グロンダーズ平原を分厚く覆っていた血の霧が晴れてから、数日が経過していた。
同盟軍の軍師アウステルリッツの周到な罠により、帝国軍の主力は平原の泥土に沈み、完全に瓦解した。絶対的な支柱であった皇帝エーデルガルトが戦場から姿を消したことで指揮系統は崩壊し、逃げ場を失った無数の帝国兵たちは、新生軍の圧倒的な包囲網の前に次々と武器を捨てて大地に膝をついた。
平原の端、戦火を免れた丘の上に急造された新生軍の巨大な天幕。
分厚い天幕の布が冷たい風に煽られて重い音を立てる中、内部には血生臭い鉄と泥の臭いが未だ色濃く滞留していた。巨大な円卓を囲むように、黒鷲の生徒たちや教団の騎士たちが居並び、蝋燭の炎が彼らの顔に深い陰影を落としている。今後のフォドラの命運を決する、凄絶な軍議の場であった。
「……ヒューベルトの尋問はどうだ?」
円卓の上座、地図を見下ろしたまま腕を組むベレトが、傍らに立つセテスに向けて短く問うた。
セテスは忌々しげに舌打ちをし、首を横に振る。
「徒労に終わったよ。帝国軍の残存兵力、エーデルガルトの逃走経路、そして彼女の背後に蠢く『闇』の正体……何一つ引き出せん。肉体的な拷問をかけるまでもなかった。あの男の瞳は、すでに我々など見ていない。何を問いかけようと、ただ薄気味悪い笑みを浮かべて、逆に我々の焦りを観察している始末だ。……痛覚や恐怖で口を割るような精神構造ではない。これ以上、あの者に関わって時間を空費するのは危険だ」
セテスの報告に、天幕内に重苦しい沈黙が降りた。
彼らはグロンダーズという最大の局地戦を制したが、最も重要な『皇帝の首』を取り逃がしたのだ。帝国という巨大な獣は深手こそ負ったものの、未だ帝都アンヴァルという堅牢な巣穴に健在である。
「構わねえさ。盤面は完全にひっくり返ったんだ」
沈黙を破り、クロードが円卓の上に広げられた広大なフォドラの地図の南端――『帝都アンヴァル』の方角へ、小ぶりな短剣を深く突き立てた。刃が木板に食い込む鈍い音が響く。
「この大敗の報せを聞けば、帝国内の親帝国派の諸侯たちも浮き足立つ。こぞって寝返る日和見主義者も出てくるはずだ。ここからが本番だぜ、先生。……帝国軍に態勢を立て直す隙を与えちゃいけない。この勢いのまま、一気に帝都まで攻め上る。これこそが、フォドラを真に平定して、不要な血を流さないための唯一の最短ルートだ」
クロードの短剣の切っ先を見つめながら、天幕に集まった将たちが無言のまま力強く頷いた。
ベレトは組んでいた腕を解き、地図上に置かれた木彫りの駒を自らの指で動かした。
「……そのために、軍を二手に分ける。自分とクロードが率いる主力部隊は、このまま南下を継続する。メリセウス要塞を落とし、帝都アンヴァルへの侵攻ルートを確保する」
「なら、ボクたちは」
天幕の薄暗い隅から、若い少年の声が響いた。
声の主は、床に直に座り込み、自身の背丈ほどもある巨大な戦斧を砥石で黙々と磨き続けていたツィリルである。金属を擦る単調な音だけを響かせていた彼が、研ぐ手を止め、ベレトへと視線を向けた。
彼の背後には、異様な光景が広がっていた。彼を取り囲むように、イングリット、リシテア、マリアンヌ、コンスタンツェ、モニカ、ヒルダ、そしてメルセデスといった少女たちが、一言も発することなく、ただ息を潜めてツィリルの一挙手一投足を見つめていたのだ。彼女たちの視線には、一切の揺らぎがない。
「……ツィリルたち『灰色学級』の遊撃部隊には、北の旧ファーガス王国領へ向かってもらう」
ベレトが、地図の北西――かつての王都フェルディアの方角を指差した。
「現在、王国領は親帝国派であるファーガス公コルネリアによって支配されている。……先の激戦で消耗しきったディミトリたちの兵力だけでは、あの魔女の軍勢を崩すのは極めて困難だ。誰かが彼らと合流して北の憂いを絶ち、帝国の後背を完全に孤立させなければならないんだ」
『旧ファーガス王国領』という言葉に、ツィリルの背後に控えていたイングリットの肩が微かに跳ねた。
かつての祖国。そして、何より、先の戦闘で喉を裂かれ、歌姫としての声を永遠に失ったドロテアの重すぎる業を背負って戦い続ける、かつての主君ディミトリ。彼女の脳裏に、血に染まった石橋の光景がフラッシュバックする。
だが、イングリットの震えは、前方に座るツィリルの淡々とした声によって瞬時に縫い留められた。
だが、彼女の脳裏に過った感傷は、前方に座るツィリルの迷いのない声によって瞬時に引き戻された。
「わかった。……ボクたちが、ディミトリと一緒に北のコルネリアって敵を討ち取ってくればいいんですね」
ツィリルは床から立ち上がると、砥石の粉を払い、磨き終えた自らの背丈ほどもある重厚な戦斧を両手で力強く握り直した。
刃の重さを確かめるように空中で小さく一度だけ素振りをし、ベレトの目を真っ直ぐに見据える。
「レア様を脅かす奴を、いつまでも放っておくわけにはいかない。先生がボクたちを頼ってくれたんだから……絶対に失敗しないように、しっかりやり遂げてきます」
斧の柄を握り込む彼の指先が、微かに白く変色する。その瞳に宿っていたのは、与えられた使命に対する確かな覚悟と、彼なりの純粋な熱意だった。
「……みんな。北の雪道は、ものすごく寒いよ」
ツィリルの口から出たのは、激励でも煽動でもなかった。ただの生存環境の事実確認だった。
「雪が深くなれば補給の馬車は遅れるし、ご飯の確保も難しくなると思う。手先が凍えれば武器を握るのも遅れる。少しの油断で、風邪を引いたり、足の指が凍傷で腐り落ちたりするような、嫌な場所だ」
ツィリルは、真っ直ぐな瞳で彼女たち一人一人の顔を順番に見つめた。
「でも、ボクはレア様と先生たちのために、この仕事を絶対にやり遂げたい。途中で倒れられたり、怪我をされたりしたら、行軍の速度が落ちる。コルネリアの首を獲るのが遅れれば、レア様を救い出すのが遅れてしまう」
ツィリルは、小さく息を吸い込んだ。
「だから、ボク一人じゃ駄目なんだ。……あなたたちの力が、ボクには絶対に必要なんです。怪我をせず、ボクと一緒に、あの冷たい雪山を越えてくれますか?」
ただ、「怪我をされたら困るから、自分についてきてほしい」という、身も蓋もない徹底した合理性と事実だけを突きつけた言葉。
だが、ツィリルの言葉が落ちた瞬間、少女たちの瞳の奥に、暴発寸前の魔力にも似た凄まじい熱光が灯った。
「……愚問ですわ、ツィリル。あなたがわたくしの力を必要と望むのなら、わたくしの魔法で北の雪山などすべて焦土に変えてご覧に入れますわ!」
コンスタンツェが、鉄の扇を広げるような鋭い音を立てて腕を振り上げ、高笑いと共に魔力の火の粉を周囲に散らす。
「わ、私だって! ツィリルが寒くないように、行軍中はずっと側で炎の魔力を練って、指先が凍えないように温めてあげますから!」
リシテアが顔を朱に染め、両手にバチバチと赤黒い魔力の球体を明滅させながら、対抗心をむき出しにしてツィリルへと身を乗り出す。
「ええ。私はあなたの盾です。あなたが北へ向かうと言うのなら、吹雪であろうと氷の壁であろうと、どこまでもこの槍で砕き、命を預けて御守りします」
イングリットが、腰の剣の柄に手を当て、氷のように冷徹で迷いのない瞳でツィリルを見据えて誓いを立てる。
「義父様に連絡して、最高の防寒具と日持ちする食料の追加手配をすぐに急がせます……。ツィリルさんが凍えてひもじい思いをせずに済むなら、私、なんだってしますから……っ」
マリアンヌが、圧倒的な財力を背景にした物資支援の算段を淀みなく口走りながら、熱に浮かされたような荒い吐息を漏らす。
「もー、寒いのは大嫌いだけど、ツィリルくんが風邪引いちゃうのはもっと嫌だもん。……行軍中はずーっと、アタシがこうやってぴったりくっついて温めてあげるからね?」
ヒルダが、持ち前の凄まじい腕力でツィリルの背後から強引に抱きつき、豊かな胸を彼の背中に押し当てて、自らの体温を分け与えるという名目で『特等席』を物理的に確保する。ツィリルの足がその圧力で僅かに前に滑った。
「ツィリル様が北へ向かわれるというのなら、吹雪の中でも私が先陣を切り、すべての障害を焼き尽くして道を切り拓いてみせます! ツィリル様へのこの燃え滾る愛と忠誠は、王国の雪嵐ごときで凍えることなど絶対にありませんっ!」
モニカが、両手に巨大な炎の球体を実体化させ、周囲の空気をチリチリと焦がしながら、狂信的な瞳孔を開いて息巻く。
「フフッ、みんな頼もしいわね。美味しい温かいスープの準備は、私に任せてちょうだい。……ツィリルが風邪を引かないように、夜の天幕ではずっと私が優しく抱きしめててあげるわ」
メルセデスが、両手を胸の前で合わせ、一切の反論を許さない圧倒的な母性と包容力を湛えた笑みを浮かべる。
過酷な雪中行軍という事実すら、彼女たちにとっては自らの有用性を示し、彼に尽くすための至上の舞台と化していた。テント内の空気が、彼女たちの放つ魔力と熱気によって急速に上昇していく。
「……うん。みんなが怪我をせずに動いてくれるなら、すごく助かるよ」
ツィリルは、背中に張り付くヒルダの腕を無理に引き剥がすこともせず、周囲で燃え盛る異常な熱量に対しても、ただ「戦力が確保できた」という事実に対してのみ安堵の息を吐いた。そして、振り返ってベレトへと向き直る。
「先生。……そういうことなんで、北のコルネリア討伐はボク達とディミトリ達に任せてください。レア様のために、すぐに終わらせてきます」
ツィリルの抑揚のない報告を聞き、クロードが呆れたように肩をすくめた。
「ふっ……相変わらず、無自覚な大した女たらしだぜ」
クロードの呟きは、ツィリルを取り囲む少女たちの熱気に掻き消された。
「よし。これで方針は決まった。主力は南の帝都へ。ツィリルたちは北の王国領へ。……いざ、フォドラの明日を掴み取ろうぜ!」
クロードの号令と共に、重苦しかった軍議は解散となり、各将は自らの部隊の出立準備のために、そそくさと天幕の外へと散っていった。
***
天幕の外れ。冷たい風が吹き抜ける馬留めの中で、フェルディナントは出撃に備え、自らの愛馬の鞍のベルトを無言で締め直していた。
革のベルトを引く彼の指先は、微かに白く強張っていた。彼がこれから向かうのは、主力部隊と共に行く南の帝都アンヴァル。彼自身の故郷であり、そして、反逆の罪で捕らえられ、地下牢に幽閉されているという実の父、エーギル公が待つ場所である。
「……フェルディナント。少し、いいか?」
背後から、乾いた土を踏む微かな足音が聞こえた。
振り返ると、紫色の髪を揺らしたユーリスが、音もなく歩み寄ってきていた。
「ん? ユーリスではないか。貴君もツィリルたちと共に北の王国領へ向かうのだろう? 防寒具の準備は良いのか?」
フェルディナントが、強張っていた表情を取り繕うように、生真面目な顔を作って問い返す。
「ああ。俺の荷物は軽いからな。吹雪だろうが何だろうが、どうとでもなる。……それより、お前は先生たちと一緒に帝国(南)へ向かうんだろ? だったら、これを持っていきな」
ユーリスは、分厚い革の外套の懐から、麻紐で厳重に縛られた分厚い羊皮紙の束を取り出した。羊皮紙は古びて端が変色しており、インクとカビの混じったような独特の臭いが漂っている。
ユーリスはそれを、フェルディナントの胸元へとドサッと無造作に押し付けた。
ズシリとした物理的な質量が、フェルディナントの両手にのしかかる。
「……これは?」
「お前の親父さん……エーギル公の『裏帳簿』だよ」
ユーリスが、薄い唇の端を釣り上げ、意地悪く片目をつぶって笑った。
「アビスの鼠たちを使って、何年もかけて洗い出しておいた。帝国内での不正な徴税記録、領民からの不当な搾取、闇商人への物資の横流し……。エーデルガルトに実権を奪われる前、あのタヌキ親父が裏でどんな汚え真似をしてきたか、一銅貨の単位まで完璧に記載してある。言い逃れ不可能な、真っ黒な証拠の束だ」
「な……っ!?」
フェルディナントの顔から、さっと血の気が引いた。彼は両手に抱えた分厚い羊皮紙の束と、ユーリスの顔を交互に見比べる。
「なぜ、貴君がこれを……?」
「親父さんを助けに行くんだろ? 帝国の地下牢に囚われているって話だからな」
ユーリスは一歩踏み込み、フェルディナントの肩を革手袋越に軽く、しかし確かな力で叩いた。
「……ただ助け出して『命があって良かったですね』じゃ、あの親父は絶対に反省しねえからな。息子の手で地下牢から助け出してやった上で、その真っ黒な証拠を顔面に叩きつけて、親父のちっぽけなプライドを根元から完全にへし折ってやれ。……それができるのは、エーギル公の正当な次期当主である、お前だけだ」
ユーリスの視線が、フェルディナントの真紅の瞳を真っ直ぐに射抜く。
手渡された羊皮紙の重さは、そのままフェルディナントが背負うべき『貴族としての責任』の重さであった。単なる情けで父親を救うのではなく、その罪を白日の下に晒し、正しき道を歩ませること。その過酷な役割を、スラム出身のユーリスは、名門貴族の嫡男であるフェルディナントへと託したのだ。
フェルディナントは、押し付けられた重い裏帳簿を両腕でしっかりと胸に抱き抱え、大きく息を吸い込んだ。
「……感謝する、ユーリス。この恩は、我がエーギルの名にかけて、決して忘れない」
フェルディナントの声は、先程までの微かな震えを完全に失い、鋼のように硬く澄んでいた。
「恩なんて大層なもんじゃねえよ。……死ぬなよ、フェルディナント」
ユーリスは小さく鼻で笑うと、背を向け、ツィリルたちの待つ北の遠征部隊の集合場所へと、足音も立てずに歩き去っていった。
フェルディナントは、遠ざかるユーリスの背中に対して深く一礼した。そして、顔を上げると、自らの因縁と対峙するために、裏帳簿を鞍の鞄へと厳重に仕舞い込み、愛馬へと力強く跨ったのである。南の空には、血のように赤い夕雲が低く垂れ込めていた。