新生軍の主力部隊が、帝都アンヴァルへ向けた南下ルートをひた走る頃。
その進軍の要衝の一つである、帝国領内のとある堅牢な城塞――その冷たく湿った地下牢の最奥で、重々しい鉄格子の開く音が反響した。
「……誰だ。エーデルガルトの使いか? 私を殺しに来たのなら……」
藁の敷かれた冷たい石の床の上で、ボロボロの囚人服に身を包んだ初老の男が、微かに射し込む松明の光から逃れるように身をすくませた。
かつて帝国の実権を握り、豪奢の限りを極めた大貴族、ルートヴィヒ=フォン=エーギル公爵。その顔には、かつての傲慢な権力者の面影は微塵もない。無精髭は伸び放題で、くぼんだ眼窩の奥には死の恐怖に怯える小動物のような光が揺れている。
だが、松明の灯りに照らし出された訪問者の姿を見た瞬間、彼の両眼が見開かれた。
「ふ、ふふ……おお……フェルディナント! 私の息子よ!」
ルートヴィヒは弾かれたように立ち上がり、冷たい鉄格子にすがりついて歓喜の声を上げた。
「よくぞ……よくぞ私を助けに来た! やはりお前は私の自慢の息子だ。さあ、早くこの忌々しい檻から私を出してくれ! ここを脱出し、お前の手柄を足がかりにすれば、必ずやエーギル家は再び帝国の頂点に……」
「……父上」
地下牢の湿った空気を切り裂くように、フェルディナントの低く、冷徹な声が響いた。
彼の腰には剣が帯びられていたが、手には武器を持っていなかった。代わりに、分厚い羊皮紙の束が両手でしっかりと握りしめられている。
「……フェルディナント? どうした、早く鍵を……」
「貴方は何もわかっていない。皇帝(エーデルガルト)がなぜ貴方から実権を奪ったのか。そして……私が今日、なぜここに一人で足を運んだのかを」
バサッ、と。
フェルディナントは、ユーリスから託されたその分厚い裏帳簿の束を、鉄格子越しにルートヴィヒの足元へと容赦なく放り投げた。
「な……なんだ、これは……」
「目を通してください。……アビスの民が何年もかけて命懸けで集めた、我がエーギル家が領民に強いてきた『真実』の束です」
フェルディナントは、松明の火に照らされた父親の顔を、真紅の瞳で真っ直ぐに見据えた。
「帝国暦一一七八年、星辰の節。凶作を理由にした不当な特別徴税と、それに抗議した村長ら六名の不審死。……同年、孤月の節。帝都の闇商人との違法な魔道具の取引と、それに伴う多額の横領……」
「っ……!? ま、待て、フェルディナント! それは……」
「言い逃れはさせません。一銅貨の単位に至るまで、貴方の押した公印の写しと共に、すべてがそこに記録されている!」
地下牢に響き渡るフェルディナントの怒声に、ルートヴィヒの顔からさっと血の気が引いた。彼は震える手で床に散らばった羊皮紙の束を拾い上げようとしたが、その手の震えが紙を掴むことを許さなかった。
「貴族とは、力なき民を導き、護るためにこそその身を捧げる存在……『貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)』こそが、我らエーギル家の誇りであったはず。なのに貴方は……! 己の権力と保身のために、その民から血の一滴まで搾り取っていた!」
「お前には……お前にはわからんのだ!」
追いつめられたルートヴィヒが、床の裏帳簿を踏みつけながら悲鳴のように叫んだ。
「権力を維持するためには、清廉潔白だけでは済まされんのだ! 皇帝の横暴を抑え、このエーギル家を守るために……私は泥を被った! すべては帝国の……我が家の未来のためなのだぞ!」
「……ええ。わかっています。貴方なりに、家を護ろうとしていたのだということは」
フェルディナントの瞳が、僅かに伏せられた。
彼は決して、父親を憎悪の対象としてのみ見ているわけではなかった。幼い頃、背筋を伸ばして領地を治めていた偉大な父の背中を、彼は誰よりも尊敬し、誇りに思っていた。だからこそ、その父が権力という魔物に狂わされ、泥にまみれた言い訳を叫ぶ姿に成り果ててしまったことが、彼の心を刃で抉るように痛めつけていた。
フェルディナントは、ゆっくりと鉄格子の前に歩み寄り、自らの両手で冷たい鉄の棒を力強く握りしめた。
「ですが、父上。領民の涙と血の上に築かれた権力など、砂上の楼閣に過ぎない。……貴方は、当主として決定的な過ちを犯したのです」
「フェルディナント……」
「私は、貴方を見捨てません。我が身を挺してでも、この牢から必ず生きて連れ出してみせる。……だが、それは『エーギル公爵』としてではありません」
フェルディナントは、自らの腰に提げていた名槍を外し、鉄格子の前に静かに立てかけた。
それは、彼がこれまで父親の背中を追って振るってきた、エーギル家の騎士としての過去との完全な決別であった。
「……ルートヴィヒ=フォン=エーギル。貴方を、我が新生軍の『虜囚』として連行します」
「な……りょ、虜囚だと……? この私を、罪人として扱うというのか!」
「そうです。貴方には、己の罪をすべて認め、法と民の前で正当なる裁きを受けてもらう。……それが、堕ちたエーギル家の名誉を雪ぐための、唯一にして絶対の道です」
揺るぎない、真っ直ぐな真紅の瞳。
かつて自分の庇護下で無邪気に貴族の理想を語っていた少年は、もはやどこにもいない。そこに立っているのは、自らの業も、一族の罪もすべて背負い込み、それでも前を向いて歩み続ける、ひとりの確固たる『当主』の姿だった。
その圧倒的なまでの気高さと覚悟を前にして。
ルートヴィヒの口から、無意識のうちに力なく息が漏れた。
「……お前は、本当に……立派になったな」
足元に散らばる自らの罪の束を見下ろし、ルートヴィヒはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
もはや言い訳をする気力も、虚勢を張るちっぽけなプライドも、完全にへし折られていた。今の自分が、目の前に立つ気高き若者にかけてやれる言葉など、何一つ残されてはいなかった。
「……わかった。お前の……お前たちの好きにするがいい」
老いた父親は、震える手で自らの首にかけていたエーギル家当主の証たる豪奢な紋章の首飾りを引きちぎり、鉄格子の隙間から、フェルディナントの足元へと差し出した。
「エーギルの家督は、正式にお前に譲ろう。……私の命も、これからの未来も、すべて……お前に預ける」
「……お預かりします」
フェルディナントは、その首飾りを静かに拾い上げ、自らの胸にしっかりと握りしめた。
「立ってください、父上。……これからの貴方の人生は、贖罪のためにある。その長く苦しい道を、私が……息子として、最後まで見届けます」
牢の鍵が開かれ、重い鉄の扉がギシギシと音を立てて開く。
フェルディナントは、泥と埃に塗れた父親の肩をしっかりと支え、暗く湿った地下牢から、陽の当たる外の世界へと歩みを進めていった。
それは、旧き帝国の腐敗が完全に死に絶え、新たな時代を背負う若き獅子が、真の意味で覚醒した瞬間であった。
***
その頃、北の旧ファーガス王国領へと向かう山岳地帯の入り口。
鋭い風が吹き荒れ、視界を白く染め上げる猛吹雪の中を、ツィリル率いる遊撃部隊は着実に行軍を進めていた。
「ツィリル、先頭は代わりますわ! この程度の雪、わたくしの魔法で……っ、くしゅん!」
先陣を切ろうと息巻いていたコンスタンツェが、分厚い毛皮の外套に身を包みながらも、あまりの寒さに派手なくしゃみを上げた。
「コンスタンツェ、無理しなくていいよ。魔力を無駄に使うと、いざって時にコンスタンツェが動けなくなって、危ないから」
ツィリルは、腰の高さまで積もった雪を自らの戦斧の柄で掻き分けながら、振り返って彼女の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。そして、雪に足を取られがちな彼女の歩幅に合わせ、少しだけ行軍の速度を落とす。
「ツィリル! やっぱり私が隣で火の魔法を……っ、ひゃあっ!?」
ツィリルの隣に並ぼうとしたリシテアが、雪の下に隠れていた倒木に足を取られ、派手に体勢を崩した。
「リシテア、危ないよ」
ツィリルは咄嗟に戦斧から片手を離し、雪に倒れ込みそうになったリシテアの腕を力強く掴んで引き寄せた。
「雪の下には何が隠れてるかわからない。怪我をして歩けなくなったら、リシテアが痛い思いをするし、作戦も遅れる。……先生も、レア様も困るから、ちゃんとボクの歩いた足跡の上を歩いて」
ツィリルはリシテアが体勢を立て直すまでその腕を離さず、真剣な瞳で彼女を見つめた。手袋越しに伝わる確かな引き寄せの力に、リシテアは顔を真っ赤に染め上げる。
「わ、わかってるわよ! 少し足が滑っただけなんだから!」
「うん。気をつけてね」
ツィリルはリシテアの無事を確認すると、再び前を向き、黙々と雪を掻き分け始めた。
「……ツィリル様。周囲の索敵は私にお任せを。雪の中に潜む伏兵も、私の炎で一人残らず炙り出してみせますっ!」
モニカが、両手に炎を宿しながらツィリルの背中を追う。
「索敵は助かるよ、モニカ。でも、炎を出しすぎると敵に居場所を教えることになるから、ほどほどにしてね」
「は、はいっ! ツィリル様の仰る通りにいたします!」
ツィリルの実直な指示に対し、モニカは狂信的な忠誠心で即座に従った。
「ツィリルくん、疲れたらアタシが背負ってあげるからねー? アタシ、力だけはあるからさー」
ヒルダが、巨大な斧を引きずりながら、ツィリルの横に並んでにやにやと笑いかける。
「ヒルダがボクを背負ったら、いざって時に重い斧を振れないでしょ。ヒルダは自分の体力を温存しておいて。……敵の重装兵が出た時は、ヒルダの力が必要になるんだから」
ツィリルは、鎧越しに伝わる彼女の腕の重みを背中に受けながらも、彼女の戦力としての重要性を真っ向から口にした。
「……ふふっ。ツィリルくんってば、本当に素直だねー」
ヒルダは、ツィリルの飾らない言葉に少しだけ呆れながらも、悪くない表情で笑った。
「ツィリルさん。あの、もし足元が冷えるようでしたら、私が……」
マリアンヌが、防寒具に身を包みながらも、おずおずと声をかける。
「ありがとう、マリアンヌ。でも大丈夫だよ。義父さんが用意してくれたこの靴、すごく暖かいから。……マリアンヌこそ、馬の世話で無理しないでね。馬が倒れたらマリアンヌも悲しいし、物資も運べなくなるから」
ツィリルはマリアンヌの防寒具の乱れを目ざとく見つけ、その襟元を指差して注意を促した。
「は、はい……。ツィリルさんにそう言っていただけるなら、私、頑張ります……!」
マリアンヌの瞳に、強い決意の光が宿る。
「……フフッ。ツィリルは本当に、みんなのことをよく見ているわね」
最後尾から、メルセデスが微笑ましそうに声をかけた。
「そんなことないよ。ボクはただ、レア様と先生から任された仕事を、絶対に失敗させたくないだけだから」
ツィリルは、一切の裏表のない声でそう答えた。
「みんなが怪我をしたり、倒れたりしたら、ボク一人じゃこの作戦はこなせない。だから、みんなには万全の状態でいてもらわないと困るんだ」
ツィリルの言葉は、過酷な雪山を共に生き抜き、任務を完遂するための飾らない事実だった。
だが、仲間を失うまいとするその真っ直ぐな意思こそが、彼女たちにとっては、自らの存在意義を証明し、彼と共に北の地を進むための最も強固な原動力となっていた。
「ええ。私たちはあなたの盾であり、矛。あなたが北へ向かうと言うのなら、この吹雪すらも味方につけてみせます」
イングリットが、冷たい風に銀糸の髪をなびかせながら、力強く宣言した。
猛吹雪の中、ツィリル率いる遊撃部隊は、誰一人として足を止めることなく、ただひたすらに北の旧王国領――コルネリアの待つフェルディアを目指して進み続けていた。
彼らの歩みは、冷たい雪と氷の壁に阻まれようとも、決して鈍ることはなかった。ツィリルの純粋な忠誠心と、彼を取り巻く少女たちの凄まじい熱量が、凍てつく雪道に確かな轍を刻んでいく。
同じ頃。
彼らが向かう旧王都フェルディアの城内では、冷酷な魔女が自らの破滅が迫っていることなど知る由もなく、退屈そうに玉座で歪な笑みを浮かべていた。