勇者や魔王、剣聖の事を聞き、まだ見ぬ異世界のファンタジーに思いを馳せて少し。
この世界に来てから一年は経過した。
最近では誕生日会以外に面白いこともなく、着実と絵本を読みながら生活している。強いて言うならなんかシャルロットさんのお腹が明らかに大きく膨らんでるのがとても気になるが、一旦無視する。まさか弟か妹が出来るなんてことはない、うん。無いだろう。
魔法を学ぼうと思っても、あれ以来シャルロットさんが叱られたっぽく、本の管理が徹底されてしまった。それも相まって赤子としての生活はとても退屈。本当にスマホが欲しくなるほど退屈。なので、喋れるようになった今は度々近くにいる人にちょっかいを掛けるようになった。
「いら」
「何でしょう、イリス様」
「えほん」
「承りました」
今は暇つぶしのためにイーラさんをパシリにしている。
シャルロットさんやイグニスさんは仕事で不在になることもあり、今日はイーラさんしかいない。
勝手に警戒していたけれど、追放イベント的なのもなく、よく絵本を読み聞かせてくれるようになっただけで杞憂していたトラブルなどもない。
「持ってきましたよ」
本棚から取り出した本をわきに抱えつつ、俺を持ち上げて、膝の上に乗せる。
「これなに?」
「ヒトビトの物語、ですよ」
ヒトビトの物語、と短く題名を告げる。その姿はどこか親戚のおじちゃんのようで、親しみを覚えた。
前も言ったが、俺やアルバート夫妻への距離感がかなり近い。主従関係というよりは、気を許し合った友に見えるほど。俺が知らないだけかもしれないが、この人以外に耳や尻尾が生えている使用人はいない。なおさら興味を惹かれる。ちょっと怖いけど。
「よんで」
「はい、では」
イーラさんはゆっくりと、絵本の読み聞かせを始めた。
要約すれば亜人という、人に近い姿にケモミミと尻尾を持つ種族と、獣人という、獣が二足歩行したみたいな姿の種族たちが奴隷とされていて、ギラファノタという人物によって買い取られ、世界を旅するといった物語だ。主人公は怪猫と呼ばれた猫の亜人で、彼の子供の時の視点から始まる。
おそらくいくつかのシリーズに分かれているようで、一番目を読み聞かせてもらったのだろう。
しかし、絵本というよりは歴史の教科書を読み聞かせられている感覚だった。勇者と魔王の物語のように、今回も歴史から絵本になったものっぽい?
イーラさんが読み聞かせてくれる絵本は、前から歴史を基にした絵本のように感じる。
もしかして英才教育を施しているのか? あの時普通の赤ちゃんではないとバレたから。
だとしたら少し嫌だな......塾に通った事もあるけれど、自分から勉強しないとやる気になれない。いや単純にイーラさんのチョイスが偏ってるだけな可能性もあるけれど。
「今日はひとまずこれで終わりです。どう思いました?」
イーラさんが問いかけてくる。
どう思ったか......と聞かれれば、ちょっと奴隷というのは嫌だなと思った。けれどその時代の労働を担うものとして、必要な存在とされていたのは事実ではある。だから容易に否定できないものだけど、現代日本で生きていた俺にとっては受け入れがたい物だった。
作中でも否定的に描かれている。推測にはなってしまうが、この世界でも奴隷解放などが行われた歴史があるのだろう。
イーラさんは狼の亜人ということになるのか。
「ちょっといやだった。そのときいないとだめだったなら、しかたないけど。いらはおおかみのあじん?」
「ええ、そうですよ。私は狼の亜人です」
「いらはどれいだった?」
「いえ、奴隷だったことはありません。奴隷制度は百数十年ほど前に無くなりましたから。しかし、水面下での差別や迫害は続いています」
「そうなの。ひどいね」
イーラさんと談笑を続ける。やっぱり赤ちゃんというよりは賢い子供を相手にしているように感じる。
「いらはなにがすき」
「そうですね、わたく......」
もふもふとした狼の耳がぴくぴくと動き、言葉が詰まる。
何で突然黙ったんだ?
直後、異音がした。ガラスが割れるような音。
他の使用人が食器を落としたのだろうか。
「イリス様はここに居てください」
突然険しい表情となったイーラさんの瞳は、何処かイラつきと驚きのようなものを滲ませる。
さすがに俺もそこまで鈍感ではない。何か非常事態が起きたのだ。窓ガラスを割って家に強盗が入ってきたみたいな、そんな非常事態。
見掛け倒しの耳ではないようだ。
イーラさんが扉をガタンと閉めて、部屋を後にしてから1分ほどが経った......すると、何かが叩きつけられるかのような凄まじい音がした。
何があったんだろう、音デカくてちょっとビビったな。
初めての出来事。不安だけれど、何処か楽観的に捉えてしまっている。非日常に巻き込まれることなど、前世を含めても一度だってないというのに。
「ちょいと失礼するよお嬢ちゃん」
背後から音がした、とても低いしわがれ声のような音。
え?
今となって恐怖が込み上げる。誰なんだ、二階だぞ。窓から侵入したのか?
「だれ?」
振り返る。そこにいたのは、真っ白な仮面をかぶる黒ローブの人物。ローブの隙間からちらりと見える腕や首などの皮膚からは、焼け爛れたかのような奇妙な痣をのぞかせる謎の男は、ただならぬ異様な雰囲気を纏っていた。
私の問いかけに答えることなどなく、開かれた窓から私を連れ去ろうとする。
「いや!」
「抵抗しない」
まずい。非常にまずい。怖い。
どうにかできないか。魔法陣とか魔力とか土壇場で覚醒する何かとか。
「魔力を出すだけだと何もできないぞ~」
暴れる私を抱えて宥めるように告げられる。そんなことは既に分かってる。
イーラさんの名前を叫んで呼べば──
「い」
「おっとダメだぞ。狼くんは呼ばせない。しっかし1歳くらいにしてはすごい頭がいいねぇ」
窓を跨ぎ、部屋から飛び降りる。
二階から落下した。全身に衝撃が伝わる。
普通なら、体のどこかは痛める。その筈なのに、平然かのように動く。
この世界の人間の耐久値は高いのか? そもそも肉体が強いのか? なんか魔法とかで身体強化してんのか?
どうでもいいことを考えてしまう。どうしよう。
煌々と蒼い輝きを放つ円が現れた。美しい光を放つそれは、謎の男に追従して動く。
魔法陣だ。魔法を使うのか? どんな魔法を? テレポートみたいな奴だったら本格的に終わる。まずい。
ふと魔法陣を見た。大まかな形は似ているけれど、空白だった部分に記号が入っていたり、一部の図形が変更されている。現在進行形で行われている変化箇所もある。
あの時の魔法陣は基本形で、それに何らかの追加を行えば魔法が出る? それか魔法陣は魔法の本体ではなく補助を行う為のもの?
好奇心が怖いを抑える。前者であれば、魔法陣を私の魔力で妨害すれば魔法の発動を防げるかと思い、魔法陣の構成に魔力を混ぜようとした。
「あ? あぁ、魔法陣の妨害ねぇ。魔術の知識はないか。魔法陣で動くもんじゃないよ」
嘲笑を織り交ぜた言葉を返される。無駄だった。
ここで、終わるのか。
──瞬間、轟音が鳴り響いた。
音に驚き、閉じていた眼を開く。眼前に広がる光景を認識する。
「イリス様」
私はイーラさんに抱えられていた。
「こ、わかった」
「もう一人の使用人にイリス様を任せておくべきでした。私の不徳です、怖い目を見させてしまい、申し訳ありません」
謝罪を伝えてくる狼の亜人は、耳をぴくぴくとさせながら、優しく強い眼差しで私に言葉を掛ける。無力感と恐怖に侵されていた心が、急速に安心感で満たされる。
気が抜けて、安堵の溜息を吐いた。
「さて、
右手に片刃の剣を構えた亜人は、先程までの優しい眼差しが嘘かのように、怒気を纏って、謎の男に問いかけた。
「狼君は冷たいねぇ、そもそも死んでないだけだ」
「あ、いら!あぶ」
「大丈夫です」
無言で背後から襲い掛かる人物を、視界でとらえることもせず剣の峰で吹き飛ばす。
亜人の発達した五感によって、見えていなくとも認識できるのだろう。表情一つ変えることもない。
「そうですか、ではここで捕らえ、法の裁きを下します。既に警察にも伝達しましたからね」
そうつぶやくと、一瞬のうちに謎の男の目の前にまで迫り、片刃を振るう。
私には見る事すらできない剣筋を、謎の男は透明な何かで防いだ。ギャリッと削れる音と共に、汗をにじませる。
「法の裁きというには、殺す気じゃあないか?」
「貴様らは自らの所業を覚えていないのか?」
地面をけり、一度離れ、さらに膨れ上がる怒気を載せて問いかける。
何か、因縁があるのだろう。普段の口調が崩れるほど、嫌悪と憤怒を滲ませる。
「シャルロットも、俺の家も、イリスちゃんも、全部狼君のせいでめちゃくちゃだ。はぁ......なんなんだキミは」
そう宣う謎の男の表情は、仮面で見えない。だが悪態をつき呆れていることは分かる。
サイレンが鳴る。
おそらく警察なのだろう。深い溜息を吐いた男は、複数の魔法陣を展開した。
「イリスちゃんのお迎えはまた今度ね」
「逃がすか!」
地を踏みしめ、跳び、風切り音を立てて斬撃を振るう。しかし、その刃が肉を斬ることはなかった。
黒ローブの謎の男は忽然と姿を消し、振るわれた刃は地面に深い切れ込みを入れた。
ひとまずは、助かったみたいだ。
怖かったな......魔法陣についてちょっと知れたのはよかったけれど、それ以外は全部が悪い、そう形容したくなる事件だった。
そもそも、あの男は何だ? 私を狙った意図的な襲撃だし、アルバート家とイーラに関係がありそうだった。
「ありがとう、いら」
「いえ、滅相もありません。本来イリス様のそばに別の使用人を仕えされればよいところを、焦燥で判断を間違えてしまいました。
イリス様を守ることが出来ず、申し訳ありません」
「そ、そう。はやくおうちかえろ」
「はい」
イーラさんから謝罪される。
なんていうか、今回の事だけじゃない、何か別の罪悪感のような何かも感じる。なんだ?
とりあえず、何とかなって良かったぁ。
魔法陣で動くもんじゃない、ねぇ。じゃあ、魔法陣は魔法を補助するための何かなのか......?
助かれば好奇心に目が向く。思案を巡らせながら、イーラさんに抱えられた私は家に帰るのだった。