帝国暦1178年。
ツィリルが大修道院で文字の勉強を始めて、数ヶ月が経った頃。
ガルグ=マク大修道院の図書室は、午後の暖かな陽光に包まれていた。
分厚い歴史書や教典が並ぶ机の隅で、小さな寝息が微かに響いている。
「くかー……。……むにゃ」
インクの染みがついた羊皮紙に突っ伏したまま、ツィリルは泥のように眠っていた。
右手には羽根ペンが握りしめられたままで、書きかけの不格好な文字が紙の上に並んでいる。
「あら?」
書架の整理に来ていたメルセデスが、その丸まった背中を見つけて足を止めた。
「ツィリルじゃない。こんなところで寝ちゃって……」
メルセデスはそっと近づき、彼を起こさないように羽根ペンを指から抜き取った。
彼の小さな手には、剣や弓の修練でできた分厚いマメと、無数の生傷が刻み込まれている。早朝からレアのための雑務をこなし、シャミアやエミールからの過酷な訓練を受け、その合間を縫って文字を学んでいるのだ。
「ここは暖かいから、眠くなっちゃったのね~。うふふ、可愛い寝顔だわ~」
メルセデスは微笑み、ツィリルの頭を優しく撫でた。
その時、窓から吹き込んだ風がツィリルの前髪を揺らした。
「ふああ……」
ツィリルがゆっくりと目を開け、眩しそうに瞬きをする。
視界の端で、ふくよかな修道服が揺れているのに気づき、彼は慌てて身を起こした。
「おはよう、ツィリル。よく眠れた?」
「……!? あ、えーと。メ……メル……?」
ツィリルは寝ぼけた頭で、目の前に立つ女性の名前を必死に引っ張り出そうとする。
「メルセデスよ? そろそろ名前くらいは覚えてほしいわね~」
「……すいません。覚えてはいるんですけど、あなたの名前、長くて言いづらいんです」
ツィリルは誤魔化すことなく、ただ思ったままの理由を口にした。
「ああ、あなたパルミラ出身だったわね~。ここの生活に不自由はないかしら~?」
「うん、ないです。毎日ちゃんと、ご飯を食べられるから」
「……ここに来る前は、ちゃんと食べられないような生活をしていたの?」
メルセデスの碧い瞳が、痛ましそうに揺れる。
ツィリルは服の裾のシワを伸ばしながら、淡々と答えた。
「パルミラでも、フォドラでも、修道院に来る前はずっとお腹空いてましたから。レア様に拾ってもらえなかったら、ボク、とっくに死んでたと思います」
ツィリルにとって、それは同情を引くための悲劇ではなく、ただの過去の事実だった。
メルセデスは少しだけ唇を噛むと、修道服のポケットから小さな紙包みを取り出した。
「そうだったのね……。そうだ、良かったら、これおやつにどうぞ。厨房で少し多めに焼いてもらったの」
「え……でも……」
「これからはたっくさん食べて、昔の分を取り戻さないと~」
メルセデスに手渡された紙包みを開けると、甘い香りを放つ焼き菓子が顔を出した。
ツィリルの喉が、小さく鳴る。
「……ありがとう、メルメ……」
「メーチェでいいわ。親しい友達は、私をそう呼ぶのよ~」
メルセデスが優しく微笑むと、ツィリルは焼き菓子をかじりながら、小さく頷いた。
「メーチェ。……うん。短くて、そっちの方が呼びやすいです。敵襲があった時とか、危ない時もすぐに呼べるし。これからは、そう呼びますね」
「ふふっ。敵襲の時のためだなんて、ツィリルくんらしいわね~」
ツィリルは焼き菓子を咀嚼し、その甘さに少しだけ目を細めた。
彼は机に寄りかかっているメルセデスの修道服の袖を、インクのついていない手で軽く掴む。
「……メーチェの隣、あったかいです」
「え?」
「いい匂いもするし、お菓子もくれるし、字も教えてくれるから……ボク、メーチェのこと好きです」
ツィリルはメルセデスを見上げ、一切の照れや駆け引きのない、真っ直ぐな瞳で告げた。
「だから、誰かがあなたをいじめたり、危ない目に遭わせようとしたら……ボクが弓で片付けます。レア様の次に、ボクがあなたを守りますから」
それは、騎士の洗練された誓いなどではない。
過酷な世界を生き抜いてきた野生の獣が、初めて自分に温もりを与えてくれた相手に対し、自らの牙と命を捧げると決めた『群れへの忠誠』だった。
メルセデスの胸の奥で、何かがトクン、と大きく跳ねた。
ただの可哀想な孤児だと思っていた少年の、一切の混じり気のないオスの瞳。
自分を気遣うのではなく、「敵を排除して守る」と言い切るその圧倒的な生存本能の力強さ。
「ツィリル、くん……」
気がつけば、メルセデスはツィリルの小さな頭を、自身の豊かな胸の谷間へと強く抱き寄せていた。
ツィリルの汗の匂いと、彼女の纏う白檀の香りが混ざり合う。
弟への庇護欲に似た感情が、熱を帯び、ゆっくりと輪郭を歪ませていく。
「……メーチェ? 苦しいんですけど」
「うふふ……ごめんなさい。でも、頼りにしているわね、私のツィリルくん」
これが、彼女の理性の奥底に、決して抜けない情念の火種が落ちた瞬間だった。