岸本
秋晴れの日だった。
校庭には白線が引かれ、万国旗が風に揺れ、砂埃と日焼け止めの匂いが混ざっていた。朝からずっと胸のあたりが騒がしくて、灯里は母の作ってくれたおにぎりを半分しか食べられなかった。
徒競走は午後の二番目だった。
走るのは五十メートル。校庭の端から端まで、子供の足ならそれなりに遠い。ゴールの横に立つ先生の姿も、砂埃に霞んでいる。けれど灯里にとっては、いつもより少し長いだけの直線だった。
先生が笛をくわえる。
校庭のざわめきが遠くなる。
前を見た。ゴールテープの向こうに、母がいた。帽子をかぶり、ビデオカメラを構えている。母は普段、あまり大きく手を振る人ではなかった。けれどその日は、カメラの横から少しだけ手を上げてくれた。
灯里はそれを見て、身体の奥に火がつくような感じがした。
笛が鳴る。同時、地面を蹴った。
最初の一歩で、隣の子の気配が後ろへ流れた。二歩目、三歩目。靴の裏が乾いた土を叩く。腕を振るたび、空気が肩の横を切った。考えることは何もなかった。
足を突き出す。ただ、前に出る。もっと前に出る。ゴールテープが近づく。声が聞こえる。自分の名前が聞こえる。
灯里ちゃん。
灯里。
速いねぇ。
ゴールテープが胸に触れた瞬間、世界が戻ってきた。
校庭の音。拍手。先生の笛。土の匂い。息が熱くて、喉がひりついて、でも胸の中は軽かった。振り返ると、他の子たちがまだ走っていた。灯里は自分だけが少し先の世界に来てしまったような気がした。
「一等、岸本さん」
先生が笑った。
クラスメイトが集まってきた。
「灯里ちゃん、速っ」
「全然追いつけなかった」
「リレーも絶対勝てるじゃん」
灯里は照れくさくて、靴の先で地面をこすった。嬉しいのに、どうすればいいか分からなかった。笑うと自慢しているみたいで、黙っていると感じが悪い気がした。
そのとき、母が近づいてきた。
ビデオカメラを片手に持って、しゃがんで、灯里の目線に合わせた。母の頬は日差しで少し赤くなっていた。カメラ越しではなく、ちゃんと灯里を見ていた。
「灯里、すごいね。……うん、すごく速かった」
母の手が、灯里の肩に触れた。その言葉は、たぶん何でもない褒め言葉だった。
母にとっては、娘が徒競走で一位になったから口にした、ありふれた感想だったのだと思う。そこに深い意味などなかった。灯里を縛るつもりも、何かを決めつけるつもりもなかった。
けれど、灯里には違った。胸の奥の柔らかい場所に、その言葉はまっすぐ入ってきた。
──足が速い。
それは、自分を説明してくれる言葉だった。
勉強が特別できるわけではなかった。絵が上手いわけでも、歌が上手いわけでもない。教室で誰より明るいわけでも、先生に気の利いたことを言えるわけでもない。それをコンプレックスにしていたわけではなかった。
けれど、走れば一番になれる。走れば、みんなが見てくれる。走れば──母が笑ってくれる。
灯里はその日、自分の足が好きになった。自分の身体が前へ進むことが好きになった。スタートの前の静けさが好きになった。ゴールテープの向こうに誰かがいることが好きになった。
その夜、母はビデオをテレビに繋いで、灯里の走る姿を何度も再生した。画面の中の灯里は小さかった。髪を揺らして、腕を振って、誰より先に白いテープへ飛び込んでいた。
「ほら、ここ。すごいね。最初から速い」
何度も見た。何度見ても飽きなかった。画面の中の自分は、ちゃんと輝いていた。灯里は初めて、他人から見た自分を好きになれた。
その夜、布団に入ってからも、灯里は自分の足をそっと撫でた。
速い足。褒められた足。
走ることは、ただ嬉しいものだった。
速い自分は、ただ誇らしいものだった。
そのときはまだ、それが呪いになるなんて思っていなかった。