擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十七章①

ファーガス領北部、旧市街跡を抜けた先に広がる険しい山岳地帯。

天と地の境界すら見失うほどの猛烈な吹雪が、白魔となって吹き荒れていた。極寒の風が岩肌にぶつかり、獣の咆哮のような甲高い音を立てて雪原を駆け抜けていく。見渡す限りの銀世界の中、突如として、その自然の猛威すらもかき消す凄まじい轟音が木霊した。

 

「ええいッ!! またもや、もぬけの殻だと!?」

 

ドゴォォォンッ!!

 

アドラステア帝国軍務卿、ベルグリーズ伯レオポルトの太々しい豪腕から放たれた一撃が、道端にそびえ立つ巨大な凍てついた岩壁の横腹を真芯から打ち据えた。

分厚い鋼の籠手から放たれた理不尽なまでの物理的な衝撃波が、分厚い氷の層を容易く貫通し、岩脈の奥深くまで致命的な亀裂を走らせる。次の瞬間、数トンの質量を持つ岩盤が内側から爆発したように粉々に粉砕され、無数の鋭利な破片となって吹雪の中に飛び散った。

舞い散る岩の破片と、巻き上がった巨大な雪煙。その圧倒的な暴力の残滓を前に、分厚い黒鉄の重装甲に身を包んだ帝国軍の将兵たちが、極寒の気温と、眼前の猛将から放たれる激怒のプレッシャーによってガタガタと震え上がっていた。彼らの纏う金属鎧は、この雪山においては体温を奪う凶器と化しており、兜の隙間から覗く兵士たちの顔色は一様に土気色に沈んでいる。

 

「ほ、報告いたします! この先のルパン村も、住民はすでに一人残らず避難した後でした! 食糧や燃料はおろか、家畜の一頭、麦の一粒、囲炉裏の薪の欠片すら残されておりません!」

 

先陣を切って偵察に赴いていた伝令の兵が、膝まで深い雪に埋まりながら悲鳴のような声を上げた。彼の顔面は重度の凍傷によって紫色に変色し、吐き出す息は瞬時に白い結晶となって空気に溶けていく。

 

「さらに西の谷底を進んでいた我が軍の輜重部隊が、またしても何者かの奇襲を受けました! 崖の上から人為的な大規模な雪崩を起こされ、最後尾の食糧馬車十両が、護衛の重装歩兵中隊もろとも雪の塊に呑み込まれ、谷底へ……!」

 

次々と舞い込む絶望的な被害報告。レオポルトはギリッと鋭い犬歯を剥き出しにし、容赦なく雪が叩きつける灰色の天を仰いだ。

王都フェルディアを大軍で急襲し、城の制圧に成功した直後までは、完璧な勝利の行軍であったはずだ。だが、王城の門をくぐったその先から、彼らの進む道は完全な地獄へと変貌した。

ディミトリ率いる王国軍は、帝国軍との正面切っての野戦を徹底的に避け、瞬く間に雪山と深い針葉樹林の奥深くへと姿を消した。そして、帝国軍が進軍するルート上に点在する村々を事前にすべて空にし、食糧や物資、燃料となる木材に至るまでを根こそぎ運び去り、残された家屋の井戸には毒草の汁を投げ込むという、徹底した『焦土作戦』を展開し始めたのだ。

 

「地の利を活かしたゲリラ戦法……小賢しい鼠どもめ。真正面からぶつかれば瞬時に捻り潰されると理解した上で、この吹雪の山中に我が軍を縫い止める腹積もりか!」

 

レオポルトの怒号が、雪原の彼方へと吸い込まれていく。

彼とて歴戦の将である。敵の真の狙いが『帝都アンヴァルの守りが極限まで薄くなるまで、帝国最大の戦力である自分たちをこの雪山に隔離し、補給線を削り殺すこと』だとは百も承知だった。だからこそ、その策を強引に力技で破れない己の軍の鈍重さと、泥を啜ってでも勝とうとする敵の異常な執念に、焦燥と苛立ちを募らせていた。

無傷の数万に及ぶ帝国精鋭部隊。それは、平野での決戦においては大陸最強の矛である。しかし、この極寒の雪山において補給線を断たれ、進むことも退くこともままならない状況下においては、ただ己の自重と莫大な食糧消費によって緩やかに餓死を待つだけの、巨大で鈍重な鉄の棺桶に過ぎなかった。

大陸最強の猛将は、姿なき敵が仕掛けた泥沼のような遅滞戦術の前に、完全に雪の牢獄へと閉じ込められていた。

 

***

 

帝国軍の将兵が飢えと寒さに悲鳴を上げ、馬が次々と雪に倒れ伏している頃。

彼らの進軍ルートから遠く離れた、険しい岩山の裏側に巧妙に隠された巨大な天然の洞窟群。

外の猛吹雪が嘘のように遮断されたその広大な空間には、煌々と燃え盛る暖かな焚き火の光と、うず高く積まれた木箱や麻袋、そして息を潜めながらも確かに武器の手入れを行う王国兵たちの、静かな熱気が満ちていた。煮炊きされる鍋からは、塩漬け肉と香草の匂いが立ち昇り、冷え切った洞窟内に濃厚な生気を与えている。

 

「フッ……見ろよ。また猪親父の軍勢が、西の空振りのルートに進んでいったぜ。あそこの村の井戸には、あらかじめ下剤効果のある毒草の汁をたっぷりと混ぜてある。腹を壊せば体温は急激に奪われる。これで奴らの飲料水と食糧は完全に底をつく」

 

洞窟の最奥。ゴツゴツとした岩のテーブルに広げられた広域のファーガス地図を見下ろしながら、紫色の髪の青年――ユーリスが、手にした短剣を地図上の帝国軍の駒の背後へと深々と突き立てた。刃が羊皮紙を貫き、岩に突き刺さる鋭い音が響く。

 

「あの筋肉達磨、戦場で殴り合うことにかけては天下一品だが、泥水をすするような裏路地の戦い方は知らねえらしいな。ご立派な武人様を嬲り殺すには、腹を空かせて凍えさせるのが一番安上がりだ。正面から槍を交える必要なんて、最初からどこにもねえのさ」

「ああ。お前の策の通りだな、ユーリス」

 

ディミトリが、腕を組みながら燃え盛る薪の炎を見つめて静かに頷いた。

彼の青い瞳に宿る光は、かつての騎士道精神や正面突破の美学といった幻想を完全に焼き尽くした、冷徹な王のそれである。民の家屋を焼き払い、井戸に毒を投げ込み、雪崩を起こして敵を生き埋めにするという外道な戦術の報告を受けてなお、彼の表情に僅かの揺らぎも生じない。ただ、泥を啜ってでも勝利をもぎ取るという底なしの執念だけが、その双眸の奥で静かに、そして黒々と渦巻いていた。

 

「民の命と暮らしを削って得た、この時間……絶対に無駄にはしない。俺たちがここで帝国の大軍を北の雪山に引きつければ引きつけるほど、先生たちの帝都進軍が容易になるのだからな。どれほどの汚名を被ろうとも、俺はこの雪山で奴らを縛り付ける」

「物分かりが良くて助かるぜ、王様。……おっと、噂をすれば一番の働き者が帰ってきたな」

 

ユーリスが視線を向けた洞窟の入り口。防風の厚手の布がめくられ、分厚い防寒具を纏い、全身を雪にまみれさせたツィリルが足早に入ってきた。彼の肩には、自分の背丈ほどもある巨大な麻袋がいくつも担がれており、歩くたびにズシリ、ズシリと重い足音が洞窟内に響く。

 

その後ろからは、ペガサスから降りたばかりのイングリットが、顔を上気させながら小走りでついてくる。彼女の銀色の鎧には、激しい吹雪と飛沫のように凍りついた雪がびっしりとこびりついており、息をするたびに白い吐息が激しく漏れていた。

 

「ツィリル! 西の谷間での雪崩工作と、補給部隊の分断、完了しました! 岩石と雪の層で退路を完全に塞いだため、敵の先鋒部隊は完全に孤立しています!」

「うん、お疲れ、イングリット。イングリットの機動力がなかったら、あの山道で先回りなんて絶対無理だったから助かったよ。……怪我、してない?」

「っ……! は、はい! あなたの指示通りに上空から起爆させただけですから、かすり傷一つありません!」

 

ツィリルに真っ直ぐ見つめられ、イングリットは背筋をピンと伸ばし、生真面目な声色をわずかに震わせながら答えた。

ツィリルは短く頷くと、肩に担いでいた麻袋をドサリと岩肌に下ろした。手際よく縛り紐を解くと、中から大量の塩漬けの干し肉、分厚い毛布、そして油を染み込ませた燃料用の木炭が顔を出す。

 

「物資、ちゃんと確保してきたよ。これだけあれば、ボクたちしばらくは凍えないで済む」

 

「ツィリルさん……っ」

 

ツィリルが手袋を外し、凍りついた指先に息を吹きかけていると、洞窟の奥から、マリアンヌが小走りで駆け寄ってきた。彼女はツィリルの赤く冷え切った両手を、躊躇うことなく自らの両手で包み込む。

 

「ごめんね、マリアンヌ。いつも温めてもらって」

「いえ……私なんて、これくらいしかできませんから……。吹雪の外で戦う皆さんに比べたら、私なんて……」

 

マリアンヌが、いつものように自らを卑下して俯く。だが、ツィリルは包まれた手を引き抜くことなく、彼女の顔を下から覗き込んだ。

 

「ここにある食糧も防寒具も、全部マリアンヌの養父さん(エドマンド辺境伯)が同盟領から極秘で手配してくれたものじゃないか。マリアンヌが義父さんに頼み込んでくれなかったら、ボクたち、あの軍と戦う前に餓死してた」

 

ツィリルの声は、戦場の被害状況を報告する時と同じ、極めて事務的で平坦なトーンを保っていた。

 

「マリアンヌの力がないと、ボクの部隊は全滅する。絶対に必要だよ」

「あ……ぅ……」

 

ツィリルの口から発せられた、揺るぎない事実。

その直後、マリアンヌの掌から放たれていた淡い治癒の光が、ドクンと脈打つように一気に強い輝きと熱を帯びた。洞窟の薄暗がりの中で、彼女の手元だけが白百合のように発光する。彼女は何も言い返せず、ただ大粒の涙をポロポロとこぼしながら、ツィリルの凍てついた両手をすがりつくように、そして絶対に離さないとでもいうように強く、強く握りしめた。

 

「……ちょっと! マリアンヌだけに良い顔しないでよ!」

 

そこへ、足取りもおぼつかない様子でリシテアが割り込んできた。

先ほどの雪崩工作で、崖の強固な岩盤を崩すための『ダークスパイクΤ』を限界まで連発していたため、彼女の顔面は蒼白を通り越して土気色になり、唇は紫色に変色して小刻みに震えていた。彼女の衣服からは、闇魔法特有の焦げたようなオゾンの匂いが色濃く漂っている。

 

「私の魔法のおかげで、敵の補給部隊を足止めできたんでしょ! 少しは私のことも……きゃっ!?」

 

リシテアが文句を言いかけた瞬間。

ツィリルは無言で彼女の腰と膝裏に腕を差し入れ、羽虫でも持ち上げるようにひょいと横抱きに抱え上げた。

 

「な、ななななっ!? なにしてるのよツィリル! 降ろしなさい!」

「リシテア、魔力使いすぎ。顔、真っ青だよ。身体、氷みたいに冷たくなってるし、震えてる」

 

ツィリルは、腕の中でバタバタと暴れるリシテアを一切意に介さず、焚き火の最も近くに積まれた毛布の山へと歩き出す。彼の腕の中におさまるリシテアの身体は、極限の魔力消費により、熱を完全に失っていた。

 

「こ、子供扱いしないで! 私はこれくらい……!」

「子供扱いしてない。リシテアの魔法は、ボクたちを護るための最大の武器でしょ」

 

ツィリルは、リシテアを毛布の山の上にそっと下ろすと、その上から分厚いウールの防寒着をすっぽりと被せた。首元までしっかりと布を合わせ、外気が触れないように隙間を埋める。

 

「一番大事な武器なんだから、手入れして休ませるのは当たり前。勝手に壊れられたら、ボクが困るから。だから、今は大人しく休んで」

「〜〜〜ッ!!!」

 

顔を真っ赤にして反論しようとしたリシテアだったが、『最大の武器』『壊れられたら困る』という、身も蓋もないが己の存在価値を何よりも重く見ている少年の率直な言葉に、ついに口をパクパクとさせたまま押し黙った。彼女は防寒着の襟元をギュッと握りしめ、茹でダコのように赤くなった顔を毛布の奥へと深く隠す。

 

「オッホホホ! ツィリル様! リシテアばかりズルいですわ! わたくしの魔法の活躍も、どうか存分に褒め称えてくださってよろしくてよ!」

 

その光景を見ていたコンスタンツェが、鉄の扇を広げて火の粉を散らしながら意気揚々と近づいてくる。高位の魔法使い特有のプライドを前面に押し出した彼女に対し、ツィリルは火桶に薪を追加しながら、振り返りもせずに言った。

 

「うるさいよ。……ほら、こっち来て。火のそばで温まって」

 

ツィリルは空いている方の手で、彼女の冷え切った腕をグイと引き寄せ、焚き火の熱が直接当たる場所へと座らせた。高飛車に笑っていた彼女も、ツィリルの手から伝わる確かな体温と、強引なまでの誘導に触れた瞬間、パタンと扇を閉じて顔を隠し、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべて身をすり寄せる。

 

その一連の光景を岩陰から見ていた歴戦の王国兵たちが、焚き火に当たりながら呆れと感嘆の入り混じった息を吐いた。

各国の誇り高き大貴族の令嬢たちが、身分も誇りもかなぐり捨て、異邦の元奴隷が与える『ただの生存のための実務的な気遣い』に完全に支配され、狂信的なまでの熱を帯びている。雪山という極限状態において、その少年を中心に形成された防衛部隊の結束は、もはや一つの狂気すら孕むほどに強固なものとして完成していた。

 

「……大したカリスマだ。あいつがいる限り、この軍の士気が折れることはないだろうな」

 

ディミトリが、焚き火の向こう側の光景を見つめながら、小さく笑みをこぼす。

 

「全くだぜ。……さあて、帝国最強のベルグリーズ伯様には、もう少しこの雪原で冷たい空気を味わってもらうとするか。南の帝都で、先生たちが大暴れしやすくなるようにな」

 

ユーリスが、薄闇の中で鋭い牙を見せるように笑い、地図上の帝都アンヴァルを短剣の柄でコンコンと叩いた。

 

かくして、帝国最強と謳われた大軍は、一切の決戦を行うことなく、ユーリスの策とツィリルたちの執拗な遊撃によって、ファーガスの雪原に完全に縫い付けられた。

帝都アンヴァルの守りを極限まで薄くさせるという、彼らに課せられた最大の任務は、これ以上ないほど泥臭く、血生臭く、そして完璧な形で遂行されつつあったのである。

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