擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十五章⑥

血と泥、そして臓物の臭いが煮詰まったように立ち込める北西の石橋。

そこは、もはや戦場という名の原形を留めていなかった。石造りの欄干はひび割れて砕け落ち、橋の床面は幾重にも重なった帝国兵と王国兵の死体で完全に埋め尽くされている。軍靴が踏み出すたびに、血の混じった泥水がべちゃり、と嫌な音を立てて跳ねた。

帝国軍の主力をこの狭隘な橋に誘い込み、正面からすり潰すという『肉挽き機』の役目を、狂王ディミトリ率いる王国軍は死兵となって遂行した。分厚い装甲も、重い大盾も、英雄の遺産『アラドヴァル』の凶絶な破壊力の前では紙細工に等しかった。

 

死体の山の中央で、ディミトリは肩で荒い息を吐きながら立ち尽くしている。彼の白銀の鎧は、浴び続けた返り血で赤黒く変色し、元が何色であったのかすら判別できない。

その背後から、泥に塗れた馬を駆ってギルベルトとロドリグが追いついてきた。二人のベテラン騎士もまた、全身に無数の傷を負い、息を乱している。

 

「……殿下ッ! 帝国軍の主力が崩れました。新生軍が中央の丘を奪取し、南の帝国本陣は完全に制圧されたとのことです!」

 

ロドリグの張りのある声が、死臭の漂う橋に響いた。

その報告を聞き、周囲で槍を杖代わりにして立っていたファーガスの兵たちが、次々とその場に崩れ落ちる。張り詰めていた糸が切れ、安堵の涙を流す者、空を仰いで十字を切る者、ただ無言で地面を見つめる者。凄惨な死闘を生き延びた彼らは、ついに仇敵エーデルガルトの首がベレトたちの手によって討ち取られたのだと、そう確信した。

 

だが、死体の山の頂点に立つ隻眼の王だけは、ピクリとも動かなかった。

 

「……エーデルガルトが、あの女が……逃げた、だと?」

 

地を這うような、低く、濁った声だった。

ディミトリは、血に濡れたアラドヴァルの石突を橋の石畳に強く叩きつけた。亀裂が走り、周囲の血溜まりが跳ねる。彼の残された右眼は、ロドリグを見るでもなく、ただ虚空の一点だけを凝視していた。

その喉の奥から、ギリギリと骨が軋むような音が漏れ始める。

 

「……ふ、ふふ……あはははははははッ!!」

 

ひび割れた獣の咆哮が、戦場跡の静寂を切り裂いた。

 

「まただ! また、あの女を……取り逃がした!! あの女の首は……この手で、俺が、俺の指で捩じ切らなければならなかったのに……ッ!!」

 

肺腑の底から絞り出される狂乱の絶叫。

ディミトリが自身の顔を覆い、天に向かって吠え猛る。その異様な姿に、安堵に包まれかけていた王国兵たちの表情が一瞬にして凍りついた。彼らは本能的な恐怖に駆られ、自らの王からジリジリと後ずさりしていく。

彼にとって、同盟軍や教団軍による『帝国の敗北』など、一片の価値もなかった。何年もの間、彼の脳髄にこびりついて離れない死者たちの怨念を黙らせるためには、エーデルガルトの首と四肢を自らの手で引き裂く以外に道はなかった。復讐の機会を他者に奪われたという事実が、彼の内で辛うじて形を保っていた理性のタガを、完全に粉砕した。

 

「……殺す。殺してやる……。俺の復讐を邪魔した奴も、あの女の配下も……。一匹残らず、俺がこの手で……全部、全部、全部!!」

 

ディミトリがアラドヴァルを振り回し、血走った右眼で周囲を睨みつける。

その濁りきった視界に、敵味方の区別は存在しなかった。彼の眼に映ったのは、橋のたもとに固まり、武器を捨てて両手を挙げていた数十名の帝国兵の捕虜たちだった。彼らは皆、傷つき、泥に塗れ、怯えきった若い兵士たちだ。

 

「ひっ……! た、助けてくれ……俺たちはもう降伏したんだ! 武器は捨てた……!」

 

一人の若い帝国兵が、ディミトリの異様な殺気に耐えきれず、泥の中に膝をついて命を乞うた。

 

「黙れッ!! 貴様らも同罪だ……! 死者たちの無念、その血と肉で償えェェェッ!!」

 

ディミトリの脚が爆発的な踏み込みを見せた。

石橋の床面が砕け散り、彼の巨体が弾丸のように捕虜の群れへと肉薄する。アラドヴァルの刃が空気を切り裂き、鋭い風鳴りを上げて大きく振り被られた。

 

「殿下ッ、おやめください!」

 

背後からロドリグが馬を蹴り飛ばして叫んだが、その踏み込みには到底間に合わない。後方で残党の武装解除に当たっていたシルヴァンとフェリクスも、血相を変えて駆け出したが、ディミトリと捕虜たちとの距離はあまりにも絶望的だった。

丸腰の若者たちの首が飛び、胴体が真っ二つに両断される。誰もがその凄惨な結末を確信し、目を背けようとした。

 

その瞬間。

 

「……駄目です、ディミトリ……!!」

 

戦場の喧騒を裂くように、凛とした女の声が響いた。

ディミトリと捕虜たちとの僅かな隙間に、小柄な人影が身を挺して飛び込んできたのだ。

 

ドロテアだった。

彼女は、戦後処理と怪我人の治療のために、メルセデスと共にこの北西の石橋へと駆けつけていた。本来、後衛の魔道士である彼女が、血に飢えた狂戦士の間合いに入るべきではない。だが、非力な者たちがただ無惨に殺戮されようとしているその光景は、薄汚れたスラムの路地裏で虫けらのように踏み谺にされてきた彼女の過去の記憶を強烈に呼び覚ました。

思考よりも先に、彼女の足が泥を蹴っていた。

 

ガキンッ!!

 

金属が悲鳴を上げるすさまじい轟音が、橋の上に響き渡った。

ディミトリが振り下ろしたアラドヴァルの絶死の一撃を、ドロテアは咄嗟に抜いた細身の護身用の剣で、下から斜めへと受け流そうとした。

だが、歴戦の狂王の異常な腕力と、英雄の遺産の絶大な質量を、後衛の少女の細腕で受け切れるはずも、逸らせるはずもなかった。

 

「きゃああっ!?」

 

ドロテアの握っていた鋼の剣が、飴細工のようにへし折れて弾け飛ぶ。

殺戮の軌道を僅かにずらすことしかできなかったアラドヴァルの鋭利な刃は、止まることなくドロテアの身体へと襲い掛かった。

刃の先端が、彼女の白く細い首筋の左側から右側へと、斜めに深く食い込んだ。

 

「……あ、……」

 

ドロテアの喉から、ヒューッ、という、空気が漏れるような異様な音が鳴った。

刹那、切断された血管から鮮血が凄まじい勢いで噴き出し、彼女の服と石畳を真っ赤に染め上げる。膝の力が抜け、彼女の身体は糸の切れた操り人形のように、血と泥の海へと音を立てて崩れ落ちた。

 

「ド、ドロテアッ……!!」

 

少し離れた場所から駆けつけていたフェルディナントの悲痛な絶叫と、かつての学友たちの悲鳴が交錯する。フェルディナントは手にした名槍を放り出し、泥に足を取られ、無様に転びかけながらもドロテアのもとへと死に物狂いで駆け寄っていく。

 

「……あ……ああ……」

 

ディミトリは、完全に硬直していた。

アラドヴァルの柄を握る両手が、小刻みに震え始める。刃から滴り落ちる血の温度。硬い鎧や骨を断つ感触ではなく、柔らかく無防備な肉と皮膚を引き裂いた生々しい手応え。

自らが斬り伏せたのが、仇敵の兵ではなく、かつて同じ学び舎で過ごした丸腰の少女であったという事実が、彼の脳髄を激しく殴りつけた。

数年間にわたって彼の脳内で暴れ狂っていた亡霊たちの呪詛が、この瞬間だけ完全に鳴り止んだ。凄まじい静寂が、彼を狂気の底から冷酷な現実の世界へと強制的に引き戻す。

 

「俺は……俺は……」

 

ディミトリの手から力が抜け、アラドヴァルが乾いた音を立てて石畳の上に転がった。

彼は自らの両手を見つめた。赤黒い血に染まったその手は、制御を失ったかのように激しく震え続けている。彼の右眼から狂気の熱が急速に引いていき、顔面から血の気が完全に失せた。

己が犯してしまった取り返しのつかない大罪。その絶望と慚愧の念が、胃の腑から込み上げてくる。

 

「……ドロテア!! しっかりして! 今、回復魔法を……ッ!」

 

血だまりの中に倒れ伏すドロテアのもとに、メルセデスが悲鳴のような声を上げて滑り込んだ。彼女の白い修道服が泥と血で汚れることなど構いもせず、震える両手でドロテアの首筋の傷口を強く圧迫する。

メルセデスの手から、淡い金色の光が放たれた。最上位の治癒魔法『リザーブ』の力が最大限に展開され、ドロテアの裂けた肉体へと注ぎ込まれていく。

 

「……っ、ふゅ……あ……」

 

ドロテアは虚ろな目でくすんだ空を見つめたまま、口の端から赤い血の泡を吹き、微かに痙攣している。

致命傷だった。刃は動脈の数ミリ手前で止まっていたものの、喉仏の直下を無惨に引き裂き、気管の奥深くまで達していた。光の魔力が肉の細胞を強制的に結びつけ、とめどなく溢れていた出血はようやく収まりを見せ始める。

だが、メルセデスの顔に安堵の色は浮かばなかった。彼女は唇を震わせ、さらに強い魔力を注ぎ込もうとするが、すでにドロテアの首の内部の構造は、魔法の治癒限界を超えて破壊されていた。

 

「血は、止まったわ……。命は、命だけは取り留めた……! でも、傷が深すぎて……私の治癒魔法でも、ちぎれた筋繊維までは……」

 

メルセデスが、大粒の涙をボロボロと零しながら、顔を伏せた。

 

「……声が、もう二度と、出ない……」

 

震える声で紡がれたその事実が、戦場跡に静かに響き渡った。

ミッテルフランク歌劇団の歌姫であり、白鷺杯で優勝し、誰よりもその美しい声で人々を魅了してきた少女。

彼女は、力なき者を庇った代償として、自らのアイデンティティのすべてである『歌声』を永遠に喪失してしまった。

 

「……俺の、せいだ。俺が、彼女の……未来を……」

 

ディミトリの膝が折れた。

泥と血の混じった水たまりの上に膝をつき、彼は両手で顔を覆った。獣のような慟哭が、指の隙間から漏れ出す。

エーデルガルトの仇を討つこともできず、死者の無念を晴らすこともできず、ただ罪なき少女の声を、未来を永遠に奪い去っただけの、あまりにも無様で醜悪な自分の姿。

 

「……あぁ。そうか。俺のような化け物は、もう、生きている資格などないのだな」

 

ディミトリは、自嘲するように呟き、傍らに落ちていた鉄の短剣を拾い上げた。

かつてエーデルガルトに贈り、そして彼女から突き返された因縁の刃。

復讐の意義を完全に失い、自責の念に押し潰された彼は、自らの心臓へ向けて、その短剣の柄を両手で逆手に握りしめた。

 

「殿下ッ!!」

「おい猪、やめろッ!!」

 

ロドリグとフェリクスが血相を変えて飛び出したが、二人の足よりも、狂王が自らの命を絶とうとする腕の動きの方が遥かに速い。

鋭い切っ先が、ディミトリの分厚い胸当ての隙間を抜け、肉へと食い込もうとした、その瞬間。

 

ガシッ、と。

血まみれの細い両腕が、ディミトリの身体を正面から強く抱きしめた。

 

「……え……?」

 

ディミトリが虚を突かれて顔を上げる。

そこには、首に分厚い包帯を巻かれ、メルセデスとフェルディナントの支えがなければ立つことすらままならないはずのドロテアの姿があった。

彼女は、自らの血で真っ赤に染まった両手でディミトリの短剣を持つ手を強く押さえ込み、彼が刃を突き立てることを強引に阻んでいた。

 

「……ド、ロテア……。なぜだ。俺は、君の声を……君のすべてを奪ったのだぞ。なぜ俺の死を阻む……」

 

ディミトリが、混乱と悲痛に顔を歪めて震える声で問いかける。

ドロテアは、彼を見上げて、ゆっくりと首を横に振った。

声は、出ない。

だが彼女は、かつて白鷺杯の舞台の中心で観衆を魅了した時のような、極上の、けれどひどく儚く、悲しげな微笑みを浮かべてみせた。

 

そして、血に塗れた人差し指で、自らの喉の分厚い包帯にそっと触れる。

次いで、その指をゆっくりと伸ばし、ディミトリの胸当ての奥――彼の心臓のあたりを、優しく、トントンと二度叩いた。

 

『――私の奪われた声を、あなたのその命で背負いなさい。だから、死んで逃げることなど絶対に許さないわ』

 

声帯を持たない彼女の真っ直ぐな瞳が、沈黙の中でそう告げていた。

それは、どん底のスラムから這い上がり、生きることに誰よりも執着してきたドロテアなりの、極限の救済であった。そして同時に、彼に一生涯の贖罪を強いる、最も重く逃れられない『呪い』であった。

ディミトリは、この先一生、彼女の奪われた声の分まで、王として、人として、泥に塗れても真っ当に生き続けなければならない。自らの罪から目を背け、死んで楽になることなど、彼女が決して許さないのだ。

 

「……あぁ……っ、うああああぁぁぁぁっ……!!」

 

ドロテアの無言の赦しと呪いを受け取ったディミトリは、短剣を取り落とした。

彼は彼女の華奢な肩にすがりつき、顔を押し当てて、子供のように声を上げて泣き崩れた。

何年もの間、彼の頭の中で喚き続けてきた死者たちの亡霊の声は、今はもう全く聞こえなかった。

彼の耳に届くのは、自らの犯した罪の重さと、彼を抱きしめる声なき少女の、微かな、だが確かに生きている鼓動の音だけだった。

 

血に染まった北西の石橋で。

一人の狂王の復讐劇は、歌姫の永遠の喪失と引き換えに、凄惨な幕引きを迎えたのである。

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