※リハビリがてら書き上げた過去最長の小説のため供養も兼ねて。
ああ、俺は今夢を見ている。
瞼を開いた時、根拠もなくそう思った。
①
某月某日。
俺の朝は早い。自分をこの世に呼び出した本丸から出て行って既に数年が経過し、歴史修正主義者の心臓や頭蓋を突き穿つ感覚も忘れて久しいが、今でもこうして早起きな生活を送っている。
いや、何ならあそこにいた時よりずっと早起きかもしれない。
あそこには、御手杵という槍が目を覚まさなくてはならない理由は何一つなかったから。
政府所属の刀剣男士は刀剣男士用の寮(寮費は給料から天引き。水道代などは各自契約)があるため、現世に行くところや生活基盤なんてある筈もない多くの刀剣男士がそこで生活している。人間の独身職員には人間用の独身寮があるし、家庭を持つ職員でも希望者は家族寮に住める。ちなみに刀剣男士も個体によっては現世に降り、政府職員と一緒に暮らしているものもある。刀剣男士側も職員側も厳しい審査を通過した上でないと許可が下りない為あまり聞く話でもないが、短刀は比較的よく申請が通っている。この前は確か校務の毛利と信濃が退寮してたっけ。
そんなわけで政府直轄の寮で暮らしている俺は、自分でセットした目覚まし時計を叩いてベッドから這い出る朝から始まる生活を過ごしている。
顔を洗い、近くの部屋を借りている別の課の堀川から教わった簡単な自炊でちゃっちゃと腹を満たし、いつもの服装に着替えて部屋を出る。一緒に暮らしているものなどいないから、「いってきます」などという言葉はない。そもそも同居人がいないどころか、家具の類も殆どないしな。ただ金属製の分厚い扉を閉めて、鍵を回す。扉のシリンダー錠が締まるカチャン、という音と、鍵に着けられたストラップの鈴が揺れてチリ、と小さく鳴る音がした。
寮から本部への移動距離は当たり前だが然してない。個体認証をパスしてゲートを抜け、誰が掃除しているのかも分からない廊下を進む。思うがこの建物、無駄に曲がり角が多くないか。俺でも移動が煩わしいって相当だぞ、こんのすけや短刀達にとってはもっと長く感じるんじゃないか?そんなことを考えながら、目を瞑っても迷わないくらいには歩き慣れた道を通り、目的の勤務先に辿り着く。扉にはめ込まれた四角い窓は摺りガラスがはめ込まれていて、中の様子が伺えないようになっている。その上には金属製のプレートが付けられ、明朝体のフォントで「葬務課」とだけ書かれていた。
葬務課。総務課ではなく。
何も知らない者から見れば縁起でもない字面だが、ここは一般人なんて入るわけのない政府職員専用通路なのでなんてことはなく。それにただでさえ正面玄関から遠いここを通るものなんてそれこそ俺達かこんのすけくらいなものなので、余計に人の目を気にすることもなかった。
鍵のかかっていない扉を開ければ、鼻腔を微かに擽る布と紙の匂い、それを打ち消すような重たい煙草の匂い。幾重にも重なったそれには重みなんてないのに、どこか視界をぼんやりとさせる。まるで見えない御簾だ。どこか線香を思い出させるその香りに、女っ気なんてものは感じない。若々しい女が纏う香りにしちゃ華がなさすぎやしないかと思うが、それを指摘する時期はとっくに過ぎている。それに鼻が痛くなるような甘い匂いよりかは遥かに落ち着くので、俺はもう何も言わない。前に喫煙所に行けと言ったら、本部に喫煙所はないとか言われたし。時代は禁煙、吸うにも電子タバコが主流だそうだ。以前訪れた古道具屋で埃を被っていた煙管がそう嘆いていた。
「おはようさん。なんでもうこんな煙いんだ今日」
「おはよう。今朝がた飛び込みで仕事の話が来てな、始業前の一服だ」
「じゃあ換気扇くらい回してから吸えよ…。アンタは他人に何言われても構わないのかもしれないが、俺は結構構うんだぜ。いちいちアンタの悪口をその辺で聞かされんの」
薄い煙と重い匂いの向こうからする、少し低いが若々しい女の声。人が来ると言いつつ配慮がまるでなってない様子に溜め息を吐きつつ、俺は備え付けの換気扇の電源を入れた。時折思うが、常々槍なんだから突く以外のことなんて出来ないと自覚を持って過ごしている俺以上に、この女は人への気遣いが出来ない。よくもまあ、こんな彼女を周りの連中も人間みたいに見るものだ。
「つーか、来客があるなら茶を淹れる湯くらい沸かしたらどうなんだ」
「どうせ飲む暇もない。淹れるだけ無駄だろう」
「…
「形だけ、か」
すれ違いざま、ハッと鼻で笑う声がした。無視して台所…というか備え付けの給湯室に入れば、来客用の茶葉を出すどころか湯呑すら棚の中で鎮座したままと来た。仕方がないので取り敢えず二人分出して、ヤカンも火にかけてやる。俺の長身は槍の名残であって、決して高い棚から湯呑を出す為ではないんだが。
換気扇が回る音と、ヤカンの中で水が湯に変わる音。その向こうで、彼女が独特な匂いの煙を吐く音が微かにする。
「常識やら作法やら。貴様は私以上にその手のものに拘るな、御手杵。
形だけの猿真似では、ただのままごと遊びにもならんよ」
貴様とて知っているだろうに。
そういう言い方よせよ、とは言わなかった。
②
数十分後。
「突然のご依頼、申し訳ございません。
「詫びは良い。本題を聞こう」
滅多に俺達以外通らない扉が三回鳴って、その後出迎えに行った俺の前に立っていたのは信濃だった。というかこの信濃、つい最近職員の家に引き取られることになって退寮した奴だった。向こうも俺のことを覚えていたのか、最初に目が合った時は少々驚いていた。…だが退寮に伴って荷物の運び出しを進めていた時とは打って変わって、その整った顔つきには幸せだとかの代わりに、どこか疲弊と苛立ちが滲んでいた。
とはいえ、そんな信濃とテーブルを挟んで向かい合っている志廼の調子は普段と変わらない。疲弊している人間を前にしているんだからもう少し愛想とか配慮とかないのか。ないんだよな。
煙草の吸殻が小さな山を築いていた灰皿は片付けたので、今の彼女は煙草を吸えない。手持無沙汰なのか、組んだ長い脚に乗せた右の人差し指が膝頭を僅かにトントンと叩いていた。凡そ来客に見せる態度ではないが、ここに来る奴はそんなことを気にする余裕なんてない。信濃も案の定その通りみたいで、固い声と不遜な態度の彼女にも何も反応せず、傍らに置いていた箱を持ち上げた。
箱は大体立方体。一辺の長さは目測だがざっと60センチほどか。白っぽい材質の木(桐か?)で出来た箱で、無地だが上質なのが見て分かる。
「こちらのものを、見ていただきたいのです」
「承知。ひとまず拝見する」
信濃に封を解いても問題ないか聞き、頷いたのを見て志廼が木箱の蓋に手をかけた。
箱の中から出されたのは、ガラスケースに入れられた市松人形だった。身長(?)は凡そ50センチほどと大きく、端から見たら本当に小さい子供みたいだ。黒い髪を背中に流し、赤い生地に花を咲かせた品の良い着物を着ている。白い顔はふっくらと頬が膨らんでいて、小さな口にちょんと色が乗っている。俺に物の美醜は大して分からないが、なかなかの美人じゃないか?
「良く出来ているな」
どうやら志廼も同意見のようだ。彼女がものを、というか人形を褒めるなんて珍しい。彼女が見ても相当出来が良いんだろう。だが信濃の表情は晴れない。まあ、俺達が褒めてるのってこいつの悩みの種だしな。
ちゃんと休めていないのか、ただでさえ白い顔が人形並に白い信濃に湯呑をそっと手で示してやる。ほらな、やっぱり茶淹れて正解だっただろ。僅かに湯気を立てるそれを傾けた彼はしばらくして、言葉に迷いながらも口を開き、この人形をここに持ち込むことになった経緯を話し始めた。
「僕は政府の寮で暮らして五年ほどになる個体ですが、最近退寮したんです。同じ校務課で仲の良かった職員さんの奥様がご懐妊されて…俺の子供の話し相手、そして守り刀になってやってほしいって。そう頼まれて、二つ返事で引き受けたんです」
この信濃は元々校務…一般人上がりの審神者たちへの教習を担当する部署にいる刀剣男士だ。本人も子供や未来ある若者を見守り、導く仕事にやりがいを見出していたんだろう。ならば仲の良い職員に「自分の子供を見守ってやってほしい」なんて、全幅の信頼がなくちゃ言いっこないことを言われて嬉しくなかった筈がない。
「ご子息も無事に生まれて、僕達の書類の審査も通って。晴れて僕はあの家に引き取られることになりました。それで寮に置いてあった私物もまとめて家に入れてもらったんですけど…この人形は、僕が来た時には既に家にいました。こんな風にガラスケースに入った状態で、居間に置いてあったんです」
「こいつは夫妻が買ったのか?」
「はい。僕が守るように頼まれたのは、二人の長女なんです。お二人が結婚されてからご懐妊まで、その、時間が掛かっちゃったそうで。子供が出来にくいのもあって一人きりの家が寂しかったからと、去年あたりに街で開かれていたフリーマーケットで売られているのを奥様が見つけて購入されたそうです」
「フリーマーケットってなると、販売元を辿んのは難しいな。けど職員を狙った話でもなさそうか?」
「迂遠すぎるな。この人形をこさえる手間と釣り合わん」
「僕もその可能性はないと思って、特に気にしませんでした。僕らみたいな付喪神が宿っているわけでもないし、普通の人形として扱って、ケースを拭いたりとかはしていました」
「なら、話は娘が産まれた後か」
「…はい」
普通の人形の筈だった。付喪神として数年を過ごした信濃ですらそう判断した。事実職員の妻が出産の為に入院し、職員や信濃が病院と自宅と職場を慌ただしく駆け回っている頃は何も起こらなかった。
異変が起きたのは、妻が無事に長女を出産して退院した後。久々に、そして初めて家族全員が家に集結した日の夜だった。
妻の退院、子供の誕生、信濃の歓迎を盛大に祝い尽くした一家は、宴もそこそこに全員揃って夢の中に旅立った。妻は出産で体力が落ちていたし、夫も二人が無事に家に帰ってきたことで緊張の糸が切れたらしかった。一方信濃はまだまだ眠れない。ただ疲れた人の子達を起こさないようにそっと布団を出て、柵に覆われたベビーベッドで夜泣きもせずに眠る赤子を可愛いなぁ、と思いながら眺めていた。その時だった。
ガタ。
寝室から離れた居間の方から、何かが倒れるような音がした。すわ物盗りか。夜戦に強い短刀の神経が音に弾け、足音を殺して居間に向かった。
しかし信濃が辿り着いた時、特に居間に物盗りだとかはいなかった。片付けを明日に回したジュースのペットボトルだとかが無造作に転がっているだけで、戸締りも特に問題ない普段通りの居間だった。
小さな地震でもあったのかな。そう結論づけて寝室に戻ろうとした時、信濃は気付いた。
——人形を入れているケースが、僅かに開いてる。
それに少し、斜めに向きがズレている?
まるで重い棚を、誰かが無理矢理押したみたいに。
いつもガラスケース越しに眺めていた市松人形。その墨のように真っ黒な目が、灯りもない部屋で真っ直ぐ自分を見ているような気がした。
それから数日後の夜。信濃も熟睡していた深夜二時、赤子のつんざくような鳴き声がした。
夜に強い短刀といっても、今信濃が好きに動かしているのは人の身体。日中に動き回っていたのなら夜は眠いに決まっている。夜泣きなら、おむつを替えてほしいのかな。そんなことを起きぬけに考えながら眠い目をこすって起き上がった信濃と夫妻は、全員自分の目を疑った。
きゃあきゃあと全霊で泣いている赤子はいつも通りベビーベッドに寝転がっていた。しかしその小さな寝台を支える四つの脚の側。その細い脚に身を隠してまるでかくれんぼでもしているかのように、あの市松人形が立っていたのだ。
「最初にケースが開いているのを見つけた後、何度も確認したんです。付喪神は宿っていない。なのに複数の検証をしてみても、呪詛の類は全く出てこなかった」
「それでウチ、いや私か。葬務課は人形屋ではないんだがな」
「すみません…原因が不明なままなのは僕の力不足です。
ですが、それでも僕はあの子を守るように頼まれた。何が危険なのか、そもそも『危険なのか危険じゃないのか』すら分からない。そんなもの、あの子の側にずっと置いておくことなんて出来ない」
「なるほど、大した忠義だ」
「おい」
「茶化しているわけじゃない。この信濃は自分を家に招いた男からの信頼へ応える為、ここへ来るという選択を自分でした。その時点で既に釣りが出ているだろうが」
どこか茶々を入れるような音を含んでいた声音に隣の軽く小突くが、特段志廼は気にした様子もない。本心で言っているからだ。そして彼女が言うことは、俺も分からなくはなかった。
信濃だって慣れない家に招かれ、更に未経験の子守までやり始めている。そもそもこの手の荒事は専門外だ。だが経験がなくとも彼なりに考え、その結果が無礼を承知での飛び込み依頼。餅は餅屋。気味が悪いからと咄嗟に燃やしたり切ったりもせず、親子がいる手前大騒ぎをすることもせず、政府の中でも限りなく正解と言える人物に助けを求めることを彼が即断出来たのは、確かに釣りが出るほどの大金星だ。
「この人形がここに来た時点で、既にほとんど全てが終わっている。信濃藤四郎。後は
「ほ、本当ですか!」
「ああ、人形は一旦こちらで預かる。恐らく最終的に壊すが、構わんか?」
「お二人にもそのことは了承を頂いています。ああ、良かった…!」
後のことを引き受ける。ケースに手を置いたまま眉一つ動かさず言い切った志廼に、信濃は目に見えて安堵した。岡恒志廼、とは彼女がここで名乗っている名だ。刀剣男士なんて付喪神やそれを使役する人間が大量に出入りする場所において、本名を晒すバカはいない。故にこれもまた彼女が産まれた時に与えられた名である筈がないのだが、それでも名は名だ。それを出して述べた誓いは例え強制力はなくとも、それなりの言霊というものが宿るものだった。
だから信濃は安心した。
それが、俺にはあまり面白くなかった。
③
「それでは解体に移る…と、言いたいところだが」
信濃が深く深く頭を下げ、葬務課を後にしてから数分。
すっかり冷めた湯呑を俺が片付けて戻ってくる頃には、志廼はしまっていた筈の灰皿を取り出し再び煙草をくわえていた。煙草を吸うのにジッポライターを使うのは、個人的なこだわりだと彼女は言う。手を離して机に置いても火が消えない辺りが良いらしい。よく分からないが。火をつけるだけなら100円ライターだってマッチだって良くないか?胴体に掘られた装飾こそ華麗だが銀色に鈍く光る四角いそれは、やはりどうにも女子の白いしなやかな手に握られるには武骨に見える。カチンと音を立てすっかり手慣れた様子で蓋を開く姿はその辺の男より様になっていて、どうしてこう、彼女は普通の女っぽくやってくれないんだ…と、俺は文句をつけたいのか笑えば良いのか何とも微妙な気分になった。
「さっきも言ったが、こいつがここへ来た時点で既に大方の決着はついている」
「それ、どういう意味だよ」
「そのままの意味だ。
御手杵。お前にこの人形はどう見える」
相変わらず彼女の言うことは明朗なようで胡乱だ。理路整然とした論理をなぞっているようで、その進み方は酷く我儘。真っ直ぐ進めばいいだけの一本道を、わざと滅茶苦茶に捻じ曲げて長ったらしい迷路にしたがる性格ともいう。何を伝えたいのか不明瞭なその問いかけに文句を言いつつ、俺は再度人形へ視線を向けた。
俺も霊的なことに明るいわけではないが、凝視してみたところで何か見えなかったものが見えるわけでも、人形から何か不味そうなものを感じるわけでもない。ケースごと抱えてみても、特段重さにも違和感はなし。やはりどこからどう見ても、ただの精巧な大きめの市松人形という感想しか出てこない。
「鈍感男め、と言ってやりたくなるが、今回の場合はそれが正解だ」
「合ってんのかよ」
「他の正解がまだないからな」
間違っていないからではなく、他の正解がないから?俺の答えを聞いた志廼は、やはり持って回った言い回しをする。言葉を選ぶ沈黙も要らないくらいに答えがあるなら、さっさとそれを言ってしまえばいいのに。そう思うのは、俺に風情を解する心がないからか。
先端にオレンジ色の熱を灯した煙草を指で挟んで遊ばせながら、彼女はケースの中に佇む人形ではなく宙に消える煙を見ていた。
「確かに出来た人形だ。顔や指先の造詣も良い、着せられた着物の布地も上等。髪の材質にも妥協がない。
だが、言ってしまえばそれだけだ。
貴様も分かっているだろうが、そいつには別に呪詛なんて掛けられていないし、無理に改造した痕跡もない。バラバラにしてみたところで、誰かの髪や骨が出てくることもないだろう。
こいつは呪いの人形でもなければ神でもない。
付喪神の手前くらいではあるが…本当に、それ自体はただの人形なんだ」
夜中に一人でにケースをこじ開け、寝室に忍び込む市松人形が…ただの、人形。
既に人形への興味を失くしたらしい志廼の答えは、そんな俄には信じがたいものだった。だがそれじゃ納得出来ないに決まっている。付喪神は宿っていない。かと言って人の込めた呪詛もない。電池の入ったロボットでもない。だったらどうして動く。何が動かしているんだ。
「だから問題なんだ」
「は?」
「言っておくが、今この人形が動ける理由についての正確な説明は私にも無理だ。私は知っての通り“器”の方が専門なんでな、それが精巧なだけの凡庸な品だと分かった時点でお手上げだ。
だがこの人形の真の問題は、『どうやって』この人形は動いたのかじゃない。動いている器それ自体は無害なものと判明しているからな。
目を向けるべきは中身。『何の為に』動いたのか、だ」
そう語る志廼の顔を、人形がその黒く塗られた目に映している。価値も分からないまま名画を眺める人のように。
「………」
人形の目は動かない。そう俺は知っている筈なのに、何故かその黒い目が志廼を見ているように思えてならなかった。
なにも不思議なことじゃない。人形というものは元々そういう風に作られている。きちんと目が合うように。自分を見ていると人に思わせるように。
だから気のせいなんだろう。そう思った。
だけど…やはり俺は思うのだ。
目を向けているのではなく、この人形は理解出来ないなりに見ている。信濃の次は、彼女を。
少なくとも俺にはそう見えるし、そう感じた。
その当たり前のごとく無感情な目は、俺がよく知っているもので。きっと俺自身も今、同じ目をしているから。
「——釈迦に説法だろうが、市松人形というのは単に子供の玩具として造られたものではない。無論そういう用途もあるが、飯事の相手をするだけにしては凝りすぎている」
「流石に分かってるって。形代だろ」
俺の内心など知る由もなく、彼女の講義じみた話は続く。人形の目のことなんか忘れたかった俺は、乗っかるようにその話に食いついた。
形代。白紙を切ったものとか、今回みたいな人形とか、何でも良い。とにかく人を思わせるけど人ではないものを、総じてそう呼ぶ。それは降ろした神が現世で過ごす為の仮初の身体となったり、自分自身に見立てることで、本来自分が抱える筈だった呪いや穢れといったものを代わりに引き受けてくれる身代わりとなる。
市松人形に限らず、人形というのは形代の代表格だ。子供の遊び相手になるほど可愛らしい、人の子の姿。子供の側に置き、幼い彼等を病や悪運から守るものとしては最適だ。
そうしてずっと昔から、人形は子供の側にいた。
「だが、どうやらこの人形は長い時間大切にされ、代々の子供達を見ているうちに学習したらしい」
「何を?」
「子供はいつか大人になり、大人はいつか親になる。
その時に可愛がられるのは、自分ではないということだ」
形代の役を持ちつつ、子供に愛されてきた人形達。しかし人形も壊れないまま健やかに子供が育てば、おのずと人形遊びは卒業する。そうして役割を終えた人形は箱へ戻され、棚に仕舞われ、何年も闇の中で過ごし。そして次の世代の子供の前に現れるのだ。
それが本来の姿だ。どれだけ丁寧に作ってみても、どれだけ長く側に置いても、所詮人形は人形でしかない。子供と共に背が伸びることはなく、いつか遊び相手は務まらなくなり、友達ではなくなっていく。
かつて自分と飯事をしていた娘が、いつか本当に母親になった時。棚の奥から箱を引っ張り出して、蓋を外して自分を外に出す。しかし彼女は遊んでくれることもなく、そのまま自分を娘へ与える。それを何度も何度も繰り返すうちに、付喪神へなりつつあった人形はいつしか気が付いた。
自分を市場で買い取ったのは大人の女だった。しかし彼女は自分を飾ってくれることはあっても、自分と遊ぶことはなかった。そしていつの間にか家から姿を消し、しばらくしてから赤子を抱き、信濃を連れて家に帰ってきた。その団欒を見て、ついに人形の中に積み重なってきた思いは一つの結論を得たのだろう。
自分を取り出した彼女達は、また遊びたくて出してくれたのではない。自分を愛しているから出したのではない。愛しているものへ渡す為、再び手に取ったに過ぎないのだ。
「人形は箱にしまえば、次に自分が出されるまで何年かかるか分からない。
だが箱の外では、娘は女になり、女が母になり、いつか老婆になって死んでいく。変わらない心のまま四半世紀後にまたこんにちは、なんてお互い無理だ」
「当たり前だろ。成長が足りないとかならともかく、何一つ変わらない人間なんているわけがない。変わらないのは死者だけだ」
「ああ、当たり前だ。我々にとってはな。
だが、コイツにとってはどうやら違ったらしい。
何も感じないままでいるには、人から大事にされてきた記憶が多すぎた。だが『当たり前のことだから』で片付けるには、飲み込む力が足りなさすぎた」
付喪神になりかけるほどには、何度も大事にされて、何代にも渡って人の側にあり続けた。だが聞き分けのある存在になるには、誰もいない暗い箱の中で過ごす時間が長すぎた。現実を見失い続けた浦島太郎がやがて時の流れも忘れていたように、この人形は大人になれないまま幾代もの子供と出会い続けてきた。
「なんてことはない。ここにいるのは神どころか妖怪にすらなれないほど幼い思念だ。
自分と遊んだ何人もの幼子が母親になるだけの時間を過ごしてきたにも関わらず、一人だけいつまで経っても飯事の片付けが出来ない。ある意味哀れな幼子だ」
「…じゃあ、自分と遊ばせようと赤子の側に?」
子供と遊び、仕舞われ、時が経ち、また新しい子供と出会っては闇の中。精巧な自分を皆一度は愛してくれるのに、結局一番のままにはしてくれない。
だから幼いなりに人形は何とかしようとした。人形で遊ぶことをいつかやめてしまう子供達に、いつか箱へ戻されてしまわないように。遊び相手になってほしい、自分と一緒に遊んでほしい、自分を愛してほしい。あの家にいる女は二人、しかし母親はもう自分を見ることはないだろう。それを知っている人形だから、あの家にいた残る一人の女の子に訴えかけようとした。丁寧に作られ子供達に愛されてきた経験がなまじ多いだけに、断られるという考えがなかったのかもしれない。そうして自分を箱に入れる大人達が寝静まった夜、人形は自らケースの扉を開けて外に出た…。
「私の推測だが、恐らく違うな」
「えぇー」
しかし俺の考えはどうやら志廼のお気に召さなかったらしい。組んでいた足を一旦下ろし、紫煙をまといながら煙草の灰を机上の灰皿へとんと軽く叩いて落とす姿はやはり様になっている。ただ彼女はその間も人形のことも俺のことも見てはいなくて、ただ淡々とした普段通りの声のまま俺の推測をバッサリと切って捨てた。
「なんで?」
「単なる子供の遊び相手のままでは、結局何も変わらないからだ。
可愛らしいものを人間が可愛いからと言って手に取り愛でるのは、あくまで自分がそう思っているか、あるいは使い続ける理由がある間だけだ。それではまたその人に飽きられた時に箱へ戻されてしまう。それをこの人形は知っている。根本的な解決になっていないし、一時しのぎの手としてもほぼ無意味だ」
「…人形に合理性とか求めるか?」
「合理性ではない。子供らしい、短絡的な思考を模倣した結果の推測だ。
御手杵。子供の手の届く場所に置かれていた経験などある筈のない貴様には知る由もないだろうが、小さい子供というのは得てして大人ぶりたがるものだよ」
灰を落とした煙草をくわえ、また足を組み直す。そんな彼女を、ガラスケースの中の黒い目が見ている。
「早く大人になりたいと願うのは子供のよくあることだが、そう思ったところで時間の流れは変わらない。
自分がどうしようもなく子供であることを変えようがない故に、遊びの中でだけは大人であろうとする。実に子供らしい、純粋な浅薄だ。
この人形を動かすものが、それこそそんな子供のような単純さだったとして。続くことはないと分かりきっている飯事をそれでも何度も繰り返すうち、いつしか気が付いたんだろうな。
子供に愛されるだけの存在はすぐに忘れられる。忘れられれば箱に入れられ、また何年も暗闇の中に捨て置かれる。ならば違う役割をすればいいのだと」
「役割、って」
子供に愛される人形。生まれた時から抱いてきたその役目自体は決して間違っていないが、それだけでは愛され続けるにはもう足りない。そう人形が感じた時、新たに求めた役割とは何だったのか。
子供に愛される、それ自体は捨てる理由がない。別の愛され方を覚えたからと言って、子供に見向きもされなくなっては箱から出されることすらなくなってしまう。だからそれとは矛盾せず、かつ両立できるものを探した筈だ。
人形遊びを卒業する歳になっても捨てられない、子供に長く愛される役割。
親は子供が一番大事だ。なら、その子供を守る役割か?
いや、それじゃ足りない。市松人形は最初から形代としての側面も持っている。子供を守る役だけならこの人形が作られた時点で成立しているから、新しくやりたがるには弱い筈だ。
「……」
子供に愛される、子供を守るもの。
子供が大人になるまで、ずっと長く一緒にいたいと思うもの。
人形では務まらない、それは。
「あっ」
「どうやら分かったらしいな」
脳裏に弾ける、白い閃き。だがそれは、生理的な気色悪さを孕んでいた。
だっておかしい。普通じゃない。もしも“これ”が正解なのだとしたら、人形が勝手に動くなんてそれこそ普通じゃないことが起きたのだって頷ける。そう思えてしまうほどに強い違和感を伴う推測。
閃きのままに反射的に顔を上げた俺と、いつの間にか俺を見ていた彼女の視線がぶつかる。間違っていた方が良いに決まっている筈なのに、一つの新しい答えを見つけた俺の考えを読んだかのように彼女は皮肉屋らしい笑みを浮かべて俺を見ていた。
「子供に愛されるだけで駄目なら、愛する役に成るしかないだろう」
普通、生まれて間もない赤子を親は一人きりにして眠ったりはしない。夜泣きもするし、万が一のこともあるかもしれない。だから親は小さな寝台を柵で囲んだベビーベッドなんかを用意して、泣き声が聞こえたらすぐに駆け付けられるように近くで眠る。それはあの家も同じだった筈だ。信濃の説明を聞いていた時、彼は確かに言っていた。「眠い目をこすって起き上がり、そして自分と両親は目を疑った」と。あの家の寝室には、両親と信濃のベッドと、ベビーベッドが全て集まっていた。そして市松人形はベビーベッドの足元に立ち、目を覚ました信濃達は泣き声に釣られて顔を向けた瞬間にそれを見つけた。
それを見た信濃は、赤子に人形が害を為そうとしていると判断した。話を聞いた御手杵は、人形が赤子に遊んでほしいと訴える為に近付いたと考察した。だがどちらも違った。子供にどうにか遊んでもらうよう知恵を絞る、この人形は既にその域から逸脱していた。どれだけ手を尽くしても、もうそれだけでは足りないのだと知っていたから。
生身の人間に人形が成り代わることは出来ない。形代とは言っても所詮人形は人形だ。——だが、“モノ”が“別物”に成り代わるのなら?
この人形はその夜、赤子へ会いに寝室に忍び込んだわけではなかった。
あの日、見ていたのは。
「子を守り、成長を見続ける。泣いていればあやし、危なければ守ってやる。子供が生まれた時から永く傍に置き愛する存在。まるで親のような、しかし子供の両親と違い、自分と同じモノへの信仰から生まれたもの。ならば自分がそう成れない道理もない——そう信じて、この人形は信濃藤四郎を見ていたんだ」
人形がその目で見ていたのは赤子ではなく、その両親ですらなく。子供を可愛がる、刀の付喪神。本来ならあり得ない、しかし今回に限って言えば正解なんだろうと感じてしまうような推測。それを真実のように語る彼女の姿を、小さな黒い目が眺めている。
その視線の向きに、胸の片隅がざわつくような感覚がより大きくなった気がした。
④
吸っていた煙草がフィルターの近くまですっかり灰になった頃。語るだけ語って気も済んだのか、志廼は立ち上がって扉に向かった。
「焚き上げの準備をしてくる。これでも半人前の付喪神くらいにはなっている。それにこうも筋金入りの不良となっては、物理的に解体するだけでは足りんだろう」
「手伝うか?」
「不要だ。私一人でも十分程度で終わるだろう、貴様はそこで人形が脱走しないか見ていろ」
「…白昼堂々動くと思うか?」
「動くだろうな、必要であれば」
そんなやり取りをしつつ、彼女の姿が扉の向こうに消える。ガチャ、と扉のノブが回る音がして、残ったのはあの線香みたいな煙草の匂いと、俺と、ガラスケースの中でちょこんと佇んでいる人形。
窓の擦りガラスから人影が消え、扉の向こうの気配も遠のいた後。俺は相好を崩しつつ手を伸ばし、ガラスケースの向きを変えた。さっきまで彼女の方を向いていた無機質な黒い双眸が、ぐるりと回って俺の方を向く。だが見られている、という感覚は薄い。信濃や彼女とは随分と扱いに差があるらしい。まあそれもそうか、同族なんとやらだ、と思いつつ、俺は持っていた湯呑の中に残っていた濃い色の温くなった茶を一気に流し込んだ。
「なあ、お前さ。信濃になろうとすんのはやめとけよ」
返事なんか来ない。聞こえるのは、俺が朝に電源を入れた換気扇の音だけ。
当たり前だよな、相手は人形なんだから。声を掛けたって返事はない。抱きしめたって抱きしめ返されることはない。それが生きた人の身と人形の触れ合いの、ごくごく当たり前の光景だ。俺が付喪神で、相手が付喪神の蛹みたいな存在だったとしても。
それが事実で、この世界の皆が知っている当たり前なんだ。
「お前はあの家の子供にも、信濃にもなれねえよ。
確かに俺達は人間が俺達のことを知って、信仰を向けてくれているから存在出来ている。信濃だってそうだ。
だけど、あの家に信濃が来たのは子守の道具だからじゃない。寧ろ刀なんて本来、赤ん坊の手の届くところに置いておけねえよ。旦那と一緒に何年も働いて、旦那から“あの信濃藤四郎”っていう存在への信頼を、人一人へ向けられる最大の量まで積み上げてきた。そういう下積みがあったから、信濃は子供を守る存在として選ばれた。そしてそれを理解しているから、信濃もあの家に行くことを選んだんだ。
お前はそんなこと、一度だってやってないだろ」
返事は相変わらず返ってこない。視線はちっとも交わらない。聞いているのか、分かっているのか、ただ見ている分には分からない。だけど、コイツは俺の言っていることを聞いている、聞かざるを得ないから耳に入れている。俺は直感的にだがそう思う。
「上っ面だけ真似たって、人は愛してくれないに決まってる」
その言葉が、俺自身の鼓膜も揺らしている。自分の声で、自分の口から発したその台詞は、だけど俺には映画か何かの台詞のようにしか聞こえなかった。
俺は御手杵。天下三名槍の一振りで、刀剣男士。それは俺達を知る人なら皆知っていることだ。ただ、俺は他の御手杵とは少しだけ違う。個体差、とでもいうのか。それは俺が歴史修正主義者との戦いに身を投じることなく、こんな政府の片隅で岡恒志廼なんて女っ気のない女と二人でオカルトじみた話をしていることにも関係がある。
元々俺は、ある本丸で鍛刀された個体だった。後で確認したレシピも特段異常な点は無し。普通に鍛刀され、普通の審神者に出会い、普通の本丸で過ごしていた。審神者も先輩の刀剣男士達も、皆良い人だったと思う。
ただ、何と言えばいいんだろうか。顕現したその時から、俺の世界は映画のように現実感を失っていた。
色は分かる。感覚もある。飯を食えば美味いし、酒を飲めば酔うし、動けば汗をかき、戦えば血を流す。それ自体は分かるし、ちゃんと感じられる。ただその五感で捉えている筈の世界の全てが、何故か自分自身とまるで結びつかない。
「俺」が米を掬って口に運び、咀嚼している。
「俺」が傷付いた仲間を見て、敵に怒っている。
「俺」が血で滑る手に力を込めて、槍を振るっている。
「俺」の動きを主が褒めて、同じ部隊にいた仲間が笑っている。
何一つ不自由なんてない刃生。だけど、その全ては幕の向こうにある。皆、俺を通して別の「俺」を見ているようにしか感じられない。だから、俺は笑えない。
現実を俺自身が生きている筈なのに、他人がそうやって動き回っている屏風の絵をずっと見せられている。そんな感覚が、顕現した時からずっと付いて回っていた。
舞台上で生きている人物の中に、観客気分の奴が一人紛れ込んでいたらどうなるか。そんなのは火を見るよりも明らかで、段々俺は皆と上手くいかなくなっていった。皆も次第に俺がどこかズレているのに気付いた。現実感が薄いどころか自分のことを他人事のようにしか感じられない俺を、どうにかしようと根気強く付き合ってくれた奴もいた。主だってそうだ。だけど結局上手くいかなくて、俺は一度も「普通」を理解することが出来なかった。主は若い人だった。家庭を持つほどの歳でもなく、自分自身もまた人の生を大して知らないだろう人だった。成熟すべき大人と言うほどの年齢にもなっていない人間にとって、俺のような存在は扱いにくいに決まっている。「御手杵が何を考えて、何にどう思っているのか。俺にはよく分からないよ」——そう近侍に溢しているのを聞いてしまった時、いよいよもって俺は自分がどこまで普通から外れているのかを理解せざるを得なかった。
「御手杵という槍は、一度歴史上から焼失している。今あるのは再刃されたもの、敢えて安っぽい言い方をすればレプリカだ」
うちの御手杵は何かおかしい。そんな噂が本丸の中で広まった頃、久々に連れられてきた演練場で、彼女は俺を一目見てそう言った。
「御手杵という実在したが喪われてしまった刀剣と、現存し今も人によって保たれているレプリカ。その両側面のうち特に後者を強く持つが故に、人は自分を窓にして『御手杵』という歴史上の名槍を見ているように感じる——だから自分自身に向けられたものや触れたことが、上手く自分のことだと認識出来ない。そういう仕組みだろうな」
当時の俺の主が、彼女を「主任」と呼ぶ。何の主任かは分からない。ただ政府の人間らしいことだけは漠然と理解した。それが俺と彼女…岡恒志廼という女の初邂逅になるわけだが、今にして思えば当時から色々不思議な人だった。
演練場だというのに、彼女の側には部隊どころか一振りも刀剣男士がいなかった。それでいて隙のようなものは見当たらず、それどころか俺達にどこか近いような雰囲気すらある。そんな彼女から刀剣男士を連れた審神者達が避けるように距離を取り、ぽっかり開いたその場に立つ彼女はまるで舞台の主役のようだった。看板女優と呼ぶにはあまりにも熱を感じられなくて、どちらかと言うと医者のように俺には見えたが。
審神者でもない彼女は、俺を見ても特段表情を変えることはなかった。その医者のような雰囲気を感じたからか。俺は気付けば俺を眺めたまま、ずっと抱えてきた本心のようなものを吐き出していた。
「気味が悪いだろ。普通じゃないらしいんだ」
確かあの時、そう聞いた気がする。あるいは聞かなかったのかもしれない。あの頃の記憶は、今よりずっと輪郭が曖昧だから。
ただ明確に覚えていることがあるとすれば。彼女は確かにその時、俺を見ていたんだ。
「普通じゃない、か。確かにな。貴様のような性質は他の御手杵には見られなかった」
にべもなくそう言う彼女に、アンタは治せるのか?と問うた。だが俺のその問いかけに、彼女は被りを振った。
「人に治せるのは異変だけだよ。貴様のその虚無感は確かに他の御手杵の多くが持たない特徴だが、現存する本尊が焼け落ちた槍のレプリカであるのは紛れもない事実だ。御手杵が死に、貴様が生まれた——地に足をつけた事実に即した側面の一つが、表層に出ているに過ぎない。
ならばその空虚は塞ぐべき欠陥でも、取り除くべき異物でもない。世界の誰からも理解を得られない異質であるとしても、結局のところその胸の内には貴様自身しかいない。
異質ではあるが、異常ではない。貴様は、ただの御手杵だ」
随分と、酷いことを言う女だと思った。
だってそうだろう。
皆が映像の中で燃やしている華やかな彩りの一生を、俺は一人、埃の匂いが積もる寂れた映画館で見ていることしか出来ない。そんな誰かと分かち合えるわけもない、どうしようもない虚無感が、俺の中にあって当たり前のものだと言うのだから。これが手を入れるべき異物じゃないのなら、俺は折れて朽ちるまでこのままでいるしかない。
そう言われて俺の中に、しかし怒りのような気持ちが湧くことはなかった。そんな激情を胸に覚えた試しもない。
「そもそも貴様、別に変わりたいわけでもないだろう」
その理由すら言い返す余地もなくぴたりと宣告されてしまっては、どうしようもない。俺はそんな言葉にすら、口も心も動かなかったから。
そんなことはない、と言える自分なら良かった。普通の御手杵ならそう言っただろう。俺だって皆と同じように笑って、怒れて、泣けて、主を主として慕えて、仲間を仲間として大事に出来たなら。そんな俺なら、きっと誰も困らなかった。
だけど、出来ない。ここに生まれた俺はそんな「俺」じゃなくて、そんな在り方はすることが出来なかった。嘘じゃない感情がある筈なのに、どうしても世界が俺をすり抜ける。そんな俺が「自分は普通じゃないから変わりたい」なんて思えるわけがなかった。自分自身がどれだけ他の奴とかけ離れたところにいると知ったところで、それは遭難でも何でもない。誰もいない映画館の埃くさくて窮屈なその席だけが、俺にとって何ら不自由のない当たり前の居場所だったんだから。
俺に皆は優しくしてくれたし、良くしてくれたと俺自身分かっている。だけどその善意が落としていた影は、他の御手杵と違って普通になれない俺を哀れむ眼差しと同じ色だった。それは、俺の欲しかったものじゃなかった。
彼女は俺に異質だとは言うが、異常ではないと言う。その眼差しは人が何かを哀れむのとは違う、人がモノを見る目で、そこに哀れみの落とす影はなかった。今になってこそ分かるが、彼女には人を哀れむなんて高尚な善人じみた選択肢はない。ただ目の前の世界を真実と捉えるだけの眼球を二つ並べて、そこに俺を映し眺めていた。だけどその小さな目の中にいる俺は、幕の向こうで皆が見ている「俺」ではなく、ここにいる俺自身だと気付いて——ひどく、居心地が悪くなった。
見つかった、と思った。
誰もいない映画館の片隅の席で前を向いていたのに、その暗がりの中で後ろから突如肩を無遠慮に掴まれたような。そこに俺が一人でいることを、この女に知られてしまった。皆がいる幕の向こうを眺めている時の顔を見られた。皆そうやって、俺を普通ではないと理解してきた。
だけど彼女に見られたと感じた俺は、それでも逃げたいとは思わない。理解した気になられて、俺がおかしいと知られることに、もうすっかり諦めもついたからか。だが胸の奥、自分でも中身があるのかないのかよく分からなかったその場所に、何かが静かに落ちてきたような心地がした。
多分それは、怖いとは違う。怖いならもっと指先が冷めきるような心地がするんだろう。嬉しいとも違う気がする。だって最初に感じたのは居心地の悪さだったから。
それを人が何と呼ぶのか、俺は今になっても分からないままでいる。ただ、その時の俺にとっては——それが、十分なものだったんだろう。
「アンタはきっと、俺なんかよりずっと器用な人なんだろうな。刺すことしか能がないし、他の『俺』みたいな気の利かせ方も出来ない俺と違ってさ」
「………」
口から出たのは、どこか突き放すような言葉。様子を見ていた主が目に見えて狼狽するのが、また幕の隅に映っている。それをすっかり無視して、俺は目を逸らさずに立っている彼女を視界の真ん中に据えた。
「アンタは俺のこれを治せないと言ったが、哀れみもしなかった。
だったら教えてくれ。治すべきものじゃないっていうなら。普通じゃない奴は、どうやって生きれば良い」
「私は教師ではない。第一、貴様は主を持つ身だろうが。その主君の前で他人に乞うとは、天下の名槍が呆れたものだな」
「俺なりに主を思えばこそだ。
『俺』は確かに天下三名槍の一振りで、主はその槍を預けるに不足しない人なのかもしれない。だけど、俺は主が過ごすべき『普通』の中にはいられない。一緒に過ごすのが互いに難しくて辛いことなら、やっぱり離れるべきだ」
主を立てるような言い方だが、紛れもなく本心だった。
「殊勝なことだ」
「良い槍だからな、これでも」
「だが槍は主がなければただの置物だ。場所を食う分、文鎮よりも役に立たん」
「………」
「政府の本部に、行き場のない刀剣男士を引き取る部署が幾つかある。その一つに、貴様が渡るよう口利きしてやる」
主の為にここを離れて、そうして自分はどうするのか。自分の勘定になった途端に詰まってしまった俺をすっかり呆れた目で見ながら、彼女はそう言った。
政府への刀剣男士の引き渡し。それは本丸を新たな審神者に引き継ぐのとは訳が違う。その背後に様々な事情があれど、それは実質的な本丸からの放逐、審神者による刀剣男士の所有権の放棄だ。引き渡された刀剣男士にも引き渡した審神者にも、それ相応の風評がしばらくついて回る。
俺は別にいい。元々普通じゃない。だけど主はどうなんだ?俺という馴染まない異物と一緒にいて悩み続けるのと、手放した俺が振りまく風評に悩まされ続けるの、どちらが本当に嫌なことで、どちらがマシなことなんだろうか。
「……御手杵は、どうしたい?」
俺たちの会話を見ていた主が、俺に目を向けられてようやく口を開く。その問い、その顔が、全ての答えだったと思う。ろくな反応もせず彼女へ視線を戻した俺に、もう彼は何も言わなかった。視線を再度合わせた彼女も、何も言わなかった。
「俺、そっちに行くよ」
本丸を離れる為の正式な手続きが完了する一月前。
御手杵の結んでいた一つの縁が死んで、俺と岡恒志廼の縁が始まった日だった。
⑤
換気扇の回る音。彼女の残した線香みたいな煙草の匂い。
遠くもない過去が、彼女の閉じた扉の窓に映っている。
らしくもなく、長く耽っていたらしい。そんな自分に気付いて、俺の意識は浮上した。
目に微かに沁みる煙の向こうで、ケースの中に市松人形が鎮座している。その目は相変わらずいけ好かない真っ黒で、俺のことは映っちゃいない。俺がぼんやりしている間に、どうやら向きを変えたらしい。さっきまで俺の方を向いていた筈のガラスケースは九十度以上回転し、扉の方を向いていた。家を出る親の背中を眺める子供のように。
母親を見た。
信濃を見た。
そしてこの人形の今の興味と視線の矛先は、信濃から志廼に移りつつある。俺は一度もそこにいない。
「見る目があるんだかないんだか」
志廼は、この人形は役を求めて何かを見ていると言った。なら俺を見ないのは尤もだ。俺は「俺」にもなれなかった奴だ。だからまあ、それはいいんだ。まだ煙たい香りの残る部屋の中、ソファに凭れれば張られた皮が乾いた音を立てた。
あまり言う気にもならないが、俺はこの人形の本性を理解したところで、そこまで悪様に貶す気にはならなかった。確かに逸脱しているとは思うし、生理的な気色悪さも感じる。だけど皆と違うからおかしくて、皆を疲れさせるのは俺も同じだった。
自分はここにいて良い、そう思える場所に座りたい。
その気持ちが分からなくはない以上、俺にはこの人形を頭ごなしに強く否定するだけの立派な道理がない。
あるとしたら、もっと別なものだけだ。
「そんなに見たって、お前は誰にもなれねえよ。
俺は自分の意思で、あの日本丸を出ることを決めた。
信濃は自力で信頼を重ねて、あの家へ行くと決めた。
だけど、お前は違う」
気持ちがわかるからといって、じゃあ自分がコイツと同類なのかと言われれば違うと声を大にして言いたい。本当に同じなら、こんな気持ちにはならないだろう。まともじゃない俺なりに、もう少し本腰を入れて人形へ同情して、憐れんで、理解者面で自嘲のネタにでもしていたと思う。本領を外れて役を外に求めたこの人形を俺がただ気色悪いと感じたのは、きっと同族嫌悪からじゃない。
相変わらず人形はまた知らん顔で、扉の方を見たまま微動だにしない。さっきまでは話を流す程度にしろ聞いていただろうに、最早俺には爪先ほどの興味もないらしい。せっかく人がらしくもない説教までしているのに。だから子供だって言ったんだ。こちらを向いた背を見ながら隣の虚空に手を伸ばせば、一丈を優に越す俺の本性がずしりと手に乗った。
これでも名槍だ。その気になれば穂先を抜いて突き穿たずとも、重さだけでこんな人形は叩き壊せる。俺がそれをやらないのは、偏に今席を外している彼女が彼女なりの方法でこの聞き分けのない人形を弔う気でいるからだ。俺がここでコイツを壊せば、彼女の準備やら何やらを不意にしてしまう。そのことへの文句を言われるのを分かっていて動くほど、俺も腑が煮えくりかえっているわけじゃない。だからやらない、ただそれだけ。
「飯事の母親をやりたがるだけで、何も差し出さない。
自分自身の何かを手放すことも、自分に傷をつける藪の中へ手を伸ばすようなこともしない」
だけど分水嶺を踏み越されていないだけで、思うところがないわけじゃない。
扉の向こうに、人の気配が近付く。それを何となく感じながら、片手で振り回すには大きすぎる本性を肩に掛けた。
俺の見る全てのものは薄い幕の向こう側にあって、そこにいつまで経っても入り込めないままでいる自覚はある。だけどそこに、別の何かが映りこむようなことがあったら。誰かの影が、そこにいた彼女に重なるようなことがあったとしたら——俺は多分、黙って座ってはいられない。それがどうしてなのか、どうしてそう思うのかは、自分でもよく分からないが。
「お前は信濃でも、俺でもない」
口から出たのは、いつもより低い声。俺ってこんな声低かったっけ、なんて俺がそれこそ他人事みたいなことを思っていると、そっぽを向いていた筈の人形がガラスケースの中でギ、と小さな音を立てながらほんの少しだけこちらへ傾いた。
もはや隠すこともなく動いて振り向いた、俺の斜め後ろを見るような顔。だけど感じた。この人形は今、俺を見ている。眺めている。睨んでいる。好きでもない大人の説教なんて聞きたくないとでも言いたげに。俺だってお前なんか嫌いだよ。
俺は今になって漸く、この人形と初めて目が合ったと思った。向こうが初めて俺を見た、の方が近いか。だけどそうなっても、何もない。同類だとか同病だとか、そんな感慨は端から湧く由もないし、そこに敵意のようなものを感じたとしても「だろうな」としか思えない。この人形にとってここにいる俺は何一つ琴線に触れない木偶に過ぎず、俺から見たこの人形も結局不快な異物の域を出なかった。
「誰かが積んだ石の上に、靴も脱がずに我が物顔で腰掛けようとする。
——そんなお前が、志廼にもなれるわけなんかないだろ」
自分でも少し驚くくらい荒く、吐き捨てるように言葉が飛び出す。
外からドアノブがガチャリと回り、志廼が戻ってきたのはほとんど同時だった。戻ってきた彼女は墨やら麻紐やら何やらが雑多に詰まった木箱を小脇に抱えていたが、肩に槍を担いだままの俺と向きを変えた人形を見て何か察したらしい。すっと目を細め、口元に皮肉げな笑みを貼り付けていた。
「戻った。人形のお守りに槍を出すとは、随分と仲良くなったらしいな」
「どこが。握手する距離で友達に槍出す奴はいないだろ」
「だが視線は交わった。目の前の存在が『気に入らないから殺したい敵』なら、『他人』より余程縁があると言うものだ」
そんな詭弁にもならないことを言いながら入ってくる。
本性をソファに立て掛けつつ木箱を受け取ると、彼女はどっかりとソファに腰を下ろして机上の人形を少し横に退かした。どこかの倉庫から引っ張り出されたらしい木箱から漂う、ここに似た埃の匂い。使われなくなった道具達が仕舞われていた蔵を思い出すそれに、少しだけ線香の匂いが混じっている。
「目が合ったって言っても、それも今し方だったけどな。
俺のことは最初から眼中になかったのか、ずっと扉の方を向いてたよ」
「信濃を探して、いや、私を追ってか。貴様のその不機嫌もそれが原因か?」
不機嫌?
何でもないようにそう言う彼女に指摘されて、俺は遅れて理解する。ああ、俺は今、不機嫌なのか。でも、どうして機嫌が良くないんだろう。
それを考えだして、答えを出すまでには多分数分掛かっていた。
「……だって、嫌だろ」
「何が」
「見られるの」
俺の世界は、幕の手前で閑散としている。本丸にいた頃、皆は俺のことを理解出来ないような顔で見ていた。そうやって腫れ物みたいに扱われている中で、どうしてこれを皆分からないんだろうとか、どうして俺だけがこんなに普通じゃないんだろうとか、そう思ったこともあった。だけど俺しか見ていないその世界は、同時に誰にも邪魔されない世界だった。
あの日に俺が見た、俺を見ていた彼女だって。
それを横から割り込むように覗き込まれて、影を落とされる。俺の機嫌が悪いのは、そのせいだ。
「減るものでもなし、私は見られて困るような代物ではないが」
「そういう話じゃない」
「分かっている。貴様が腹を立てているのは、私が誰かに見られること自体にではない。貴様が見ているものを、あれが同じように見ようとすることだろう?
案ずるな。貴様らを一絡げにするほど私も雑ではない。そもそも、外から向けられる視線に、一つとして同じものなどない」
「……そうかよ」
そう言われて、胸の奥にあった妙な引っ掛かりが僅かに緩む。
別物。その言葉を、俺は何の違和感もなくすんなり受け取っていた。自分とあの人形が同じ場所に並べられなかったことに、少しだけ息がしやすくなる。
だけどそんな自分に気付いて、また少し居心地が悪くなった。
俺はあの人形と違う。一緒にされたくない。そう思いたかったのは確かだ。
だが、じゃあ今の俺が彼女へ向けているものは何なのかと聞かれれば、それはそれで答えに詰まる。
人形は彼女を見ている。
俺も、確かに見ている。
煙草を持つ指も、白い横顔も、人形を見る時の冷たい目も。絶え間なく動く銀幕の絵の中で中心に立ち続ける彼女を、俺はずっと見ているんだ。どうしてそこまで見ているのか、自分でもよく分からないまま。
「視線とは大抵、触れずに相手を削るものだ。無自覚なら尚悪い」
俺の内心を知ってか知らずか、そんなことを語りながら彼女はポケットから再び煙草を取り出した。使われる中ですっかり側面が歪んでしまった箱から一本出し、やはり指に似合わないジッポを鳴らす。
「子供の夢のような無垢を装ったところで、憧憬など所詮は一方的なものに過ぎない。前提となる理解も許容も欠けば、残るものはただの偏執だ」
火を灯された煙草から、真新しい香りが漂う。
「喋らず、弁えず、人を慮ることもしない。そんな聞き分けのない子供に諦める、退く、という選択肢を教えてやるのも大人の責務の一つではあるんだろうな。
だがこの筋金入りだ、言っても聞く耳を持たんだろう。それにコイツは既に、自分で後戻りの出来ない真似をしている」
彼女の吐き出す煙は、やはり線香を思い出させる。テーブルに置かれた木箱から微かに上る埃臭さも相まって、まるで仏間のような匂いがした。
「人形が愛されたいと願うのは結構。だが口の利けない人形の自覚があるなら、直せもしない信頼をぶち壊すような真似はすべきではなかったな。
何をしたところで、人形には罪を償うことも謝ることも出来ないのだから」
志廼のその言葉に反応するように、ケースの中で人形の袖が微かに揺れた。風などない。換気扇の音だけが、相変わらず天井近くで低く唸っている。
この人形なりに、ようやく気付いたのかもしれない。さっきまで自分が見ていたこの大人が、自分のことをどんな目で見ているのか。
「信濃にあの家から排除すべき異物と見做された。その時点で貴様はとっくに詰んでいたんだ」
ガタ。
またガラスケースが小さく鳴った。それは駄々をこねる子供の癇癪か、末路を察しながらも身を委ねるしかない故の震えか。
どちらにせよ、俺達のやることは変わらない。ガタガタと音を立てて少しずつ向きを変えるガラスケースに顔色一つ変えることなく、志廼は煙草を大して美味くもなさそうに吸った。
「私に貴様を預けた時、信濃は大層安堵した顔をしていたよ。貴様と縁を切れたのが余程嬉しかったんだろうな。
その慧眼の通り、貴様はただ刀で全身を叩き壊せば良い代物ではない。寧ろ器は幾ら精巧だろうと結局のところ凡庸な作品の域を出ない。問題なのは器を突き動かす、人形らしからぬその中身だ。
だから私に託された。貴様から名を奪い、心を死なせ、器諸共中身を
ガタガタ!
一際大きく、人形が揺れた。
信濃の話を聞いている限りでも、一晩を越さないうちにガラスケースから抜け出し寝室まで歩いてきた人形だ。元々これくらい、何ならもっと動けたんだろう。その場で何度も跳ねるように揺れて向きを変えたガラスケースの中で、小さな形の良い頭がぐるんと回った。光のない真っ黒な瞳が志廼を捉える。
墨よりも深い。沼のような、べったりとした黒。
ぞわ、と背中が粟立つような心地がした。
——触るな
だけどそう思ったのは、少し遅かったらしい。
志廼が何か言うより前に、置いておいた筈の本性が机に振り下ろされていた。
ガラスケースが粉々になる音と、木が強引に砕かれる低い音が同時にする。その音と共に飛び散ったガラスケースの欠片が宙を流れ、ぼんやりとした照明を反射し煌めく。それがやがて床に落ちていくのを目で追って、俺はようやく自分がケースごと人形を叩き壊したことに気が付いた。
「……あっ」
「たわけ」
数秒遅れて自分のしでかした横暴を理解した俺を、志廼は煙草をくわえたまま完全に呆れた目で見ていた。
「悪い」
「謝れば割れたガラスが戻るとでも?」
「……戻んねえな」
「分かっているなら箒を出さんか。破片を踏むなよ」
乾いた視線を向けられてそっと目を逸らしても、壊したものはどうしようもない。床に落ちた欠片を更に粉々にしてしまわないよう気を付けながら、そろそろと足を踏み出し部屋の片隅にしまわれた掃除用具を取りに行く。それを床に転がった首が、何も言わずに見ていた。
「全身壊しても駄目か」
「然もありなん、といったところだな」
畳のない床の上に、品の良い赤の着物が散らかっている。そこから放り出された白い手にはあちこちに罅が入り、関節はあらぬ方向に捻れ、首もまた衝撃に負けたのか歪みきった胴から離れ、ころんと床に転がっている。それは風に煽られ枝から落ち、人に踏み潰された花の死骸に似ていた。その生気のない黒の双眸だけが、生きた人間のようにはっきりと俺を睨んでいる。
罅だらけの手がカタカタと震え、胴と首を探している。床に散らばるように広がった髪が首に釣られて這い回り、小さく音を立てている。身体を一度殺された程度では懲りないらしい。呆れた強情さだ。だが、脅威とは感じない。これはもうそういうものなんだと、いい加減理解していた。
恐ろしさは、人の心を煽る空想の余地から生まれる。だがタネが割れ、本性が剥き出しになり、もうこの人形が俺へ植え付ける空想は枯れた。身の丈に合わない我儘の為に動くコイツへの不快感こそあれ、種明かしの終わった手品に驚き続けられるほど俺は器用じゃない。
「諦めの悪い奴だな。無理って言っただろ」
「それですんなり諦めるなら、それこそ大人だろう」
音を立てて、小さな手が床を掻いて這っている。それを温度のない目で眺めながら、志廼はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「花は枯れ、人は老い、川は低きへと流れ、死ねば生は終わりに至る。その道理を悟り、諦念と絶望を学ぶ。それが大人になるということだ。
知ることもなく、学ぶこともせず、置いていかれることも嫌だと言う。大人にはなりきれず、かといって子供のままにも留まれない。ならば居場所などどこにもあるまい」
「だから片付けるって?」
「生まれてもいない赤子、あるいは死者と同じだ。箱を開けて出てきてしまった世界のどこにも、こいつの為の席はない」
「……それで、どうすんだ」
「こいつが自分の死を知るまで葬り続ける。壊れても戻ればいいだけと思っているなら、もう戻れない場所まで送るしかない」
「山伏達か」
「既に話はつけてある」
「へえ、結構慎重なんだな。アンタにしては珍しい」
「私が慎重なのではない。コイツが悪い意味で頑固なだけだ」
線香の匂いが途絶え、煙が少しずつ換気扇に吸われていく。部屋の中の匂いが消えて視界が鮮明さを取り戻していく中、彼女の低い声がよく通る。
「一度死んで諦めるのなら単純だった。だがコイツは死を知らない。自分のものどころか、他人のものすらな。長い時間の中で全く知らずにいられた筈もないのに、コイツはそれへの理解を拒み続けた。自分の見たいものだけを見ていた。だからここまで子供だったんだ。
壊れたら戻ればいい、仕舞われたらまた出してもらえるまで待てばいい。それで全て問題なくなると、今も本気で信じている」
愛される人形から逸脱した。愛する故に愛される自分になれば、今度こそ自分は愛され続けると信じた。なのに愛する為に何かを差し出すつもりは毛頭なく、ただ子供や家族を脅かし、そのせいで信濃の怒りを買った。大人ぶろうとしても、肝心なところで大人になりきれない。そんな自分を変えることも出来ないのにただ愛だけを強請るなら、確かに葬るしかないだろう。特に俺達は、最初から人ではないから。人の為に生まれ、人の為に在る俺達は、人と歩みを共に出来ない時点で無用の長物となる。その結果として箱に入れられ暗闇の中にしまわれるのに、それを受け入れられないならどうしようもない。
彼女は言っていた。前提を欠いた一方的な憧憬はただの偏執と同じだと。それを人形自身が何と呼ぼうとも、ただ徒に人を傷付けるだけのものから変わりようがないのなら、もはや消すしかないのだ。
「欠片も逃がさず回収しろよ御手杵。ガラスはこの際まとめて燃やすから良いが、残った破片があればそこから増えかねん」
「うえ~」
「貴様が散らかしたんだろうが」
面倒だが、彼女の言うことは尤もだ。そして俺も人形と同列に語られたくない手前、自分で叩き壊したものの片付けは自分でやらざるを得ないわけで。見つけた箒とちりとりを手に、俺は持て余し気味の脚を畳んで床を掃き始めた。
床をさっと撫でる箒に、嫌々をするように転がろうとする人形の髪が絡みつく。学ばない欠片達は好き勝手動いて、掃いた側からちりとりを飛び出そうとする。そうまでして、まだ志廼になりたいのか。執念深さもここまで来るとひたすらに醜悪だ。ゴミ箱に行かず路上で腐っている果実と何も変わらない。それが志廼を見ようとして、あまつさえ自分がそうなれると根拠もなく信じているのが何だか無性に嫌で、俺は欠片が逃げようとする側からちりとりに押し込んだ。
部屋全体を掃除するような形で床を掃いて回り、片付けが終わったのはそこから三十分ほど経ってからだった。その間に更にもう一本吸っていた志廼が作業を手伝うことはついぞなかったが、人形の破片を詰めた袋の口を俺が縛るまで彼女は席を立つこともなく待っていた。
「終わったぞ、破片も全部ある」
「ん。結局一番時間を要したのが、やる筈もなかった部屋の掃除とはな」
「うるさいやい」
足を組んだまま煙草を吸っている彼女の眼前のテーブルに袋を置く。置かれた拍子か、中でまだ暴れているからか、中からは人形の欠片同士がぶつかる乾いた音が微かに鳴った。このまま放っておけば、人形は自慢の髪で傷を縛ってでも元に戻ろうとするのだろう。そうして袋を裂いて出てくるのだ。何一つ疑うことも、省みることもなく。だから殺し尽くすまで焼き尽くす。志廼がさっき言っていた山伏達は戦闘部隊ではなく、葬儀や神事を専門とする部署の刀剣男士だ。彼等を呼んだ以上、人形の最期はそこにある。既に死者も同然な人形に、その先なんてある筈もない。そう考える彼女の用意したエンドロールらしかった。
中途半端な長さになった煙草を灰皿に押し付け、彼女が席を立つ。パチンと音を立てて換気扇の電源も切れば、部屋には完全な静寂が訪れた。そしてスイッチが押され、照明も落ちる。薄暗くなった部屋の中で木箱と袋を抱えて出口に向かいながら、俺はふと彼女の言葉を思いだした。
——視線は触れずに相手を削る。
なら、俺は?
⑥
山伏や石切丸の協力のもと行なわれた火葬は一時間もかからなかった。
袋を受け取った石切丸によって木箱へ移された人形は、その木箱ごと火にかけられた。赤とオレンジ色が混ざった炎の中で、壊されていなかった時の人形と同じくらいの背丈の影が見えたような気がする。俺の気のせいかもしれないが。灼熱に水分が失われ、乾いた木が音を立てて割れて燃えていく。それは骨が焼けていく音に似ていて、人の悲鳴には程遠かった。
健在だった頃はあれだけの執念深さを見せていた人形だったが、初めて知る死の前では一度も踏み止まれなかったらしい。大人になることすら出来なかった奴だから当然とも言えるのかもしれないが。時折弾けるような音を立てながら燃え、髪の先に至るまで灰になり、真言と炎が消える頃にはすっかり跡形もなくなっていた。
山伏達が火を囲み真言を唱えているのを、俺は少し遠くから眺めていた。俺にこの手のことで力になれることはない。それに火に囲まれて葬られるものを見るのも、俺が「御手杵」だからか、あまり落ち着かなかった。
分かっている。あの戦争の時代の中で燃えてしまったのは俺じゃない。焼けて溶け落ち死んだのは「俺」で、俺はそのレプリカだ。そしてそこで燃えたのは「俺」ですらない人形だ。それを俺は知っている。分かっている。なのに落ち着かない。炎の向こうで消えていく影を見ていると、自分の輪郭まで一緒に焼かれているような気がしてしまう。俺はそこにいないと、紛れもない俺自身が知っているのに。俺は影がまだそこにいるような気のする木箱の残骸からそっと目を逸らして、横で相変わらず美味いのか不味いのかも分からない煙草を吸っている彼女を見た。
彼女は言う。視線は人を削るものだと。言わんとしていることは分かる。見えない、触れられない、知らないものを俺達は自分の世界に落とし込めない。俺の世界だってそうだ。皆とは銀幕一枚分の隔たりがあるけど、結局は見えるものばかりで出来ている。だから人は世界を見て、自分の世界を作る。そこにある存在を削り取り、自分の中に落とし込む。見ることには、それだけの意味があった。
——なら、俺はどういう意図で彼女を見ているんだろうか。
あの日出会ってからそれなりの時間を一緒に過ごしてきた。当然何度も顔を合わせて、何度も彼女を見ている。なのに俺自身のことを、俺はずっと分からないままでいる。
ライターを動かす手。煙草を挟んだ指。恐らく形が良いと評される部類に入る頭。無駄なものがない顔。感情を読みにくい目。岡恒志廼、という偽物とわかりきった名前。
俺は何を望んで、そこに目を向けているんだろう。
俺は彼女になりたいわけじゃない。彼女の役目を欲しいわけでも、彼女の席に代わりに座りたいわけでもない。
ならこの胸の中にあるものは何だ。視線が人を削ると言うなら、俺は何を望んで彼女を削って、俺の中に写しているんだろう。
しばらくそのまま考え続けて、なくしたくない、というのが一番しっくりくる気がした。
なくならないでほしい。変わらないでほしい。俺が見つけた時のまま、俺を見つけた時の目のまま、俺の世界の中にいてほしい。
ただ、そこにいてほしい。
だけど、それだって結局はこちらの都合だ。俺にそんなことを押し付ける権利はないし、それを彼女が聞かなきゃならない理由もない。それが相手を削らない視線だなんて、俺には言い切れない。
「御手杵」
「……ん」
そこまで考えて、俺の方をじっと見ている彼女と目が合った。
「随分熱心に見るな。穴が空くかと思ったぞ」
「……悪い」
「謝るほどのことか」
「……視線は、削るんだろ」
「ああ、削るな。だが、削られた端から戻していけば済む話でもある」
「戻せんのかよ」
「程度にもよるがな」
そういう話じゃない。
多分、彼女もそれは分かっている。分かった上で、俺がこれ以上深く沈み込まないようわざと軽く踏み外している。
「御手杵。私は別に、貴様の目が無害だとは言わん」
「……」
「だが、少なくとも今のところは実害もない。ただ貴様が勝手にこちらを見て、勝手に考え込んでいる」
「勝手って」
「違うのか?」
「違わ、ねえけど」
違わない。彼女の言う通り、俺が勝手に彼女を見ている。
勝手になくならないでほしいと思って、勝手に変わらないでほしいと思っている。彼女に頼まれたわけでも、許されたわけでもない。ただ俺が、一人でそう思っているんだ。
「なら、私から止めたりすることはない」
「良いのか?」
「確かに見ることは削り取ることだと私は言った。だがそれ自体が全て悪なら、人は皆目を潰さねば悪人になってしまう。目を覚ました家人が窓の向こうの空を見るのも、旅人が花を開かせた桜を見るのも、母親が産んだ我が子を見ることも罪になる。それはそれで可笑しな話になるだろう?
要は、中身の話だ。今朝がたの話とも少々被るがな」
「……中身?」
「目を向けたものに何を望み、何に仕立てるか。最初から何も押し付ける気がないなら問題ない。それはただの眼差しだ。
だが何かを望み、あまつさえそれを押し付ける気なら話は変わる。それは偏執、或いは妄執と呼ばれるものだからだ。アレは信濃を見て、子供を抱いた母親を見て、私を見て、その度にそこに居座ろうとした。何もせず名乗るだけの自分を受け入れてもらおうとした。だからこうなったんだ」
「……俺は?」
「知らん」
「知らんのかい」
「貴様の腹の中身だろう。そんなもの私に聞くな、自分で探してこい」
「それは、そうだけどさあ」
「そういうわけで、私には現時点での貴様への話しか出来ん」
そこまで言って、彼女がふいに視線を戻す。それを追うように俺も目を向けた先では、火葬を終えた石切丸達が持ってきていた消火器を念入りに残骸に吹きかけていた。仏僧や禰宜のような格好のまま消火器を持って燃え殻を囲む姿は風情もへったくれもない。吐き出された消火剤に火種が呑まれ、灰も見えなくなっていく。
「貴様は今のところ、私を貴様自身の都合の良い何かに仕立てようとしている様子はない」
「……そんなつもりもない、と思う」
「そこは断言しろ」
「分かんねえもんは分かんねえよ」
「まあ、それもそうだ」
彼女はそこで少しだけ目を細めた。
笑った、というほど分かりやすいものではない。ただ、煙を吐く時の横顔が、いつもより僅かに柔らかく見えた。それすらも、俺の都合の良い見方なのかもしれないけど。
「だが、分からないものを都合よく希釈もせず、分からないものだと認識しているなら大分マシだ。少なくともアレのように、相手の輪郭を踏み潰してまで己の望む形に嵌め込もうとはしていない」
「……それなら、見てても良いのか?」
「ここで見るなと言ったところで、貴様はどうせ見るだろう」
そう言って彼女は短くなった煙草を、ポケットから出した携帯灰皿に押し付けた。先端に残っていた火が潰れて、細い煙だけがまだしばらく揺れる。人形達が燃えた灰の匂いに掻き消されそうな、線香の匂いがする。
「御手杵」
「何だよ」
「私は、自分の形を他の誰かに決めさせる気はない」
「うん」
「元審神者だの、葬務課主任だの、岡恒志廼だのと呼ぶのは勝手だ。だが、その名札の下に何を見るかは人の勝手で、そこに私がいちいち付き合う義理はない。私もまた根本的に、私の好きなようにしか生きられん」
「うん」
「それでも見ると言うなら、好きにしたらいい」
好きにしたらいい。
たったそれだけの言葉が、妙に胸の奥に引っかかる。
そしてそこで彼女は、こちらを見た。
相変わらず感情を読みにくい目。だけどあの日の演練場で俺を初めて見た時と変わらない、逃げも隠れもしない目だった。銀幕の向こうから俺を刺した、あの目だ。
「今のところ、嫌と言おうとした覚えもないしな」
その眼差しのまま、そう言われる。
それは、性別も年齢も煙に隠して曖昧にしてしまうような口調で迂遠な言い回しばかりする彼女のものにしては、随分と特別な響きのような気がして。
「……それ、結構甘やかしてないか?」
俺はそれに対して、どんな顔をしていれば良いのか分からなかった。
俺は、これが何だとはっきり言えるような感情を持っているわけじゃない。全てが銀幕の向こうに隔離されている俺には、痛みも感動も遠すぎる。そんな俺だから、何かを好きだと思うことも儘ならない。人一人にそれ以上のものを向けるなんて、きっともっと無理だ。だから俺はこの先もきっと、この世界にある何かに本気を向けることに難儀し続ける。
だけど、今は。
嫌じゃない。きっと、そう思ったんだ。
この女に、好きに見ろと言われたことが。
今のところ嫌ではないと、言われたことが。
硬くて、冷たくて、煙草と灰の匂いがする言葉。それを甘やかしだと自分で言っておきながら、取り消されたくないと思ったんだ。
⑦
石切丸達への挨拶を済ませた後、俺はそのまま帰らされた。後の片付けは私がやっておく、と。俺は特に言い返すこともなく頷いて、その場を後にして寮へその足で戻ってきた。帰って来たのは定時上がりにしては遅く、けれど残業の多い部署ならまだ灯りが消えないくらいの、微妙な時間だった。だからか廊下を歩いていても誰かとすれ違うことはなく、それがどこか自分しかいない夢の世界のようだった。
割り振られた部屋の扉の前に立ち、ポケットに突っ込んでいた鍵を取り出す。その拍子にストラップも一緒に揺れ、飾りの鈴が小さく鳴った。
いつもと同じ、持ち歩いて鳴らしても喧しいと感じないほど控えめな音。それを俺は毎度聞き逃しそうになる。落としても気付けるようにと付けたものだが、もう少し大きな音がするものの方が良かったのかもしれない。
だけど今日の音はいつもよりもちゃんと、自分の手の中で鳴ったような気がした。
そんな風に、聞こえる筈がないのに。
景色だけじゃない。感じるものは全てそうだ。俺の世界の中に聞こえてくるものは、いつだって少し遠くにあった。銀幕の向こうで流れる効果音みたいに、俺の手元から一枚隔てた場所で鳴る。なのに今は、その小さな音が確かに指先へ触れた気がした。
——ああ。俺は今、夢を見ている。
そう思った。
木箱ごと燃やされた人形も。
炎の中に立っていたように見えた小さな影も。
好きにしたらいい、と言われたことも。
今のところ嫌と言おうとした覚えはない、なんて、随分と甘やかなことを言った岡恒志廼も。
全部、俺が見ている夢なんだろう。
そう思いながら、俺は鍵を鍵穴に差し込んだ。金属製の鍵が嵌りシリンダー錠が回る音が、やっぱりやけに近くで鳴る。
鍵の開いた扉を開けて、明かりのない部屋へ入る。靴を脱ぎ、照明の電源を入れ、脱いだ上着を椅子の背に掛け、室内着に着替えていく。そのどれもが普段より少しだけはっきりしていて、俺はますますこれは夢だと確信していく。
なのに胸の奥のどこかで、これが夢じゃなければいいのに、とも思っていた。
らしくない、とは思う。
何かを望むのは得意じゃない。願うことは無意味だと疾うに知っていた。願い事なんて、叶ったところで銀幕の向こうに置き去りになるものだ。俺が願ったことが叶っても、俺は喜べない。そういう風に出来ている。
それでも、彼女の声が夢でなければいい。
俺の目を嫌だと言わなかったことが、夢でなければいいのに。
そういうことを、少しだけ思った。