ガルグ=マク大修道院が、新たな大司教の誕生と平和の到来に沸き返る中。
祝祭の喧騒から遠く離れた、旧学生寮の裏手。かつて黒鷲の学級の生徒たちが暮らしていた区画の前に、一人の女性が立っていた。
装飾の一切ない、純白の修道服。エーデルガルト・フォン・フレスベルグは、崩れかけた石造りの寮の壁面に視線を向けたまま、静かに呼吸を繰り返していた。
「……こんな風に空を見るのは、士官学校の時以来ね」
彼女は、雲一つない青空を見上げて呟いた。
「どうだか。あの頃のあんたは、いっつも眉間に皺を寄せて、地面か図面ばっかり睨みつけてたぜ」
背後の石畳を鳴らし、紫色の髪の傭兵――シェズが歩み寄ってきた。
彼は修道院の壁に寄りかかり、腕を組んでエーデルガルトの横顔を見下ろした。腰に帯びた双剣の柄には、相変わらず無数の傷が刻まれている。
「ふふっ……そうだったかもしれないわね」
エーデルガルトは、ゆっくりとシェズの方へ向き直った。
彼女の紫色の瞳は、かつて帝都の玉座で見せたような暗い炎を完全に喪失し、ただ目の前の傭兵の姿だけを静かに映し出していた。
「ねえ、シェズ」
「ん? なんだよ」
「私……教団に降伏して、こうして先生の保護下に入ったけれど。……私に何が残っているのか、時々分からなくなるのよ」
彼女は、自らの白い両手を見下ろした。
修道服の袖口から覗くその手首には、アガルタの地下都市で魔力を抽出された際に食い込んだ、端子の無惨な傷跡が赤黒く残っている。
「私が信じていた歴史は、アガルタの捏造だった。私が流した血の責任は、一生消えることはない。皇帝でもなく、炎帝でもなくなった私には、領地も、兵も、権力も、何一つ残されていない。……私には、もう……」
「おい」
シェズが、壁から背中を離した。
彼はエーデルガルトの前に歩み寄ると、彼女の震える両手を、自らの革手袋に包まれた大きな手で無造作に掴み取った。
「俺は『皇帝』に雇われたんだ」
シェズの紫色の瞳が、エーデルガルトを真っ直ぐに射抜く。
「不器用で、いっつも眉間に皺寄せてる『エーデルガルト』って女に雇われたんだ。……あんたに何が残ってるか分からないなら、俺が教えてやるよ」
「シェズ……?」
「俺が残ってるだろ」
エーデルガルトの肩が、微かに跳ねた。
「あんたが玉座から引きずり下ろされても、泥水すすって這いつくばっても……俺は、あんたの隣にいる。……いや、いさせてくれ」
シェズは、彼女の冷たい両手をさらに強く握りしめた。
「俺はしがらみのない傭兵だ。あんたがただのエーデルガルトになったんなら、好都合だ。……もう、あんたを誰にも渡さねえよ」
エーデルガルトは、小さく息を呑んだ。
彼女の紫色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
何年もの間、己の心を殺し、孤独な氷の玉座に座り続けてきた彼女が、初めてすべての重荷を下ろし、子供のように声を上げて泣き崩れた。
彼女は、シェズに握られた手を自らの胸に強く押し当て、涙で濡れた顔のまま、花がほころぶように笑った。
「……本当に、あなたは……変な傭兵ね」
「気にしてねえよ」
シェズは、口の端を少しだけ上げて笑い返した。
「……ありがとう、シェズ。……これからも、私の傍で、私を支えてちょうだい」
「ああ、任せとけって。一生、付き合ってやるよ」
光の差し込む回廊で、二つの影が静かに寄り添い合う。
帝国の崩壊とアガルタの消滅を経て、フォドラの歴史の表舞台から完全に姿を消した二人の傭兵は、誰の目にも留まることなく、静かに大修道院の門を潜り抜けていった。
***
大修道院の復興が進む、ガルグ=マクの街角。
戦火の爪痕が残る石畳の道を、新生軍の若者たちがそれぞれの足取りで歩いていた。
「オラァッ!!」
カスパルの振り抜いた右拳が、街の郊外に出現したはぐれ魔物の硬い装甲を粉砕した。
重い破砕音と共に、魔物の巨体が石壁に激突して崩れ落ちる。
「ふぅー……一丁上がり! ハピ、怪我はないか!?」
カスパルは拳の血を払いながら、背後を振り返る。
「ん。カスパルのおかげで無傷。……でも、ごめんね。ハピがうっかりため息なんかつくから……」
ハピが、視線を落として呟く。
カスパルは彼女の顔を覗き込み、ニカッと笑い飛ばした。
「何言ってんだ! むしろ丁度いい腕試しの相手が来てくれてラッキーだったぜ! お前がため息をつくたびに魔物が来るなら、俺がその度に全部ぶっ飛ばしてやるからよ! だから、お前はもう、無理してため息を我慢しなくていいんだぞ!」
「……本当に、カスパルはバカだよね」
ハピは、呆れたように言いながらも、小さく息を吐いて微笑んだ。
「ん。……これからも、ずっとハピのため息、聞いててよね」
「おう! 任せとけ!」
***
大修道院の図書室。
「ああっ、ごめんなさい! また書類を……っ!」
「……お前は本当にどんくさいな。貸せ、俺が拾ってやる」
フェリクスが小さく舌打ちをしながら、床に散らばった魔道学院の復興計画の書類を拾い集める。
「ごめんね、フェリクス。……私、頑張って立派な先生にならないといけないのに……」
「無理に立派になる必要はない。……お前はお前のままで、俺の目の届く範囲でドジを踏んでいればいい。俺が、何度でも拾ってやる」
「フェリクス……っ! う、うんっ! 私、フェリクスのためにおいしいお菓子、いっぱい作るね!」
「……甘すぎるのはよせと言っているだろう」
フェリクスは束ねた書類をアネットに手渡しながら、微かに口元を緩めた。
***
修道院の訓練場。
「……フハハッ! 若い連中が、揃いも揃って春を謳歌してやがるな! なあシャミア、俺たちもこの波に乗って……」
「……バルタザール。あんたの借金を全部返し終わるまでは、結婚の二文字は口に出すな」
バルタザールが豪快に笑いながら肩を組もうとするのを、シャミアが冷たい視線で制する。
だが、彼女はその手を完全に振り払うことはせず、腕を組んだまま短く息を吐いた。
「……まあ、借金を返すまでの間くらいは、背中を預けてやってもいいがな」
「はっはは! 言ったな! よし、なら今日から賞金稼ぎでがっぽり稼ぐとするぜ!」
***
そのやり取りを、訓練場の隅から見つめていたエミール(イエリッツァ)は、無言で槍の石突きを床に叩きつけた。
「……血の匂いが、完全に消えた。俺の槍の出番は……もう、ないらしいな」
「エミール先生ったら……でも本当に、平和になりましたね」
隣に立つフレンが、修道服の袖で口元を覆いながらクスクスと笑う。
「……ああ。平和とは、退屈なものだ。だが……お前が笑っているなら、それも悪くはない」
エミールは、フレンの緑色の髪を見つめながら、静かに目を伏せた。
「エミールさん……っ。はいっ! 私、ずっとあなたの傍で笑っていますわ!」
***
復興の進む街角。
「はい、ユーリス。ブリギットとアビスの繋がり……これから、とても、強くなります。あなたと共に、生きる道……私、とても嬉しいです」
「ああ。地下のネズミと、南の王女様か。……悪い組み合わせじゃない。俺の知恵とあんたの力で、新しい世界を広げていこうぜ、ペトラ」
ユーリスが紫色の髪をかき上げながら涼しげに笑い、ペトラが真っ直ぐな愛情を向ける。
「もっちろん! フェルディナント様のお隣なら、どんな商売でも大繁盛間違いなし! これからも、二人三脚でがっぽり稼がせてもらうわよ!」
「ふむ……貴族としての務めも重要だが、たまにはこうして、君と静かに言葉を交わすのも悪くないな。君のその逞しさは、これからの復興に必ず必要になる。共に歩んでいこう、アンナ」
フェルディナントが銀色の甲冑を鳴らして優雅に微笑み、アンナが商魂逞しく胸を張る。
「ふわぁ……。カトリーヌ、僕はもう、あなたの雷霆の紋章構造を調べるのに疲れたよ……結婚するなら、せめて昼寝の時間は確保してよね……」
「ガッハッハ! 起きろリンハルト! そんなひ弱な体じゃ、アタシの旦那は務まらないぞ! ほら、背筋を伸ばせ!」
リンハルトが木陰でカトリーヌの膝を枕にして堂々と昼寝をし、カトリーヌが豪快にその背中を叩いて笑い飛ばす。
戦乱の爪痕は、まだフォドラの大地のあちこちに残っている。
だが、共に死線をくぐり抜け、泥臭くも生き抜く業を身につけた若者たちは、それぞれの絆を胸に、新しい未来へと力強く歩み出していた。
「……みんな、本当に良い顔をしている」
大聖堂のバルコニーから、復興の進む街の情景を見下ろし、ベレトは静かに微笑んだ。
過酷な戦いの果てに。彼らはついに、誰に与えられたものでもない、自分たち自身の手で選び取った未来への第一歩を、このフォドラの大地に確かに刻み込んだのである。