擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十八章②

冷たい雨が、容赦なく石畳を叩きつけている。

帝都アンヴァルの心臓部に位置する皇城。そのさらに最奥に鎮座する玉座の間には、鼓膜を圧迫するほどの重く冷え切った空気が沈み込んでいた。

かつて、この巨大な空間には数多の将官が立ち並び、フォドラ全土を平定せんとする大号令が響き渡っていた。壁際を飾る豪奢なタペストリーには、双頭の鷲の紋章が金糸で鮮やかに縫い取られている。しかし今、分厚い雨雲に覆われた空は高窓のステンドグラスから一切の光を奪い去り、堂々たる紋章もただの黒い染みのように薄暗闇の中で沈黙していた。

高い天井を支える大理石の円柱の狭間に、等間隔で掛けられた松明の炎だけが、ジリジリと音を立てて湿った空気を焦がしている。微かな隙間風が吹き込むたびに炎が大きく揺らぎ、巨大な柱の影が生き物のように床の赤い絨毯の上を這い回った。

 

「……また、南の部隊から離反者が出たのね」

 

薄暗い玉座に深く腰を沈めたまま、エーデルガルト・フォン・フレスベルグが血の気のない唇を動かした。

赤と黒を基調とした皇帝の衣装は、彼女の華奢な輪郭を押し潰すように重く垂れ下がっている。彼女の紫色の瞳は、壁の松明の光をわずかに反射するだけで、ガラス玉のように動かない。

彼女の眼下、玉座へと続く大階段の下には、三人の側近武将たちが青ざめた顔で平伏していた。彼らの甲冑は泥と雨水に汚れ、所々に乾いた血の跡が黒くこびりついている。大理石の床に膝をつく彼らの肩は過労によって小刻みに震え、兜の下から覗く顔には無精髭が伸び放題になっていた。

 

「は……」

 

先頭に伏していた初老の将が、大理石の床に額を擦りつけるようにして声を絞り出した。喉の奥に血の痰が絡んだような、乾いた響きだった。

 

「南の防衛線を死守すべく、第三、第七大隊の残存兵力をもって再編を試みました。ですが……防衛線構築の前に、半数以上が武器を捨てて投降。残る者たちも夜闇に紛れて市街へと逃亡し、部隊としての機能は完全に消失いたしました」

 

将は一度言葉を切り、荒い息を吐き出した。

 

「旧黒鷲の生徒たちが率いる新生軍の部隊は、すでに市街南部を完全に制圧。西部諸侯の領地を降伏させた余勢を駆り、我が軍の補給拠点を次々と物理的に封鎖しております。西門へ続く地下水路も一昨日の夜半に押さえられ、城内への食糧搬入ルートは完全に断たれました」

 

隣に控えていた若い将が、血走った目を剥き出しにして床を見つめたまま言葉を継ぐ。彼が石の床に強く押し当てた拳からは、手甲の縁が食い込んだのか、一筋の黒い血が滲んでいた。

 

「備蓄の兵糧は、一昨日の配給で底をつきました。軍馬もすでに食い尽くし、兵たちは泥水をすすって飢えを凌いでいる有様です。城外の包囲陣には、教団の大旗が隙間なく立ち並んでおります。投石機と魔道兵器の配備も完了し、東西の城門に向けて照準を合わせておりました」

 

最後の武将が、震える声で現状の最後尾を付け加える。

 

「脱走兵の数は刻一刻と増え続けております。指揮官を斬り捨てて城門を開けようとする暴動も、昨夜だけで三件。近衛が鎮圧いたしましたが……このままでは、外からの攻撃を待たずして、飢えと内乱で城内が崩壊するのは時間の問題かと……」

 

武将の言葉が途切れる。

玉座の間に、重い沈黙が落ちた。

外からの絶え間ない雨音だけが、彼らの報告の余韻をかき消すように降り続いている。

エーデルガルトは、両肘を玉座の装飾が施された肘掛けにつき、両手で自らの顔を覆った。

白い革手袋に包まれた細い指の隙間から、長く、冷たい吐息が漏れる。彼女は顔を覆ったまま、微動だにしなかった。彼女の呼吸は極端に浅く、時折、肩がごくわずかに上下するのみである。

大理石の床に額を擦り付けていた武将たちは、顔を覆ったまま沈黙する若き皇帝の姿に、互いに視線を交わした。数秒の間の後、彼らは重い甲冑の音を立ててゆっくりと立ち上がり、無言のまま深く頭を下げた。

疲労困憊した足取りで、彼らは大扉へと向かって後ずさる。蝶番が重く軋む音とともに分厚い木と鉄の扉が開かれ、そして、再び鈍い衝撃音を立てて完全に閉ざされた。

 

誰もいなくなった広大な空間。

高窓を打ち付ける単調な雨だれの音。

松明の炎が爆ぜる音。

それだけの音が、玉座の間を支配していた。

 

「……おい、雇い主。眉間に皺が寄りすぎだぜ」

 

静まり返った玉座の間の壁際から、男の底抜けに軽い声が響いた。

エーデルガルトが顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろし、声の方向へ視線を向ける。

大理石の巨大な柱の陰。松明の光が届かない壁際の影に背を預けるようにして、紫色の髪の傭兵――シェズが立っていた。

彼の纏う軽装の鎧には無数の刃こぼれのような傷や、焼け焦げた痕が刻まれている。腰に帯びた二振りの剣の柄には幾重にも革紐が巻かれ、長年の酷使と血の染み込みによって赤黒く変色していた。

彼は壁に背中を預けたまま、腕を組んでエーデルガルトを見上げている。

 

「……シェズ。あなた、まだいたの」

 

エーデルガルトの喉から出た声は、ひどく掠れていた。彼女は一度小さく咳き込み、玉座の肘掛けを強く握り直して、上体をわずかに起こした。

 

「どうして逃げないの。私にはもう、あなたに払う金も、約束していた地位を与える力も残っていないわ。ここにいれば、あなたも外の軍勢に殺されることになるのよ」

「あー……まあ、そうかもな」

 

シェズは組んでいた腕を解き、後頭部をガリガリと無造作に掻きながら、壁から背中を離した。彼は玉座へと続く大階段を数段だけ上り、エーデルガルトを見上げる位置で歩みを止めた。

薄暗い松明の光が、彼の中性的な顔立ちと、紫色の瞳を照らし出す。彼の口元には、いつもと変わらない、どこか飄々とした笑みが張り付いていた。

 

「俺はあんたに雇われたんだ。雇い主があんなしんどそうな顔してんのに、一人だけ尻尾巻いて逃げるような真似、俺の傭兵としての流儀に反するからな」

「……」

「それに、ほら。俺がいないと、あんた本当に一人ぼっちになっちまうだろ? 見てて寝覚めが悪い」

 

シェズは、腰に差した双剣の柄を親指で軽く弾いた。カチッ、という硬質な音が玉座の間に響く。

 

エーデルガルトの肩が、ビクンと大きく跳ねた。

玉座の肘掛けを握る彼女の両手に力が籠もり、白い革手袋がギリギリと軋む音を立てる。彼女の紫色の瞳が限界まで見開かれ、奥歯を強く噛み締める微かな音が漏れた。

 

「……同情など、不要よッ!!」

 

ダンッ、と。

エーデルガルトが玉座から勢いよく立ち上がった。踏み鳴らされた軍靴の硬い踵が、石の床を強打して鋭い音を響かせる。

彼女は大階段の下に立つシェズに向けて、自らの喉を切り裂くような甲高い声を叩きつけた。

 

「私が……私がどれほどの血を流し、どれほどのものを切り捨ててここまで来たと思っているの! 私はフォドラを導く皇帝よ! 傭兵風情に、孤独を憐れまれる謂れなどないわ!!」

 

冷たい雨音を完全に切り裂き、巨大な空間の隅々にまで反響する怒号。

彼女は両腕を胸の前で固く組み、大階段を見下ろしながらシェズを強烈に睨みつけた。彼女の胸は激しい呼吸によって大きく上下し、鋭い呼気が白く空気に溶けていく。彼女の視線はシェズの顔面を真っ直ぐに射抜き、一切の瞬きをしていなかった。

 

怒号の残響が石の壁に吸収され、消えていく。

直後、玉座の間には、再び重苦しい静寂が舞い戻った。

エーデルガルトは、ハッと大きく息を呑んだ。

彼女はわずかに唇を震わせ、強烈にシェズを睨みつけていた視線を床へと落とした。固く組みかけていた両腕の力が抜け、だらりと身体の横に下ろされる。彼女は咄嗟に口を開きかけ、空気を吸い込み、そして、すぐに固く口を閉ざした。血の気の引いた下唇を上の歯で強く噛み、彼女はシェズから顔を背けるように視線を逸らした。

 

シェズは、階段の途中に立ったまま、黙って彼女の言葉を受け止めていた。

彼は顔をしかめるでもなく、呆れたようにため息をつくでもなく、ただ、少しだけ困ったように眉を下げて、両手を軽く肩の高さまで挙げてみせた。

 

「……わかったよ」

 

シェズは極めて平坦な声でそれだけを口にすると、踵を返して玉座の階段をゆっくりと降り始めた。

コツ、コツ、という彼の軍靴の音が、大理石の階段を一つずつ降りていく。

 

「悪かったな、余計なお世話だった。俺は頭が悪いから、あんたの背負ってるもんの重さは、半分もわかってやれねえと思う」

 

シェズは完全に階段を降りきると、元の壁際へと歩みを向けた。そして、冷たい石壁に再び背を預け、腕を組む。

 

「でも、これだけは言っておくぜ。俺はあんたを憐れんでるんじゃない。ただ、あんたがここで死ぬのを見たくねえだけだ。だから、あんたが俺を首にしない限り、俺はここにいる。それだけだ」

 

シェズは腰の革袋から手入れ用の砥石を取り出すと、鞘から抜いた双剣の一振りの刃に、静かに滑らせ始めた。

シャッ、シャッという、規則的で無機質な金属音が、雨音に混じって玉座の間に響き始める。彼は玉座の方を見ようともせず、ただ手元の鋼の刃にのみ視線を落としている。刃こぼれを均すたびに、微かな鉄の匂いが空気に混じった。

 

「……」

 

エーデルガルトは、壁際で剣を研ぐシェズの姿をしばらくの間、無言で見つめていた。

彼女の固く結ばれていた口元がわずかに緩み、下ろされていた腕が再びゆっくりと持ち上がる。

彼女は踵を返し、玉座へと静かに座り直した。背もたれに体重を預け、肘掛けに腕を置く。

石畳を打つ雨音と、砥石が鋼を削る単調な音。玉座の間に響くその二つの音だけが、空間の輪郭を形作っている。

 

「……ごめんなさい、シェズ。私、少し……余裕がなかったわ」

 

消え入るような、微かな掠れ声。

エーデルガルトは目を伏せ、自らの膝の上で両手をきつく握り合わせたまま、壁際に向けて言葉を落とした。

 

「気にしてねえよ。ほら、少し休め。外の連中が攻めてくるのは、どうせ夜が明けてからだろ」

 

剣を研ぐ手を一切止めず、シェズが壁際から言葉を返す。砥石の音のリズムは、少しも乱れていない。

 

エーデルガルトは静かに目を閉じ、深く、長い息を吐き出した。

彼女の膝の上で固く握り合わされていた両手の力が抜け、指先がほどけていく。

四方を教団の軍勢に囲まれた城の中で、無機質な金属音が響き続けている。

窓を打つ雨脚はさらに強さを増し、冷たい外気を城内へと運んでくる。夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。

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