ハーメルンのモノノ怪の二次創作、少なすぎだろ!
深夜。京都の旅館はひっそりと寝静まっていた。修学旅行の喧騒はとうに絶え、軋む床板の音だけが暗い廊下に吸い込まれていく。
比企谷八幡は寝付けずにいた。二人の言葉が頭蓋で反射して、まだ小さく木霊し続けていた。彼は寝息の籠った生温い空気を嫌い、気晴らしにロビーの自販機へ向かうことにした。
明日着る制服のシャツに袖を通し、靴下を履いた。その時、誰か寝返りを打ったのだろうか、ざざんと波のような音がした。それを気にも留めず扉を開くと、背後から微かに潮の香りが抜けた。
消灯時間をとうに過ぎた廊下は深い闇に染まっていた。比企谷は携帯のライトを点けて進んだ。階段へとつながる曲がり角。ふと、空気が変わった。
すれ違ったのは、場違いな男だった。大きな薬箱を背負い、鮮やかな五色の着物を羽織り、顔には隈取のような妖しい化粧を施している。浮世離れした面妖な男。
比企谷は彼を少し知っていた。旅館に着いた時、ロビーで見かけたのだ。調子のいい学生たちに絡まれ、告げたその素性は確かそう。薬売り。
「眠り薬が、入用で?」
すうっと、男が滑るように足を止めた。声は耳元で囁かれたように響く。比企谷も思わず歩みを止めた。
「……いや、今ちょっとお金がないので」
「何、お代は、結構ですよ。顔色が随分と、悪いようなので」
「いや、でもほら、言うじゃないですか。タダより高い物はないって」
比企谷の言葉に、薬売りと名乗る男は口角を上げた。
「なるほど、なるほど。確かに只は、高くつく」
薬売りは音もなく暗がりへと消えていった。内心首を傾げながら、比企谷は一階のロビーへと降りた。
そこは電気が点いていた。そして、雪ノ下と由比ヶ浜が何事もなかったかのようにそこにいた。
「遅かったわね、遅刻谷くん。知らなかったかもしれないけれど、五分前行動は常識よ。……誰かさんの所為で時間に余裕はないわ。早く行きましょう」
雪ノ下の冷たい声。由比ヶ浜の不安げな視線。訳も分からず二人に連れられ、あの場所へと向かう。ずらりと並んだ灯篭が夜の青い竹林を照らしあげているその光景は、比企谷の知る情景そのものだった。比企谷は呆気にとられつつ、なんとか状況を噛み砕こうとする。
これは、あの時に時間が戻っているのか。何故、一体どうして。
だが、比企谷が思考する間にもその時は刻々と迫っていく。思考は熱を持つ。もしも、本当に時間が戻っているなら、俺は――。
比企谷は咄嗟に前に出ようとした。前と同じように、この場をぶち壊せばいい。だが、喉が張り付いたように声が出ない。夢の中で歩いているかのように、足が鉛のように重い。
そして、比企谷八幡は出遅れた。
「海老名さん、俺と――」
決定的な言葉が夜に放たれた。彼に見過ごすつもりなどなかった。ただ、体が動くのが遅れただけだ。しかし結果として、彼は告白を止められなかった。 そして、告白の返事は予想されたものだった。
「ごめんなさい。私、私……」
海老名はそこで言葉を切り、戸部に背を向けて駆け出した。高い靴音が近付いてくる。奉仕部の間に会話はなかった。ただ、三人は立ち上がり、比企谷は逃げ出して来た海老名と目が合った。
どうして。彼女の唇がそう動いたのが見えた。彼は――。
目を覚ます。枕元の時計は、深夜を指している。息が荒い。先ほどのは夢だったのだろうか。
比企谷は制服に着替え、廊下に出る。そしてまた、あの男とすれ違う。一階に下りると、やはり、あの二人が何事もなかったかのようにそこにいた。
比企谷は悟った。繰り返しているのだと。
今度は事態を未然に防ぐために走った。告白が始まる前に戸部を引き留め、海老名はお前に気がないとはっきり告げた。だが、戸部はそれでもと笑って告白に向かい、玉砕した。
目を覚ます。
比企谷は制服に着替え、廊下に出る。そしてまた、あの男とすれ違う。一階に下りると、やはり、あの二人が何事もなかったかのようにそこにいた。
次は葉山を問い詰めた。お前のグループなのだからお前が干渉しろと。しかし葉山は動けなかった。関係の破綻を恐れた彼は、黙って戸部の告白を見過ごした。そして、また。
目を覚ます。
比企谷は制服に着替え、廊下に出る。そしてまた、あの男とすれ違う。一階に下りると、やはり、あの二人が何事もなかったかのようにそこにいた。
今度は海老名に接触した。告白がなされなければ、関係は崩れない。適当な理由をつけて、約束の場所へ行かないように進言した。そして、その日の夜。嵐山では何も起きなかった。
奉仕部の中では、本人が来ないのなら仕方がないと言うことになった。比企谷は由比ヶ浜が自分を疑っていることを知っていたが、無知を貫き通した。彼は安堵し、今度こそ気持ちよく入眠した。
新幹線で千葉へ戻ると、学生たちの記憶から修学旅行の事は直ぐに抜け落ちた。そもそも行事が存在しなかったかのように、ぱったりとその話題が教室で出ることはなくなった。
だが、いつもと変わらないはずだったある日、校舎の裏で告白は決行され、やはり、崩壊した。
目を覚ます。
目を覚ます。
目を覚ます。
比企谷は気が滅入り始めていた。海老名に干渉した件で、彼には罅が入り始めていた。やっと繰り返しから外れられたのだと思っていたからこそ、ここに戻されたという事実が確実に彼を蝕んだ。
寝返りを打つ音が、床板の軋む音が、風の吹き抜ける音が、波の音のように聞こえ始めていた。襖の模様が、巨大な蛇の目のように歪んで見える。幾度となくやり直しても、辿り着くのは自己犠牲か問題の先送りだけだった。
最初の結果以外に誰も傷つかない結末など存在しないのか。否、そもそも自分が犠牲になるあの答えすら、本当に正解だったのか今の彼には分からなくなっていた。
どろりとした疲労感を引きずりながら、比企谷は制服に着替え、暗い廊下に出る。いつものように、階段を男が上がってきた。彼と薬売りはすれ違う。ふわりと舞う生薬の香りの中で、薄荷の清涼感が鋭く鼻腔を突き抜けた。
「やはり、眠り薬が、入用で?」
比企谷は足を止めた。やはり、とはどういう意味だ。この男はこの悪夢のような閉じた時間を識っているのか。この状況から抜け出す鍵はこの男なのか。比企谷は恐る恐る口を開いた。
「それより、気付け薬はありますか」
薬売りの足が止まる。ゆっくりと振り返った男の口元が、三日月に歪んだ。
「ええ、もちろん。――飛び切り利きがいいのが、一つ」
背から下ろされた薬箱、その引き出しの一つが開く。薬売りは厚い紙に包まれた黒い薬丸を一つ摘まんで、比企谷の手に落とした。これを呑むのか。比企谷はそれを口に入れるのに幾許か躊躇し、やがて口を押えるように口内に落とした。刹那、凄まじい苦みが味蕾を刺激し、比企谷は思わず目を瞑った。
しゃん、と何処かで涼やかな鈴の音が鳴った。薬売りの手が、緩やかに上がる。極彩色の袖が翻る。比企谷が目を開いた瞬間、その白い手は既に目の前にあった。
ぱん。
乾いた破裂音が、脳髄の奥まで響き渡る。それと同時に、比企谷の足元の床が波打ち、氷が割れるように景色がガラガラと崩れ落ちていった。
目を覚ます。
比企谷は布団の中で溜息を吐いた。どうやら、これもダメだったようだ。
彼は制服に着替え、廊下に出る。しかし、今回は薬売りとすれ違わなかった。変化に戸惑いつつも、彼は階段を下りる。すると、一階の電灯が消えたままなことに気付いた。慌てて駆け降りると、自動販売機の光以外に光源がない薄暗いフロアがそこにあった。
「比企谷君」
ロビーのソファには雪ノ下が座っていた。そして、その向かい側には薬箱を下ろした薬売りが正座で構えていた。
「あなた、何回繰り返した?」
雪ノ下の声は静かだったが、その底に押し殺した震えがあった。普段の彼女なら絶対に零さない種類の震えだった。比企谷は困惑しながらも答えた。
「分からない。ただ、10回は超えてる――」
「13回、ですよ」
薬売りは遮って訂正した。雪ノ下はそれを睨むように見据える。
「あなたは知っていたのね。最初から」
「知っていた、というのは些か、語弊がありますね。ただ、ここは潮の匂いが、随分と、濃い」
比企谷は階段の途中で足を止めていた。気付け薬の苦みが、まだ舌の裏に残っている気がした。この男に何を聞けばいいのか考えていると、雪ノ下が先に口を開いた。
「私はあの時間を何度も繰り返したわ。私があなたに、あなたが――」
そこで初めて、雪ノ下は階段の比企谷を見た。冷たい視線ではなかった。むしろ、何かを堪えるような目だった。
「比企谷君。あなたはいつも、全部一人で片付けようとする」
「……悪いか」
「悪いわ。だって、それじゃ何も変わらない。海老名さんも、戸部くんも、葉山くんも――あなたも。誰も、本当の意味では救われていない。先送りにしているだけ。あなたがそれを繰り返すたびに、私はあなたが何も言わずに犠牲になっていくのを、黙って見ているしかなかった」
雪ノ下の声には、比企谷の見たことのない感情が薄く滲んでいた。比企谷はそれに何も言葉を返せなかった。
そのとき、階段の上から、小さな足音が降りてきた。
「……ゆきのん? ヒッキー?」
由比ヶ浜だった。制服ではなく、寝間着の上にカーディガンを引っ掛け、不安げな顔でロビーを覗き込んでいる。
「これ、どういうこと?」
由比ヶ浜は薬売りの姿を見て、ぴたりと足を止めた。極彩色の着物、隈取のような化粧。明らかに異質な男の存在に、彼女は小さく喉を鳴らした。
「あれ、ロビーにいた人……?」
雪ノ下が答えるより先に、薬売りが小さく頭を下げた。
「薬売りと、申します」
由比ヶ浜は警戒を解かず、比企谷の傍に寄った。
「薬売り? って薬局にいる人? 白衣じゃないの?」
「昨今は、こんな格好でもないと、売れないもので」
そのとき、階段に誰かがふらりと現れた。
「……誰?」
「私だよ」
雪ノ下の問いに答え、こちらへ歩いて来たのは海老名だった。欠伸を嚙みながら、ロビーの異様な空気に気付いて立ち止まる。海老名は、いつもの軽い笑みを浮かべることができず、ただ戸惑った顔でその場に立っていた。
そして、最後に。
「……みんな? なんで、こんなところに」
葉山が、海老名を追うように階段を下りてきた。
五人と薬売りが、ロビーに揃った。
薬売りは、薬箱を検める手を止めた。そして、ゆっくりと顔を上げ、五人を順に見渡す。声に、それまでとは違う重みが乗った。
「皆様、お揃いで」
そう言って、口の端をすっと持ち上げる。比企谷はその言葉にわずかな違和感を覚えた。
「あなた、これが何か知っているんでしょう?」
雪ノ下は立ち上がると、確信をもって問いただした。薬売りが手を翳すと、薬箱の引き出しが独りでに開いた。
「これは、モノノ怪の仕業、ですよ」
その一言が、ロビーの空気を変えた。
全てが科学で証明される現代で、妖怪の類だなんてバカな話だ。だが、ここにいる誰も、そんなことを口に出せなかった。
海老名の顔から、血の気が引いた。葉山は無言で、海老名の肩を支えるように半歩寄った。由比ヶ浜は息を呑み、雪ノ下は喉を小さく動かした。比企谷は、自分でも気付かぬうちに、息を止めていた。
「モノノ怪とは、人の情念と妖が交わり、この世に姿を持ったもの。それを討つことが出来るのは、この陰陽八卦が一振り、巽の剣、のみ」
薬売りは墨の様な黒に菱形の輝石が埋め込まれ、金が縁どられた剣を何処からともなく取り出した。魚とも龍ともつかない不気味な柄が、ロビーの薄明かりに鈍く光る。
「だが、この剣を抜くには条件がある」
薬売りは逆手に剣を構えた。
「形。モノノ怪の名」
「真。事のありさま」
「理。心のありさま」
「形、真、理。この三つが揃わねば、この剣を抜くこと叶わず」
薬売りは改めて五人を見据えた。
「形は、既に見えている。ありもしない幻で人を惑わすモノノ怪。その名は、蜃」
蜃。比企谷はそれを知っていた。蜃気楼を吐く巨大な蛤。確か、中国の妖怪だったはずだ。
かちん。
剣の柄が、歯を咬み合わせ、澄んだ音を鳴らした。薬売りはそれを見て、すうっと目を細める。
「さて、皆々様。真と理。お聞かせ願いたく候――」
薬売りがいっぱいいると判明したので、少し設定や性格が変わっていても見逃されるというカステクニック……。
みんなもモノノ怪、見よう!
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