ガルグ=マク大修道院、大聖堂。
分厚い樫の木の扉が重い音を立てて開かれ、ステンドグラスを通した陽光が、冷たい大理石の回廊に色鮮やかな影を落としていた。
装飾の一切ない、純白の修道服に身を包んだエーデルガルト・フォン・フレスベルグが、石畳の上を静かな足取りで進んでいく。
彼女の数歩後ろ。一定の距離を保ったまま、二振りの剣を腰に下げた傭兵、シェズが続いている。
「終わったな、雇い主」
シェズが、後頭部をガリガリと掻きながら言った。
「ええ」
エーデルガルトは歩みを止めず、回廊の高窓から見える青空へ視線を向けた。
彼女の紫色の瞳から、かつて玉座の間で見せたような暗い炎は完全に消え去っている。
「で、これからどうすんだ? 帝国は解体された。あんたは教団の監視下だろ」
「私は、ベレトの保護下に入る形になったわ。……おそらく、しばらくはこの修道院の一室から出られないでしょうね」
エーデルガルトの口元が、わずかに緩む。
「なら、俺の傭兵稼業もここで延長だな」
シェズのブーツの踵が、石畳を鳴らした。
「あんたに雇われたんだから、あんたがここにいるなら、俺もここにいる。教団の連中には、監視役ってことで話をつけてきた」
「シェズ……。私にはもう、あなたに払う金も、地位も……」
「だから、そんなもん最初からどうでもいいって言っただろ」
シェズは、腰の双剣の柄を親指で軽く弾いた。カチッ、という硬質な音が回廊に響く。
「俺はただ、あんたが最後まで生き残るところが見たかっただけだ。だから、付き合うぜ」
エーデルガルトの足が止まった。
彼女は振り返ることなく、両手を胸の前で固く握りしめた。白い修道服の袖が微かに震え、彼女の耳元が朱に染まる。
「……変な傭兵ね。……ありがとう、シェズ。よろしく頼むわ」
エーデルガルトは、震える声でそれだけを口にし、再び歩みを進めた。
シェズは無言で肩をすくめ、彼女の影を踏まない一定の距離を保ちながら、その背中を追い続けていった。
***
ガルグ=マク大修道院、円卓の間。
巨大なオーク材の円卓を囲み、フォドラの戦後処理を決定づける最後の軍議が開かれていた。
上座にはベレト。その隣には、大司教の祭服を纏ったレアが静かに座している。
「帝国の解体と、西部諸侯の教団への帰順、及び武装解除の手続きはすべて完了した。ディミトリ、クロード。各方面の鎮撫に感謝する」
ベレトが、円卓の中央に広げられたフォドラの広域地図から視線を上げ、静かに報告を終えた。
「我々は、為すべきことをしたまでだ。……これからの復興こそが、我々の真の戦いになる」
ディミトリが、濃紺の甲冑の胸当てに右手を当て、深く頷く。彼の残された左目は、静かながらも揺るぎない光を宿している。
「俺も、同盟の領地はすべて先生たちに委ねた。これでスッキリしたよ。そろそろ、自分の故郷に帰らなきゃならないからな」
クロードが、黄色い外套の襟を正しながら肩をすくめる。
「パルミラに帰るのか」
「ああ。フォドラの壁は、先生たちがぶっ壊してくれた。次は俺が、外側からその壁の残骸を片付ける番だ。……フォドラ側の受け入れ態勢は、ミルディン大橋で約束した通り、新しい辺境伯殿にきっちり頼んであるしな」
クロードは、円卓の最も端の席へ視線を向けた。
そこには、天井まで届きそうなほど積み上げられた羊皮紙の束――戦利品目録と領地引継ぎの書類――に埋もれるようにして座る、ツィリルの姿があった。
彼は円卓での会話に視線を向けることなく、右手に持った羽ペンをカリカリと走らせ続けている。
「……クロード、パルミラと国境を開くのはいいけど、面倒な書類仕事まで全部ボクに押し付けないでよ」
ツィリルは書類から目を離さず、インク壺にペンを浸した。
「ボクは、レア様と大修道院の安全が確保できるならって引き受けただけなんだから」
「ははっ、相変わらず容赦ないねぇ。まあ、お前のその実務能力の高さが、俺からの何よりの信頼の証さ」
クロードが苦笑するその後方。
ツィリルの背後の壁際には、五人の少女たちが、彼の執務を補佐すべく隙なく陣取っていた。
「ツィリル、こちらの農地改革の草案の確認が終わりました。領地経営の基礎は、ガラテア家で叩き込まれています。軍備の再編案と共に、すぐに目を通してください」
イングリットが、銀色の甲冑を鳴らして一歩前に出ると、綺麗に整理された書類の束をツィリルの机の右側に置いた。
「イングリット、農地改革なら私の実家、コーデリア家の領地での経験が最も活かせるはずです! ツィリル、こちらの物流網の再構築案を先に。それと、お茶を淹れましたから、一度手を止めてください」
リシテアが、イングリットを牽制するようにツィリルの左側に立ち、湯気を立てるティーカップを机の端にそっと置く。
「オーッホッホ! 庶務などわたくしの魔法で一掃して差し上げますわ! それよりもツィリル、新しい領地の魔道防衛網の設計図が完成いたしましたわよ! こちらを……」
コンスタンツェが鉄扇を広げ、分厚い羊皮紙の図面をツィリルの目の前にバサッと広げる。
「あの……エドマンドの義父様からの復興支援物資の目録が届いています……。ツィリルさん、こちらに署名を……」
マリアンヌが、木箱の目録を両手でしっかりと抱え、ツィリルの背後からそっと身を乗り出す。
「もー、みんな一気に持ってきたらツィリルくんが可哀想でしょー? ほら、ツィリルくん、肩凝ってるみたいだし、アタシが揉んであげるー」
ヒルダが、マリアンヌのさらに背後から両腕を伸ばし、ツィリルの両肩を背後から力強く揉み始めた。
「フフッ……みんな、書類の整理は手分けして進めましょうね。ツィリル、インクの予備を置いておくわ」
メルセデスが、新しいインク壺を机の隅に静かに置く。
「……みんな、ちょっと待って。今、アガルタから回収した魔道コアの再配備の計算してるから。順番に見るから、そこに積んでおいて」
ツィリルは、ヒルダの肩揉みに身を委ねながらも、羽ペンの動きを一切止めずに答えた。
少女たちは互いに視線を交わしながらも、誰一人としてその場を離れようとはせず、ツィリルの周囲で静かに、そして確実に自らの役割をこなし続けている。
「……血の匂いが、完全に消えた。俺の槍の出番は……もう、ないらしいな」
円卓の隅で、エミール(イエリッツァ)が壁に背を預け、目を閉じて呟いた。
「いいんじゃないか? 斬る敵がいないってのは、平和な証拠だ」
シャミアが、腕を組んだまま短く応じる。
「全くだ! まあ、あいつのあの無愛想なところだけは、私の雷霆でも叩き直せなかったけどな!」
カトリーヌが、快活な笑い声を上げる。
「……ふふっ」
レアが、円卓を囲む者たちのやり取りを見て、大司教としての厳格な表情を崩し、柔らかい微笑みを浮かべた。
ベレトは何も言わず、ただ静かに頷き、その光景を見守っていた。
フォドラを血で染めた長きにわたる戦乱は、完全に終わりを告げた。
円卓の間には、羽ペンが羊皮紙を擦る音と、新たな時代を築くための穏やかな話し声だけが、いつまでも響き続けていた。