乳白色の分厚い霧が、グロンダーズ平原全体をぬかるんだ沼のように重く覆い尽くした翌朝。
中央の小高い丘に布陣する帝国軍の本陣で、ヒューベルトが闇の魔力を帯びた指先で卓上の地図をなぞった。
「……霧が濃く、平原の全容は掴みきれません。ですが、西側の橋が何者かの魔法によって完全に破壊されたことは間違いありませんな。先ほどの轟音と、戻ってきた斥候の報告がそれを裏付けております」
豪奢な赤い鎧に身を包んだ皇帝エーデルガルトは、腕を組み、鋭い視線で天幕の外の白い闇を睨みつけた。
「西の橋が落ちた……。つまり、敵が我々の本陣へ向かって大軍を進めるルートは、北の橋一本に絞られたということね」
「それと陛下、奇妙な報告が入っております。その北の橋を塞ぐように布陣しているのは、同盟軍でも教団の主力でもなく……青き獅子の旗を掲げた、旧ファーガス王国軍の残党とのこと」
「王国の残党? あの王都の政変で散り散りになったはずの敗残兵が、なぜ同盟の橋に?」
エーデルガルトの眉がわずかに寄る。そこへ、さらなる報告を持った帝国の斥候が息を切らして駆け込んできた。
「ほ、報告します! 敵軍の陣形が判明! 橋を塞ぐ王国軍ですが、部隊ごとの連携が全く取れておらず、陣形は無秩序の極みです! さらに、後方の同盟・教団軍との間には不自然な距離があり、後詰めの支援体制が敷かれている様子がありません!」
その報告を聞いた瞬間、エーデルガルトの脳内で、先日から同盟領内で流れていた『偽情報』と、目の前の事実が線で繋がった。
「……なるほど。そういうことね」
エーデルガルトは、確信に満ちた笑みをこぼした。
「クロードと同盟の諸侯は、突然やってきた王国の残党を持て余し、彼らを体よく『捨て駒』として最前線に押し付けたのよ。亡霊のように復讐心だけで動く彼らと、打算で動く同盟軍の足並みが揃うはずもないわ。……あの陣形の乱れは、指揮系統が完全に分裂している何よりの証拠」
「ククク……なるほど。復讐に狂う亡霊と、損得勘定で動く寄せ集め。その二つが完璧な連携をとって我々を罠にかけるなど、確かにあり得ない話ですな。教団と同盟の連合軍は、内部からすでに瓦解しかかっていると」
ヒューベルトもまた、自らの理路整然とした推測に同意の笑みを浮かべた。
あまりにも理性的で優れた為政者であるからこそ、彼らは自分たちの合理的な盤面分析に一切の疑いを持たなかった。
「ええ。……ヒューベルト、全軍の主力を北の橋へ向かわせなさい」
エーデルガルトは、迷いなく指揮杖を振り下ろした。
「軍において、最も弱い環(弱点)を砕けば、全体の連鎖は一瞬で崩壊する。あの無秩序な王国の残党を真っ向から粉砕し、橋を突破してそのまま同盟領を食い破るわ。……ディミトリの亡霊ごと、古きフォドラの残滓をこの平原で完全に終わらせてあげる!」
「御意」
皇帝の絶対の命令が下り、中央の丘から、重装甲に身を包んだ帝国軍の主力部隊が、怒涛の勢いで北の橋へと殺到していく。地鳴りのような数万の軍靴の音が、濃霧の平原を不気味に震わせた。
***
「……エサに、食いついたよ」
橋から少し離れた森の死角。
葦の茂みに身を潜めていたツィリルが、平坦な声で眼下の様子を報告した。
「本当に、クロードの言った通りになった。帝国の主力部隊が、丘を降りて一直線にディミトリたちの橋に向かってる」
ツィリルの報告に、傍らに控えるイングリットは小さく頷いた。彼女の瞳には、かつての主君が矢面に立つことへの未練や葛藤はもはや存在しない。絶対にツィリルの背中を死守する。ただそれだけが、彼女の思考の全てだった。
「リシテア、コニー、モニカ。……ボクたちの出番はまだだから、今は魔力を温存しておいて」
ツィリルは、背後に控える魔法使いの少女たちに淡々と指示を出す。
「……わかりました。ツィリルが戦術としてそう言うなら、私の魔力はギリギリまで温存しておきます。その代わり、いざという時は存分に私に頼ってくださいね!」
「アケロンの時みたいに、ツィリル様の合図でいつでも敵を灰にできるよう、準備は完璧ですっ!」
リシテアとモニカが、力強く頷いた。
***
「突撃ィッ! 敵の防備は脆いぞ! 一気に踏み潰せ!」
先頭を進む帝国将の怒号が響き渡る。視界不良の霧の中、彼らの目には、橋の入り口に佇む王国軍の残党が、ただ狼狽して固まっているだけの絶好の標的に見えていた。
だが、その鋼鉄の奔流が橋の狭隘な入り口に差し掛かった瞬間、霧の底から一筋の閃光が奔った。
ガギィィィィィンッ!!
「……が、はっ……!?」
最前列にいた帝国の重騎士が、分厚い大盾ごと肉体をもみ殻のように粉砕され、空中へ跳ね上がった。
その中心に立っていたのは、英雄の遺産『アラドヴァル』を凄まじい膂力で振り抜いたディミトリだった。
「次だッ! まだ足りない……! 死者たちの無念を晴らすには…ほど遠い!」
橋の中央に立つディミトリの全身は、返り血で真っ赤に染まり上がっていた。
彼がアラドヴァルを振るうたびに、精強なはずの帝国の重騎士たちが甲冑ごと紙屑のように引き裂かれ、臓物と血飛沫を撒き散らして泥に沈んでいく。疲労など微塵も感じさせないその動きは、もはや人間のそれではなく、死者への異常な執着だけが彼を動かす凄惨なからくり人形のようだった。
「ちっ……死に損ないの化け物めが。いつまで暴れ回っていやがる」
帝国側の前線を指揮する将軍が、次々と自軍がすり潰されていく光景に苛立ちの声を上げる。
橋の狭さが災いし、大軍の利点を全く活かせない。そのうえ、狂王の両脇を固めるフェリクスとシルヴァンの凄まじい技量が、帝国兵の突破を完全に阻んでいた。
「……ひでえ有様だな。敵と味方の血で滑って踏ん張りが利かねえ」
シルヴァンが、破裂の槍で突きかかってきた帝国兵の喉元を正確に貫きながら、顔に飛んだ血を乱暴に拭い去る。
「黙って手を動かせ。……少しでも気を抜けば、俺たちが逆に叩き斬られるぞ」
フェリクスが、鋭い踏み込みから双剣を閃かせ、敵の急所だけを次々と刈り取っていく。彼らは呼吸を合わせるどころか、味方であるはずのディミトリの狂刃の余波を避けながら防衛線を維持するという、極限の綱渡りを強いられていた。強固で、しかし今にも内側から砕け散りそうな脆さを孕んだ、命をすり潰すための地獄の肉挽き機。
「あの隻眼の化け物の横にいる剣士と槍使いを先に殺れ! 奴らが防衛線の要だ!」
将軍の指示を受け、後方の帝国の魔道士部隊が一斉に詠唱を開始し、フェリクスとシルヴァンへ向けて炎と雷の魔法を放とうとする。
だが、その魔法が放たれるよりも早く。
「……遅いよ」
橋の側面の、冷たい泥水に浸かった葦の茂みの中から、ツィリルが這い出るようにして姿を現した。
彼の手から放たれた手斧が、凄まじい回転を伴って空を切り裂き、先頭で詠唱していた魔道士の顔面に深く突き刺さる。
「がぁっ!?」
「ひ、ひぃっ……!」
突然の奇襲に詠唱を中断し、浮足立った魔道士たちの背後に、いつの間にかペガサスから飛び降りたイングリットが着地していた。
「……遅れをとるわけにはいきません!」
イングリットのルーンが鋭く閃き、混乱する魔道士たちを次々と串刺しにしていく。
その動きは、かつて騎士道精神に縛られていた頃の生真面目で直球な戦い方ではない。最も無駄なく急所を抉る狩りの動きに完全に同調した、冷徹な捕食者のそれだった。彼女の視線は常にツィリルの周囲に注がれ、彼に近づく敵の射線を事前に全て潰していく。
「ツィリル! 左翼の敵部隊、こちらに向けた弓の装填を確認しました!」
イングリットが、血を振り払いながらツィリルへ短く報告する。
「うん。……リシテア、コニー! 今だよ!」
ツィリルの平坦な呼びかけに応じ、橋の後方、安全な木立の陰から二つの絶大な魔力が一気に解放された。
「言われるまでもありませんっ! これ以上、ツィリルに近づく害虫は私が消し炭にします!」
「オーッホッホッホ! わたくしの魔法の前に、ただひれ伏しなさいな!」
リシテアの放つ漆黒の闇魔法が帝国兵の足元の地面ごと広範囲に抉り取り、コンスタンツェの落とす雷撃が、密集する重装歩兵たちを次々と黒焦げに変えていく。
二人の天才的な魔道士による広範囲殲滅魔法。それが、橋という逃げ場のない狭路の地形と組み合わさることで、帝国軍に回避不能の絶望的な被害をもたらしていた。
「な、なんだあの魔力は!? あのような高位の魔法を使える者が、なぜ王国軍の残党の中に……!」
帝国将が驚愕に目を見開いた時、次弾のハデスが彼の身体を鎧ごと跡形もなく消し飛ばした。
***
「……っ、どういうこと!? なぜ、たかが一本の橋を落とすのにこれほど手こずっているの!」
中央の高台。本陣の天幕から戦況を見下ろしていたエーデルガルトは、濃霧の向こう側、橋の方角から絶え間なく上がる悲鳴と凄まじい魔法の閃光を見て、苛立ちに指揮杖を強く握りしめた。
「敵の防衛線が異常です。王国軍の狂気的な抵抗に加え、側面から正体不明の遊撃部隊と高位魔道士による苛烈な横槍が……! 我が軍の主力は、完全に橋の前で膠着状態に陥っております!」
泥にまみれて戻ってきた伝令の報告に、エーデルガルトは焦燥感を募らせた。
ここで主力の進軍を止められれば、いずれ同盟軍の本隊が態勢を整えて押し寄せてくる。短期決戦で弱い環を砕くという前提が崩れれば、罠にはまったのは自分たちの方になってしまう。
「時間をかければ確実にすり潰せる相手よ。けれど、軍が濃霧の混乱から態勢を立て直す前に彼らを始末しなければ、こちらに予期せぬ被害が出る危険があるわね」
エーデルガルトの鋭い視線が、地図の中央――現在、自軍が弓砲台を設置し、絶対の優位を確保しているはずの『小高い丘』へと向けられた。
「……仕方ないわ。丘の防衛に回している傭兵部隊も投入する」
エーデルガルトは振り返り、傍らに控える将校に鋭く命じた。
「丘の縁で待機しているシェズの部隊に伝令を走らせなさい! 『ただちに丘を下り、橋の側面から展開してあの忌々しい遊撃部隊と魔道士どもを排除せよ』と!」
「陛下。それでは、中央の丘の手薄な隙を突かれる恐れが……」
「同盟と教団の主力はまだ動いていないわ。それに、この濃霧では大規模な部隊の展開や奇襲は不可能よ。敵が内部でモタついている今こそ、一気に勝負を決める時」
皇帝の決断に迷いはなかった。偽情報によって「同盟軍は足並みが乱れている」と誤認させられている彼女にとって、目前の障害を最高戦力で素早く叩き割ることこそが、最も理にかなった戦術であった。
***
乳白色の霧が足元に立ち込める、平原中央の小高い丘。
巨大な弓砲台の傍らで、紫色の髪を持つ凄腕の傭兵――シェズは、不気味なほど静まり返った東の森を訝しげに見下ろしていた。
『……ひどい霧だね、シェズ。足元をすくわれないよう、気をつけるんだよ』
脳内に直接響く相棒、ラルヴァの声に、シェズは短く鼻を鳴らす。
「わかってるよ。こんな視界の悪い戦場で、高所を手放す馬鹿はいない。……俺たちはここから、近づく奴らを迎撃していけばいい」
双剣の柄を撫でながら欠伸を噛み殺そうとした、その時だった。
「シェズ殿! 陛下より伝令です!」
息を切らせて駆け登ってきた帝国兵が、声を張り上げる。
「『ただちに丘を下り、橋の側面から展開してあの忌々しい遊撃部隊と魔道士どもを排除せよ』、とのことです!」
「……は?」
シェズは、伝令の言葉を聞き終えると、双剣の柄に手をかけたまま険しい顔で本陣の方角を見遣った。
「主力部隊の大半を突っ込ませた挙句、俺たちまで丘を降りたら、この『一番大事な高台』がすっからかんになるぜ? 濃霧で周りがよく見えねえのに、ここの護りを薄くするのはどう考えたって不味いだろう?」
『ああ。僕も同感だ、シェズ。この霧の中、敵の本隊がどこに潜んでいるか分からない。僕の勘が……いや、僕の理性が、ここを空けるべきではないと強烈に警鐘を鳴らしているよ』
脳内に直接響くラルヴァの声も、シェズの不吉な予感を強く裏付けていた。
高台を降りれば、帝国軍の心臓部は完全に無防備になる。いくら火計の仕掛けが用意してあるとはいえ、それはあまりにも危うい一手だった。
「シェズ殿! 皇帝陛下の絶対の命令です! 早く橋へ向かい、主力の突破口を開いてください!」
伝令兵が血相を変えて急かす。
「……ちっ。雇い主の命令たぁ、世知辛いね」
シェズは深く舌打ちをして双剣を抜くと、自らの傭兵部隊に合図を出した。
「野郎ども、行くぞ! 橋の横っ腹を突っつく厄介な連中を片付ける!」
傭兵の勘が鳴らす最大級の警鐘を力ずくでねじ伏せ、シェズの部隊は霧の立ち込める丘を駆け下りていく。
彼らの背中が乳白色の闇に飲まれ、完全に消えた瞬間。帝国軍の本陣たるその高台は、守る者のいない致命的な『空白地帯』へと変わった。
それこそが、東の森で息を潜める『卓上の鬼神』と『灰色の悪魔』が待ち望んでいた、戦局の盤面が完全に裏返る決定的な瞬間であった。