フォドラの大地の遥か底に隠匿されたアガルタの都市『シャンバラ』。
そこは、地上のいかなる場所とも異なる、無機質で冷酷な法則に支配された空間だった。
天井も壁も床も、すべてが青黒い未知の金属で覆われている。壁面には血管のように複雑に絡み合った魔道回路が張り巡らされ、水銀のような青白い光が脈打つように明滅を繰り返している。空調設備の低い駆動音が、耳鳴りのように空間の底を這い回っていた。
だが今、その静謐な暗黒の都市は、けたたましい警報音と爆発音、そして魔法の閃光が乱れ飛ぶ激戦の坩堝と化していた。
円形の中枢区画へと続く、幅二十メートルはあろうかという巨大な回廊。
そこで、二つの途方もない質量が正面から激突した。
ギャギィィィィンッ!!
鼓膜を劈くような金属の破砕音が響き、白黄色の火花が弾け飛ぶ。
ヒルダ・ヴァレンティン・ゴネリルの振るう英雄の遺産『フライクーゲル』の重厚な刃が、巨漢の亡霊――『十傑ゴネリル』の振るう黒い戦斧の柄と完全に拮抗していた。
十傑ゴネリル。数千年の昔に歴史に名を刻んだ大英雄は、生前の知性と理性を完全に喪失し、ただ目の前の生命体を破壊するだけの肉の機械と化していた。土気色に変色した分厚い皮膚の下で、異様に隆起した筋肉が蠢いている。白濁した両目は虚空を睨み、裂けた口からは、空気が声帯を擦過するだけの「ルゥゥゥゥッ……」という濁った呼気だけが漏れ続けている。
亡霊の腕力が、ヒルダの細腕を上から容赦なく押し潰そうと圧力をかける。彼女の履く革のブーツの底が、金属の床にキーッと不快な摩擦音を立てて深い擦り傷を刻みながら、じりじりと後退する。
ヒルダの額から脂汗が滲み出し、彼女の肩と腕の筋肉が限界まで隆起する。フライクーゲルの柄を握る革手袋から、ギシギシと悲鳴のような軋み音が上がった。
「もー、ご先祖様なら大人しく寝ててよねーっ!」
ヒルダは、奥歯を噛み砕きそうなほどの圧力を受けながらも、顔を顰めて吐き捨てるように叫んだ。
極限の死闘の中での、彼女なりの虚勢だった。彼女は亡霊の圧倒的な膂力に一歩も退かず、斧と斧が噛み合ったまま、息を詰めて刃を押し返し始める。ピンク色のツインテールが、彼女の踏み込みに合わせて激しく空中で躍る。
その鍔迫り合いが、限界の均衡を保っていた最中。
ヒルダの背後の通路、松明の光すら届かない暗がりから、四足歩行の巨大な魔道兵器『タイタニス』が音もなく這い出た。
鋼の骨格に分厚い装甲を被せたその異形は、機械特有の無機質な駆動音を一切立てることなく、ヒルダの背後数メートルの距離まで接近していた。機体下部にマウントされた、身の丈ほどもある鋭利な巨刃(ジャマダハル)が、青白い魔力光を帯びながら高く持ち上げられる。
十傑ゴネリルとの力比べに全体重と全神経を注ぎ込んでいるヒルダの体勢では、背後からのその致死の横槍を躱す隙は皆無だった。
巨大な刃が、風を裂いて彼女の背を両断しようと迫った。
ガァァァァァァンッ!!!
ヒルダの背後数センチの空間で、硬質な衝撃音が爆発した。
横の通路から跳躍してきた小さな影が、手にした鋼の手斧でタイタニスの巨刃の側面を強打したのだ。
凄まじい衝撃により、タイタニスの刃の軌道が大きく外れる。巨刃はヒルダの脇をすり抜け、金属の床に深く突き刺さって激しい火花を散らした。
「……ツィリル、くん!」
ヒルダが目を見張り、鍔迫り合いの姿勢のまま叫ぶ。
ツィリルは金属の床に音もなく着地すると同時、手斧を構え直してタイタニスを見据えた。彼の金色の瞳は、恐怖も焦燥も一切浮かべていない。ただ冷徹に、目の前の障害物の関節部と装甲の薄い箇所を捉えていた。
「一対一の邪魔をするなんて、鉄くずのくせにいい度胸してるね」
ツィリルの平坦な声が響く。
「ヒルダには触らせない。勝手に触れていいはずないでしょ」
彼はそのままタイタニスの巨大な前脚部へと低く沈み込むようにして踏み込んだ。
タイタニスが床に突き刺さった巨刃を引き抜こうと駆動系を唸らせるよりも早く、ツィリルの手斧が装甲の継ぎ目へと的確に叩き込まれる。
バキィッ、という金属の破断音と共に、タイタニスの右前脚の関節が完全に破壊される。巨体が大きくバランスを崩し、ガシャンと重い音を立てて床に傾いた。
その光景を、背中越しに見たヒルダの瞳孔が、僅かに収縮した。
彼女の呼吸が、一瞬だけ止まる。
自分に向けられていた確実な死。それを、一切の躊躇なく、呼吸をするのと同じくらい自然な動作で破壊し尽くした少年の背中。
ヒルダの口元が、ふっと歪な弧を描いて吊り上がった。
彼女は深く息を吸い込み、肺を冷たい空気で満たす。フライクーゲルの柄を握る両手に、先程までの疲労を完全に凌駕する力が漲っていく。
「どきなさいよ……ッ!」
ヒルダの腕から、爆発的な膂力が生み出された。
フライクーゲルの刃が、十傑ゴネリルの斧を強引に上へと弾き飛ばす。亡霊の巨体が、一瞬だけ無防備に開かれた。
ヒルダは腰を深く落とし、大地を蹴る勢いを利用して、フライクーゲルを真横に振り抜いた。
英雄の遺産の重厚な刃が、亡霊の巨大な胴体へと深々と叩き込まれる。骨と肉、そして金属の鎧が同時に砕け散る重い音が、回廊の奥深くまで響き渡った。亡霊の巨体がくの字に折れ曲がり、十数メートル後方へと吹き飛んで床を転がり、二度と動かなくなる。
「よし、片付けるよ」
ツィリルが、破壊したタイタニスの残骸から手斧を引き抜きながら、背後の通路へ向けて短く声を飛ばした。
彼の声を合図に、後方で待機していた新生軍の精鋭たちが一斉に展開する。
「『ハデス』ッ!!」
リシテアが、魔道書を掲げて叫んだ。
彼女の周囲の空間が、莫大な魔力によって陽炎のように歪む。通路の暗がりから新たに姿を現した三体のタイタニスへ向けて、漆黒の極大魔法が放たれた。
光すらも吸い込むような暗黒の球体が、先頭のタイタニスの胴体に直撃する。着弾の瞬間、音すらも消え去るような無音の爆発が起こり、分厚い装甲が内部から完全に消滅した。残された二体も、衝撃波に巻き込まれて四散する。
「オーッホッホッホ! わたくしの魔法の前に平伏しなさいな! 『サンダーストーム』ですわーっ!!」
コンスタンツェが、広げた鉄扇を勢いよく振り下ろす。
回廊の高い天井付近の空気が急激にイオン化し、バチバチと紫色の放電が始まる。次の瞬間、目も眩むような雷撃の柱が、通路にひしめき始めていたアガルタの魔道士たちとタイタニスの群れに向かって垂直に落ちた。
鼓膜を破るような轟雷。青白い火花が四方に飛び散り、焦げた金属と肉の異臭が空間に充満する。雷撃の直撃を受けた者たちは、一瞬にして黒焦げの残骸へと変わっていた。
「一歩も、近づけさせません」
イングリットが、英雄の遺産『ルーン』を両手で構え、氷のように冷徹な眼差しで低く地を這うような軌道で突撃する。
彼女の足運びは滑らかで、一切の無駄がない。生き残って魔法の詠唱を始めようとしていたアガルタの魔道士たちの懐に瞬時に潜り込むと、槍先が次々と彼らの喉笛を正確に貫いた。血の飛沫が金属の床に赤い軌跡を描き、魔道士たちが声もなく崩れ落ちる。
「フフッ、みんな張り切っているわね。ツィリル、ヒルダ、怪我はないかしら?」
メルセデスが、マリアンヌと共に前線へと歩み寄る。
彼女たちの手から、温かな白魔法の光が放たれる。淡い金色の粒子がツィリルとヒルダの身体を包み込む。ヒルダの頬にあった浅い擦り傷が瞬時に塞がり、極度の緊張と筋肉の酷使による疲労が、温かい湯に浸かったように溶けて消えていった。
わずか数分の出来事。
回廊を埋め尽くそうとしていたアガルタの防衛兵器と十傑の亡霊たちは、少女たちの圧倒的な魔法と武技の連携の前に、ただの動かない鉄屑と肉塊へと変えられていた。
激戦の熱気と硝煙が、空調の風に流されてゆっくりと晴れていく。
「よし。……あ、モニカ」
ツィリルは手斧の刃についた油と血を拭いながら、破壊されたタイタニスの残骸へと歩み寄った。彼は残骸の装甲の隙間に手を掛け、力任せに金属板を剥がす。内部の配線を引きちぎり、その奥から青白く脈打つ巨大な部品――魔道コア(動力炉)を引きずり出した。
ズン、という重い音を立てて、魔道コアが床に置かれる。
「はいっ! ツィリル様、何でしょうか!」
後方で索敵を行っていたモニカが、弾かれたように駆け寄る。
「これ、すごく強い魔力が詰まってる。教団の防衛陣地や、魔道兵器の動力にそのまま流用できそうだ。大事に持って帰るから、回収の手伝いお願い」
「ははっ! ツィリル様が見つけたこの素晴らしい宝、私が責任を持ってお運びいたします!」
モニカは両腕を回し、顔を真っ赤にして重い魔道コアを持ち上げた。彼女の瞳には、一切の疑念もない。
ツィリルはそれ以上何も言わず、落ちていた金属の破片をブーツの裏で踏み砕いた。
ヒルダは、フライクーゲルを肩に担ぎ直し、無言で歩き出したツィリルの背中を真っ直ぐに見つめていた。彼女の足取りは軽く、その歩幅はツィリルのそれと完全に同調している。
「……さあ、急ごう。この奥に、レア様を傷つけた一番の元凶がいるはずだから」
ツィリルは手斧を腰に下げ、迷うことなくシャンバラのさらに深部へと続く大扉に向けて歩みを進めた。
警報音が鳴り響き、青白い光が明滅する暗い金属の回廊を、彼らは一切の躊躇なく、確実な足取りで踏み破っていく。