帝都アンヴァルの地下深層。冷たく湿った空気が淀む牢獄区画。
天井のひび割れから絶え間なく滴り落ちる水滴が、苔生した石の床を単調なリズムで打ち据えている。
その最奥の独房。分厚い鉄格子の向こう側で、黒い装束を纏った男――ヒューベルト・フォン・ベストラが、両手首を極太の鉄鎖で壁の金具に固定されたまま、冷たい石壁に背を預けていた。彼の顔色は蝋のように白く、閉じられた両目の下には深い隈が刻み込まれている。
クロードの尋問にも、セテスの厳しい追及にも、彼の口は固く閉ざされたままだった。一日一杯の濁った水と、固い黒パンすらも彼は口にしていない。彼の痩せこけた頬はさらに削げ落ちていたが、壁に預けられた背筋は一本の杭のように真っ直ぐに伸び、微かな震えすら見せていなかった。
石造りの通路の奥から、硬いブーツの足音が響いてきた。
近づいてくる松明の炎が、鉄格子の無数の影をヒューベルトの白い顔に落とす。足音が独房の前で止まった。
ヒューベルトがゆっくりと目を開ける。重い鉄格子の手前に立っていたのは、腰に赤黒く明滅する『天帝の剣』を提げた、かつての恩師――ベレトであった。
「……何の用ですか、先生。私の口から引き出せる情報など、もはや何一つ残っていないはずですが」
ヒューベルトの喉から、乾いた砂を噛むような掠れ声が漏れた。
「尋問に来たわけではない。ただ、事実を伝えに来た」
ベレトの声は、地下の冷気よりもさらに冷たく、感情の起伏を一切排した平坦なものだった。
「帝都アンヴァルは降伏した。教団の旗が、すでに城壁のすべてを覆っている」
「……何?」
ヒューベルトの双眸が、僅かに見開かれる。壁に繋がれた鎖が、カチャリと小さな金属音を立てた。
「旧黒鷲の生徒たちが西部諸侯を鎮撫したことで、城内は完全に孤立。我々が大扉を破り広間に突入した時、エーデルガルトの周囲には、戦う兵力すら残されていなかった」
「ならば……我が君はどうなったのです。大広間で、捕縛されたのですか」
ヒューベルトが背中を壁から離し、僅かに身を乗り出す。彼の手首に食い込んだ鉄の輪が、鈍い音を立てて壁の金具を引いた。
「タレスが現れた」
「……」
「奴はエーデルガルトの身体を魔法で拘束し、虚空へ引きずり込んで姿を消した」
「……な、……」
「さらに奴は、帝都の宮殿に光の杭を撃ち落とした。宮殿の西棟は、クレーターを残して跡形もなく消滅している」
ベレトの言葉が終わるよりも早く。
ヒューベルトの両目が見開かれ、漆黒の瞳孔が極限まで収縮した。
彼の手首を拘束している鉄の鎖が、ジャラジャラと激しい音を立てて暴れ始める。彼は壁に背を擦りつけるようにして立ち上がろうとし、膝の力が抜け、再び冷たい石の床へと崩れ落ちた。
黒い革手袋に包まれた彼の手が、床の石の目地に深く指先を食い込ませる。爪が割れ、黒い革に赤い血が滲む。彼の肩が不規則に大きく上下し、固く噛み締められた歯の隙間から、獣が喉を鳴らすような空気を引き裂く音が漏れ続けた。
彼が自らの命を削り、泥にまみれ、すべてを捧げて護り抜いてきた主君。その彼女が、最も忌み嫌っていた者たちの手に落ち、何一つ反撃すら許されずに連れ去られた。
ヒューベルトは、血の滲む指先で冷たい大理石の床を激しく掻き毟る。ギリギリという爪が削れる音が、牢獄の壁に反響する。彼の下唇が鋭く噛み破られ、一筋の赤い血が真っ白な顎を伝って床へと滴り落ちた。
数分の間、独房にはヒューベルトの荒い呼吸音と、鎖の鳴る音だけが響いていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
彼の黒い瞳は、目の前のベレトの顔を真っ直ぐに射抜いていた。彼の顔の筋肉は完全に硬直し、瞬きすらしていない。額から流れた冷や汗が、目尻を通って頬へと伝い落ちる。
「……先生。貴方に、一つだけ頼みがあります」
ヒューベルトは、拘束された両手を自らの胸元へと引き寄せた。
彼は黒い装束の襟の裏地に鋭い歯を立て、首を捻って力任せに布を引き裂いた。丈夫な糸が千切れる鈍い音が響く。彼は裂けた裏地の中から、血と汗で汚れた小さな正方形の布切れを指先で引きずり出し、鉄格子の隙間からベレトへと差し出した。
「……これは?」
「我が君と私が、長年かけて秘密裏に集めた、奴らの拠点『シャンバラ』の座標と、内部構造の推測図です」
ヒューベルトの指先から、赤い血が布切れに滴り落ちる。ベレトが無言でそれを受け取った。
「奴らを放置すれば、フォドラは遠からず灰燼に帰す。教団の軍勢を使うのは反吐が出ますが、奴らを野放しにするよりはマシです」
「……ヒューベルト。君は、どうするつもりだ」
ベレトの問いに、ヒューベルトは壁に背を預け直し、口の端を僅かに引き上げた。血の滲んだ唇が、歪な弧を描く。
「ここで舌を噛み切るのは容易いですが、やめておきましょう」
彼の双眸が、暗闇の中で爛々と底知れない光を放つ。
「私はこの薄暗い檻の中から、見届けさせてもらいますよ。貴方たちが本当にあの亡霊どもを滅ぼせるのか。そして……我が君が、どのような結末を迎えるのかを」
ベレトは、ヒューベルトの血塗れた布切れを自らの外套の内ポケットへと深くしまい込み、無言で踵を返した。松明の光が遠ざかり、独房は再び暗く冷たい静寂に包まれた。
水滴が床を叩く音だけが、いつまでも響き続けていた。
***
数日後。ガルグ=マク大修道院、円卓の間。
高窓のステンドグラスから差し込む朝の光が、巨大なオーク材の円卓と、空中に舞う細かな埃を照らし出している。
上座にはベレト。その隣には、顔色の優れないレアが、白いローブを身に纏い、椅子の背もたれに深く体重を預けて座っていた。
円卓の周囲には、濃紺の甲冑に身を包んだディミトリ、黄色い外套を羽織ったクロード、そして黒鷲の生徒たちや、アビスの面々が取り囲むようにして居並んでいた。
「帝都アンヴァルは完全に制圧し、残存兵力の武装解除も完了した。帝国は事実上、滅亡したとみていい」
ディミトリが、卓上に置かれた広域地図から顔を上げて報告を終える。
フェルディナントやベルナデッタたち旧帝国領の貴族たちが、無言で小さく頷いた。彼らの視線は、地図の中央に置かれた帝都の赤い印に落ちたままだ。
「だが、戦いは終わっていない」
ベレトが、自らの外套の内ポケットから、血で赤黒く変色した布切れを取り出し、円卓の中央、広域地図の上に広げた。
「アガルタの民。我々が『蠢く闇』と呼んでいた者たち。彼らがエーデルガルトを拉致し、光の杭を落としたことは、帝都の惨状を見れば明らかだ。これはヒューベルトから託された、奴らの拠点『シャンバラ』の座標だ」
マリアンヌが、胸の前で両手をきつく握りしめた。彼女の指の爪が、手のひらに白く食い込んでいる。彼女の視線は、布切れの座標記号の上で震えていた。
カスパルが、革手袋に包まれた右拳を円卓に強く打ち付けた。ドン、という重い音が響き、木材の表面の埃が舞い上がる。
「エーデルガルトをそのままにしておくわけにはいかねえだろ。あいつがどんなにひどいことをしたにせよ……あの悪趣味な連中の操り人形にされて終わるなんて、後味が悪すぎるぜ」
カスパルの喉仏が大きく上下し、彼の両目は血走っていた。
「同感ですわ! わたくしのヌーヴェル家を復興させるためにも、あのような得体の知れない闇の連中は、わたくしの魔法でチリひとつ残さず消し飛ばしてご覧に入れます!」
コンスタンツェが広げた鉄扇で口元を覆い、甲高い笑い声を大広間の天井に響かせた。彼女の金色の髪が、扇の風で大きく揺れる。
「……ツィリル。お前はどうだ」
ベレトが、円卓の隅に向けて声をかけた。
ツィリルは丸椅子に座ったまま、円卓でのやり取りに視線を向けることなく、自らの膝の上に置いた弓の手入れを続けていた。松脂を塗った鹿革の布で、弓の木部を一定の速度で磨き続けている。帝都での戦闘を終えてから、彼はずっと俯いたまま、口を開こうとしなかった。
「……あいつらのせいで、レア様がまた血を吐いて倒れた」
ツィリルは手を止めることなく、弓の弦を指で弾いた。ビン、という高く張り詰めた弦の音が空気を震わせる。
「光の杭のせいで、レア様は無理をして、また身体を傷つけた。ボクの目の前で」
ツィリルは弓を持ち上げ、布で弓の端を強く拭き上げた。彼の金色の瞳が、弓の影からゆっくりと円卓に向けられる。その瞳孔は冷たく収縮し、瞬き一つしていない。
「あんな連中、絶対に許さない。一人残らず、ボクが片付けます」
彼は弓を床に立てかける。コツン、という硬い音が響いた。
「それに、あいつらの地下に潜れば、レア様とみんなを護るための、新しい武器や技術がたくさん転がってるはずです。あいつらの命も、技術も、全部ボクたちが奪い取るんだ」
メルセデスが無言でツィリルの隣に歩み寄る。彼女はツィリルの手の動きを遮ることなく、その黒い髪をそっと撫でた。
「フフッ……相変わらず、素直じゃないのね、ツィリル。奪うためなんて言ってるけど、私たちの世界を理不尽に壊そうとする連中から、みんなを護りたいんでしょ?」
「……別に、そんなこと言ってないです」
ツィリルは、少しだけ肩をすくめて視線を床へと逸らした。彼の手が、無意識のうちに腰の矢筒の羽を整える。
「ツィリルが道をこじ開けるなら、私はその背中を必ず守ります」
イングリットが、自らの鎖帷子の胸元を右の拳で強く打ち鳴らし、硬質な金属音を部屋に響かせた。彼女の緑の瞳は、ツィリルの横顔を真っ直ぐに見据えている。彼女の顎は固く引かれ、口元は一文字に引き結ばれていた。
「……決まりだな」
ベレトが、円卓の上に置かれた天帝の剣の柄を力強く握りしめた。赤黒い刃の紋様が、微かに明滅を始める。
「これより新生軍は、ヒューベルトの遺した座標――『シャンバラ』へと進軍する。蠢く闇を討ち、フォドラに真の夜明けをもたらすぞ!!」
「おおおおおおっ!!」
円卓の間に、甲冑の鳴る音と力強い鬨の声が響き渡る。
ディミトリが槍を掲げ、クロードが弓を天に突き上げる。黒鷲の生徒たちが一斉に立ち上がり、それぞれの武器の柄を握りしめた。
ステンドグラスから差し込む光が、彼らの掲げた刃を眩しく照らし出す。
すべての真実と決着をつけるための最後の戦いが、今、幕を開けた。