グロンダーズ平原の中央に座す、小高い丘陵地帯。
帝国軍の総大将エーデルガルトが陣を構える『南の本陣』と、ディミトリ率いる王国軍が凄惨な死闘を繰り広げている『北西の石橋』。そのちょうど中間に位置するこの高台は、盤面全体を見渡し、弓砲台と魔道攻撃で広範囲を制圧できる絶対的な戦局の要衝であった。
紫色の髪を持つ傭兵シェズが率いる部隊が、皇帝の命を受けてこの高台から乳白色の霧の底へと駆け下りていった直後。
平原の東側に広がる深い森の境界に潜伏していたペトラとユーリスは、濃霧の中で音もなく視線を交わした。
「……敵の将軍、丘を降りていきました。私たち、作戦の通り、丘の制圧を始めます」
ペトラが、ブリギットの精霊に祈りを捧げるように短剣の柄にそっと口付けをし、微かな声で囁く。
「ああ。ここから先は、少しでも音を立てたら終わりだぜ。丘に残っている後詰めの防衛隊と、火計の仕掛けの番兵……奴らが見張りの声を上げる前に、全員の喉元を掻き切る」
ユーリスは紫色の瞳に冷酷な光を宿し、自らの得物である細身の剣を逆手に構え直した。彼らは、ベレトとクロードから『中央高台の無力化』という、盤面を引っくり返すための最も重要で最も危険な任務を任された暗殺部隊である。
二人は濃密な霧に完全に溶け込むようにして森を抜け、中央の丘の裏側へと回り込んだ。そこは切り立った崖となっている急斜面であり、重武装の兵士が登ることは極めて困難な地形である。残留している帝国軍の部隊は、この斜面から敵が大規模な奇襲をかけてくることは不可能だと判断し、見張りの数を最小限に絞り込んでいた。
崖の表面に生えた太い木の根と、僅かに突き出した岩の凹凸だけを頼りに、二人は軽業師のように音もなく壁面を這い上がっていく。土が崩れる音すら立てず、二つの影は丘の頂上へと到達した。
「……ふぁ。橋の連中はまだ片付かねえのかよ。霧が濃くて、下で何やってるか全然見えねえ」
「まったく、こんな霧の中で遊撃部隊を動かすなんて、陛下もどうかしておいでだ。もし今、敵に襲われでもしたら……」
丘の上の端。設置された巨大な弓砲台の土台と、火計のための起爆用魔力触媒、すなわち大量に積み上げられた油壺と導火線の傍らで、見張りの帝国兵たちが槍に寄りかかりながら欠伸と愚痴をこぼしていた。
「全くだ。……ん? おい、あそこの茂み、今揺れなかったか?」
「あ? ただの風だろ……って、おい、どこ行くんだよ」
一人の見張りが不審に思い、警戒しながら崖際の茂みへと近づいていく。
彼が身を乗り出し、茂みの奥を覗き込もうとしたその瞬間。
泥と枯れ葉の中から突然伸びてきた褐色の細い手が、彼の口を背後から強引に塞ぎ込んだ。
「――っ!?」
悲鳴を上げる暇すらなかった。
ペトラの握る短剣の刃が、分厚い鎧の隙間である首筋の動脈を音もなく、しかし確実に深々と抉り切った。刃が肉を裂き、気管を断ち切る確かな感触。声帯を破壊された帝国兵は、ゴボッというくぐもった血の音だけを喉の奥で鳴らし、そのままズルリと音もなく茂みの底へと引きずり込まれて消えた。
「おい、どうした? 何があった?」
仲間の返事がないことを不審に思ったもう一人の見張りが、松明を掲げて近づこうと一歩足を踏み出す。
その頭上、濃霧に包まれた空中の死角から、紫色の髪の青年がふわりと羽虫のように舞い降りた。
「……お休み。もう起きなくていいぜ」
ユーリスの凶刃が、落下する体重の勢いを乗せて、帝国兵の頸椎の隙間を正確無比に貫き通した。断末魔を上げる余地すら与えない一撃。崩れ落ちる兵士の体をユーリスが片腕で抱え込み、甲冑が地面に当たる音すら完全に殺して静かに横たえる。
彼らは、互いの姿すらまともに見えない濃霧と、北西の橋の方角から絶え間なく響いてくる地鳴りのような死闘の音を完璧な隠れ蓑にした。丘の縁から弓砲台の裏側へと回り込み、残された防衛兵たちを背後から次々と狩り尽くしていく。刃が空を切り裂き、血が泥に吸い込まれる音だけが、霧の底で微かに連続した。
十数分後。丘の縁に設置されていた『火計の起爆装置』は、ペトラとユーリスの手によってすべての導火線と魔力回路を断ち切られ、完全に機能不全に陥った。
「ユーリス。仕掛け、全部壊しました。これでもう、丘に火は点きません」
ペトラが、油と血に濡れた短剣の刃を布で手早く拭いながら、小声で報告する。
「上出来だ。……ペトラ、仕上げの合図を頼む。東で待機してる先生達は、俺たちの仕事を待ってる」
ユーリスの言葉に頷き、ペトラは持ち前の狩猟術を駆使して、丘の縁に備え付けられていた帝国軍の通信筒を操作した。すぐさま、本陣に対して『異常なし(健在)』を示す青い偽装の狼煙に静かに火を点ける。
***
北西の橋の側面。
葦の生い茂る泥濘の中で、ツィリルは手斧を構えたまま、眼下で繰り広げられる地獄のような乱戦を冷徹な金色の瞳で見据えていた。
狂王ディミトリの振るうアラドヴァルが帝国兵を次々と挽肉に変え、その両脇をフェリクスとシルヴァンが死に物狂いで固めている。
「ツィリル、右翼から帝国軍の増援が来るわ! 弓兵の部隊よ!」
泥に塗れたペガサスの手綱を握るイングリットが、霧の向こうの影を指差して叫ぶ。
「リシテア、コニー! 右翼の弓兵に魔法を撃ち込んで!」
ツィリルの指示を受け、リシテアが漆黒の闇魔法『ハデス』を放ち、コンスタンツェが巨大な火球を叩き込む。絶大な魔力の連撃が帝国軍の弓兵部隊の足元を抉り取り、悲鳴と共に人体が吹き飛ばされた。
だが、死に物狂いの帝国兵が放った数本の矢が、魔法の爆風を抜けてこちらへ飛来する。
「危ないよ」
ツィリルは一歩前に踏み出し、手斧の広い腹を使って、飛んできた矢を的確に叩き落とした。乾いた木と鉄の衝突音が響く。
その直後、足元のぬかるみに足を取られたリシテアが、バランスを崩して泥の中へ倒れ込もうとした。
「あっ……!」
「っと」
ツィリルは斧を持たない左手でリシテアの細い腕をガッチリと掴み、彼女の体が地面に落ちる前に力強く引き寄せた。
「滑るよ。……死なれたら困るから、後ろにいて」
ツィリルは、リシテアの細い腕を強引に引き寄せ、自らの背後へと押しやった。
「……っ、わ、わかってます! 子供扱いしないでください!」
リシテアは頬に朱を差して抗議の声を上げたが、ツィリルはその言葉を気にする素振りすら見せない。彼は背後の少女を完全に庇う位置取りのまま、再び前方の霧の底へと視線を戻し、一切のブレのない動作で手斧を構え直した。
リシテアは顔を真っ赤にして口を尖らせながらも、ツィリルの背中の服の裾をしっかりと握りしめ、次の魔力の練成を始める。
ツィリルは背後の気配を確認すると、再び前方の霧の中へと視線を戻し、一切のブレのない動作で手斧を構え直した。
***
平原の東側の森。
乳白色の濃霧の空へ、中央の丘から青い煙が静かに、しかしはっきりと立ち昇っていく。
「……上がったな。これで盤面の主導権は完全に俺たちのものだ。行くぞ、先生! ここを帝国軍の墓場にしてやろうぜ!」
クロードが、愛弓フェイルノートを力強く握りしめて笑みを浮かべた。
ベレトは小さく頷くと、背後に控える将兵たちへと振り返る。
「シャミア。君たちは先行しているユーリスとペトラの部隊と共に高台の防衛線を維持し、眼下のディミトリ達を援護してくれ」
「了解だ。帝国兵の頭に、片っ端から風穴を開けてやる」
シャミアが、音もなく弓の弦を引き絞って応じる。
ベレトは次に、巨大な黒い鎌を肩に担いだ漆黒の騎士――エミールへと視線を向けた。
「エミール。君はフェルディナントやローレンツらと共に別部隊を率いて、高台を完全に制圧した直後、丘を降りて敵の側面に突撃してくれ」
「……ああ。存分に、刈り取らせてもらおう。血の匂いが、俺を呼んでいる……」
兜の奥で、死神騎士の双眸が赤黒い飢えの光を放つ。
ベレトが天帝の剣を抜き放ち、前方の霧を裂くように掲げた。それを合図に、東の森に息を潜めて潜伏していた新生軍の数万の兵が一斉に進軍を開始する。
分厚い装甲が擦れ合う音、無数の軍靴が泥を踏みしめる重い地鳴りが、戦場の空気を一変させた。
***
南に位置する帝国軍の本陣。
天幕の傍らで、エーデルガルトは焦燥に駆られたように指揮杖を強く握り直していた。
「……シェズの部隊を向かわせたというのに、橋をまだ突破できないというの?」
「陛下。風向きが変わりました。……霧が、晴れていきます」
ヒューベルトが、上空を指差して声を上げる。
太陽が中天に昇り、平原に吹き込んだ一陣の強い風が、視界を覆い尽くしていた乳白色の帳を一気に吹き飛ばした。
乱戦の全貌が、ついに強烈な陽光の下に晒される。
エーデルガルトは無意識に、自軍の陣地の中央の丘の方角へと視線を向けていた。そこには、彼女が信頼を置く黒鷲の軍旗がはためき、いつでも敵に矢と魔法を降り注げる絶対的な優位性が確保されている場所のはずだった。
だが。
霧が完全に晴れた中央の丘の稜線に翻っていたのは、帝国の双頭の鷲ではなかった。
天を突くように無数に掲げられていたのは、教団の『炎の紋章』と、同盟の黄色をあしらった新生軍の巨大な旗印。
そしてその下には、ベレトとクロードが率いる新生軍の無傷の主力部隊が、完璧な突撃陣形を組んで、眼下の帝国本陣を冷酷に見下ろしていたのだ。
「な……っ!?」
常に冷静沈着なエーデルガルトの顔が、かつてないほどの驚愕に引きつる。
「馬鹿な……! あの丘の狼煙は『異常なし』を知らせていたはずよ! いつの間に、軍の中央を完全に掌握されたというの!?」
「やられました、陛下。あの青い狼煙そのものが、敵の精巧な偽装……! 我々は、完全に盤面をひっくり返されました……!」
ヒューベルトが血の気を失った顔で呻いた。
鉄床たる王国軍の陣形の乱れに目を奪われ、帝国の主力を北西の橋へ引き込まれた。そして、膠着状態に焦って、中央の丘を守っていた戦力であるシェズの傭兵部隊までをも、自らの意思で手放してしまった。
がら空きになった盤面のど真ん中を、敵主力に完全に奪い取られたのだ。これで帝国軍は、北西の主力部隊と南の本陣とで、完璧に真っ二つに分断されてしまった。
「……くっ! ヒューベルト、丘に仕掛けておいた火計を作動させなさい! 丘ごと奴らを紅蓮の炎で焼き尽くすのよ!」
絶望的な盤面を即座に覆すべく、エーデルガルトは悲痛なまでの叫びと共に決断を下した。
あの丘陵地帯には、万が一敵に奪われた時のために、大量の油と発火装置が仕掛けられている。南の本陣から魔道士の遠隔魔法で引火させれば、新生軍の主力を一瞬で火の海に沈められるはずだった。
「魔道士部隊、中央の丘へ一斉点火……ッ!」
ヒューベルトの怒号と共に、本陣の魔道士たちが一斉に起爆の術式を放つ。
放たれた火球が、空の彼方へ吸い込まれていく。
だが。
中央の丘には、小さな煙一つ上がらなかった。
「……何故だ!? 何故、火柱が上がらない!」
「これは……! 丘に設置した起爆のための触媒や導火線が、すでに何者かの手によって物理的に切断されています!」
担当の魔道士部隊の隊長が、絶望的な事実を吐き出した。
(※その頃、中央の丘の最前列では、切断された油壺の導火線をブーツの先で転がしながら、ユーリスが南の帝国本陣の方角へ向けて「悪いな、皇帝陛下。糸はもう切ってある」と皮肉げに肩をすくめていた)
「火計が……完全に、潰されたというの……」
最後の策すら無力化され、エーデルガルトの瞳に強烈な絶望の色が浮かぶ。
中央の丘の上からは、いよいよ新生軍の主力が、眼下の帝国本陣へ向けて雪崩を打って駆け下りようとしていた。
「……陛下! このままでは本陣が蹂躙されます! ただちに北西の橋の主力を呼び戻し……」
「駄目よ! 今から橋の主力を反転させても間に合わない。それに、背を向ければディミトリの亡霊共に後ろから食い殺されるわ!」
皇帝は、退路すらも完全に断たれていることを正確に理解していた。
エーデルガルトは指揮杖を足元へ投げ捨て、自らの得物である巨大な斧『アイムール』を両手で握りしめ、立ち上がった。
分厚い装甲が擦れ合い、重い金属音が響く。
「本陣に残っている後詰めの予備兵力をすべて投入しなさい! 私も自ら前線に出るわ。……この手で、師(せんせい)たちの突撃を食い止める!」
自らの采配が招いた絶体絶命の危機。
しかし、覇道を行く皇帝は決して膝を屈することはなかった。彼女はアイムールの刃を陽光に煌めかせ、残された自らの親衛隊を率いて、中央の丘から駆け下りてくる新生軍の巨大な津波へと正面から立ち向かっていった。