擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十八章①

帝国西部、城塞都市アリアンロッド。

別名『白銀の乙女』と呼ばれるフォドラ屈指の堅城は、分厚い白亜の石壁と複雑に入り組んだ防衛機構を持ち、まともに攻め入れば数万の兵が数ヶ月は釘付けにされる絶対の要衝である。

その巨大な城壁の最上部、凍てつくような西風が吹き抜ける見張り台で、城将ローベ伯は血走った目で遠く東の街道を睨みつけていた。

 

「ええい、まだ来んのか! 新生軍の主力部隊がメリセウス要塞に見向きもせず、真っ直ぐ我が城へ向かっているという報せから、もう五日も経っておるのだぞ!」

 

ローベ伯の怒声が飛ぶ。彼は苛立ちに任せて、分厚い石造りの胸壁を鋼の小手で激しく叩きつけた。

城壁の真下では熱した油が巨大な鉄鍋で煮えたぎり、城壁の縁には落石用の巨岩が隙間なく並べられ、弩弓の弦はいつでも放てるように限界まで引き絞られている。城内には無数の罠が張り巡らされ、数万の守備兵たちが息を潜めていた。

城壁に阻まれて敵が疲弊し、凍え、飢えたところを、巨大な城門を開け放って打って出て一網打尽にする。彼が何日もかけて構築した、完璧な防衛陣形だった。

 

「ほ、報告いたしますッ!」

 

城壁の石段を転がるように駆け上がり、血相を変えた伝令兵が膝をつく。

 

「敵軍の姿を確認しました! しかし……!」

「遅い! 早く罠を作動させる準備を急がせろ!」

「違います! 敵は……我が城の防衛範囲の、さらに外側の丘陵地帯を迂回し……そのまま、南西のオックス領や旧ヌーヴェル領の方角へ……素通りしていきます!!」

 

ローベ伯の顔から、一瞬にして表情が抜け落ちた。

彼は伝令兵を突き飛ばして胸壁から身を乗り出し、双眼鏡を覗き込む。遥か遠く、アリアンロッドの防衛兵器が一切届かない丘陵地帯。そこを、ベレト率いる新生軍の大部隊が、もうもうと土煙を上げながら悠然と行軍していくのが見えた。

彼らはアリアンロッドに向けて矢の一本も射かけることなく、立ち止まることもなく、完全に無視して通り過ぎていく。

 

「ば、馬鹿な……!? 後背にこの白銀の乙女を残したまま、さらに帝国の奥地へ進軍するなど、軍事の常識からしてあり得ん!」

「ローベ伯! このまま奴らを素通りさせれば、我々の補給を担っている周辺の穀倉地帯がすべて制圧されてしまいます! 兵糧の供給が断たれれば、この城は……!」

「わかっておるわッ!!」

 

副将の悲痛な叫びに、ローベ伯は青ざめた顔で絶叫した。

難攻不落の城壁も、中に籠もる数万の兵たちの胃袋を満たす麦がなければ、ただの巨大な石の墓標に過ぎない。敵は城の石壁を叩き割るのではなく、城の周辺の領地という『胃袋』をすべて切り取り、餓死させるつもりなのだ。

 

「全軍、打って出ろ! 城壁の利など構っておる暇はない! 敵の背後を突き、補給線を死守するのだ!!」

 

死の恐怖と焦燥に駆られたローベ伯の命により、白銀の乙女の重い鉄の城門がけたたましい軋み音を立てて開かれた。数万の守備兵たちが、温かな城内から寒々しい平原へと怒涛のように吐き出されていく。

だが、それこそが、丘陵の陰で馬上に佇むベレトの完璧な計算通りであった。

 

「……出てきたか」

 

平原を見下ろす丘の上。新生軍の本陣で、ベレトが静かに『天帝の剣』を抜く。刃が空気を裂く微かな音が、開戦の合図となった。

 

「城という巨大な殻を自ら脱ぎ捨てた。あとは、すり潰すだけだ」

 

ベレトが無言で剣を振り下ろす。

その瞬間、アリアンロッドを素通りしていたはずの新生軍の最後尾が突如として反転した。同時に、丘の陰、森の中、窪地に身を潜めていた新生軍の伏兵部隊が一斉に姿を現す。

堅牢な城壁という最大の武器を自ら捨て、遮蔽物のない平地に引きずり出された帝国兵たちは、練度と士気で圧倒的に勝る新生軍の前に、四方から完全に包囲された。

 

「放てッ!」

 

前衛部隊の端。フェルディナントの鋭く、よく通る号令が響く。

同時に、森の陰に潜伏していたペトラ率いる遊撃部隊が、一斉に弩弓の引き金を引いた。風切り音すら置き去りにする鋼の矢弾が、突撃してこようとした帝国軍の騎兵の喉笛や馬の脚を正確に貫く。

血飛沫が舞い、騎兵が落馬して後続の足が止まった一瞬の隙を、彼らは逃さない。

 

「我が槍の前に、立ち塞がるな!」

 

フェルディナントの銀の長槍が閃き、混乱する帝国兵の陣形を次々と食い破っていく。彼の瞳には、かつて祖国であった帝国の兵士を討つことへの躊躇は一切ない。己の信じる正義と、新たな時代の礎を築くための冷徹な刃だけが振るわれている。

 

「ひ、退けぇッ! 城へ戻れ!!」

 

完全に包囲され、次々と仲間が倒れていく光景に恐れをなしたローベ伯が、馬の首を返して城門へと逃げ込もうとする。

だが、彼が振り返った先――アリアンロッドの重厚な城門の前には、すでにカスパル率いる別働隊が回り込み、大量の油壺をぶちまけていた。

 

「悪いな、ローベ伯! 城に戻られたら面倒なんだよ! 燃やせッ!!」

 

カスパルの怒号と共に、魔道士部隊の放った火球が着弾する。一瞬にして、アリアンロッドの城門を完全に塞ぐ巨大な炎の壁が燃え上がった。

帰るべき殻を焼かれ、退路を断たれた帝国兵たちは、新生軍――かつての同胞たちの手によって、平原で赤子のように蹂躙されていった。

ほんの半日の戦闘。たったそれだけの時間で、西部の要であるアリアンロッドの守備軍は完全に壊滅したのである。

 

***

 

白銀の乙女が無力化され、帝国の西部防衛線が事実上崩壊した数日後。

帝国西部の中心的な領地であるヴァーリ領の領都には、武力による制圧とは異なる、静かで、それでいて決定的な終焉が訪れていた。

 

ヴァーリ領の領主の館、その豪奢な広間。

留守を預かる家臣たちが怯えた顔で一列に並ぶ中、分厚いオーク材の正面扉がゆっくりと開け放たれた。

 

「え、えーっと……た、ただいま帰りましたぁ……!」

 

ビクビクと肩を揺らし、護衛の兵士の背中に隠れようとする小動物のような少女――ベルナデッタ・フォン・ヴァーリが、館の絨毯を踏みしめた。

 

「べ、ベルナデッタお嬢様……!? なぜ、賊軍と共にこの館へ……!」

 

白髪交じりの老家令が、目を丸くして震え声を上げる。

 

「ぞ、賊軍じゃありません! 私たちは新生軍です! ……お父様は帝都に引き籠もって、この領地にはまともな兵も残ってないんですよね!?」

 

ベルナデッタは、涙目になりながらも必死に声を張り上げた。その手はガタガタと震え、今にも自室のベッドに逃げ込みたいという欲求が全身の毛穴から滲み出ている。

だが、彼女は一歩も引かなかった。

 

「だったら、今日からこのヴァーリ領は、跡継ぎのベルが管理しますからぁっ!!」

 

広間に、彼女の甲高い声だけが木霊する。

家臣たちは顔を見合わせ、腰の剣に手をかけることもできず、次々とその場に膝をつき、平伏した。

当主であるヴァーリ伯が失脚し、軍事力も完全に消滅している現状。そこに、正当な血筋を持つ彼女が、強大な新生軍の後ろ盾を得て帰還した。彼らにとって、目の前の震える少女に逆らう理由は、とうに存在しなかった。

 

「……あ、あの。じゃあ、まずは倉庫の鍵と、防衛兵器の目録を……。新生軍の後続部隊が来る前に、接収の準備をしないと、ベ、ベルが怒られちゃうのでぇ……!」

 

かつての怯えた少女は、涙目で震えながらも、確実に帝国解体の手続きを進めていく。

 

***

 

同じ頃、ヘヴリング領でも似たような光景が繰り広げられていた。

 

「リンハルト様……。この条件で降伏を受け入れていただけるのであれば、どうかこの署名欄に……」

「あー……適当にその辺の机の上に置いておいてください。僕はもう限界です。眠り……ます……」

 

リンハルトは、実家の執務室の最高級の革張りソファーに深く寝転がり、家臣が差し出した書類を一瞥もせずに目を閉じた。

彼は帰還するなり、領地の帳簿と流通の要所を示す地図を数時間で流し読みし、不正な資金の流れや無駄な軍備の配置を完全に論破した。天才的な頭脳によって領内の実情を丸裸にされた家臣たちは、一切の血を流すことなく降伏文書を用意させられたのだ。

ペンを握ることすら億劫だと言わんばかりに寝息を立て始めたリンハルトの顔の横に、家臣は震える手で分厚い権利書の束を積み上げ、深々と一礼して部屋を退出していった。

 

さらに、旧ヌーヴェル領やエーギル領でも、フェルディナントの気高い演説と、ユーリスが水面下で潜伏させていたアビスの民の暗躍により、次々と帝国側の貴族たちが白旗を上げていく。

戦火ではなく、自らの子供たち――『正当なる血縁』という刃によって、大帝国を構成していた広大な領地が、パズルのピースが崩れ落ちるように剥がされていく。

 

***

 

「……イグナーツゥ! あたくしの美しき武勇伝、聞いてくれないかしらー!」

 

新生軍の仮設本陣。

各領地から次々と運び込まれる接収物資の目録作成と、没収された宝物庫の美術品鑑定、そして占領した領地の最新の測量図の修正を黙々とこなしていたイグナーツの背中に、酒瓶を持ったマヌエラがふらふらと寄りかかってきた。彼女の顔は朱に染まり、強い酒の匂いが天幕内に充満する。

 

「……マ、マヌエラ先生。僕、今この帳簿の計算と見取り図の作成で手が離せなくて……」

「いいじゃないのぉ。あたくし、今日の戦いで敵の将校をこう、ババーン! って魔法で吹き飛ばしてやったのよ! ねぇ、今のあたくしの雄姿、あなたのその筆で美し〜く絵に残しなさいな! ……うぷっ」

「ひっ……!」

 

マヌエラの顔色が急激に青ざめ、口元を手で押さえた瞬間。

イグナーツは、反射的に机の上の『未乾燥の測量図』と『帝国西部の重要拠点目録』を両腕で抱え込み、彼女の顔の下から猛烈な勢いで退避した。

武勇伝の聞き役になることよりも、描きかけの精密な地図と新生軍の兵站に関わる重要書類が嘔吐物によって汚損する被害を、彼の芸術家としての本能と文官としての理性が寸前で回避したのだ。

 

「お、落ち着いてください先生! ほら、そこに水差しの水を! あと、吐くなら絶対に天幕の外の溝でお願いします!!」

 

イグナーツは、書類を胸に抱え込んだまま、足先で器用に水差しの置かれた丸椅子をマヌエラの方へ滑らせる。

 

「うぅ……冷たいわね、イグナーツ……。あたくしの扱いが、年々雑になっていく気がするわ……」

 

簡易ベッドに倒れ込み、水差しにすがりつくマヌエラを横目に、イグナーツは小さく安堵の息を吐く。そして、何事もなかったかのように羽ペンをインク壺に浸し、西部の支配権を確定させるための膨大な書類の山へと再び視線を落とし、カリカリとペンを走らせ始めた。

 

***

 

同日夜。

新生軍の本陣、作戦会議用の大型天幕。

長机に広げられたフォドラ全土の地図を見下ろしながら、フェルディナントが束ねられた各地からの降伏状を置き、力強く頷いた。

 

「素晴らしい手際だ。西部の領土は、これで完全に我々のものとなった」

 

彼の指先が、地図の中央、孤立したように赤い印が残る都市を指し示す。

 

「周辺の穀倉地帯も、防衛の要衝も、すべて我々が押さえた。今や帝都アンヴァルは、海と我々の領地に囲まれた、陸の孤島だ」

「ああ。……よくやってくれた、皆」

 

ベレトは、地図上の『帝都アンヴァル』の周辺から、残っていた赤色の駒をすべて手で払い落とした。地図上には、帝都を示す一つの赤い駒だけが、ぽつんと取り残されている。

 

「あとは、あの城の中で孤独に震えているであろう皇帝に……引導を渡すだけだ」

 

剣を交えることすら許されず、守るべき領土と民をすべて自らの同級生たちに奪われたエーデルガルト。

彼女が強固な城壁の中でどのような絶望を味わい、そして、崩れゆく帝国の玉座で誰がその孤独に寄り添うのか。

フォドラの命運を決する最終決戦の舞台は、いよいよ逃げ場を完全に失った帝都アンヴァルへと移ろうとしていた。

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