擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

8 / 8
幕間①

帝国暦1178年。

ツィリルが大修道院で文字の勉強を始めて、数ヶ月が経った頃。

 

ガルグ=マク大修道院の図書室は、午後の暖かな陽光に包まれていた。

分厚い歴史書や教典が並ぶ机の隅で、小さな寝息が微かに響いている。

 

「くかー……。……むにゃ」

 

インクの染みがついた羊皮紙に突っ伏したまま、ツィリルは泥のように眠っていた。

右手には羽根ペンが握りしめられたままで、書きかけの不格好な文字が紙の上に並んでいる。

 

「あら?」

 

書架の整理に来ていたメルセデスが、その丸まった背中を見つけて足を止めた。

 

「ツィリルじゃない。こんなところで寝ちゃって……」

 

メルセデスはそっと近づき、彼を起こさないように羽根ペンを指から抜き取った。

彼の小さな手には、剣や弓の修練でできた分厚いマメと、無数の生傷が刻み込まれている。早朝からレアのための雑務をこなし、シャミアやエミールからの過酷な訓練を受け、その合間を縫って文字を学んでいるのだ。

 

「ここは暖かいから、眠くなっちゃったのね~。うふふ、可愛い寝顔だわ~」

 

メルセデスは微笑み、ツィリルの頭を優しく撫でた。

その時、窓から吹き込んだ風がツィリルの前髪を揺らした。

 

「ふああ……」

 

ツィリルがゆっくりと目を開け、眩しそうに瞬きをする。

視界の端で、ふくよかな修道服が揺れているのに気づき、彼は慌てて身を起こした。

 

「おはよう、ツィリル。よく眠れた?」

「……!? あ、えーと。メ……メル……?」

 

ツィリルは寝ぼけた頭で、目の前に立つ女性の名前を必死に引っ張り出そうとする。

 

「メルセデスよ? そろそろ名前くらいは覚えてほしいわね~」

「……すいません。覚えてはいるんですけど、あなたの名前、長くて言いづらいんです」

 

ツィリルは誤魔化すことなく、ただ思ったままの理由を口にした。

 

「ああ、あなたパルミラ出身だったわね~。ここの生活に不自由はないかしら~?」

「うん、ないです。毎日ちゃんと、ご飯を食べられるから」

「……ここに来る前は、ちゃんと食べられないような生活をしていたの?」

 

メルセデスの碧い瞳が、痛ましそうに揺れる。

ツィリルは服の裾のシワを伸ばしながら、淡々と答えた。

 

「パルミラでも、フォドラでも、修道院に来る前はずっとお腹空いてましたから。レア様に拾ってもらえなかったら、ボク、とっくに死んでたと思います」

 

ツィリルにとって、それは同情を引くための悲劇ではなく、ただの過去の事実だった。

メルセデスは少しだけ唇を噛むと、修道服のポケットから小さな紙包みを取り出した。

 

「そうだったのね……。そうだ、良かったら、これおやつにどうぞ。厨房で少し多めに焼いてもらったの」

「え……でも……」

「これからはたっくさん食べて、昔の分を取り戻さないと~」

 

メルセデスに手渡された紙包みを開けると、甘い香りを放つ焼き菓子が顔を出した。

ツィリルの喉が、小さく鳴る。

 

「……ありがとう、メルメ……」

「メーチェでいいわ。親しい友達は、私をそう呼ぶのよ~」

 

メルセデスが優しく微笑むと、ツィリルは焼き菓子をかじりながら、小さく頷いた。

 

「メーチェ。……うん。短くて、そっちの方が呼びやすいです。敵襲があった時とか、危ない時もすぐに呼べるし。これからは、そう呼びますね」

 

「ふふっ。敵襲の時のためだなんて、ツィリルくんらしいわね~」

 

ツィリルは焼き菓子を咀嚼し、その甘さに少しだけ目を細めた。

彼は机に寄りかかっているメルセデスの修道服の袖を、インクのついていない手で軽く掴む。

 

「……メーチェの隣、あったかいです」

「え?」

「いい匂いもするし、お菓子もくれるし、字も教えてくれるから……ボク、メーチェのこと好きです」

 

ツィリルはメルセデスを見上げ、一切の照れや駆け引きのない、真っ直ぐな瞳で告げた。

 

「だから、誰かがあなたをいじめたり、危ない目に遭わせようとしたら……ボクが弓で片付けます。レア様の次に、ボクがあなたを守りますから」

 

それは、騎士の洗練された誓いなどではない。

過酷な世界を生き抜いてきた野生の獣が、初めて自分に温もりを与えてくれた相手に対し、自らの牙と命を捧げると決めた『群れへの忠誠』だった。

 

メルセデスの胸の奥で、何かがトクン、と大きく跳ねた。

ただの可哀想な孤児だと思っていた少年の、一切の混じり気のないオスの瞳。

自分を気遣うのではなく、「敵を排除して守る」と言い切るその圧倒的な生存本能の力強さ。

 

「ツィリル、くん……」

 

気がつけば、メルセデスはツィリルの小さな頭を、自身の豊かな胸の谷間へと強く抱き寄せていた。

ツィリルの汗の匂いと、彼女の纏う白檀の香りが混ざり合う。

弟への庇護欲に似た感情が、熱を帯び、ゆっくりと輪郭を歪ませていく。

 

「……メーチェ? 苦しいんですけど」

「うふふ……ごめんなさい。でも、頼りにしているわね、私のツィリルくん」

 

これが、彼女の理性の奥底に、決して抜けない情念の火種が落ちた瞬間だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。