擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十五章②

外からは、アミッド大河の激流の音に混じり、ミルディン大橋東岸に集結した数万の将兵が立てる軍靴の音とざわめきが絶え間なく響いていた。

薄暗い指揮官用の天幕。卓上に広げられたグロンダーズ平原の羊皮紙の地図を、蝋燭の頼りない火が照らしている。

夜の帳を割って天幕に入ってきた男の姿に、その場にいた者の呼吸が微かに止まった。

 

伸び放題になった金髪には泥と乾いた血糊がこびりつき、右目は黒い眼帯で覆われている。かつての高潔な王子の面影はない。彼が一歩足を踏み出すたびに、分厚い甲冑から何百人もの人間を屠ってきたであろう濃密な死臭が漂った。背後には、疲労の色が濃いロドリグやシルヴァン、アネットたちが重い足取りで続いている。

 

「……さて。あの復讐鬼の王子様が、大人しく先生の指揮下に入ってくれるかどうか」

 

天幕の隅で腕を組んでいたクロードが、声を落として目を細めた。

 

「……久しぶりだな、先生」

 

ディミトリの口から、地を這うような低い声が漏れた。

ベレトは歩み寄り、かつての教え子の痛々しい姿を静かな瞳で見据えた。

 

「生きていてくれて、良かった」

 

ディミトリは残された左目でベレトを睨み据え、口の端を歪めた。

 

「俺は……あの女の首をこの手で捩じ切るまで、死ぬわけにはいかないんだ。地獄の底で、死者たちが早く殺せと毎夜俺の耳元で叫び続けている……」

 

彼の瞳に宿る光は、狂気そのものだった。軍としての戦略や味方の被害など、彼の視界には存在しない。

 

「ギルベルトから聞いた。お前たちの指揮下に入れば、最短で帝国の喉元へ案内してくれるとな。……ならば、従おう。あいつを殺せるのなら、誰の手駒にでも、狂犬にでもなってやる」

 

それは従順な降伏ではない。標的の喉元に食らいつくための、自らの命すら度外視した突撃宣言だった。

 

「……やれやれ。これじゃあ、まともな作戦会議は期待できそうにないな。先生、あいつの手綱はちゃんと握ってくれよ」

 

クロードが小さく息を吐き、卓を囲むように配置された椅子を顎でしゃくった。

 

「……正面から突き崩す。ただ、それだけでいいはずだ」

 

ディミトリは椅子に座ることもなく、泥に塗れた手で地図の南端を乱暴に叩いた。

 

「エーデルガルトの首は俺が取る。お前たちは俺たちの後ろから歩いてきて、残った残骸を片付ければいい」

 

「死にたがりにも程があるぜ。少しはこっちの話を聞いてくれ」

 

クロードは卓上に身を乗り出し、帝国軍を示す赤い木駒を平原の中央、小高い丘の記号の上に置いた。

 

「帝国の本陣は、平原中央のあの高台に布陣する。周囲を見渡せるあそこに弓砲台を置き、盤面全体を制圧しようとするはずだ。まともに平原の中央でぶつかれば、数と地の利で勝る帝国軍にすり潰される」

 

車座になった軍議の席には、ベレト、クロード、セテス、そしてディミトリの代理としてフェリクス、シルヴァン、ギルベルトが重い顔つきで並んでいる。

 

「敵の大軍を狭路に引きずり込み、分断させる必要がある」

 

ベレトの指先が、アミッド大河にかかる二つの橋の記号をなぞった。

 

「西の橋を完全に破壊する。帝国軍がこちらへ渡るルートを、『北の石橋』一本に限定させる。そして……」

 

ベレトの静かな瞳が、傷だらけのファーガス将兵たちを真っ直ぐに射抜いた。

 

「その残された北の橋に、帝国軍の猛攻を真正面から受け止める『最も脆く見える防衛線』を置く」

 

「……要するに、あの猪を一番の死地に立たせて、突撃を全部引き受ける囮にしろと言うんだな」

 

フェリクスが忌々しげに舌打ちをした。隣のシルヴァンも、皮肉めいた笑みを浮かべて首を振る。

 

「エーデルガルトは理詰めで動く。無傷の主力部隊よりも、指揮系統が死んで復讐心だけで動いている俺たちの陣形の方が、崩しやすく見える。……そういうことですよね、先生?」

 

「そうだ」

 

ベレトは短く肯定した。

 

「君たちには、同盟軍や教団軍とは一切の連携を取らず、橋のたもとに無秩序に群がっている姿を演じてもらう。帝国軍に、ここなら一瞬で踏み潰せると錯覚させるんだ」

 

ギリッ……と、不快な摩擦音が響いた。

ディミトリが、自らの体重を預けていた槍の柄を、握力だけでひしゃげさせていた。

 

「……構わないさ」

 

喉の奥で血の塊が弾けたような、軋む笑い声が漏れた。

 

「俺の首を餌に、あの女の喉元に届くというのなら……好きにしろ。烏合の衆でも、捨て駒でも大いに結構だ。俺はただ、奴の首を刎ね、死者たちの無念を晴らすだけだ……!」

 

フェリクスが深く息を吐き出し、ギルベルトは重く目を伏せた。

狂王の怨念。それこそが、帝国軍を誘い込むための最も強固な鉄床として、盤面に組み込まれた瞬間だった。

 

***

 

翌朝。

グロンダーズ平原は、数歩先の視界すら奪う乳白色の重い濃霧に包まれていた。

 

「……コニー、モニカ。準備はいい?」

「ええ。いつでもいけますわ!」

「ツィリル様のご命令とあらば、この身の魔力をすべて注ぎ込みますっ!」

 

アミッド大河の西側。すでに放棄が決定している石橋の土台に、ツィリルに率いられた魔法部隊が音もなく取り付いていた。

コンスタンツェ、モニカ、リシテアの三人が、橋の橋脚の最も負荷がかかる構造の継ぎ目に、極限まで圧縮した魔力の塊を埋め込んでいく。

 

「……リシテアも、無理しないで。魔力、ここで使い切ったらダメだよ」

「っ……子供扱いしないでください! これしきの構造破壊、私の魔法にかかれば一瞬です!」

 

リシテアは頬を赤らめて口を尖らせながらも、漆黒の闇魔法『ハデス』の術式を石の内部へと流し込んだ。

 

「よし。……三人とも、ボクの後ろに隠れてて」

 

ツィリルは身の丈ほどある手斧を構え、三人の少女を自らの背中側へ庇うように立った。

直後、三人が一斉に魔力を起爆させる。

 

ゴオォォォォォンッ!!

 

腹底を揺らす地響きと共に、巨大な西の石橋が中央から真っ二つにへし折れた。轟音を立てて橋桁が濁流の中へと崩れ落ち、凄まじい水柱と土煙が上がる。

爆風に乗って飛んできた無数の石の破片を、ツィリルは手斧の腹と自らの身体で次々と弾き落とした。

 

「っ……」

 

土煙が収まり、リシテアたちが目を開けると、そこには微動だにせず立ち尽くす少年の背中があった。

 

「……怪我、ない? 君たちがここで怪我して動けなくなったら、ボクが先生に怒られるし、何より後の作戦が進まなくなって困るからね」

 

ツィリルは肩に積もった土埃を払いながら振り返り、いつも通りの平坦な声で言った。

ツィリルにとっては単なる事後確認に過ぎないが、危険な爆風から一切の迷いなく身を挺して守り抜いたその行動は、リシテアやコンスタンツェの頬に熱を帯びさせた。

 

「……罠の第一段階、完了だね」

 

彼女たちの視線を気にする素振りも見せず、ツィリルは水しぶきを上げる瓦礫の山を確認すると、北の橋へと向けて踵を返した。

そのすぐ背後には、抜き身の英雄の遺産『ルーン』を手にしたイングリットが、彼の足跡を正確になぞるようにピタリと付き従っている。

 

「……ツィリル。北の橋に布陣したファーガス軍は、すでに後方の同盟軍本隊との距離を不自然なまでに空け、孤立した陣形を敷いています」

 

イングリットが、周囲の濃霧に警戒の視線を配りながら小声で報告する。

 

「うん。これで帝国軍の斥候には、ファーガス軍と同盟軍が仲間割れしてるように見えるはずだよ。あとは、エーデルガルトが餌に食いつくのを待つだけ」

 

帝国軍が平原の東側へ攻め入るためのルートは、完全に『北の橋』ただ一つに絞られた。

 

北の石橋の入り口。

濃霧の底で、ディミトリはただ一人、自軍の最前列に立ち、虚空に向かって低く何かを囁き続けていた。

彼の全身から放たれる異常な殺気は、背後に控えるファーガス兵たちすら怯えさせ、部隊の足並みはボロボロに崩れている。

 

「……ひでえ有様だな。これで帝国軍の精鋭を真正面から受け止めるんだ。下手すりゃ、罠が発動する前に俺たちが挽肉にされるぜ」

 

シルヴァンが、破裂の槍を肩に担ぎながら自嘲気味に笑った。

 

「黙って剣を抜け。……俺は、あの馬鹿が死ぬ前に、一匹でも多くの敵を斬るだけだ」

 

フェリクスは剣の柄に手をかけたまま、死を覚悟した鋭い視線で濃霧の向こうを睨みつけていた。

 

その光景を、橋の側面から生い茂る葦の茂みの中で、ツィリルとイングリット、そしてヒルダの三人は息を潜めて見つめていた。

 

「もー、なんでアタシがこんな泥だらけの茂みに……ブーツが汚れちゃうじゃん」

 

小声で愚痴をこぼしながらも、ヒルダはツィリルの背中に自分の全体重を預け、彼を完全に専用のクッション代わりにして寄りかかっている。

 

(……殿下。シルヴァン、フェリクス……)

 

イングリットは、泥に塗れた冷たい地面に膝を突きながら、ルーンの柄を白くなるほど強く握りしめていた。

主君の死地に直面し、かつての幼馴染たちが文字通り『使い潰されるための鉄床』として最前線に立たされている。その事実に、彼女の呼吸は浅く速くなっていた。

極度の緊張状態にあるイングリットに対し、ヒルダのツィリルに完全に依存しきったマイペースさは、異様なほどの温度差を放っている。

 

「……イングリット」

 

不意に、泥に汚れたツィリルの手が、イングリットの銀甲冑に覆われた手を上から覆い隠すように、強く握りしめた。

 

「っ……」

 

「……震えてるの。怖い?」

 

ツィリルの金色の瞳が、何の飾り気もない光を帯びて彼女を見上げていた。

 

「……っ、いえ……私は、ただ……」

 

イングリットの唇が震えた。かつての仲間たちが死地に向かう様を見ていることへの葛藤。

 

「イングリットがここで震えて、槍を握る力が弱くなったら、ボクは次の戦いで死ぬかもしれない。ボクが死んだら、レアさまや先生が悲しむし、領地の仕事も全部止まる」

 

ツィリルの手から、マメだらけの硬い感触と確かな熱が伝わってくる。

 

「だから、ボクの側から離れることは、絶対に許可しないよ。イングリットの命は、今、ボクを守るために必要なんだから」

 

イングリットの肩の震えが、ピタリと止まった。

彼女は小さく息を呑み、自分を真っ直ぐに見上げる平坦な金色の瞳を見つめ返す。

 

翠の瞳から、大粒の涙が泥に汚れた石畳へと零れ落ちた。

彼女はそれをガントレットの甲で乱暴に拭い去ると、冷たい泥の上に深く片膝を突き、英雄の遺産『ルーン』の柄を軋むほど両手で握り込んだ。

主君たちの死地を前にして浅く乱れていた彼女の呼吸は、すでに深く、静かな呼気へと変わっている。

 

「……武者震いです。私は……もう迷いません」

 

イングリットはツィリルを見据え、はっきりと告げた。

 

「私はあなたの盾。……彼らがどれほど血を流そうとも、私はこの命が尽きるその瞬間まで、必ずあなたの背中だけを護り抜きます」

「うん。ボクの命は、イングリットに預けるよ。だから……絶対に死なないで、ずっとボクの側にいて」

 

生存し、役割を果たすための確実な戦力として、互いの命を縛り付ける強欲な誓約。

イングリットの頬が熱い血潮で赤く染まる。

 

すると、ツィリルの背中から顔を出したヒルダが、彼の首筋に腕を回し、妖艶な吐息がかかる距離で囁いた。

 

「イングリットちゃんが盾なら、アタシは近づいてくる虫を叩き潰す係だねー」

 

ヒルダは、獲物を待つ雌豹のような冷徹な瞳を霧の向こうへと向ける。

 

「……アタシ、働くの嫌いだけど。ツィリルくんの居場所を荒らす帝国兵は、アタシのフライクーゲルでみーんな挽肉にしてあげる。……だから終わったら、いっぱい褒めてね?」

 

「……うん。ヒルダが怪我しないなら、いっぱい褒めるよ。頼りにしてる」

 

ツィリルは背中の柔らかな重みを鬱陶しがることもなく、淡々と頷いた。

その揺るぎない態度に、ヒルダもまた満足げに熱い吐息を漏らす。

 

乳白色の霧の奥から、無数の鉄がぶつかり合う重い足音が、地鳴りのように響き始めていた。

最強の帝国軍をすり潰すための、狂気と死の防衛線が、今ここに構築されたのである。

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