きっといつか焦がれ思い返す   作:おいかぜ

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一話 白線の外で

 

 高校二年の六月、岸本灯里(あかり)はグラウンドの隅でストップウォッチを握っていた。

 

 夕方の空はまだ明るい。トラックには低い日差しが斜めに差し、赤茶けた土の上に部員たちの影が長く伸びていた。湿気を含んだ風が、汗の匂いと、芝生の青臭い匂いを運んでくる。

 

「一本目、いきまーす!」

 

 スタートラインの一年生が声を上げた。灯里は親指をストップウォッチのボタンに乗せる。

 顧問の榊美冬が手を叩いた。乾いた音がグラウンドに響く。

 

 同時に、三人の女子部員が飛び出した。

 灯里は走らない。ただ、ゴール地点に立っているだけだ。立って、見ているだけ。

 

 走者の加速、腕振り、上体の角度。接地。力み。呼吸。視線。中盤での伸び。後半の崩れ。ゴール直前の癖。それらが全て灯里の目から、情報として飛び込んでくる。

 

 走っていないのに、身体のどこを使いすぎているか分かる。どこで怖がったか分かる。どこで諦めたか分かる。走りは嘘をつかない。走っている本人が隠したつもりの弱さまで、土の上に残していく。

 だから灯里は、見るのが得意だった。

 

「十三秒八二。十四秒一一。十四秒三〇」

 

 タイムを読み上げると、一年生たちが息を切らしながら集まってくる。

 

「岸本先輩、今のどうでした?」

「私、後半落ちましたよね」

「スタート、ちょっと良くなかったですか?」

 

 灯里は表情を変えずに答えた。

 

「……後半落ちたっていうか、三十メートル過ぎからもう腰が落ちてた。あと、良くなかったですかって聞くときは大体良くない。良かったら自分で分かるから」

「うわ、きつい」

 

 一年生の一人が笑った。

 灯里も少しだけ口元を緩める。

 

「でも二歩目は前よりいい。力む場所がちょっと後ろにずれた。悪くはないよ」

「おお、褒められた?」

「褒めてない。事実だよ」

「岸本先輩、そういうとこですよ」

 

 文句を言いながらも、後輩たちはどこか嬉しそうだった。

 灯里の言葉は冷たく聞こえるらしい。自分でもそう思う。

 けれど、指摘を大きく外すことはない。少なくとも自分はそう感じているし、誰も灯里の指摘に反論しない。だから部員たちは灯里を頼る。顧問の榊も、細かいフォームの癖については灯里に任せることがあった。

 

 走らないのに、陸上部にいる。

 走らないのに、誰より走りを見ている。

 

 そんな半端な立場を、灯里はもう一年以上続けていた。

 

「灯里、次、紗季のタイム見て」

「はい」

 

 榊が言い、灯里は首肯した。

 

 スタートラインへ目を向ける。

 真柴紗季がレーンに入っていた。高校二年。灯里と同級生で、短距離の部内最速。百メートルは十二秒台前半。県大会の決勝も狙える選手だった。

 

 紗季はスタートブロックに足をかけ、軽く肩を回した。明るい性格で、誰にでもよく話しかける。けれど、スタート前だけは表情が消える。

 その切り替わりを、灯里は好ましく思っていた。

 

「一本だけですか?」

 

 紗季が顔を上げて言う。

 

「一本だけ。今日は量じゃなくて質でいこう」

「了解です」

 

 榊が答えると、紗季は笑って姿勢を低くした。

 灯里はストップウォッチを構える。

 

 短い笛の音の直後、紗季が飛び出した。

 

 速い、と思う。

 その感想はいつも、灯里の中で少し遅れて痛みに変わる。

 

 紗季の走りは、派手ではない。無駄が少ない。最初の十メートルで急がず、二十メートルから三十メートルにかけて滑らかに乗ってくる。中盤で速度が伸び、最後まで大きく崩れない。風が吹き、灯里は親指を押した。

 

「十二秒四八」

「お」

 

 周囲がどよめいた。ベストではないが、良好なタイムだ。

 

「いいじゃん、紗季」

「今日、風ほとんどないよね」

「県行けるって、これ」

 

 紗季は息を整えながら、軽く拳を握った。

 

「先生、もう一本行きたいです」

「駄目。今日はそれで終わりだ」

「えー」

「えー、じゃない。欲張って崩すのが一番悪い」

 

 榊に一蹴され、紗季は舌を出した。部員たちが笑い、榊はため息を吐いた。

 灯里はストップウォッチの表示を見ていた。

 

 十二秒四八。

 速い。

 速い子はいい、と思った。

 

 速いだけで、空気の真ん中に立てる。誰かに名前を呼ばれる。期待される。記録が伸びれば祝福される。フォームが綺麗なら褒められる。勝てば、見てもらえる。

 

 灯里はストップウォッチのボタンを押し、表示を消した。

 

 真柴紗季は速い。

 だから、ここにいていい。

 

 では自分は? 

 

「灯里?」

 

 声をかけられ、顔を上げると、紗季がこちらを覗き込んでいた。

 

「何、その顔」

「何でもない」

「嘘。今、絶対なんか嫌なこと考えてたでしょ」

「真柴の走り、後半ちょっと右肩上がってたなって」

「うわ、ほんとに嫌なことだった」

 

 紗季は笑った。走りの瑕疵を指摘されても嫌そうな顔をしない。よくできた人格者だ。

 

「でもありがと。後で動画見る」

「うん」

「灯里も走ればいいのに」

 

 その言葉は、軽かった。

 紗季に悪気はない。何度も聞いた言葉だった。顧問にも、部員にも、クラスメイトにも、何度も言われてきた。

 

 まだ走れるでしょ。

 もったいない。

 戻ってくればいいのに。

 

 きまって灯里は、いつもの顔で返した。

 

「走るの、飽きたから」

 

 紗季はほんの少しだけ眉を寄せたが、それ以上は踏み込まなかった。

 

「そっか。でもさ、私は待ってるよ」

 

 それだけ言って、給水の方へ戻っていく。

 灯里はその背中を見送った。

 

 便利な言葉だった。

 才能がなかったから、より軽い。怪我したから、より深刻でない。怖いから、より惨めでない。

 

 走るの、飽きたから。

 

 そう言っておけば、誰もそれ以上追いかけてこない。勿体ない、とは言う。けれど、それ以上は踏み込めない。挫折しているなら励ませる。しかしやる気がない人間を引き上げる道理はない。

 

 練習が終わる頃には、空の色が薄く変わっていた。部員たちはダウンを終え、道具を片づけ、三々五々更衣室へ向かう。紗季は一年生に囲まれて、今日の走りについて質問攻めにされていた。榊は職員室へ戻る前に、灯里へ記録用紙を預けた。

 

「今日のタイム、まとめておいてくれる?」

「はい」

「無理して残らなくていいからね」

「分かってます」

 

 榊は灯里の顔を見た。四十代前半の、鋭い目をした女性だった。元短距離選手らしい。詳しい競歴は知らない。灯里は聞かなかったし、榊も話さなかった。

 

「分かってる顔じゃないけど」

「先生ほどじゃないです」

「口だけは元気だね」

 

 榊は小さく笑って、踵を返した。

 グラウンドに人が少なくなる。

 

 灯里は器具庫の前で記録用紙をバインダーに挟み、今日のタイムを確認した。紗季の十二秒四八が一番上にある。その下に、十二秒九、十三秒台、十四秒台が並ぶ。

 

 数字は正直だ。

 どれだけ頑張ったか。どれだけ怖かったか。どれだけ真剣だったか。そういうものは、数字には残らない。

 

 残るのは速いか遅いかだけ。

 だから残酷で、だから分かりやすい。

 

 灯里はバインダーを閉じ、器具庫に入れようとした。

 そのとき、トラックの方から音がした。

 

 ざっ、と土を蹴る音。

 

 誰か残っている。グラウンドの方へ、灯里は振り返った。

 

 夕方のグラウンドの端、スタートラインに一人の女子がいた。小柄ではないが、線が細い。紺色の練習着に、一年生の色のゼッケン。髪は後ろで短く結ばれている。名前は確か、日野かなた。

 

 春に入部した一年生。無口で、目立たない。タイムも突出してはいなかったはずだ。記録用紙のどこかに名前があった気がする。十三秒台の後半。悪くはないが、特別ではない。

 

 かなたはスタートブロックを置いていなかった。

 ブロックなしで、白線の後ろに立つ。軽く腰を落とす。前傾する。右足を後ろへ引く。指先を地面に近づける。

 

 静止──

 

 ──次の瞬間、飛び出した。

 

 十メートルほど走って、止まる。

 

 戻る。また構える。

 走る。止まる。戻る。

 

 同じことを繰り返している。

 灯里は、その姿をしばらく眺めていた。

 

 一本目。二本目。三本目。四本目。

 

 かなたは、毎回ほとんど同じ距離で止まった。全力の百メートルではない。加速の最初だけ。スタートから十メートル、せいぜい十五メートル。その短い距離を、繰り返し、繰り返し、繰り返し走る。

 

 馬鹿みたいだ、と思った。

 

 反復練習は必要だ。スタートの改善に十メートル走を繰り返すのも珍しくない。けれど、練習後の身体で、誰も見ていない時間に、あんなに同じ動きばかりを続けるのは効率が悪い。フォームも崩れる。疲労が残る。怪我のリスクも上がる。

 

 何より、見ていて息苦しい。

 

 五本、六本、七本。

 

 かなたは一度、膝に手をついた。肩が上下している。汗が顎から落ちた。もうやめるだろう、と灯里は思った。

 

 しかし灯里の予想に反して、かなたは顔を上げ、またスタートラインへ戻った。

 

 灯里は舌打ちした。

 無意識だった。自分の音に気づいて、少しだけ顔をしかめる。

 知らないふりをすればよかった。器具庫を閉めて、更衣室へ戻ればよかった。あれは日野かなたの問題で、灯里には関係がない。真剣にやりたいなら、勝手にやればいい。壊れたいなら、勝手に壊れればいい。

 

 そう思ったのに、足は動かなかった。

 かなたがまた構える。

 

 肩に力が入っている。呼吸が浅い。右足の置き方が毎回わずかに変わる。二歩目で上体が浮く。早く前へ出たい気持ちだけが先走って、接地が後ろに流れている。

 

 悪い癖だ。直さなければ加速が詰まる。

 灯里は器具庫の扉を閉めた。

 鍵をかける。それから、トラックへ向かって歩いた。

 

 かなたは八本目を走り終え、戻ってくるところだった。灯里に気づいて、動きを止める。

 

「日野さん」

 

 名前を呼ぶと、かなたは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「はい」

「何してるの」

「スタートの練習です」

「それは、見れば分かるけど」

 

 灯里はため息をついた。

 

「練習終わったよ」

「はい」

「はい、じゃなくて」

「あと少しだけ」

 

 かなたの声は小さかった。だが、妙に硬かった。お願いしているというよりも、やり通す決意が固まっている。

 灯里は苛立った。この後輩を放って帰るわけにもいかない。

 

「あと少しって、何本」

「……納得するまで」

「それ一番駄目なやつだから」

 

 かなたは黙った。

 灯里は腕を組む。

 

「練習は納得するまでやるものじゃない。必要な本数を、必要な質でやるもの。疲れて崩れた動きを繰り返しても、悪い癖が身体に残るだけ」

「分かってます」

「分かってないからやってるんでしょ」

 

 少しきつかったかもしれない。でも、灯里は言葉を引っ込めなかった。

 かなたは怒るでも、泣くでもなかった。ただ、じっと灯里を見ていた。目の色が薄いわけではない。けれど夕方の光のせいか、どこか遠くを映しているように見えた。

 

「先輩」

「何」

「見てたんですか」

「たまたま見えたから」

「じゃあ、」

 

 かなたは一歩、近づいた。

 

「今の一本、どこが悪かったですか」

 

 灯里は眉を寄せた。

 普通なら、ここで謝るべきだ。すみません、とか、もうやめます、とか。あるいは反発する。放っておいてください、と言う。それなら理解出来る。

 

 なのに、日野かなたは違った。

 叱られたことより、自分の走りが見られていたことに反応した。

 変なやつだ、と思った。

 

「……二歩目。二歩目で上体が浮いてる。前に出たいのは分かるけど、急いでるだけ。あと左腕。引いてるつもりで、外に逃げてる。あれだと三歩目から腰がぶれる」

 

 かなたは真剣に聞いていた。まばたきが少ない。

 

「右足は……」

「置き方が毎回違う。決めてないの?」

「決めてます」

「じゃあ、決めた場所に置けてない」

「はい」

「はいって」

 

 灯里はかなたの顔を見た。

 

「そんなに素直に聞くなら、最初から誰かに見てもらえばいいじゃん」

「誰でもいいわけじゃないです」

「……何それ」

「先輩は、見えてると思いました」

 

 グラウンドの土が少しだけ舞い上がる。遠くで、野球部の声がした。校舎の窓に夕日が反射している。

 

 灯里は、かなたの言葉にすぐ返せなかった。

 

 見えてる。

 

 その言い方が、どうにも不愉快だった。

 灯里が見ているものは、走りだ。フォームだ。タイムだ。癖だ。身体の使い方だ。そんなものは、見れば分かる。経験があれば分かる。自分が走らなくても分かる。

 

 だから便利だった。

 見ていれば、走らずに済む。

 誰かの走りについて語っていれば、自分が走っていないことをごまかせる。

 なのに、かなたの言葉は、その安全な場所の床を少し剥がした。

 

「買いかぶりすぎ」

 

 灯里は冷たく言った。

 

「私は見えることしか言ってない」

「それが欲しいです」

「はぁ?」

「見えることを言ってほしいです」

 

 かなたは、白線の方を見た。

 

「みんな、頑張ったねって言います。前より良くなったねって言います。でも、それだと分からないんです。何が良くて、何が駄目なのか。どこで遅くなって、どこで逃げたのか」

「逃げたって」

「走ると分かります」

 

 かなたは静かに言った。

 

「身体が、先に逃げます」

 

 灯里の喉が詰まった。

 

 身体が、先に逃げる。

 その言葉だけが、妙に鮮明だった。鮮明に、灯里の心臓を撫でた。

 

 白線の上。スタート前の静けさ。隣のレーン。勝てない相手。ピストルの音。出遅れた一歩。胸の奥に浮かんだ、あの卑怯な安堵。

 

「あのさ」

 

 灯里はわざと呆れた声を作った。

 

「百メートルなんて、十数秒で終わるんだよ」

「はい」

「その十数秒のために、練習終わった後までこんなことしてさ。馬鹿みたいだって思わないの」

 

 かなたは少し考えこむ素振りを見せた。

 怒るでもなく、傷つくでもなく、本当に、ただ考えていた。

 

「思います」

 

 灯里は一瞬、表情の取り繕い方を忘れた。

 

「……思うんだ」

「はい」

 

 かなたは白線の上に立った。

 

「百メートルは短いです。すぐ終わります。十二秒か、十三秒か、十四秒。たったそれだけです。そのために毎日走って、身体を痛めて、負けたら悔しくて、寝る前まで考えて」

 

 かなたは足元の白線を見下ろす。

 

「馬鹿みたいだって思います」

「なら、」

「でも」

 

 かなたが顔を上げた。彼女は真っ直ぐに灯里を見つめていた。茜に影を落としながら、瞳は揺らいでいない。

 

「短いから、嘘を吐く場所がないんです」

 

 つかの間、灯里は呼吸を忘れた。

 

「走ってる間は、余計なことを考えられません。誰にどう見られるかとか、何を言えばいいかとか、明日どうなるかとか、そういうの全部、置いていけるんです」

 

 かなたは胸に手を当てた。

 

「ここが、静かになります」

 

 それは、真剣というより祈りのようだった。

 灯里は、かなたが少し怖くなった。

 この子は、勝ちたいから走っているだけではない。走るのが好きだから、でもない。

 

 もっと別の、名前をつけにくいもののために走っている。走らなければ自分を保てない人間の目をしている。

 灯里はその目から逃げたくなった。

 

「……今日は、もうやめな」

 

 灯里は言った。

 

「疲れてる。これ以上やっても悪くなるだけ」

「はい」

 

 今度は素直に、かなたはうなずいた。

 灯里は拍子抜けした。

 

「……やめるんだ」

「先輩が、これ以上やっても悪くなるって言ったので」

「私の言うこと、そんなに信用しない方がいいよ」

「どうしてですか」

「私は走らないから」

 

 言ってから、少し苦くなった。

 かなたは灯里を見て、それから、首を傾げた。

 

「走らない人は、見えないんですか」

 

 心底不思議だというような声音に、灯里は答えられなかった。

 

 走らない人は、見えないのか。

 そんなことはない。灯里には見える。走らなくても分かる。少なくとも、かなたの悪い癖くらいは。

 でも、かなたが聞いたのはそういうことではない気がした。

 

「知らない」

 

 灯里はそれだけ言って、踵を返した。

 

「片づけて帰りなよ。器具庫閉めたから、何か使ったなら先生に鍵借りて」

「はい」

 

 背後で、かなたが小さく返事をした。灯里は校舎へ向かって歩いた。

 更衣室へ戻る途中、何度も振り返りそうになった。振り返れば、かなたはまだ白線のそばに立っている気がした。走るのをやめたとしても、きっとあの子は、頭の中でまだ走っている。

 

 馬鹿みたいだ。

 

 たった十数秒のために、あんな顔をして。

 たった百メートルのために、己の世界の全部を差し出すみたいに。

 

 恥ずかしくて、馬鹿らしい。

 真剣なんて、みっともない。

 

 そう思った。正しいはずだ。

 

 その夜、灯里は布団の中で、何度も同じ光景を思い出した。

 

 夕方のグラウンド。白線の上に立つ日野かなた。

 低く構えた背中。地面を蹴る一歩目。

 短い距離を、何度も何度も繰り返す姿。

 

 そして、あの声。

 

 ──短いから、嘘を吐く場所がないんです。

 

 灯里は寝返りを打った。

 胸の奥がざわついていた。

 

 うるさいな、と思った。

 

 何がうるさいのかは、分からなかった。

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