擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

71 / 71
第二十五章⑤

乳白色の霧が晴れ渡ったグロンダーズ平原に、絶望に染まった悲鳴が伝播した。

 

「本陣が……中央の高台が、敵に奪われたぞッ!!」

 

北西の石橋。ディミトリたち旧王国軍の狂気じみた抵抗に手こずり、狭い橋の入り口で完全に足止めを食らっていた帝国軍の主力部隊に、致命的な動揺が走った。

彼らが背後を振り返ると、難攻不落の要害であり、自分たちを援護してくれるはずであった中央の丘陵地帯の稜線に、無数の教団と同盟の旗が翻っていた。

 

「見張りの駐留部隊は何をしていた!? ……ええい、全軍反転! 橋への攻撃を直ちに中止しろ! 中央の丘を取り返し、陛下をお守りするのだ!」

 

前線を指揮していた帝国将が、血相を変えて部隊の矛先を後方へ向けようと叫んだ。

しかし、数万の軍勢が狭い地形で一斉に反転することなど不可能に近い。陣形が致命的に崩れ、兵士同士がぶつかり合い、無防備な背中や側面が完全に丘の方角へと晒された。

 

「……放て」

 

丘の頂から、冷酷な女の声が降ってきた。

直後、中央の高台の縁から凄まじい密度の矢の雨が、混乱を極める帝国軍主力部隊の頭上へと降り注いだ。

 

「ぎゃあぁぁっ!?」

「上だ! 丘の上の弓砲台から射掛けてきているぞ! 盾を構えろ!」

 

高台を完全に占拠したシャミア率いる弓兵部隊が、斜面と弓砲台の絶対的な高低差を利用し、橋付近で密集する帝国兵たちを次々と串刺しにしていく。上空からの曲射は盾の隙間を容易にすり抜け、鎧の薄い首筋や肩口を正確に貫いた。

 

「ツィリル、右翼の敵が斜面を登ろうとしている。牽制しろ」

「了解」

 

シャミアの短い指示に、ツィリルが即座に応じた。彼は弓を構え、斜面の木立や岩陰に身を隠しながら、急斜面を駆け上がろうとする帝国兵の足元へ次々と矢を撃ち込む。距離と高度の支配。師から叩き込まれた弓兵の鉄則を、彼は戦場という実践の中で完璧に体現していた。

足場を崩された帝国兵が、泥に塗れた斜面を無様に転げ落ちていく。

 

「リシテア、右の茂みに敵が隠れた。魔法で炙り出して」

「言われるまでもありません!」

 

ツィリルの指示を受け、リシテアが短い詠唱と共に闇魔法を放つ。爆発が茂みを吹き飛ばし、隠れていた数名の兵士が黒焦げになって弾け飛んだ。

だが、その余波で斜面の泥が大きく崩れ、リシテアの足元の地盤が滑り落ちた。

 

「あっ……!」

 

バランスを崩し、彼女の細い体がぬかるみへと倒れ込む。

その瞬間、ツィリルが身を翻し、左手でリシテアの腕をガッチリと掴み取った。強引な力で彼女を引き寄せ、自身の背後へと押しやる。

 

「滑るよ。骨を折られたら作戦が遅れる。……そんなことはボクも嫌だ。後ろにいて」

 

ツィリルは、リシテアの細い体を強引に引き寄せて背後へ押しやると、前方の敵から一切視線を外さぬまま手斧を構え直した。

 

「……っ、わ、わかってます!」

 

リシテアは短い抗議の声を上げたが、すぐにツィリルの背中の服の裾を強く握りしめ、次の魔力の練成を開始する。

 

斜面の下では、木立に潜むペトラの短剣が、這い上がろうとする帝国兵のアキレス腱を次々と切り裂いていた。痛みに叫び声を上げる間もなく、上方から身を躍らせたユーリスの細身の剣が、彼らの頸椎を正確に貫く。

 

「おっと、ここから上は立ち入り禁止だ。お前らの席は、あの眼下の泥沼にしか用意されてねえんだよ」

 

ユーリスは剣の血糊を払い、冷笑を浮かべて橋の方角へ顎をしゃくった。

前門には、死者の怨念に突き動かされる隻眼の狂王ディミトリ率いる王国軍。後門たる高台には、無慈悲な死の雨を降らせる新生軍の狙撃部隊。

帝国軍が誇る数万の主力部隊は、逃げ場のない北西の橋のたもとに完全に蓋をされ、一歩も動けないまま己の血と泥の沼に沈んでいくこととなった。

 

***

 

盤面の中央。

高台の占拠と同時に、ベレトとクロードが率いる新生軍の主力部隊は、南に位置するエーデルガルトの帝国本陣へ向けて怒涛の正面突撃を開始していた。

 

「陣形を崩すな! 盾を前に出せ! 丘から降りてくる勢いを殺せば、我々にも勝機はある!」

 

本陣に残された帝国の防衛隊が、分厚い大盾を幾重にも並べて強固な防衛線を構築していく。

しかし、完全な下り坂という地形の暴力に加え、先頭を駆ける二つの圧倒的な力の前では、その鉄壁も無意味であった。

 

ベレトの振るう『天帝の剣』が蛇腹状に展開し、赤熱する刃が広範囲の盾ごと帝国兵の身体を両断する。その直後、上空へ跳躍したクロードの『フェイルノート』から放たれた光の矢が、後列の魔道士部隊を正確に射抜いて詠唱を封殺した。

 

「退くな! 私の覇道は、こんな所で潰えるわけにはいかないのよ!」

 

エーデルガルトが自ら最前線に立ち、巨大な斧『アイムール』を振るって新生軍の兵たちを次々と叩き割る。その覇気と重い一撃に、新生軍の前衛が僅かに怯む。

彼女の背後では、ヒューベルトが顔を蒼白にしながらも、主君の死角を補うように絶え間なく闇魔法『バンシー』を放ち続けていた。

 

正面からの苛烈な力と力の衝突。帝国軍の防衛線は薄氷を踏むように持ち堪えていた。

だが、彼らが北の丘からの鉄槌に全神経を集中させていたその時。

全く予期せぬ方角――平原の東側の平地から、凄まじい地鳴りが帝国本陣の右翼へ襲い掛かった。

 

「我が名はフェルディナント=フォン=エーギル! エーデルガルト、貴方の歪んだ覇道、この私が真正面から打ち砕かせてもらう!」

 

燃えるような真紅の髪をなびかせたフェルディナントが、名槍を真一文字に構え、新生軍の精鋭騎兵部隊を率いて帝国本陣の完全に無防備な右翼へと猛スピードで突っ込んだ。

 

「なっ……側面から重騎兵だと!? いつからあんな所に伏兵が……!」

 

ヒューベルトが驚愕に目を見開く。

彼らは丘の奪取には参加せず、最初から東の平地を大きく迂回していた。帝国本陣が前方の丘の防衛に全力を注ぎ、側面が完全に無防備になるこの瞬間だけを狙って潜伏していたのだ。

フェルディナントの放つ鋭い刺突が、かつての同胞である帝国兵たちの陣形を容赦なく食い破る。

 

「貴族としての責務、ここで果たさせてもらおう。行け!」

 

騎兵部隊の後方から、ローレンツが手にした『チュルソスの杖』を高く掲げた。長射程の高火力魔法『ライナロク』が放たれ、騎兵の突撃から漏れた帝国兵たちの足を的確に焼き払っていく。

 

そして、その側面突撃の先頭集団の中に、一人の白銀の騎士の姿があった。

エミールは漆黒の軍馬を駆りながら、手にした巨大な三日月状の鎌を強く握りしめていた。

濃厚な鮮血の匂い。絶叫と鉄がぶつかる戦場の喧騒。濃密な死の気配。

それらが彼の内なる『死神』の衝動を激しく叩く。血を欲し、肉を裂き、歓喜の咆哮を上げたいという根源的な破壊衝動が、彼の脳髄を熱く煮え滾らせようとする。

 

(……殺せ。全部、斬り刻んで……血の海に……沈めてやる……!)

 

視界の端が赤く染まりかけた、その時。

エミールの脳裏に、修道院の温かな日差しの中、自分に向けて優しく微笑む姉――メルセデスの声がよぎった。

 

『エミール。……お茶が、入ったわよ』

 

ピタリ、と。

鎌の柄を砕かんばかりに握りしめていたエミールの両手から、ギリッという力みが消えた。兜の奥で獣のように荒れ狂っていた呼気が、細く、静かな白い息となって吐き出される。

彼の瞳に宿っていた殺戮の赤い光が、底知れぬ静謐な青へと変わった。

 

「……邪魔だ。道を開けろ」

 

エミールが馬の脇腹を蹴り、静かに鎌を薙いだ。

 

一切の予備動作を持たない、完璧な一閃。

ただそれだけで、立ちはだかった帝国の重装騎士五人の胴体が、分厚い鎧ごと音もなく真っ二つに両断され、地面へと崩れ落ちた。

狂気に任せた力任せの破壊ではない。鎧の隙間、筋肉の死角、死の急所。最も少ない力で最も確実に命を刈り取る、恐るべき外科手術のような剣撃。

 

感情を完全に排した白銀の騎士による無音の蹂躙は、凄惨な咆哮よりも遥かに恐ろしい絶望を帝国の兵たちに植え付けた。

恐怖に駆られた兵士たちが次々と背を向け、本陣の右翼は瞬く間に完全な崩壊へと至る。

 

「……ここまでか。無念です……陛下」

 

右翼が粉砕され、背後からはベレトの剣がエーデルガルトの首を狙って迫る。

ヒューベルトは自身の魔力が底を尽きていることを悟り、主君の盾となるべくエーデルガルトの前に自らの身体を投げ出そうとした。

 

「……おいおいおい! 冗談じゃねえぞ、こちとらまだ報酬の金貨を一枚も受け取ってねえんだ!」

 

紫色の閃光が、戦場のど真ん中を切り裂いてエーデルガルトの前に躍り出た。

北の橋への出撃を命じられ、丘を降りていたシェズだった。彼は自らの傭兵部隊に橋の援護を任せ、異常な崩壊音を立てている本陣へと単騎で逆走してきたのだ。

 

「シェズ……! あなた、どうして……」

 

満身創痍のエーデルガルトが、荒い息を吐きながら目を見開く。

 

「雇い主が死んだら、俺の働きが全部タダになっちまうだろうが!」

 

シェズの目の前には、天帝の剣を上段に構えたベレトと、側面から血の滴る鎌を提げて迫るエミールの姿があった。

まともに斬り合って一秒でも持ち堪えられる盤面ではない。帝国軍の敗北は、誰の目にも疑いようのない絶対の事実として確定していた。

 

『……シェズ。限界だ。君の体も、あの女の命も。……ここは僕の力を使うしかない』

 

脳内に直接響くラルヴァの冷たい声に、シェズは即座に頷いた。

 

「ああ、やってくれ! 俺は……目の前の戦いから逃げても、アンタだけは絶対に死なせねえ!」

 

シェズが双剣を地面に突き立て、エーデルガルトの腕を強引に掴む。

 

「なっ、シェズ!? 離しなさい! 私はまだ戦え……っ!」

「我慢しろ、ボス!」

 

直後、シェズの全身から規格外の禍々しい闇の魔力が爆発的に膨れ上がった。ラルヴァの力による、空間そのものを強制的に歪める転移魔法の展開。

 

「……逃がすかッ!」

 

ベレトが天帝の剣を蛇腹状に伸ばし、二人を捕らえようと空間ごと薙ぎ払う。

赤熱する刃が彼らの首に届くコンマ一秒前。

シェズとエーデルガルトの姿は陽炎のようにグニャリと歪み、そのまま虚空へと完全に吸い込まれて消滅した。

 

「……逃げられたか。だが……」

 

総大将が不可解な術によって戦場から消え失せ、本陣を完全に制圧された帝国軍。残された兵士たちの手から次々と武器が滑り落ちていく。ヒューベルトもまた、四方から幾重もの刃を突きつけられ、力なくその場に膝をついていた。

 

ベレトの天帝の剣を真っ直ぐに喉元へ突きつけられたヒューベルトは、戦意を喪失した味方の兵たちを一瞥し、重く、長い息を吐き出した。

 

「……我々の、完全な敗北のようですな」

 

ヒューベルトの絞り出すような降伏の言葉が、濃霧の晴れ渡ったグロンダーズ平原に響き渡る。

 

かくして、クロードの深謀とベレトの采配により、フォドラの歴史を分かつ『グロンダーズの会戦』は、新生軍の圧倒的な勝利によって幕を下ろしたのである

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。