アガルタの地下都市『シャンバラ』。その中枢にして最深部たる巨大なドーム状の空間。
無機質な金属の床を打ち据える、硬質なブーツの足音が響いた。
「チッ……忌々しい女神の眷属どもめ!」
タレスが忌々しげに舌打ちをし、骨と金属で構成された禍々しい杖を構え直す。
吹き飛んだ巨大な隔壁の奥、濛々と立ち込める硝煙を裂いて、漆黒の外套を翻したベレトが静かに足を踏み入れていた。彼の右手には、赤黒い刃の紋様が激しく明滅する『天帝の剣』が握られている。
その背後からは、紫色の髪を血と埃で汚したシェズが、双剣の切先を床に擦りながら音もなく滑り込んできた。
空間の中央。
青白い魔道回路の光に照らされた空中に、エーデルガルト・フォン・フレスベルグが磔にされていた。手足と首元に食い込んだ黒い金属端子から、彼女の血液と魔力が絶え間なく吸い上げられている。彼女の顔は蝋のように白く、紫色の瞳の焦点は定まっていない。
その背後では、目覚めを迎えた巨漢の亡霊――『解放王』ネメシスが、赤黒い瘴気を噴き出す暗黒の天帝の剣をだらりと下げ、白濁した双眸で侵入者たちを見下ろしていた。
「ネメシスよ! 奴らを屠れ!」
タレスの叫びと同時。
ベレトの身体が、爆発的な踏み込みと共に床から掻き消えた。
ネメシスが獣のような咆哮を上げ、暗黒の剣を振り被るよりも早く。ベレトの振るった天帝の剣の刃が蛇のように分離・伸長し、空中を鞭のように薙ぎ払った。
紅蓮の炎を纏った刃の軌跡が、エーデルガルトの四肢を空中に縛り付けていた魔力索と黒い端子を、根元から正確に切断する。
「……っ!」
魔力の強制抽出が突如として断たれ、空中の呪縛から解き放たれたエーデルガルトの身体が、糸の切れた人形のように落下する。
冷たい金属の床に叩きつけられる寸前。
紫色の残像を引いて床を蹴ったシェズが、その細い身体を両腕でしっかりと受け止めた。
ザザーッ、とブーツの底を滑らせて勢いを殺し、シェズは片膝をつく。
「……シェズ……?」
焦点の合わない瞳で、エーデルガルトが掠れた声を漏らす。
「遅くなって悪かったな、雇い主。ずいぶんとボロボロじゃねえか」
シェズの防具は至る所がひしゃげ、刃の届かなかった浅い切り傷から血が滲んでいた。彼はエーデルガルトを床に下ろすと、自らの背中に背負っていた重厚な革の布包みを解き、その中身をエーデルガルトの足元の金属床に強く突き刺した。
ガァンッ! という重い音が響く。
それは、帝都の崩壊した玉座の間から彼が拾い上げ、この地底の最奥まで運び続けてきた英雄の遺産の斧――『アイムール』だった。
エーデルガルトの瞳孔が、僅かに収縮した。
彼女の紫色の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、煤けた頬の汚れを洗い流して金属の床に落ちる。彼女は震える両手を床につき、肩を激しく上下させて声を殺した。
「……立てるか、エーデルガルト」
シェズの背後から、天帝の剣を構えたベレトが歩み寄る。
エーデルガルトは、震える膝に力を込め、シェズの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。彼女はベレトの凪いだ瞳を真っ直ぐに見つめ返し、大きく息を吸い込んだ。
「……師」
彼女の声は微かに震えていたが、玉座の間で見せたような虚無の色は消え去っていた。
「私の信じていた歴史は、アガルタの捏造だった。私は彼らに踊らされ、フォドラに無数の血を流させた」
エーデルガルトは足元のアイムールには手を伸ばさず、ベレトの前に静かに両膝をついた。彼女は両手を床に添え、深く頭を下げる。
「私は降伏する。この首を刎ねるなり、一生牢獄に繋ぐなり……好きにしてちょうだい。すべては、私の罪の対価なのだから」
「……」
「けれど……お願い。一つだけ我が儘を聞いて」
エーデルガルトは顔を上げ、ベレトの瞳の奥を射抜くように見つめた。その頬をまだ涙が濡らしていたが、奥歯は強く噛み締められている。
「あいつらだけは……歴代の皇帝を騙し、私を贄にし、このフォドラを壊し続けてきたあいつらだけは、絶対に許しておけない……! 裁きを受けるのは、あいつらを地獄に落とした後にしてちょうだい……ッ!」
「……もとより、そのつもりだ」
ベレトは、地に突き刺さったアイムールの柄を片手で軽々と引き抜くと、膝をつくかつての教え子の胸元へと差し出した。
「君の罪の清算は、すべてが終わってからだ。今は立て、エーデルガルト。君の歴史を弄んだ者たちに、君自身の目で決着をつけるんだ」
エーデルガルトの喉が、小さく鳴る。
「ほら、雇い主。泥水すする準備、できたか?」
シェズが右手を差し出す。
エーデルガルトはその手を取り、立ち上がった。彼女はベレトから差し出されたアイムールの柄を、両手でしっかりと握り締めた。革手袋が激しく軋む音が響く。
彼女は袖元で乱暴に目元の涙を拭い、タレスとネメシスへと向き直った。
「……ええ。存分に、すすってやるわ」
三人の武器が、同時に構えられる。
「ククク……愚かな欠陥品が! 我らが与えたその力で、我らに逆らうか!」
タレスが高笑いと共に杖を振り下ろした。
それに呼応し、ネメシスが地鳴りのような咆哮を上げる。巨漢の亡霊が金属の床を蹴り砕き、赤黒く脈打つ暗黒の天帝の剣を右下から左上へと猛烈な速度で振り抜いた。
「……来るぞ!」
ベレトが真っ直ぐに踏み込み、神祖の炎を纏った天帝の剣を正面から叩きつける。
紅蓮の炎と赤黒い瘴気が激突し、シャンバラの空間全体を揺るがす凄まじい衝撃波が炸裂した。金属の床が波打ち、周囲の魔道回路のガラス管が一斉に砕け散る。
ネメシスの常軌を逸した膂力が、ベレトの身体を後方へと押し込もうとする。ベレトのブーツが床を削り、激しい火花が上がる。
「雇い主、隙を作るぜ!」
「頼むわ、シェズ!」
ネメシスの巨体がベレトとの鍔迫り合いに固定された一瞬の隙。
シェズが極限まで身を沈め、金属の床を滑るようにしてネメシスの死角へと潜り込んだ。彼の双剣が下から上へと交差して閃き、ネメシスの膝裏の装甲の隙間、露出した腱を正確に切り裂く。
亡霊の巨体がバランスを崩し、ガクンと片膝をついた。
「邪魔だ、下賤の虫けらがッ!」
後方に立つタレスが激昂し、杖の先端の宝玉を赤黒く発光させた。
空間の重力が異常な数値で乱れる。シェズとエーデルガルトの頭上の空気が圧縮され、目に見えない巨大な質量の塊となって二人の頭上から垂直に落下してきた。広範囲の重力魔法。金属の床がひび割れ、周囲の瓦礫が宙に浮き上がる。
「……なめるなっ!!」
エーデルガルトが、自らの両足の甲冑の関節部をひしゃげさせながら、アイムールを天空に向けて全力で振り抜いた。
抽出によって魔力は枯渇している。彼女の筋肉の繊維が悲鳴を上げ、毛細血管が破裂して皮膚の下に赤い斑点が浮かび上がる。
純粋な膂力と、極限の執念のみを乗せた黄金の斧の重撃が、頭上から落下してくる重力魔法の中心核を強打した。
パキィィィィンッ!!
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、タレスの構築した重力場が空間ごと粉砕され、四方へと霧散した。
「ば、馬鹿な!? 紋章の力も魔力も尽き果てた生贄の分際で、なぜ我が術式を打ち破る!」
「お前たちが理解しようともしなかった、人間の『生きる意志』よ!」
魔法の反動で一瞬体勢を崩したタレスの懐へ、エーデルガルトが炎のような踏み込みで肉薄する。
タレスが慌てて幾重もの紫色の魔道障壁を展開する。
だが、エーデルガルトは歩みを止めない。彼女はアイムールの柄を握り直し、腰の回転のすべてを乗せて斧を真横に振り抜いた。
分厚い魔道障壁が紙細工のように次々と叩き割られ、黄金の刃がタレスの胸部の装甲を深々と抉り裂いた。
「ガ、アァァァァァッ!?」
胸を切り裂かれたタレスが、黒い血を吐きながら後方へと吹き飛ぶ。
「雇い主、畳みかけるぜ!!」
タレスが金属の床に背中から落下するよりも早く。
シェズが影のように跳躍し、空中で身体を捻りながら降下する。彼の両手に握られた双剣の切先が、仰向けに倒れようとするタレスの首筋の左右を、寸分の狂いもなく同時に貫いた。
刃が床の金属板まで到達し、タレスの身体が完全に床に縫い付けられる。アガルタの首魁は、もはや反撃の呪文を詠唱する余力すら残されていなかった。
「おのれ、獣どもめ……! 我らアガルタの、光の世界が……ッ!」
「光の届かぬ闇の底で、永遠に悔いるがいいわ。タレス!!」
エーデルガルトが跳躍し、アイムールを脳天から垂直に振り下ろした。
重い刃がタレスの頭部を完全に粉砕する。蠢く闇の指導者は、断末魔の叫びを上げる間もなく、その肉体を灰のように崩壊させ、チリとなって空間に消滅した。
「オオオオオオオオオッ!!」
術者を失ったことでさらに狂暴化したネメシスが、片膝をついた体勢から強引に立ち上がり、暗黒の剣を振り回してベレトを吹き飛ばそうとする。
「師!」
「……」
ベレトの瞳に、静寂が訪れる。
彼は後方へと跳躍してネメシスの刃をかわすと、空中で体勢を立て直し、天帝の剣の柄を両手で握り締めた。
刀身の赤黒い明滅が限界を迎え、神祖の炎が極限まで圧縮される。剣身が、空間の暗闇を完全に打ち払うほどの、太陽のような圧倒的な光芒を放ち始めた。
ベレトのブーツが、壁面を強く蹴る。
空を裂くような神速の踏み込み。
炎の軌跡が、空間を真っ二つに切り裂く。
ネメシスの振り上げた暗黒の天帝の剣ごと、巨漢の亡霊の胴体が、右肩から左脇腹にかけて完全に両断された。
「……ガ、ァ……」
ネメシスの巨体の切断面から、莫大な赤黒い瘴気が間欠泉のように噴き出す。
やがてその身体は風化した石像のようにボロボロと崩れ去り、ただの灰の山となってシャンバラの金属床に散らばった。
「……」
荒々しい三人の呼吸音だけが、静まり返った地下空間に響き渡る。
魔道回路の光が完全に消え失せ、アガルタの都市は、今度こそ完全なる死の静寂に包まれた。
「……終わったのね」
エーデルガルトが、指の力が抜けたようにアイムールを床に取り落とし、その場にへたり込んだ。ガシャン、と重い音が響く。
「ああ。あんたの戦いも、これで一区切りだな」
シェズが双剣の血を払い、鞘に収める。彼はエーデルガルトの隣に歩み寄り、ドカッとあぐらをかいて座り込んだ。
「シェズ……。私……」
「泣きたきゃ泣けばいいさ。どうせここは、俺とアンタの先生しかいねえしな。……よく生きて、最後まで立ってたよ、あんたは」
シェズは前を向いたまま、後頭部をガリガリと掻いた。
エーデルガルトは顔を両手で覆い、肩を激しく震わせた。指の隙間から涙が止めどなく溢れ、嗚咽の声が地下空間に小さく響く。
ベレトは天帝の剣を鞘に収め、二人の前へと歩み寄った。
彼はしゃがみ込み、静かに右手を差し伸べる。
数多の血と涙に濡れたフォドラの戦乱と、千年の歴史の裏で蠢き続けた闇の因縁は、今ここに、完全な終結を迎えたのだった。
***
同じ頃。シャンバラの東側、研究施設と居住区画が広がるエリア。
分厚い隔壁が破壊され、青白い非常灯が明滅する通路には、アガルタの魔道士たちの死体と、破壊された魔道兵器の残骸が散乱していた。
その残骸の間を縫うようにして、ツィリルが黙々と動いていた。
彼は手斧で施設の制御盤の装甲を叩き割り、内部から青白く脈打つ魔道コアを次々と引きずり出している。
「これ、まだ魔力が残ってる。マリアンヌ、その袋に入れて」
ツィリルは、敵の保管庫から持ち出したであろう厚手の布袋をマリアンヌの方へ押しやった。
「は、はい……っ! よいしょ……」
マリアンヌは重さに顔をしかめながらも、魔道コアを布袋の奥へと押し込んだ。
「ツィリルくん、これ何ー?」
ヒルダが、壁から引きちぎられた配線の束を足先で弄りながら尋ねる。
「アガルタの通信設備の動力。大修道院の防衛設備に繋げば、索敵範囲が広がるはずだから」
ツィリルは一切の感情を交えず、ただ目の前の部品の用途だけを口にした。彼の視線はすでに次の制御盤へと移っている。
「オーッホッホッホ! 見なさいツィリル、あちらの書庫には未知の魔道書が山のように眠っていますわ! ヌーヴェル家復興の糧として、すべて持ち帰りますわよ!」
コンスタンツェが鉄扇を振りかざし、奥の部屋を指差して声を張り上げる。
「コンスタンツェ、本は重いし嵩張るから後回しにして。まずは魔力効率のいい小型の部品と、傷薬の代わりになりそうな薬品が先」
ツィリルの平坦な指示に、コンスタンツェは一瞬言葉を詰まらせた。
「ううっ……相変わらず容赦のない指示ですわね……ですが、その冷徹な判断力こそわたくしの主君! 喜んで従いますわーっ!」
コンスタンツェは嬉しそうに高笑いを上げながら、次々と研究室の薬品棚を漁り始めた。
「……本当に、あなたという人は」
イングリットが、槍の石突きで床を叩きながら、小さく息を吐いた。
「フォドラの歴史の裏で暗躍した者たちの本拠地だというのに……まるで野盗の略奪ですね。少しは歴史的な感傷というものはないのですか?」
「ないよ」
ツィリルは、制御盤から切り離した配線を束ねながら、振り返ることなく答えた。
「あいつらの歴史とか悲願とか、ボクたちには関係ない。技術が進みすぎてて危険なものもあるかもしれないけど、だからって全部壊して捨てるのは勿体ない。使えるものは全部持ち帰って、レア様と……ボクの仲間を護るために使う。それだけだよ」
ツィリルの金色の瞳は、ただ「生き残るための実利」だけを見据えていた。
「……ええ。それでこそ、です」
リシテアが、自らの腕を強く抱きしめながら、ツィリルの横顔を見つめた。
自らの人生を狂わせた元凶たちの技術を、ただの「便利な部品」として解体し、奪い尽くす。そのツィリルの徹底した実利主義は、過去の因縁に囚われていた彼女の心に、奇妙な安堵をもたらしていた。
「フフッ……みんな、ツィリルの邪魔をしないであげてね。ほら、そろそろ先生たちも戻ってくる頃じゃないかしら」
メルセデスが微笑みながら、『リザーブ』の魔法を展開した。淡い光が膨れ上がった布袋を包み込み、その重量をわずかに軽減する。
「あ、メルセデス、ありがとう。よし、先生たちが来たら、これ全部みんなに持たせて帰ろう」
「……ツィリルくん、あんたほんっとに図太いよねぇ……」
ヒルダが呆れたように肩をすくめながら、笑い声を漏らした。
アガルタの民が長い年月をかけて蓄積してきた叡智は、彼らの手によって、次代のフォドラを護るための「ただの物資」として、着実に略奪されていった。
***
地上。ガルグ=マク大修道院の大聖堂。
シャンバラからの帰還から数日後。
高い天井のステンドグラスから差し込む陽光が、大聖堂の冷たい大理石の床に色鮮やかな影を落としていた。
その光の差す中央。祭壇へと続く階段の下で、一人の女性が静かに跪いていた。
エーデルガルト・フォン・フレスベルグ。
彼女は帝国の象徴たる真紅のドレスでもなく、炎帝の甲冑でもない。装飾の一切ない、純白の修道服に身を包んでいた。彼女の紫色の瞳は床の石の目地に向けられ、両手は膝の上で固く組まれている。
その正面、大階段の上には、大司教レアが立っていた。
レアの眼差しは、静かに、ただ黙って眼下の少女を見下ろしている。
「……エーデルガルト・フォン・フレスベルグ」
レアの声が、大聖堂の静寂に響き渡った。
「はい。レア様」
エーデルガルトの応じる声は低く、掠れていた。
「貴女がこのフォドラに流した血の重さは、決して消えるものではありません。貴女の起こした戦乱によって、数多の命が失われました」
「……はい」
エーデルガルトの組まれた手が、微かに震える。
「ですが、貴女もまた、アガルタの者たちによって家族を奪われ、その身体に呪わしい紋章を刻まれた被害者の一人でもあった」
レアは目を伏せ、ゆっくりと階段を降り始めた。衣擦れの音が響く。
「私もまた、過去の喪失に囚われ、人間という存在を心から信じることができなかった。結果として、貴女のような悲劇を生み出す土壌を、このフォドラに作ってしまった。……私にも、大司教としての、そして女神の眷属としての罪があります」
「……レア様」
エーデルガルトが、顔を上げる。
レアは階段を降りきり、跪くエーデルガルトの目の前で足を止めた。
「エーデルガルト。貴女の罪の裁きは、新生フォドラの指導者たるベレトに委ねます。ですが、私個人としては……もう、貴女を憎むことはしません」
レアは、ゆっくりと右手を伸ばし、エーデルガルトの震える肩にそっと触れた。
「長い、本当に長い戦いでしたね。……もう、休みなさい」
その手の温もりが伝わった瞬間。
エーデルガルトの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
彼女は歯を食いしばり、必死に声を殺そうとしたが、嗚咽を止めることはできなかった。
「……申し訳、ありませんでした……っ。私が、間違って……。どうか……お許し、ください……!」
かつて、互いの生存を懸けて殺し合った二人の女性。
大聖堂の静寂の中、エーデルガルトの嗚咽だけが響き続けていた。
教団と帝国の血塗られた確執は、ステンドグラスの光の下で、二人の流す涙によって、静かに終わりを告げたのであった。