擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十九章②

フォドラの大地の遥か底。陽の光など決して届かぬ暗黒の深層。

アガルタの民の拠点――『シャンバラ』の中枢区画。

無機質な金属の壁面には、血管のように複雑に絡み合った無数の魔道回路が張り巡らされ、赤と青の不気味な光が脈打つように明滅を繰り返している。空調設備の低い駆動音が、耳障りな耳鳴りのように空間を支配していた。

 

その巨大な円形の施設の中心。

空中に、エーデルガルト・フォン・フレスベルグが磔にされていた。

彼女の両手首、両足首、そして首の後ろには、黒い金属質の端子が直接皮膚に食い込むように装着され、そこから伸びる太い魔力索が彼女の身体を中空に固定している。端子の接合部からは赤い血が滲み、空中で硬化して黒い染みとなっていた。

 

彼女の顎が微かに動き、紫色の瞳がゆっくりと開かれる。

視界はひどく明滅し、耳の奥で自らの心臓の音が異様に大きく響いていた。

 

「……目覚めたか」

 

金属の床を打つ硬い足音と共に、声が響いた。

視線を落とした先。空中に拘束されたエーデルガルトを見上げる位置に、骨と紫黒の金属で構成された杖を持つタレスと、異様な装束を纏った数人のアガルタの魔道士たちが立っていた。魔道士たちの手元には、複雑な光の文字を浮かび上がらせた制御盤が展開されている。

 

「タレス……。シェズは……」

 

エーデルガルトの喉から漏れた声は、ひどく掠れていた。彼女は空中で身体を捻ろうとしたが、五つの端子がギシッと音を立てて肉に食い込み、一切の動きを封じた。

 

「あの下賤な傭兵は置いてきた。我々に必要なのは、貴様の血に宿る『二つの紋章』のみだからな」

 

タレスは杖の石突きで金属の床を一度強く叩いた。

カーン、という硬質な音が響くと同時。アガルタの魔道士たちが一斉に制御盤に手を滑らせる。

 

「くあっ……!?」

 

エーデルガルトの全身の筋肉が、一瞬にして硬直した。

手足の端子から、強烈な電流にも似た吸い上げの力が生じる。彼女の皮膚の下で血管が青黒く浮き上がり、炎の紋章とセイロスの小紋章の力が、文字通り物理的な力をもって彼女の肉体から抽出されていく。

彼女は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、眼球を上転させて苦痛に耐えようとするが、喉の奥から獣のような悲鳴が漏れ続けた。

 

エーデルガルトから抽出された莫大な赤黒い魔力は、太い魔力索を通り、施設の最奥に鎮座する『巨大な物体』へと注ぎ込まれていた。

それは、金属と水晶で構成された、全長三メートルを超える巨大なカプセルだった。

魔力が注ぎ込まれるにつれ、カプセルの表面を覆っていた霜が急速に融解し、内部の冷却ガスがシューッと音を立てて排気弁から噴き出し始める。

 

「我々は永きにわたり、この時を待ちわびていた。フォドラを不当に支配する女神の眷属どもを根絶やしにし、この地を真なる我らの手に取り戻すための『最強の刃』が目覚める時を」

 

タレスの声と呼応するように、巨大なカプセルのロックが重い金属音を立てて次々と外れていく。

プシュウゥゥッ、という排気音と共に、分厚い扉がゆっくりと前方へ倒れ込んだ。

 

濛々と立ち込める白い冷気の中から。

ズン、と。重いブーツが金属の床を踏みしめる音が響いた。

 

姿を現したのは、筋骨隆々とした巨体の男だった。

荒々しく伸びた白髪。土気色に変色した皮膚。そして、その右手に握られた、刃が蛇の骨のように連なる禍々しい大剣――『暗黒の天帝の剣』。剣の節々からは、赤黒い瘴気が絶え間なく噴き出している。

 

「――グォォォォォォォォォォッ」

 

男の口から、空気がただ声帯を擦過しただけの、意思を持たないうなり声が漏れた。

その両目は白濁し、焦点はどこにも合っていない。

 

「ネメシス……」

 

激痛で霞む視界の中、エーデルガルトの唇が微かに動いた。

彼女の代々の皇帝に受け継がれてきた伝承。女神と対等に戦い、人が人のために生きる世界を作ろうとした真の英雄。

しかし、目の前にいる巨体の男からは、知性や大義の欠片も感じられない。それはただ、命令のままに殺戮を行うためだけに再起動させられた、単なる肉の機械――巨大な『兵器』の姿だった。

 

「こやつだけではない」

 

タレスが杖を振るう。

ネメシスの背後の壁面に並んでいた、十個の小さなカプセルからも次々と排気音が上がり始めた。

扉が開き、フォドラにおいて英雄と讃えられてきた『十傑』の亡霊たちが、次々と暗黒の遺産を手に、錆びついた機械のような動作で歩み出てくる。

 

「なんと滑稽な」

 

タレスは、空中に磔にされたエーデルガルトを見上げ、口の端を歪めて嗤った。

 

「貴様らアドラステアの皇帝が、代々極秘裏に受け継いできた『真実の歴史』。教団の嘘を暴き、人間の手に世界を取り戻すという大義。……それこそが、我々が代々の皇帝の耳元で永きにわたり囁き続けた『もう一つの嘘』だ」

「……」

「あれは英雄ではない。我らアガルタが女神の眷属の死体から造り出した、ただの使い捨ての盗賊に過ぎん。貴様らは、我々の復讐のための盤面で、最初から最後まで踊らされていた操り人形だったのだよ」

 

エーデルガルトの瞳孔が、極限まで収縮した。

彼女の呼吸が不規則に乱れる。端子に繋がれた手首から、黒い血が床に向けてポタポタと滴り落ちる。

教団の嘘を正すため。人間が人間のために生きる世界を創るため。そのために、彼女は無数の血を流し、かつての学友たちと刃を交え、己の人間性すらも切り捨ててきた。

そのすべての根幹が。彼女の信じてきた「正義」のすべてが、目の前のアガルタの男によって、ただの盤上の遊戯であったと告げられた。

 

エーデルガルトの顎が上がり、彼女の視線が虚空を彷徨う。

滴り落ちる血の音。脈打つ魔道回路の明滅。ネメシスの口から漏れる濁った呼気。

彼女の頭蓋の奥で、すべての音が遠ざかっていく。

 

『死んで終わりにするのは簡単だが、生きて泥水をすする方が、よっぽどしんどくて立派だ』

 

ふと、耳の奥底で、かつて聞いた傭兵の平坦な声が響いた。

双剣を砥石で擦る、シャッ、シャッという単調な金属音の記憶が、一瞬だけ彼女の鼓膜を打った。

 

エーデルガルトの喉仏が、大きく上下した。

彼女は、空中でだらりと垂れ下がっていた両拳を、ギリィッ、と革手袋が軋むほど強く握りしめた。

顎を引き、タレスを真っ直ぐに見下ろす。

その紫色の瞳に宿る光は、完全に消失してはいなかった。限界まで見開かれた瞳孔の奥に、底知れない、異常なまでの強烈な光が宿る。

彼女は拘束された四肢に力任せに力を込め、空中で身体を捻った。手足の端子から肉が裂ける鈍い音が響き、新鮮な血が四方に飛び散る。

 

「……ふざけるな」

 

エーデルガルトの血塗れの唇が動き、低い声が施設内に響いた。

 

「私を、舐めるな。私は決して、貴様らの生贄などにはならない」

「無駄吠えを。貴様の魔力はすでに限界だ。ネメシスよ、まずはその生贄の血肉を喰らい、完全に目覚めるがいい」

 

タレスの命令を受け、ネメシスがゆっくりと暗黒の天帝の剣を構え、宙に浮くエーデルガルトの真下へと歩みを進める。

赤黒い瘴気を纏った巨大な刃が、ゆっくりと振り上げられる。

 

その時だった。

 

ウウウウゥゥゥゥゥッ……!!

 

施設の壁面に設置された無数の警戒ランプが、一斉に血のような赤色に明滅を始めた。耳をつんざくような警報音が、シャンバラの巨大な空間に鳴り響く。

 

「なんだ!?」

 

タレスが杖を構え、振り返る。アガルタの魔道士たちが慌てて制御盤の光の文字を操作し始める。

 

施設の中枢へと続く、厚さ数十センチはある特殊合金製の巨大なメイン隔壁。

その中心部が、突如として高熱を帯びて真っ赤に融解し始めた。

ドロドロに溶けた金属が床に滴り落ちた次の瞬間。

 

ズドォォォォォォォォンッ!!!

 

凄まじい衝撃波と共に、融解した分厚い隔壁の残骸が、内側に向けて爆発的に吹き飛んだ。

数トンの金属片が砲弾のように施設内を飛び交い、制御盤を操作していたアガルタの魔道士二名が、回避する間もなく胸を貫かれて吹き飛ばされる。

 

「侵入者だと!? 結界の座標をどうやって……!」

 

タレスの怒号を遮るように、もうもうと立ち込める白煙の中から、鋭い風切り音が三連続で響いた。

シュッ! シュッ! シュッ!

飛来した三本の鋼の矢が、残っていた魔道士たちの喉笛と眼球を寸分の狂いもなく正確に貫き、彼らを声もなく床に縫い付ける。

 

「……あの、見取り図通りでした」

 

硝煙と粉塵の中から、一人の少年が静かに歩み出た。

ツィリルだ。

彼は完全に引き絞った長弓を構え、その金色の瞳でタレスとネメシスを冷徹に捉えている。足元に転がる金属片をブーツの裏で踏み砕きながら、彼は淀みない動作で次の矢をつがえた。

 

ツィリルの背後、吹き飛んだ隔壁の向こう側から、重い軍靴の足音が響く。

赤く明滅する天帝の剣を右手に下げたベレトが、土煙を裂いて静かに施設内へと足を踏み入れた。

彼に続くようにして、長槍を構えたイングリット、魔導書を展開したリシテア、そして銀の甲冑に身を包んだフェルディナントたち新生軍の精鋭が、音もなく扇状に展開し、アガルタの亡霊たちを完全に包囲する陣形を構築する。

 

「貴様ら……なぜ、ここが……!」

 

タレスが杖を構え、後ずさる。

 

「……」

 

ベレトはタレスの問いに一切答えることなく、自らの外套の内ポケットから、血で赤黒く変色した一枚の布切れを取り出した。

彼はそれを、無言でタレスの足元へと放り投げる。

ヒューベルトが命と引き換えに残した、シャンバラの座標と内部構造の推測図。

布切れが金属の床に落ちる音に合わせ、ベレトは空中に磔にされているエーデルガルトの方へと、静かに視線を向けた。

 

「先生……」

 

エーデルガルトの紫色の瞳が、大きく見開かれる。拘束された四肢から滴る血が、床に赤い染みを作り続けている。

 

「……始めよう」

 

ベレトが、天帝の剣の刃をネメシスに向けて真っ直ぐに突き出した。

赤黒い刃の紋様が、心臓の鼓動のように激しく脈打ち始める。

それに呼応するように、ツィリルが弓の弦を限界まで引き絞り、フェルディナントが長槍の石突きで金属の床を強く叩き鳴らした。

 

シャンバラの無機質な空間で。

千年の歴史の裏側で暗躍し続けた『蠢く闇』と、フォドラの未来を切り拓く者たちとの、最後の決戦の火蓋が切って落とされた。

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