擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

80 / 81
第二十八章③

長く冷たい雨が上がり、帝都アンヴァルの空にしらじらとした夜明けの光が差し込み始めた頃。

分厚い雨雲の切れ間から覗く灰色の空を引き裂くように、新生軍の進軍を告げる巨大な角笛の音が、皇城の石壁を震わせて響き渡った。

 

「……来たか」

 

薄暗い玉座に身を沈めていたエーデルガルト・フォン・フレスベルグが、ゆっくりと目を開いた。彼女の紫色の瞳は、ステンドグラスから差し込む微かな光を反射して冷たく凪いでいる。

壁際の影に寄りかかっていた傭兵――シェズも、無言で腰の革帯から双剣を抜き放ち、石の床に刃の切先を落として身構えた。

 

ドォォォンッ!!

 

地鳴りのような轟音が、皇城の奥深くまで響き渡る。

玉座の間へと続く広場の先。数百年もの間、いかなる外敵の侵入も許さなかったはずの巨大な鉄と樫の木の正門が、凄まじい衝撃と共に内側へとひしゃげ、木っ端微塵に砕け散った。

粉塵と木片が猛烈な勢いで広場に舞い散る中、防衛に当たっていた重装の帝国兵たちが、次々と血を吐きながら玉座への大階段の下へと雪崩れ込んでくる。彼らの甲冑は無惨に叩き割られ、恐怖に見開かれた目は広場の入り口を凝視していた。

 

土煙を裂いて、重い足音が響く。

彼らを追い散らすようにして玉座の間に足を踏み入れてきたのは、漆黒の外套を翻し、赤く明滅する『天帝の剣』を右手に下げたベレトと、かつて士官学校の教室で机を並べた黒鷲の学級の生徒たちであった。

 

「……そこまでだ、エーデルガルト。大人しく武器を置いてくれ」

 

大階段の数歩手前、広場の中央で足を止めたベレトが、血糊の滴る天帝の剣を大理石の床に突き立てた。刃と石が激突する硬質な音が空間に響く。彼の声は凪いだ水面のように静かでありながら、玉座の間にいるすべての者の鼓膜を震わせるほどの重い圧を放っていた。

 

「貴方の帝国は、もう終わったのだ、エーデルガルト。西部諸侯はすべて我々が鎮撫した。兵も、補給も、何一つ残ってはいない」

 

ベレトの背後から、銀色の甲冑を纏ったフェルディナントが一歩前へと進み出た。

彼の右手には戦うための長槍はなく、代わりに分厚い羊皮紙の束――降伏勧告状が固く握りしめられている。紙を握る彼の指の関節は白く浮き上がり、まっすぐに玉座を見据える彼の瞳は、強い疲労と旧主に対する痛切な感情で赤く血走っていた。

 

「無駄な血を流すのはやめにして、降伏してほしい。君の命までは取らないと、先生も約束してくれている」

 

フェルディナントの絞り出すような声の隣で、一人の女性が崩れ落ちるように膝をついた。ドロテアだ。

泥に汚れた軍服のまま、彼女は大粒の涙を床に零している。白く細い首筋には、かつてディミトリの凶刃から仲間を庇った際に負った、赤黒くひきつれた生々しい傷跡が深く刻まれていた。彼女はかすれた吐息だけを漏らしながら、必死に「もうやめて」と首を横に振り続けている。

 

玉座に座るエーデルガルトの視線が、フェルディナントの握る書状と、ドロテアの首の傷跡を静かに捉えた。

血の気の引いた唇が、微かに引き結ばれる。彼女は玉座の肘掛けを強く握りしめ、ゆっくりと、その場に立ち上がった。

 

「……断る」

 

大階段の最上段。エーデルガルトは傍らに立てかけてあった黄金の巨大な斧『アイムール』の柄を両手で握り、重い刃をベレトたちへと向けた。

紫色の瞳の奥で、消えかけていた熾火が再び燃え上がる。

 

「私がここで膝を屈すれば、流してきた多くの血が、すべてただの無駄死にになってしまう!」

 

玉座の間に、彼女の甲高い声が反響する。

その声に応じるように、階段の下で怯えていた僅かな帝国近衛兵たちが、震える手で再び槍や剣を構え直し、ベレトたちの前へと立ち塞がった。

 

「……おい、雇い主」

 

極限まで張り詰めた空気の中。

エーデルガルトの隣の壁際に立っていたシェズが、小さくため息をつき、ブーツの踵を鳴らして一歩前に出た。

 

「俺は傭兵だから、あんたの命令に従う。……だが、一個人の意見として言わせてもらう」

 

シェズは、殺気を放つベレトたちを一瞥し、首だけを巡らせてエーデルガルトの顔を真っ直ぐに見つめた。彼の表情はひどく平坦で、双剣の柄を親指で軽く弾いている。

 

「もう降りろ。あんたがここで死ぬ必要はねえよ」

「シェズ……! あなたまで、私を愚かだと……」

「死んで終わりにするのは簡単だが、生きて泥水をすする方が、よっぽどしんどくて立派だ。俺は、あんたにその『しんどい道』を生きてほしいんだよ」

 

エーデルガルトの、アイムールを握る両手がピタリと止まった。

革手袋に包まれた彼女の指先が、微かに震え始める。鋭い視線が泳ぎ、固く引き結ばれていた唇から、わずかに白い吐息が漏れた。彼女は息を呑み込み、口を開きかけ、そして再び固く閉ざした。

 

彼女が沈黙に沈んだ、その瞬間。

 

「……無様だな。炎帝よ」

 

玉座の間のさらに奥。ステンドグラスの陰となる最奥の暗がりから、低く這うような男の声が響いた。

大気の温度が急激に下がり、空間が水面のようにぐにゃりと歪む。紫黒の霧の中から、青白い肌に異様な紋様を刻んだ男――『蠢く闇』の首魁、タレスが、音もなく床に降り立った。

 

「タレス……! お前、なぜここに……!」

 

エーデルガルトがアイムールの切先を素早くタレスへと向ける。

 

「貴様がここまで不甲斐ないとは思わなかったぞ。……だが、貴様のその血には、まだ我々のために果たしてもらうべき『役目』がある」

 

タレスは口元を歪めて嗤うと、手にした骨と禍々しい金属で構成された杖を高く掲げた。杖の先端に埋め込まれた赤黒い宝玉が、脈打つように強烈な光を放ち始める。

 

「なっ……何をする気だ!」

 

シェズが双剣を構え、タレスに向けて床を蹴って飛び出そうとした。

しかし次の瞬間、タレスの空いた左手がシェズに向けて振るわれる。

ドンッ!! という鈍い衝撃音と共に、シェズの身体が目に見えない巨大な質量の塊に押し潰されるようにして、大理石の床に力強く叩きつけられた。

 

「ぐっ……! てめえ……雇い主に、何しやがる……ッ!」

 

床の石が蜘蛛の巣状にひび割れる。シェズは歯を食いしばり、床に手をついて立ち上がろうとするが、全身にのしかかる重圧に押さえ込まれ、指先一つ動かすことができない。

 

「シェズ!!」

 

エーデルガルトが叫び、タレスへと踏み込もうとした瞬間。

タレスの杖から放たれた赤黒い波動が、蛇のようにエーデルガルトの身体に絡みついた。彼女の全身が硬直する。黄金の斧アイムールが彼女の手から滑り落ち、重い金属音を立てて階段を転げ落ちていった。

エーデルガルトの身体が糸の切れた人形のように天を仰ぐ。紫色の瞳から光の粒が完全に消え去り、底なしの暗い闇の色だけが広がっていく。

 

「……ふん。獣にも女神の眷属にも敗れ去った欠陥品だが、あの計画の生贄としては十分だろう」

 

タレスは虚ろな瞳のエーデルガルトの肩を抱き寄せると、虚空に向けて不気味な詠唱を始めた。彼の周囲の空間が再び大きく歪み、異界の扉が開き始める。

 

「来い、エーデルガルト。我々の悲願――真なる王を蘇らせるための、礎となるのだ。……そして、愚かな教団の犬どもには、我らアガルタの真の恐怖を刻み込んでやろう」

「やめろ……ッ!!」

 

ベレトが天帝の剣の刃を伸ばし、大階段を一気に駆け上がる。フェルディナントが槍を構え、近衛兵たちを撥ね除けながらそれに続く。

だが、彼らの刃がタレスに届くよりも早く。

 

ズドドドドォォォォンッ!!

 

鼓膜を破るような異様な爆音が、天蓋の上から降り注いだ。

帝都アンヴァルの雨雲が、直径数キロメートルにわたって完全に吹き飛ぶ。ポッカリと空いた巨大な円形の穴から、天の彼方より一直線に降下してくる、太陽そのもののような極太のレーザー――『光の杭』が、皇城の西棟の屋根に直撃した。

 

「なっ……!?」

「きゃああっ!!」

 

光の奔流が皇城の石造りの屋根を、柱を、壁を、一瞬にして蒸発させる。

天地がひっくり返ったかのような爆発。すさまじい衝撃波が玉座の間に押し寄せ、ステンドグラスが粉々に砕け散り、巨大な大理石の柱が飴細工のようにへし折れる。玉座の間へと続く広場の床が波打ち、帝国兵も新生軍の兵も等しく宙に吹き飛ばされた。

皇城の半分が音もなく消滅し、マグマが煮えたぎる巨大なクレーターへと変貌する。巻き上げられた何万トンもの瓦礫と土煙が、帝都全体を死の灰のように覆い尽くしていく。

 

「あ……ああ……」

 

タレスの腕の中で目を開いたままのエーデルガルトの瞳に、消滅した西棟の光景が映り込む。彼女の瞳孔がわずかに収縮し、呼吸が不規則に乱れる。

 

「ハハハハハハ! 絶望の底で滅びるがいい!!」

 

タレスが両腕を広げ、狂気に満ちた高笑いを上げる。

彼の上空、吹き飛ばされた天井のさらに上。渦を巻く雨雲の穴の奥で、第二、第三の莫大な光のエネルギーが収束し始めていた。今度は、ベレトたち新生軍が布陣している大広間の中央に向けて、絶対の死の照準が合わせられている。

二発目の光の杭が、天空から射出されようとした、その時。

 

ゴォォォォォォンッ!!

 

宮殿の西棟を吹き飛ばした巨大なクレーターの底。煮えたぎる土砂と瓦礫の山の中から、杭の爆発音とは全く異なる、重く低い轟音が響き渡った。

それは、長きにわたって帝都の地下深層に隠匿されていた、分厚い魔法防壁で覆われた地下牢の天井が、光の杭の余波によって木端微塵に粉砕された音だった。

 

「……な、何だ!?」

 

タレスの高笑いが止まり、彼がクレーターの底へと忌々しげに視線を落とす。

熱を帯びた瓦礫の山が内側から大きく隆起し、巨大な石の塊が弾け飛ぶ。

濛々たる土煙の中から這い出してきたのは、手首と足首に太い鋼の鎖の千切れた残骸を引きずり、全身を泥と血で汚した一人の女性だった。

彼女の長い緑色の髪は埃にまみれ、ドレスはボロボロに引き裂かれている。だが、彼女の双眸だけは、目の前の皇城を焼き尽くした惨状と、大階段を駆け上がろうとしているベレトの姿を交互に捉え、恐ろしいほどの怒りの光を放ち始めていた。

 

彼女の身体から、緑色の眩い光の粒が滝のように溢れ出す。

泥にまみれた皮膚がひび割れ、その下から純白の鱗が次々と顔を覗かせる。骨格がメキメキと異様な音を立てて膨張し、背中から巨大な翼が突き破るようにして展開される。

 

「――退きなさい、薄汚い闇の眷属ども!!」

 

人間の声帯から発せられた言葉は、最後には天を切り裂くような竜の咆哮へと変わった。

巨大な純白の竜――レア(白きもの)が、クレーターの底の瓦礫を蹴散らし、莫大な推進力と共に帝都の灰色の空へと飛翔する。

 

「おおおおおおおおっ!!」

 

大階段を駆け上がっていたベレトが、上空から降下してくる二発目の『光の杭』に向けて、炎を纏った天帝の剣を天空高く振り抜いた。剣身から放たれた業火の刃が、光の杭の先端に激突する。

同時に、上空へと飛翔した純白の竜が大きく顎を開き、太陽を直視したかのような極太の光のブレスを杭の中腹に向けて撃ち放った。

 

神祖の炎と、白きもののブレス。

二つの莫大なエネルギーが空中で交差し、落下してくる光の杭の軌道を強引に捻じ曲げた。

光の杭は帝都を逸れ、遥か成層圏の彼方へと弾き飛ばされ、雲海の上で音のない巨大な爆発を起こして四散した。

 

「チッ……忌々しい女神の眷属どもめ。まあいい、我々の目的は達した」

 

タレスは空の爆発を一瞥し、舌打ちをすると、意識を奪われたエーデルガルトの身体を抱えたまま、完全に開ききった空間の歪みの中へと後退する。

 

「雇い主ッ……!! クソォォォォッ!!」

 

重力魔法で床に押し付けられたままのシェズが、血のにじむ拳で大理石の床を激しく叩きつけながら絶叫する。

シェズの伸ばした指先が届くより早く、空間の歪みが急速に閉じ、タレスとエーデルガルトの姿は漆黒の闇の中へと完全に消え去った。直後、シェズを押さえつけていた重力魔法の重圧がフッと消失する。

 

上空では、莫大なブレスを放ち終えた白きもの(レア)の巨大な身体が、急速に縮み、元の女性の姿へと戻りながら空中から落下していく。彼女は限界を超えた力の行使により完全に意識を失い、崩れかけた城壁の瓦礫の上へと力なく倒れ伏した。

 

皇城の半分が消し飛び、炎と黒煙が立ち上るアンヴァルの空。

玉座の間に残されたのは、崩落した石壁の瓦礫が崩れる乾いた音と、立ち尽くすベレトたちの荒い呼吸音だけだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。