翌朝、岸本
カーテンの隙間から、薄い光が差している。部屋の中はまだ青かった。机の上には通学鞄が置きっぱなしで、椅子の背には昨日脱いだジャージが引っかかっている。汗の匂いはしなかった。灯里は昨日、走っていない。
それなのに、ふくらはぎの奥が少しだけ重かった。
走った後の朝みたいだ、と思ってから、灯里は顔をしかめた。
馬鹿らしい。
走っていない人間が、走った後みたいな顔をする。そんなもの、ただの錯覚だった。あるいは、夢見が悪かっただけ。いくらでも理由はつけられる。
布団の中で寝返りを打つ。
目を閉じると、夕方のグラウンドが浮かんだ。
白線の前に立つ日野かなた。何度も、何度も、十メートルだけを走る姿。低く構えた背中。土を蹴る音。
息を切らして戻ってくる足取り。
──短いから、嘘を吐く場所がないんです。
「……うるさ」
声に出してから、灯里は自分の声の低さに少し驚いた。
何がうるさいのかは分かっている。
昨日の言葉を、いつまでも覚えている自分がうるさい。
灯里は布団を蹴って起き上がった。足裏が床に触れる冷たさで、少しだけ頭がはっきりした。
着替えを済ませて台所へ行くと、母がテレビの天気予報を見ていた。食卓には味噌汁と焼き魚、卵焼きが並んでいる。画面の端には、午後から雨の可能性、という文字が出ていた。梅雨前線がどうのこうのと、気象予報士が言っている。
「灯里は今日も部活?」
「うん」
「最近、帰り遅いよね。無理してない?」
「してない」
椅子に座りながら答える。両手を合わせ、箸に手を伸ばす。
灯里は味噌汁を口に運んだ。熱い。豆腐が舌に触れて、少しだけ現実に戻る。
「走ってるの?」
母は、何でもないことのように言った。
おそらくは、本当に何でもない問いだった。帰りが遅いから、練習をしているのかと尋ねただけ。そこには期待も失望もない。責める響きもない。
それなのに、灯里の喉は一瞬だけ狭くなった。
「……走ってない」
「そっか」
「タイム取ったり、後輩見たり」
「灯里、昔から人の走り見るのも好きだったものね」
母はそう言って、またテレビへ視線を戻した。
灯里は箸を止めた。
昔から好きだったわけではない。
そう言おうとして、やめる。言ったところで、母は困るだろう。困らせたいわけではない。母は何も悪くない。ただ、昔の娘を思い出しているだけだ。
昔の灯里。足が速かった灯里。純粋だった灯里。真剣だった灯里。
ビデオカメラの中で、誰より先にゴールテープを切る灯里。
母にとっては懐かしい記憶なのだろう。灯里にとっても、嫌な記憶ではない。むしろ、幸せだった。幸せだったから面倒なのだ。
灯里は残りの味噌汁を飲んだ。
「行ってきます」
鞄を持って立ち上がる。
「雨降るかもしれないから、傘持っていきなさい」
「置き傘ある」
「そう言って、いっつも濡れて帰ってくるんだから」
母の小言を背中で聞きながら、灯里は玄関を出た。靴紐をしっかりと結び直す。
扉を閉める直前、母が言った。
「気をつけてね」
何でもない言葉が、今日はいちいち胸に触る。
♦
昼休み、灯里は教室の窓際で購買のパンを食べていた。
向かいの席には橘まどかが座っている。灯里と同じ二年生で、陸上部の同級生。元は中距離を走っていたが、膝を痛めてからは練習補助や記録係に回ることが多くなった。
まどかは弁当の卵焼きを箸でつまみながら、灯里の顔をじっと見ていた。
「なに」
「眠そう」
「眠いからね」
「昨日、何時に寝た?」
「普通。覚えてないけど」
「普通って言う人、大体普通じゃないよ」
「じゃあ異常」
「雑だなあ」
まどかは笑った。
灯里はパンの袋を開ける。購買で買った焼きそばパン。別に好きなわけではない。残っていた中で、一番考えなくて済む味だっただけだ。
「昨日さ」
まどかが言った。
「日野さんと話してたよね」
灯里はパンを噛むのを止めた。
「見てたの」
「帰るときに少しだけ。遠かったか何言ってたかまでは聞こえなかったけど」
「練習終わった後に一人で走ってたから、やめなって言っただけ」
「ああ」
まどかは箸を止めた。
「あの子、ちょっと危ういよね」
「真剣なんでしょ」
「嫌な言い方」
「事実」
「灯里は真剣な子、苦手だもんね」
灯里はパンの袋をくしゃりと握った。
「別に苦手じゃない」
「うそ。すぐ馬鹿にするじゃん」
「馬鹿にしてない。効率が悪いって思うだけ」
「それを馬鹿にしてるって言うんだよ」
まどかは平然と言った。咎めるでもなく、同調するでもなく。
否定する言葉は思い浮かばない。まどかの言葉は正しかった。
灯里は窓の外へ視線を逃がした。校庭の向こうにグラウンドが見える。昼休みのトラックは空っぽだった。白線だけが、薄く残っている。
あそこに昨日、日野かなたがいた。
構えて、走って、止まって、戻る。
構えて、走って、止まって、戻る。
同じことの繰り返し。効率の悪い、身体をすり減らすような反復。
真剣、あるいは、全身全霊。便利な言葉だ。何かに取り憑かれた人間を、少しだけ綺麗に見せられる。泥だらけでも、吐きそうでも、負けて泣いても、真剣だからと言えば許される。愚行が美談になる。
灯里は、そういうものが嫌いだった。
「日野さん、灯里のこと見てたよ」
まどかが言った。
「何で?」
「知らない。昨日から気にしてるっぽい」
「私じゃなくてストップウォッチじゃない?」
「ストップウォッチにあんな目はしないでしょ」
「あんな目って、なに」
「野良猫が、餌くれる人間を見つけたときみたいな目」
「嫌な例え」
「でも、合ってそうじゃない?」
まどかは楽しそうだった。
「懐かれると面倒だよ」
「懐かれないから」
「懐かれそうな人って、だいたいそう言う」
無愛想で、口煩くて、冷たい。懐かれる要素は皆無だ。自分を客観視できないほど幼稚じゃない。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
灯里は残りのパンを口に押し込む。焼きそばのソースが妙に甘い。
日野かなたが、こちらを見ている。
まどかの言葉は、放課後まで頭の隅に残った。
♦
放課後の練習は、曇り空の下で始まった。
湿度が高い。空気が重く、息を吸うと肺の内側に水の膜が張るような感じがした。グラウンドの土も乾ききっていない。スパイクが沈むほどではないが、蹴った感触は少し鈍そうだった。
榊美冬は空を見上げて、メニューを短めに切り替えた。
「今日は流しとスタート確認まで。雨が来たらそこで終わり。無理に本数は積まない」
「はい」
部員たちが返事をする。
灯里は記録用紙を持って、トラックの内側に立った。
短距離組が二人ずつ並び、五十メートルの流しを行う。七割程度の速度で、フォームを確認するための走りだ。灯里はタイムを取らず、目で追った。
日野かなたは三組目だった。
昨日よりも、右足の置き方が安定している。左腕はまだ外へ逃げるが、本人なりに抑えようとしているのは見えた。二歩目で上体が浮く癖も、昨日よりはましだった。
灯里は口の中で、ち、と小さく舌を鳴らした。
直してきている。
昨日の、たった一度の指摘を。
かなたは五十メートルを流して、ゆっくり戻ってくる。その途中で、灯里の方を見た。
目が合う。
灯里はすぐに逸らした。
かなたがまだ見ているかどうかは、確認しなかった。確認したら、負けだと思った。
「灯里」
隣から声がした。榊が真横に立っていた。
「日野の左腕、昨日よりましになった?」
「……多少は」
「あなた、何か言った?」
「ちょっとだけです」
「そう」
榊はかなたの方を見た。
「日野、飲み込みは早いんだけど、放っておくと量で解決しようとする。危なかったら止めてあげて」
「……私がですか?」
「見えるんでしょう」
榊はさらりと言った。
灯里は返事に詰まった。
見えるんでしょう。
昨日のかなたと似たことを言う。
見えるから何なのだろう。
走っている人間の悪いところを言うのは簡単だ。上体が浮いている。腕が逃げている。腰が落ちている。接地が流れている。そういうものは、経験があれば分かる。もしかすると、経験がなくても。自覚するのは難しいけれど、他人が好き勝手に言うことは簡単だ。
けれど、それを言った先のことまで、灯里が背負う必要はない。
日野かなたが何のために走り、どこまで走れば満足するのか。
どこから先が壊れる場所で、いつ止めなければならないのか。
そんなものまで見えるわけがない。灯里は教員でも、指導者でもない。
けれど、視線は勝手にかなたへ戻った。
次はスタート確認だった。
スタートブロックを使い、十メートルから二十メートルまでの加速を見る。榊が全体を見て、灯里とまどかが補助に回る。真柴紗季は一年生にブロック位置を教えていた。
やがてかなたの番が来る。
かなたはスタートブロックに足をかけ、しゃがみ込んだ。
背中が低くなる。指先が白線の手前に触れ、肩が少しだけ上がる。
呼吸が沈む。
その瞬間、灯里は周囲の音が一枚薄くなったように感じた。
もちろん、実際には何も変わっていない。隣では一年生が小声で話しているし、遠くで野球部が声を出している。風も吹いている。グラウンドの外を車が通る音も聞こえる。
それなのに、かなたの周りだけ、余分なものが削ぎ落とされたように見えた。
真剣だ、と思った。
見ている方が恥ずかしくなるくらいに。
榊の手が鳴り、かなたが飛び出した。
一歩目、二歩目。やはり少し浮く。
三歩目、左腕が外へ逃げる。
十メートル、止まる。
かなたは振り返らないまま、肩で息をした。
「日野」
榊が声をかける。
「もう少し二歩目を我慢。上体を起こすのが早い」
「はい」
かなたは返事をして、それから、灯里の方を見た。
何かを待っていた。
灯里は何も言わなかった。
かなたは少しだけ唇を結んだように見えた。けれど、それが不満なのか、集中を切らさないためなのか、灯里には分からない。
かなたはすぐにスタートラインへ戻った。
二本目。今度は二歩目を我慢しようとしすぎて、全身が固まっていた。力で低さを作っている。あれでは地面に居座るだけだ。
灯里は黙っていた。
見ないと言ったわけではないが、関わる義務もない。
かなたが戻ってくる。
榊は別の部員を見ていた。紗季は一年生のブロックを直している。まどかはスマートフォンで動画を撮っている。
誰も言わない。黙って、かなたは三本目に入った。
そしてまた同じ失敗をする。
灯里は唇を噛んだ。
違う。
我慢じゃない。固めるんじゃない。上体を低くすることが目的になっている。前に運ぶための低さでなければ意味がない。二歩目で地面を押し続けるから詰まる。置いて、抜ける。そこを間違えている。
かなたが構え、飛び出す。そしてまた同じ失敗をする。
二歩目で詰まる。
「違う」
声が出ていた。
自分の声に、自分で少し驚く。
かなたが立ち止まり、灯里へと振り返った。
周囲の部員も、わずかにこちらを見た。
言ってしまった以上、途中でやめる方が不自然だった。灯里は記録用紙を脇に挟み、かなたの方へ歩いた。
「我慢って言われたからって、固めない。上体を低くするんじゃなくて、前に運ぶ。二歩目で地面を押す時間が長すぎる。もっと短く」
かなたは黙って聞いていた。
まばたきが少ない。灯里の言葉を一つも落とさないような顔だった。そう見えただけかもしれない。
「短く」
「……復唱しなくていい」
「はい」
「押すんじゃなくて、置いて抜ける」
「置いて、抜ける」
「だから、復唱しなくていいって」
「すみません」
灯里はため息をついた。
かなたはすぐにスタートラインへ戻った。
四本目を構える。背中が低くなる。手拍子と同時にひなたが飛び出す。
さっきよりは、いい。
三歩目でまだ少し腰が残るが、詰まりは減った。左腕の逃げ方も小さい。
頷きそうになった己を、灯里は努めて押さえつけた。そうこうしているうちに、かなたが戻ってくる。
「今のは」
聞き方が、少しずるいと思った。
良かったですか、とは言わない。褒めてください、とも言わない。ただ、今のは、とだけ言う。続きを灯里に委ねてくる。
「…………マシだった」
灯里は短く答えた。
「どこがですか」
「二歩目。地面との喧嘩が減った」
「喧嘩」
「……詰まりが、減った」
「いえ、分かります」
かなたは真顔で言った。
灯里は少しだけ困った。
笑うところではなかったのか。比喩が変だとか、先輩の説明は分かりにくいとか、そういう反応をする場面ではないのか。
けれどかなたは、灯里の言葉を身体の感覚として受け取ったように見えた。
それがまた、やりにくかった。
「じゃあ、次も同じように」
「同じは無理です」
「何で」
「今のは、今の一本なので」
かなたは真面目な顔で言った。
灯里は一瞬、返す言葉を失った。
変な子だ。
ただ、その言い分は間違っていない。
同じ一本などない。地面も、身体も、呼吸も、毎回わずかに違う。大事なのは、同じことを繰り返すことではなく、違う一本の中で同じ結果に近づけることだ。
それを、かなたは知識ではなく、感覚で言っているように見えた。ひとつ違うのは、ほかの誰も、それをわざわざ口にしないということだ。
「……あっそ」
スタート確認が終わる少し前、雨が降り始めた。
最初は、頬に当たるか当たらないかくらいの細い雨だった。だが、雲の色を見る限り長くは持たない。榊が手を叩く。
「今日はここまで。ダウンは屋根の下で。道具片づけたら解散」
部員たちが動き出す。
灯里はストップウォッチと記録用紙をまとめ、器具庫へ向かった。湿った風が頬に触れる。グラウンドの土の匂いが、雨で少し重くなっていく。
器具庫に入ると、後ろから足音がついてきた。
振り返らなくても分かった。
「なに」
「先輩」
日野かなたの声だった。
「今日、ありがとうございました」
「榊先生に言って」
「先生にも言います」
「じゃあそれでいい」
灯里はハードルの支柱を壁に立てかける。
かなたは器具庫の入口に立ったまま動かなかった。雨粒が髪の先についている。濡れているのに、気にしていないように見えた。あるいは、気にする優先順位が低いだけかもしれない。
「先輩」
「……なに」
「明日も見てくれますか」
手を止める。
面倒なことになった。はっきりそう思った。
「見ない」
「どうしてですか」
「私はコーチや先生じゃないから」
「でも、見えます」
「……見えるって、なに。特別なことのように言うけど、そんなの誰にでもできることだし。見えるからって、見る義務はない」
言い方がきついことは分かっていた。
黙ってしまったかなたを意識しないようにして、灯里はマーカーコーンを棚に戻す。赤、青、黄色。順番に重ねる。こういう単純な作業はいい。何も考えなくて済む。
後ろで、かなたがまだ立っている。
帰ればいいのに、と思う。
けれど、帰らないでほしいと思っている自分がいる気もして、灯里はさらに苛立った。
「先輩は、」
躊躇するような声音。その後に降ってくる言葉を予想し、灯里はつかの間、息を止めた。
「走るのが嫌いですか」
灯里は、手に持っていたコーンを落としかけた。予想した上で、予想外の言葉が飛んできたからだった。
「……あんたに関係ないでしょ」
「すみません」
「そういうの、人に聞かない方がいいよ」
「はい」
「はいって、分かってないでしょ」
「分かってないです」
正直すぎる返事だった。苛立ちよりも一瞬、呆れが勝った。
灯里は振り返る。
かなたは、灯里を見ていた。責める目ではない。好奇心とも少し違う。何か分からないものを、分からないまま見ようとしている目だった。灯里のことを、分かろうとしていた。
それは、困る。
灯里は、走っていない理由を言葉にされたくなかった。嫌いだからでも、飽きたからでも、才能がないからでもない。そのどれも、完全な嘘ではない。けれど本当でもない。
本当のところを見られるくらいなら、嘘のまま放っておいてほしかった。
「でも、気になりました」
かなたは言った。
「先輩、走ってる人を見るとき、少し怒ってるので」
灯里は眉を寄せた。
「怒ってない」
「そうですか」
「そう」
「じゃあ、苦しそうです」
雨音が強くなった。風が吹き付け、波のように雨粒が壁を打つ。
器具庫の薄い屋根を、細かな雨粒が叩いている。乾いた土の匂いが消え、濡れたグラウンドの匂いが濃くなる。
灯里は、しばらく何も言えなかった。
苦しそう。
自分はそんな顔をしているのか。
紗季が走るときも。後輩が走るときも。かなたが白線に立つときも。
少し怒っている。
苦しそう。
どちらも、外れていない気がした。
「日野さん」
灯里は声を低くした。
「そういうの、やめた方がいい」
「そういうのって」
「人の中に勝手に踏み込むこと」
かなたは少し目を伏せた。
「すみません」
「謝るくらいなら最初からしないで」
「はい」
「あと、私は明日も見ない」
器具庫の鍵を手に取った。冷たい感触が手のひらに触れる。
「自分の走りくらい、自分で見なよ」
言ってから、ひどい言葉だと思った。
走っている人間は、自分の走りを見られない。
灯里はそれを知っている。知っているからこそ、かなたが何を求めているのかも、少しだけ分かってしまう。
だから突き放した。灯里が与えられるものではない。与えていいものでは、ない。
雨音だけが横たわる沈黙の中、かなたはしばらく黙っていた。馬の足音のように、一定の規則性をもって雨粒が走る。
やがて、かなたは小さく頭を下げた。
「分かりました」
その声は、昨日より少し遠かった。
灯里は器具庫を出て、鍵を閉めた。
かなたはまだ、そこに立っている。
「帰りなよ」
「はい」
灯里は背を向けた。
校舎へ向かって歩く。
雨はもう、傘なしでは少し厳しいくらいに強くなっていた。灯里は走らなかった。濡れながら、歩いた。
背後で足音はしなかった。
更衣室の前まで来て、灯里は一度だけ振り返った。
グラウンドの方は雨で霞んでいた。器具庫の前に、人影はもうなかった。
日野かなたは、灯里とは違う種類の人間だ。真剣になることを恐れていないように見える。負けることも、弱さも、恥も、全部走りの中に差し出せるように見える。
ああいう子を見ていると、昔の自分が腐っていく音が聞こえる。
だから、見ない方がいい。
これで良かったんだ。