帝国暦1178年。
ツィリルがシャミアやメルセデスの指導を受け始めたのと、ほぼ同時期。
ガルグ=マク大修道院、騎士団の修練場。
真昼の太陽が容赦なく照りつける土のグラウンドで、ひときわ鈍く、そして重烈な打撃音が連続して響き渡っていた。
「どうした坊や! アタシの剣はこんなもんじゃないよ! ほら、もっと踏み込んでみな!」
「……ッ、ぐ、うぉぉぉっ!!」
土煙の中、荒々しく吠えるカトリーヌの木剣が、猛禽類のような鋭さでエミールの死角を抉る。
エミールは必死に自身の得物でそれを受け流すが、彼女の一撃一撃には、まるで雷霆(らいてい)のような規格外の重さが乗っていた。防いだはずの両腕の骨が軋みを上げ、肺からは焼けつくような呼気が漏れる。
「ほらほら、足元がお留守だ!」
カトリーヌが大きく踏み込み、エミールの懐へと一瞬で潜り込んだ。
顔と顔が触れ合いそうなほどの至近距離。カトリーヌの浅黒く健康的な肌から、じっとりとした汗の匂いと、獣のようにむせ返るほどの熱気が、エミールの鼻腔を直接打ち据える。彼女の琥珀色の瞳は、獲物を狩る雌獅子そのものだった。
その圧倒的な「生」の圧力と、容赦のない暴力の匂い。
それが、エミールの心の奥底に鎖で縛り付けていたはずの『暗い泥』を無慈悲に掻き立てた。
(殺せ……その首を、刈り取れ。肉を裂け)
脳の裏側で、もう一人の自分――血に飢えた『死神』が、歓喜とともに囁く。
エミールの瞳孔が僅かに収縮し、木剣を握る指から血が滲むほどの力が込められた。この至近距離からなら、剣を捨てて彼女の喉笛に直接喰らいつくことも――
「――甘いねッ!!」
しかし、エミールがその昏い衝動に身を委ねるより一瞬早く、カトリーヌの足払いがエミールの軸足を無情に狩り取っていた。
天地が反転し、背中から地面に激突する。肺の中の空気がすべて叩き出され、エミールは声を上げることもできずに激しく咳き込んだ。
仰向けに倒れた彼を見下ろしながら、カトリーヌは首筋の汗を乱暴に拭う。豊かな胸元が大きく波打ち、彼女の荒い息遣いがエミールの頬に熱く降り注ぐ。
「……アンタ、今、一瞬だけ嫌な目をしてたね。何かヤバいもんを腹の中に飼ってる……って顔だ」
「…………、はぁっ、はぁっ」
「でも、アンタはそれを自分で押さえ込んだ。アタシを『殺す』ことより、騎士として『打ち合う』ことを選んだ」
カトリーヌはニヤリと猛獣のように笑い、大きな手をエミールへと差し出した。
「いい度胸だ。レア様が直々に拾ってきただけのことはある。アタシが毎日、その『ヤバいもん』ごと徹底的にしごいてやるから、覚悟しな」
差し出された手は、剣ダコに覆われ、ひどく熱かった。
エミールはその手を取りながら、かつて自分を抱きしめてくれたレアの慈愛の熱と、フェルディアへ旅立った姉の笑顔を思い浮かべる。
(俺は……負けない。自分の中の化物になど、絶対に)
「……感謝する、カトリーヌ殿」
エミールがよろけながら立ち上がった、その時だった。
「おや! 激しい稽古だな! カトリーヌ殿の熱気で、私まで剣闘(けんとう)だけに健闘(けんとう)を祈りたくなるよ! わはははは!」
突如として背後から響いた、空気を全く読んでいない大音声。
振り返ると、立派な髭を蓄え、暑苦しいほどの笑顔を浮かべた恰幅の良い騎士――アロイスが、両手を腰に当てて豪快に笑っていた。
修練場に、奇妙な静寂が落ちる。
エミールの頭の中では、先程までの死闘の余韻も、内なる『死神』の衝動も、見事に氷点下まで冷え切っていた。
「……えっと。それは、どういう意味で……?」
「おいおいエミール! 今のは傑作だっただろう!? 剣闘と健闘がかかっていてな! はっはっは!」
「アロイスさん。アンタ、本当にそういうとこだよ……」
カトリーヌが深くため息をつきながら額を押さえる。エミールは真顔のまま、ただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
「……エミールさん。水、持ってきました」
その凍りついた空気の中へ、自分より大きな竹箒と水袋を抱えたツィリルが、足音もなく歩み寄ってきた。
ツィリルは泥だらけのエミールに水袋を渡すと、アロイスの渾身のギャグを文字通り「完全に」スルーして、真顔で尋ねた。
「アロイスさん。今のアンタの歩き方、そんなに重い鎧を着てるのに足音が全然しなかった。どうやって重心を移動させてるの」
「…………えっ?」
アロイスの豪快な笑い声が、ピタッと止まった。
修練場を、気まずい乾いた風が吹き抜けていく。
「い、いや、ツィリル……今の『剣闘』と『健闘』をかけた高度な言葉遊びはだな……」
「さっき、エミールさんがカトリーヌさんに足払いされたのを見てたんだけど。ボクがアロイスさんみたいに重い鎧を着た相手と組み合った時、どうやって相手の重心を崩せばいいの?」
一切の愛想笑いも、困惑すら見せないツィリルの真っ直ぐな瞳。
ただ純粋に「技術」だけを渇望するその姿勢に、アロイスは心の中でひそかに血の涙を流しながらも、騎士としての顔を引き締めた。
「……う、うむ! いい着眼点だツィリル! 相手の重心を崩すにはな、まず自分の丹田に気を落とし……」
「待ってくれ、アロイスさん」
アロイスの言葉を遮り、カトリーヌがずいっとツィリルの前へ進み出た。
彼女の琥珀色の瞳は、先ほどエミールを打ち据えた時と同じ、獲物を品定めする雌獅子の光を帯びていた。
「アンタ、なんでアロイスさんの重心移動を聞いた? 見たところ、アンタの得物は弓か斧だろ。剣や鎧を使った組み討ちの技術なんて、アンタの体格じゃ実戦じゃ役に立たないよ」
「……アロイスさんの鎧みたいな重いものをどうやって崩すか知っていれば、斧でぶつかった時に相手の力を利用して叩き割れるからです」
ツィリルは怯むことなく、カトリーヌの鋭い視線を見返して即答した。
「……自分の型(セオリー)にとらわれず、使えるものは何でも盗む気か。……ハッ、気に入ったよ、坊主」
カトリーヌはニヤッと笑い、ツィリルの肩をバンッと乱暴に叩いた。
「アロイスさんの堅苦しい説明より、実戦で叩き込まれた方が早いだろ。明日からエミールと一緒にここへ来な! アタシが直々に、重心の崩し方と『殺し合い』の基本を教えてやる!」
「……レア様を護る力になるなら、行きます」
ツィリルは怪訝な顔をしたが、己の最大の目的(実利)のために、迷わず小さく頷いた。
「あら。皆様、ずいぶんと賑やかですのね」
ふと、修練場の入り口から鈴を転がすような愛らしい声が響いた。
視線を向けると、波打つ薄緑色の髪を持った可憐な少女――フレンが、小さな籠を抱えて立っていた。修練場の血生臭い空気など全く気にしていない様子で、彼女は興味深そうに中へと入ってくる。
「おや、フレン殿! どうしたんだい、こんなむさ苦しい場所に」
アロイスが慌てて姿勢を正す。
「お兄様がお仕事で忙しいので、修道院のお散歩をしていましたの。そうしたら、こちらからすごい音が聞こえてきまして……」
フレンは背伸びをするようにして、エミールとツィリルの泥と汗にまみれた傷だらけの姿を、目を丸くして見つめた。
「まあ……ひどい汗と泥。それに、お怪我もされていますわ。ずいぶんと激しい訓練をなさっているのね」
「……俺は大丈夫だ」
エミールが短く答え、視線を逸らす。
「強がるのはよろしくありませんわ。はい、これ。わたくしからの差し入れです」
フレンの白く柔らかな手が伸び、エミールとツィリルの無骨な掌の上に、そっと紙に包まれた小さな塊が乗せられた。
「これは……?」 エミールが問う。
「何ですか、これ。甘い匂いがしますけど」 ツィリルも匂いを嗅ぐ。
「厨房でいただいた、焼き菓子ですの。激しく動いた後は、甘いものを食べると疲れが甘く溶けてなくなりますわよ。ふふっ」
花が咲くように微笑むフレン。
過保護な兄(セテス)の目から逃れ、こうして泥まみれになりながらも純粋に「力」を求めて生きる彼らの輪は、箱入り娘である彼女の目に、ひどく眩しく、魅力的なものとして映り始めていた。
「それでは、わたくしはこれで。ごきげんよう!」
軽やかな足取りで去っていくフレンの後ろ姿を見送りながら、ツィリルとエミールは、同時に焼き菓子を口に放り込んだ。
素朴な蜂蜜の甘さが、疲弊しきった筋肉と痛みに、じわりと染み渡っていく。
「……美味い」
「……甘いですね。すごく」
不器用な二人の強張っていた口元が、ほんの少しだけ、同時に緩んだ。