ガルグ=マク大修道院の大聖堂。
高くそびえる鐘楼から放たれた重厚な鐘の音が、雲一つない青空を震わせ、大気を幾重にも波打たせていた。
再建されたばかりの白亜の回廊に、香炉から立ち昇る没薬と白檀の濃密な香りが満ちている。数万の硝子片を繋ぎ合わせた巨大なステンドグラスが陽光を透過し、大理石の床に万華鏡のような極彩色の影を落としていた。
祭壇の前に、二つの人影が並び立っている。
金糸の刺繍が施された重厚な漆黒の礼装に身を包んだベレト。その隣には、大司教の冠を下ろし、幾重にも絹を重ねた純白のドレスを纏ったレアが寄り添っていた。
祭壇の蝋燭の炎が微かに揺らぐ。
ベレトの左手が、レアの震える右手を静かに包み込んだ。二人の唇が触れ合った瞬間、広大な身廊を埋め尽くした諸侯、騎士、そして民衆から、大地を揺るがすほどの地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。何年もの間、血と硝煙に塗れていたフォドラの大地に、初めて純粋な熱狂が吹き荒れた。
***
式典が終わり、大修道院の広大な中庭は、華やかな祝賀の宴の熱気に包まれていた。
焼かれた肉の脂が落ちて炭が爆ぜる音、香辛料と葡萄酒の芳醇な香り、グラスが触れ合う硬質な音。
色とりどりの天幕が張られた中庭の最前列。大司教の直轄地たる国境の要衝を任された新設の『フレゲトン辺境伯』に用意された豪奢な席で、ツィリルは身をよじっていた。
「……あーあ。首の周りがチクチクして鬱陶しいな」
彼は金糸で縁取られた窮屈な詰襟を指で無理やり引き下げ、大きく息を吐いた。
彼は目の前の銀の皿に山積みにされた猪の香草焼きに手を伸ばした。フォークやナイフを使うことなく、太い骨を直接右手で掴み、分厚い肉の塊に躊躇なく歯を立てる。肉汁が滴り、強い香辛料の匂いが鼻腔を抜ける。彼はそれを顎の力だけで噛みちぎり、喉の奥へと飲み込んでいく。
「さあ、未婚の女性陣はお集まりください! これより、花嫁からの『祝福の花束』が放たれますぞ!」
司会進行を務めるアロイスの野太い声が、宴の喧騒を切り裂いた。
「来たわね……っ! この日のために、足腰の鍛錬を重ねてきたのよ!」
マヌエラが、高価なドレスの裾を躊躇なく腿の高さまで捲り上げ、軍馬のような踏み込みでバルコニーの下へと躍り出た。
その背後から、各学級の女生徒たち――次代のフォドラを担う名門貴族の令嬢たちが、色めき立ちながら次々と集まってくる。
少し離れた木陰の席。首元に痛々しい火傷の痕を残し、声を失ったドロテアが、ディミトリの屈強な腕にそっと両手を絡ませながら、必死に手を伸ばすマヌエラの姿を見て、肩を揺らして音のない笑いをこぼしていた。ディミトリは彼女の頭にそっと手を乗せ、穏やかな単眼の微笑みを返している。
「あの花束を受け取って、私もあやかりたいわね」
メルセデスが、胸の前で両手を組み、首を傾げて柔らかく微笑む。
「ええ! わたくしも、次に純白のドレスを纏うのは自分だと、この場で高らかに証明して差し上げますわ!」
コンスタンツェが、日傘の陰から鉄扇を高く掲げ、ギラギラとした闘志の炎を両目に宿した。
「……行きますよ。それっ!」
バルコニーから、レアが幸せそうな微笑みと共に、純白の白鷺草で編み込まれた花束を天空高く放り投げた。
青空を背景に、白い花弁が空中で弧を描く。
「私のものですわーっ!」
「譲りません!」
「ちょっ、押さないでください! 私が取りますっ!」
花束が重力に従って落下軌道に入った瞬間。バルコニーの下で、血に飢えた猟犬のごとき激しいポジション争いが勃発した。
コンスタンツェが跳躍する。その脇腹に、イングリットが乗馬の体捌きを応用した体当たりを叩き込んで軌道をずらす。空いた空間にリシテアが滑り込むように手を伸ばすが、背後からヒルダが自らの豊かな胸と肩幅を使い、物理的な質量差で強引に前線へと割り込んだ。
戦場を生き抜いてきた彼女たちの無意識の体術が、空中で複雑に衝突し合う。
結果として、誰の指先にも触れることなく、イングリットの肩当てに弾かれた花束は、当初の落下地点を大きく逸れた。
純白の花束は、弾丸のような速度で中庭を横切り、最前列のVIP席で猪の骨を齧っていたツィリルの顔面へと向かって一直線に飛来した。
「……ん」
ツィリルの金色の瞳が、視界の端で急激に拡大する白い質量を捉えた。
彼の表情の筋肉は一切動かない。
彼は口の中の肉を噛み砕きながら、テーブルに預けていた左手を、肩の関節から滑らかに跳ね上げた。
バシィッ!!
重い風切り音と共に、ツィリルの左手が飛来した花束の茎を完璧に捕捉した。
それは、戦場で死角から飛来する矢や手斧を空中で絡め取る、極限まで研ぎ澄まされた無駄のない身体操作だった。
「……危ない。レア様の投げた花が、床の泥で汚れるところだった」
ツィリルは、手の中に収まった純白の花束を見下ろし、小さく息を吐いた。
花弁に微かな傷一つ付いていないことを確認すると、彼は再び右手に持った肉の骨に歯を立てた。
その光景を見ていた中庭の空気が、ピタリと静止した。
「おおおおっ!! 見事な反射神経だ、フレゲトン辺境伯殿!」
静寂を破り、アロイスが両腕を天に突き上げて叫んだ。
「古くからの言い伝えによれば! 花嫁の放った花束を手にした者は、女神の導きにより『次なる伴侶を得る者』となるとされている! つまり、次に永遠の誓いを交わすのは、ツィリル殿だーーっ!!」
ワアァァァァァァァァァァァッ!!
参列者たちから、地鳴りのような拍手と、口笛の混じった冷やかしの歓声が浴びせられる。
「……け、結婚?」
ツィリルは、手の中の花束と、周囲の異常な熱狂を交互に見比べ、パチリと瞬きをした。
彼の頬の毛細血管が一気に拡張し、首筋から耳の裏までが急速に赤く染まり上がっていく。彼は持っていた肉の骨を皿に置き、油のついた手をナプキンで強く拭った。
「でも……結婚って、誰か一人としかできないんでしょ? それは……困るよ」
ツィリルは、自らを鋭く見据える令嬢たちへ、困惑した金色の瞳を向けた。
「ボクは、新しい国境の領地に、みんなを連れて行くつもりだったのに。誰か一人しか選べないなんて無理だよ。みんなのことが大事で、誰かがいなくなるなんて、絶対に嫌だから……」
ツィリルは、純白の花束を自らの胸にギュッと抱き寄せた。
「全員、ボクの傍で、一緒に暮らすんじゃ駄目なの?」
彼の声は、一切の淀みも、計算の影もなかった。
ただ、自らのテリトリーに属する大切な群れを、一人残らず自らの手元に囲い込みたい。外敵がひしめく辺境の地において、自らの血肉となる絶対の共同体を構築したいという、純粋で、抗いがたい雄(オス)としての本能からの欲求だった。
「〜〜〜〜ッ!!」
その瞬間。ツィリルを取り囲んでいた七人の令嬢たちの内側で、理性の鎖が音を立てて断ち切られた。
「ぜ、全員で、ですか……っ!?」
イングリットが、両手で自らの熱を持った頬を覆う。彼女の翠の瞳孔が急激に開き、奥底に潜んでいた雌としての情念と、強い飢餓感がギラギラと燃え上がり始めた。彼女の呼吸が荒くなり、豊かな胸が激しく上下する。
「……騎士としてあるまじき……いえ、あなたがそれを望むのであれば! 私は喜んであなたの盾として、そして誰より先陣を切る者として、その身のすべてを捧げます……っ!」
「オーッホッホッホ! 7人まとめて面倒を見るだなんて、どこまで底知れぬ器の殿方ですの!」
コンスタンツェが、日傘を放り捨てて前へ踏み出す。彼女の白い肌が朱に染まり、興奮に震える唇から甘い吐息が漏れた。
「ならば、わたくしがその頂点に立って、新しい領地の館のすべてを完璧に管理して差し上げますわ!」
「ぜ、全員……っ!? バ、バカなんですか!?」
リシテアが、顔面から湯気が出そうなほど赤面しながら、ツィリルへと身を乗り出した。彼女の両手が、自らのドレスの裾を強く握りしめている。
「でも……あなたがどうしても傍にいてほしいって言うなら、私が一番の有能な参謀として、あなたの隣の執務机に……っ!」
「私なんかでも……ずっと一緒にいていいのですね……っ」
マリアンヌが、潤んだ瞳でツィリルを見つめ上げる。彼女の長い指が、己の胸元の布地を強く掴んだ。圧倒的な財力という絶対の武器を持つ彼女の瞳には、決して譲らないという底知れぬ執着の光が宿っていた。
「義父様に、大至急、結納金と辺境開発の資金手配を……誰の家よりも多く出させます……」
「もー、ツィリルくんったら、本当に強欲なんだからー」
ヒルダが、甘く湿った声を出しながら、ツィリルの背後へと滑り込む。彼女の豊かな胸部が、ツィリルの背中越しに柔らかな圧力をかけた。
「でも、一番居心地のいい特等席は、昔からアタシのものだからね?」
「フフッ、ツィリルったら本当に欲張りさんね」
メルセデスが、極上の微笑みを浮かべながらツィリルの正面へと回り込む。彼女の甘い体香がツィリルの鼻腔をくすぐる。その声の奥底には、決して獲物を逃がさない、母性という名の巨大な網の圧力が潜んでいた。
「でも、誰よりも優しくお世話してあげられるのは、私だけよ?」
「ツィリル様が望むなら当然です! 私が一番の忠誠と……あ、愛を! 昼も夜も証明してみせます!」
モニカが、狂信にも似た熱を帯びた瞳で、ツィリルの腕に強くしがみついた。
身分も、家の誇りも、世間の常識も、もはや彼女たちを縛る鎖とはならない。
死線を共に潜り抜け、自らの命を何度も救い、誰よりも純粋に「お前たちが必要だ」と宣言したこの若い英雄の前に、彼女たちは己の血と肉のすべてを捧げることを至上の悦びとしていた。
「……ん? 順番なんてないよ。みんな、一緒に来るでしょ?」
ツィリルが、不思議そうに小首を傾げた、次の瞬間。
「「「ツィリルっ!!!」」」
七人の令嬢たちが、堰を切ったように一斉にツィリルの座る席へと群がった。
彼女たちの絹のドレスが擦れ合う音が響き、高価な香水の匂いと、微かに汗ばんだ肌の熱気が辺境伯の席を完全に包み込む。
大聖堂で交わされた、神聖で美しき誓いの儀式。
その光の裏側で、次代のフォドラの辺境を治める若き英雄の座を巡り、乙女たちの愛と血脈の存続を懸けた、激しくも濃密な戦いの幕が切って落とされたのであった。