。
騎士としての誓いを破り、自家の生存と領民への実利的な食糧配給のために、祖国と主君を見捨ててしまった己の弱さ。ディミトリが生きていると知った今、自分が明日、どのような顔をして彼と、そしてファーガスの残党兵たちと対面すればいいのか分からないという恐怖。
震える声で告解を続けるイングリットに対し、ツィリルは彼女の言葉を最後まで静かに聴き届けた後、口を開いた。
「イングリットは、自分の領地の人間が飢え死にしないための、一番確実で安全な食糧確保の手段を選んだ。ボクはそれを見てたよ。結果として、ガラテア領の人間は誰も死なずに生き延びた。領主として、それ以上の正しい選択は存在しないよ」
ツィリルの口から紡がれたのは、彼女の行動を肯定する、真っ直ぐな正論であった。
「それに、ディミトリの軍勢は明日の朝から、先生の指揮下に入る。軍の編成上、ボクたちと完全に同じ指揮系統に組み込まれるんだ。イングリットが先にこっちの軍に所属していたという、時間的な合流の順番の違いが存在するだけで、最終的な所属陣営は完全に同じになる。軍規のデータに照らし合わせても、イングリットを裏切り者として処罰する根拠はどこにも成立しなくなるよ」
「っ……」
イングリットの呼吸が止まる。
不忠や裏切りという、彼女を縛り付けていた精神的な概念は、ツィリルの提示した『指揮系統の統合という軍事的な事実』の前に、反論の余地なく粉砕された。
「それに……」
ツィリルは一歩踏み出し、イングリットの腰にある『ルーン』の穂先を、硬いたこのできた指先で軽く弾いた。カン、と冷たい金属音が夜の川風に響く。
「イングリットは今、ボクの護衛(盾)を任されてる。ボクの側を離れて昔の主君のところへ戻るなんて急に言い出されたら、ボクは次の戦いで矢や魔法を防ぎきれずに怪我をする確率が跳ね上がる。ボクが怪我をして寝込んだら、新しい領地の仕事の決済が全部止まって、何万人の領民の生活物資の流通に直接的な被害が出る。それに、先生やレアさまからの『イングリットと一緒に戦え』っていう命令にも違反することになる」
ツィリルの金色の瞳が、イングリットの翠の瞳を真っ直ぐに射抜く。
そこにあるのは、騎士道のロマンティシズムでも、主従の美談でもない。
「あなたが怪我をすれば周りが困る」「あなたがいなくなれば自分が怪我をする」という、彼が観測し予測した物理的な損害データと、極めて実用的な理由に基づく引き留めであった。
「だから、ボクの側から離れることは、絶対に許可しないよ」
イングリットの肩の震えが、ピタリと止まった。
彼女は小さく息を呑み、眼前の少年の平坦な顔を凝視する。
翠の瞳から、大粒の涙が石畳へと零れ落ちた。
彼女はそれをガントレットの甲で乱暴に拭い去ると、英雄の遺産『ルーン』の柄を力強く握り直し、硬い石畳の上に乾いた金属音を響かせて片膝をついた。
「……っ、はい……っ! 私は……あなたの剣であり、盾です! これからも、この命の機能が停止するその瞬間まで、必ずあなたの側で戦い抜きますっ……!」
イングリットは顔を朱に染め、頭を深く垂れる。
彼女の全身の筋肉から、罪悪感によるこわばりが完全に消え失せる。残ったのは、今この瞬間に自分を必要とした眼前の少年を、あらゆる外敵から絶対に守り抜くという強烈な戦闘準備姿勢のみであった。