第一章①
帝国暦1180年 天馬の節。
午後のうららかな陽光が降り注ぐガルグ=マクの回廊。
しかし、その一角だけは、ひどく冷たく沈んだ空気が漂っていた。
「……メーチェ。どうしたの」
自身の背丈ほどある竹箒を持ったツィリルが、ピタリと足を止めた。
柱の陰。メルセデスが、青ざめた顔をして立ち尽くしている。彼女の美しい亜麻色の髪は力なく垂れ下がり、その大きな碧い瞳の端には、うっすらと涙の膜が張っていた。
「ツィリルくん……。ううん、なんでもないの。少し、探し物をしているだけで……」
メルセデスは無理に微笑もうとしたが、そのふくよかな唇は微かに震えていた。
ツィリルは箒を壁に立てかけると、無言のまま彼女の正面に立ち、距離を詰めた。互いの修道服が触れ合うほどの、至近距離。
「あっ……」
ツィリルの顔が近づき、メルセデスは思わず息を呑む。
彼の真っ直ぐで、射抜くような双眸。シャミアから「狩人」としての観察眼を徹底的に叩き込まれているツィリルの目は、メルセデスの些細な変化を一切見逃さなかった。
「……胸元につけてた、古いブローチがない。メーチェが『お母様からの大切な贈り物だから、肌身離さず持っているの』って、ボクに教えてくれたやつだ」
「…………っ」
図星を突かれ、メルセデスの目からポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
ツィリルは一切の躊躇なく、剣ダコと古傷にまみれた硬い手を伸ばし、彼女の白い頬を伝う涙を親指でそっと拭った。
指先に触れる、彼女の滑らかな肌の異常な熱と、涙のひどく甘い匂い。
以前、彼が怪我をした時に彼女がそうしてくれたように、今度はツィリルがその柔らかな肌に直接触れ、彼女の悲しみを物理的に拭い取ろうとしていた。
「町へお使いに出た時に……すれ違った子どもとぶつかって。気づいた時には、もう胸元から消えていたの。追いかけようとしたけれど、路地裏に逃げ込まれてしまって……」
メルセデスがたまらず、ツィリルの小さな肩に縋り付くように額を押し当てた。
ふわりと、彼女の豊満な胸元の柔らかな質量と、濃密な白檀の香りがツィリルの胸板を包み込む。彼女の震える熱い吐息が直接首筋にかかり、ツィリルの奥底に、静かだが確かな炎が灯った。
「泣かないで、メーチェ。ボクが取り返してくる」
「だめよ、ツィリルくん! 相手はどんな武器を持っているか分からないし、それに……」
「メーチェは、ボクに字や言葉を教えてくれた、大切な人なんだ。レア様の次にね。だから、ボクが取り返すよ。絶対に」
言い淀むことのない、真っ直ぐな言葉。
自分よりずっと年下の少年のはずなのに、その一切の迷いがない瞳に見つめられ、メルセデスの胸の奥が、ひどく甘く締め付けられた。
「……相手の人相と、逃げた方角を教えろ」
ふと、氷のように冷たく、地の底から這い出るような声が回廊に落ちた。
振り返ると、そこには完全に感情を殺した顔のエミールが立っていた。しかし、ツィリルには分かった。エミールの金色の瞳の奥で、かつて修練場で垣間見せた『死神』のどす黒い殺意が、限界まで膨張しているのが。
エミールの右手は腰の剣の柄を握りしめており、その指先からは、異常な握力によって彼自身の皮が破れ、タラタラと血が滴り落ちていた。
「エミール……お願い、無茶はしないで。ただの盗賊よ、あなたたちが怪我をする方が、私は……ッ」
「姉さん。俺とツィリルで……」
「私も行くわ」
エミールの言葉を遮り、メルセデスはきっぱりと言い放った。
「……姉さん、危ない」
「だめよ。私の大切な形見なの。それに……ツィリルくんだけを、こんなことで危険な目に遭わせるわけにはいかないわ」
メルセデスの手は、ツィリルの衣服をギュッと強く、決して離さないとばかりに握りしめていた。
弟の危うさを知っている。だがそれ以上に、自身の熱を分け与えたこの少年の身に何かあれば、自分の内側にある「柔らかな部分」が壊れてしまう。そんな得体の知れない情念が、彼女の足を前へ踏み出させていた。
「……チッ。俺の背中から、絶対に離れるなよ」
エミールは翻る外套の音と共に踵を返した。
メルセデスはツィリルの手を自身の両手でしっかりと包み込み、三人は足早に回廊を後にした。
***
大修道院のふもとに広がる宿場町。
薄暗い路地裏の湿った土の上にしゃがみ込み、ツィリルは地面を這うようにして、微かな泥の擦れ跡を指でなぞっていた。
彼は指先についた泥の匂いを嗅ぎ、足跡の深さをじっと見つめる。
「……歩幅が広い。それに、土の沈み込みが深い。スリをやった子どもじゃない。大人の男だ。子どもは囮で、ブローチを受け取った本命が別にいる」
「小賢しい真似を」
エミールが吐き捨てるように呟く。
ツィリルはシャミアから叩き込まれた追跡術を総動員し、路地裏の僅かな痕跡を辿っていく。やがて彼らが行き着いたのは、修道院の敷地内、人気のない古びた礼拝堂の裏手にある、苔生した奇妙な石造りの入り口だった。
重厚な鉄格子の奥からは、腐敗した水と、鉄錆、そしてむせ返るような「貧困と悪意」の匂いが這い出してくる。
「……ここは」
「ガルグ=マクの地下に広がる掃き溜め。『アビス』への入り口さ」
不意に、三人の頭上から声が降ってきた。
見上げると、礼拝堂の屋根から音もなくシャミアが飛び降り、その後ろからカトリーヌが豪快な足音を立てて歩いてくる。
「アンタら、血の匂いをプンプンさせて歩いてるから、気になってついて来ちまったよ。アビスのネズミが、地上の人間から獲物を掠め取ったってわけかい」
「……シャミアさん、カトリーヌ」
ツィリルが振り返る。シャミアは腕を組み、鉄格子の奥の暗闇を冷徹な目で見つめた。
「あそこは教団の目も届かない、正真正銘の無法地帯だ。地上のルールは一切通用しない。……お前たちだけで行かせるわけにはいかないな。私たちも付き合おう」
「レア様のお膝元でコソ泥とは、いい度胸だ。アタシの雷霆の錆にしてやるよ!」
歴戦の騎士二人が加わり、五人は重い鉄格子をこじ開け、地下へと続く果てしない螺旋階段を下り始めた。
空気の層が、一段下りるごとに冷たく、重く、そして淀んでいく。
ツィリルは息を殺し、シャミアから学んだ歩法と、カトリーヌ直伝の「重心移動」を組み合わせ、影のように階段を滑り降りていく。その無駄のない洗練された動きに、背後の師匠である二人は無言で視線を交わし、微かに口角を上げた。
やがて、長い階段の終わりが見えた。
開けた空間。そこは、ガルグ=マクの華やかな光とは完全に無縁の、薄汚れた石造りの地下街だった。
寄せ集めのテント、行き交う傷だらけの荒くれ者たち。空気中には、酒とカビ、そして古い血の匂いが充満している。
「……着いたな。ここがアビスだ」
エミールが低く呟き、剣の柄に手をかけたその時だった。
「――誰だか知らねえが、随分と物騒な客だな。地上の立派な騎士様たちが、揃いも揃ってこんな掃き溜めに何の用だ?」
地下街の入り口を塞ぐように、瓦礫の山の上に一人の青年が腰掛けていた。
薄紫色の美しい髪、女と見紛うほどの整った顔立ち。しかし、その瞳には路地裏の野良猫のような、狡猾で鋭い光が宿っている。
アビスを束ねる顔役の一人、ユーリス・ルクレール。
「俺たちの庭(アビス)を荒らすってんなら……容赦しねぇぜ?」
ユーリスが優雅な動作で立ち上がり、腰の剣に手をかける。
そして彼の背後の暗がりからは、巨大な拳を打ち鳴らす大男(バルタザール)、気怠げにため息をつく少女(ハピ)、そして、日陰特有の高飛車な笑い声を上げる金髪の少女(コンスタンツェ)が姿を現した。
「オーッホッホッホ! わたくしら灰狼の学級の恐ろしさ、その身に刻んで……刻んで……えっ?」
声高らかに笑い声を上げていたコンスタンツェの言葉が、不自然に途切れた。
彼女の薄紫色の瞳が、侵入者たちの後方――ツィリルと手を繋ぐようにして立っている、ふくよかな修道服の女性を捉えた瞬間。
「あら、コンスタンツェちゃん? こんなところで出会えるなんて奇遇ね〜」
「め、メルセデス……お姉、様……っ!?」
アビスの冷酷で張り詰めた空気が、極上の微笑みから放たれる圧倒的な母性(プレッシャー)によって、一瞬にしてへし折られた。
かつて魔道学院で、自身のすべてを包み込んだ「強者」とのまさかの遭遇。無法地帯の顔役としてアピールしようとした矢先にも関わらず、コンスタンツェの強がりの仮面が、音を立てて粉々に砕け散ったのであった。