魔女コルネリアの首が雪原に転がり、王都フェルディアの凍てついた城壁に、ようやくファーガスの聖王旗が掲げられた。
長きにわたる圧政からの解放。生き残った王国兵たちの間に、安堵と歓喜の叫びが巻き起こる。折れた槍を杖代わりにして立ち上がった者たちが、互いの血と泥に塗れた肩を叩き合い、天を仰いで涙を流した。
だが、その歓喜の波は、突如として大地を下から突き上げるような不気味な重低音によって、瞬時に掻き消された。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
足元の積雪が微細に震え、崩れた城壁の破片がカタカタと音を立てて転がる。
ディミトリは鋭く振り返り、南の街道へと視線を向けた。吹雪の晴れ間、分厚い灰色の雲の切れ間から差し込む鈍い光の下に、黒々と蠢く巨大な影の帯が出現していた。
「な、何事だ……!? 地震か!?」
「違う! 街道を見ろ! 旗が見える……双頭の鷲だ! 帝国の軍勢だぞ!!」
城門の残骸の上に立っていた見張り兵の絶叫が、凍りついた空気を切り裂いた。
現れたのは、急造の寄せ集め部隊などではない。整然と密集陣形を組み、銀色に煌めく分厚い重装甲で身を固めた、数万に及ぶ帝国軍の正規大部隊であった。彼らの踏み鳴らす鋼鉄の軍靴の響きが、巨大な地鳴りとなってフェルディアの市街を揺らしている。
その果てしない軍勢の先頭。
一頭の巨大な漆黒の軍馬に跨り、熊の顔を模した無骨な肩当てを嵌めた巨漢が、ぎらつく眼光でフェルディアの王城を見上げていた。
アドラステア帝国軍務卿――ベルグリーズ伯レオポルト。
不利な戦局すらその暴力的な剛腕一つで盤面ごと叩き割ると恐れられ、あの『闇に蠢く者』の首魁たるタレスすら真っ向からの衝突を避けた、帝国最強の武人。
彼は、ディミトリ軍によるファーガス侵攻の急報を受けるや否や、帝都の防衛よりも後背の憂いを絶つことを最優先とした。補給線すら無視した常軌を逸する強行軍で、雪深い北の王国領へと自らの最大戦力を強引にねじ込んできたのである。
「……遅かったか。コルネリアの泥人形どもめ、案外脆く弾けおったな」
レオポルトは、遠く王城のバルコニーに転がる巨大なタイタニスの残骸を見据え、鼻を鳴らした。分厚い胸板から吐き出される白い息が、兜の隙間から濃密な湯気となって立ち昇る。
彼は無造作に、丸太のように太い腕を前方へと突き出した。
「だが、構わん! 我らが狩るべき獣が、ちょうど檻に入ったところだ。敵は魔女との戦いで疲弊しきっている。一息に踏み潰し、王都ごと圧殺してくれるわ! 全軍、突撃ッ!!」
レオポルトの咆哮が、吹雪を吹き飛ばすほどの音圧を伴って響き渡った。
地響きがさらに激しさを増す。数万の重装歩兵が一斉に速度を上げ、無傷の帝国精鋭部隊による一切の容赦のない圧力が、フェルディアの街へと怒涛のように押し寄せてくる。
城内の広場では、激戦を終えたばかりの王国兵たちが絶望に顔を歪め、後ずさっていた。
「クソッ……なんて物量だ……!」
「武器を持て! 敵が来るぞ!」
声を張り上げる将校たちの悲痛な叫びとは裏腹に、兵たちの身体はすでに限界を迎えていた。
タイタニスとの死闘による疲労と、極寒の吹雪による凍傷。槍を握る彼らの指先は紫に変色して感覚を失い、魔道士たちの魔力回路は完全に底を突いている。傷を癒すためのライブの杖を振るう気力すら残っていない。
この状態で、無傷かつ士気旺盛な帝国最強の軍勢と正面からぶつかれば、待っているのは戦闘ではなく、一方的な屠殺と蹂躙であった。
「……ここまで来て、また退かねばならんというのか……!」
ディミトリは、柄を握る両手から血を滴らせたまま、英雄の遺産『アラドヴァル』を構え直した。
その残された青い瞳の奥に、再び燃え盛るような激情の火が灯る。彼の内奥で眠りかけていた狂王としての本能が、激しく耳元で囁きかけていた。
――戦え。退くな。
――背を向ければ、また彼らを見殺しにすることになる。
――ここで死兵となって、あの軍務卿の首だけでも道連れにしろ。
王としてのプライド。そして、五年前に失い、今ようやくその手に取り戻した祖国を、再び手放すことへの強烈な拒絶反応。それが、彼の両足を雪原に深く縛り付け、決死の突撃へと駆り立てようとしていた。ディミトリの全身から、凄まじい殺意と闘気が立ち昇る。
彼がアラドヴァルの切先をレオポルトへと向け、その鉄の足が雪を踏み締め、絶望的な一歩を踏み出そうとした、その時。
ザパッ、と。
ディミトリの視界を遮るように、小柄な背中が割り込んだ。
「ツィリル……のけ。俺は、ここで奴らを……!」
「今までの積み重ねが無駄にしたくないなら……ひとまず逃げましょう」
ツィリルは、ディミトリの眼を真っ直ぐに見据えながらそう言った。
数万の軍靴が雪原を揺らす地鳴り。限界を超えた味方の血を吐くような喘鳴。その絶望の只中にありながら、ツィリルの声色は書庫の掃除を報告する時と同じように平坦だった。
手斧を担ぎ直す肩に微塵の力みはなく、ディミトリの凄まじい殺気を真っ向から浴びる金色の瞳は、氷の張った湖面のように静まり返っている。血煙と吹雪が渦巻く狂乱の戦場にあって、彼一人だけがその熱から完全に切り離されたかのような、異様なほどの静けさを保っていた。
イングリットが背後で息を呑む。
かつての彼女であれば、ようやく奪還した王都を前にして「逃げる」などという提案に対し、騎士の誇りをかけて猛反発し、ディミトリと共に玉砕の道を選んだかもしれない。
イングリットの、手綱を握る指先が一瞬だけ硬く強張る。
だが、撤退を告げるツィリルの背中を見た瞬間、彼女の瞳から一切の迷いが消え去った。彼が退路を選んだ以上、ここで槍を構えることは全滅に直結する。彼女の本能はその冷徹な事実を即座に飲み込み、ほんのりと赤く染まった頬を隠すようにバッと視線を外し、次の陣形構築へと動き出した。
イングリットは、ツィリルの絶対的な判断に対する抗いがたい服従心によって、ほんのりと赤く染まった頬を隠すようにバッと視線を外した。そして、手綱を握り直し、微かに上擦った声で後方の少女たちへ指示を飛ばす。
「……リシテア、コンスタンツェ! まだ魔法は撃てますか? 私のペガサス隊で、敵の先頭の足止めを試みます。ツィリルの言う通り、ここで彼らを死なせるわけにはいきません!」
「ハァ……ハァ……言われなくても、わかっています……!」
リシテアが、限界を超えた魔力行使により青白い顔で息を荒げながらも、ツィリルの言葉に従って必死に両手に魔力を練り上げる。彼女の指先から、黒々とした闇の粒子が再び収束し始めた。
「……このコンスタンツェ、日陰の身なれど、ツィリル様の命ならば地の果てまで燃やし尽くしてみせましょう」
コンスタンツェもまた、疲労で震える腕を無理やり持ち上げ、ツィリルへの重い情念を帯びた瞳で前方を見据え、極大魔法の詠唱を再開した。
少女たちはツィリルの声を聞くや否や、凍傷で青ざめた顔に異常な熱を浮かべ、一斉に魔力を練り上げ始めた。
限界を超えた魔力回路が悲鳴を上げ、指先から血が滲む。彼女たちの瞳に宿るのは、ただツィリルの退路を切り拓くという一点のみに向けられた狂信的なまでの執着だった。吹雪の中で瞬時に構築される極大魔法の陣と、己の命すら躊躇なく薪にくべるような少女たちの異様な熱量を前に、ディミトリは強く息を呑み、激しく胸を揺さぶられていた。
――今ぶつかったら、負ける。今までの積み重ねが、無駄になる。
ディミトリは、無意識のうちに自らの首筋に触れていた。
そこに蘇るのは、フェルディアへ向かう直前、声を失いながらも自分を強く抱きしめたドロテアの、確かな体温。
彼女は、自らの声帯を焼き切り、二度と歌えない身体になってまで、ディミトリの命を繋ぎ止めた。彼女が命を懸けて自分に与えたものは、名誉ある玉砕などという安易な自己犠牲の道ではない。
どれほど無様でも、泥を啜ってでも生き延び、そして王としての責任を果たすという、重く、果てしない業の道だ。
ここで己の意地を優先し、疲弊した兵たちを犬死にさせ、自身も討ち取られれば。ドロテアの犠牲は、ツィリルが宣告した通り、本当にただの無駄骨に終わる。
「……あ、……」
ディミトリの喉から、くぐもった、血を吐くような声が漏れた。
彼は、アラドヴァルの切先をゆっくりと雪原へと下ろした。王としてのちっぽけなプライドも、復讐鬼としての死に場所も、冷たい雪の底へと完全に投げ捨てた。
そして、大きく息を吸い込み、限界を迎えていた将兵たちへ向けて、腹の底から引き裂かれそうなほどの叫びを上げる。
「……全軍、直ちに撤退しろッ!! 城を明け渡し、後方の旧市街防衛線まで一時退くぞ!」
「殿下……! 承知いたしました!」
ロドリグが、その決断の重さに目頭を熱くしながら、即座に手元の退き鉦を乱打させた。
カン! カン! カン! カン!
王都フェルディアに、無念の、しかし確実に生き残るための鋭い金属音が響き渡る。
王国軍の兵たちは、王の明確な生存指令に従い、絶望の淵から立ち上がり、統制を保ったまま迅速に城の裏手へと退却を開始した。
「ほう。あの狂王が、牙を抜かれて知恵をつけたか」
城門の残骸を強引に踏み潰して侵入してきたベルグリーズ伯レオポルトは、一糸乱れぬ王国軍の見事な撤退陣形を見て、その獰猛な顔に不敵な笑みを浮かべた。
「面白い。追撃の手は緩めんぞ。どこまでその小賢しい命が持つか、試してやろう」
レオポルトの号令と共に、帝国軍の先鋒部隊が雪崩を打って城内へと突入してくる。
だが、彼らの前に立ち塞がったのは、殿を務めるツィリルたちの遊撃部隊だった。
リシテアの『ダークスパイクΤ』とコンスタンツェの『メティオ』が、狭い城門の入り口に殺到する帝国軍の先頭集団へ向けて正確に叩き込まれる。凄まじい爆発と轟音により、城門付近の雪が瞬時に蒸発し、進軍ルートが炎の壁によって一時的に遮断された。
さらに、上空からイングリット率いるペガサス隊が、帝国兵の頭上に手槍の雨を降らせ、彼らの足を完全に縫い止める。
「ユーリス、予定通りにいける?」
燃え盛る炎の壁を背にしながら、ツィリルが隣を走る紫色の髪の青年へ向けて短く尋ねた。
「フッ……当たり前だろ。あの猪親父、無傷の大軍を引き連れてこの豪雪の王国領に踏み込んできやがった。……ここから先は、俺たちアビスの鼠の戦い方を見せてやるよ」
ユーリスが、手にした短剣をくるりと回し、雪原に視線を落として不敵に笑う。
「正規軍同士の真っ向勝負なんざ、最初から付き合う気はねえ。狭い市街の路地裏、凍りついた地下水路、崩れかけた廃屋……泥沼に引きずり込んで、一滴残らず血を啜り尽くしてやるさ」
王都は一時的に帝国の軍靴に踏みにじられた。だが、泥に塗れて生き延びることを選んだディミトリの瞳は、決して死んでいない。極寒の大地を染める血の轍は、さらに泥臭く、執念深い撤退戦の始まりを雪原に深く刻み込んでいた。