きっといつか焦がれ思い返す   作:おいかぜ

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二話 沈黙と雨垂れ

 

 翌朝、岸本灯里(あかり)は目覚ましが鳴るより前に目を覚ました。

 

 カーテンの隙間から、薄い光が差している。部屋の中はまだ青かった。机の上には通学鞄が置きっぱなしで、椅子の背には昨日脱いだジャージが引っかかっている。汗の匂いはしなかった。灯里は昨日、走っていない。

 

 それなのに、ふくらはぎの奥が少しだけ重かった。

 

 走った後の朝みたいだ、と思ってから、灯里は顔をしかめた。

 

 馬鹿らしい。

 

 走っていない人間が、走った後みたいな顔をする。そんなもの、ただの錯覚だった。あるいは、夢見が悪かっただけ。いくらでも理由はつけられる。

 

 布団の中で寝返りを打つ。

 目を閉じると、夕方のグラウンドが浮かんだ。

 

 白線の前に立つ日野かなた。何度も、何度も、十メートルだけを走る姿。低く構えた背中。土を蹴る音。

 息を切らして戻ってくる足取り。

 

 ──短いから、嘘を吐く場所がないんです。

 

「……うるさ」

 

 声に出してから、灯里は自分の声の低さに少し驚いた。

 

 何がうるさいのかは分かっている。

 昨日の言葉を、いつまでも覚えている自分がうるさい。

 

 灯里は布団を蹴って起き上がった。足裏が床に触れる冷たさで、少しだけ頭がはっきりした。

 

 着替えを済ませて台所へ行くと、母がテレビの天気予報を見ていた。食卓には味噌汁と焼き魚、卵焼きが並んでいる。画面の端には、午後から雨の可能性、という文字が出ていた。梅雨前線がどうのこうのと、気象予報士が言っている。

 

「灯里は今日も部活?」

「うん」

「最近、帰り遅いよね。無理してない?」

「してない」

 

 椅子に座りながら答える。両手を合わせ、箸に手を伸ばす。

 灯里は味噌汁を口に運んだ。熱い。豆腐が舌に触れて、少しだけ現実に戻る。

 

「走ってるの?」

 

 母は、何でもないことのように言った。

 

 おそらくは、本当に何でもない問いだった。帰りが遅いから、練習をしているのかと尋ねただけ。そこには期待も失望もない。責める響きもない。

 

 それなのに、灯里の喉は一瞬だけ狭くなった。

 

「……走ってない」

「そっか」

「タイム取ったり、後輩見たり」

「灯里、昔から人の走り見るのも好きだったものね」

 

 母はそう言って、またテレビへ視線を戻した。

 灯里は箸を止めた。

 

 昔から好きだったわけではない。

 

 そう言おうとして、やめる。言ったところで、母は困るだろう。困らせたいわけではない。母は何も悪くない。ただ、昔の娘を思い出しているだけだ。

 

 昔の灯里。足が速かった灯里。純粋だった灯里。真剣だった灯里。

 ビデオカメラの中で、誰より先にゴールテープを切る灯里。

 

 母にとっては懐かしい記憶なのだろう。灯里にとっても、嫌な記憶ではない。むしろ、幸せだった。幸せだったから面倒なのだ。

 

 灯里は残りの味噌汁を飲んだ。

 

「行ってきます」

 

 鞄を持って立ち上がる。

 

「雨降るかもしれないから、傘持っていきなさい」

「置き傘ある」

「そう言って、いっつも濡れて帰ってくるんだから」

 

 母の小言を背中で聞きながら、灯里は玄関を出た。靴紐をしっかりと結び直す。

 扉を閉める直前、母が言った。

 

「気をつけてね」

 

 何でもない言葉が、今日はいちいち胸に触る。

 

 ♦

 

 昼休み、灯里は教室の窓際で購買のパンを食べていた。

 

 向かいの席には橘まどかが座っている。灯里と同じ二年生で、陸上部の同級生。元は中距離を走っていたが、膝を痛めてからは練習補助や記録係に回ることが多くなった。

 まどかは弁当の卵焼きを箸でつまみながら、灯里の顔をじっと見ていた。

 

「なに」

「眠そう」

「眠いからね」

「昨日、何時に寝た?」

「普通。覚えてないけど」

「普通って言う人、大体普通じゃないよ」

「じゃあ異常」

「雑だなあ」

 

 まどかは笑った。

 灯里はパンの袋を開ける。購買で買った焼きそばパン。別に好きなわけではない。残っていた中で、一番考えなくて済む味だっただけだ。

 

「昨日さ」

 

 まどかが言った。

 

「日野さんと話してたよね」

 

 灯里はパンを噛むのを止めた。

 

「見てたの」

「帰るときに少しだけ。遠かったか何言ってたかまでは聞こえなかったけど」

「練習終わった後に一人で走ってたから、やめなって言っただけ」

「ああ」

 

 まどかは箸を止めた。

 

「あの子、ちょっと危ういよね」

「真剣なんでしょ」

「嫌な言い方」

「事実」

「灯里は真剣な子、苦手だもんね」

 

 灯里はパンの袋をくしゃりと握った。

 

「別に苦手じゃない」

「うそ。すぐ馬鹿にするじゃん」

「馬鹿にしてない。効率が悪いって思うだけ」

「それを馬鹿にしてるって言うんだよ」

 

 まどかは平然と言った。咎めるでもなく、同調するでもなく。

 否定する言葉は思い浮かばない。まどかの言葉は正しかった。

 

 灯里は窓の外へ視線を逃がした。校庭の向こうにグラウンドが見える。昼休みのトラックは空っぽだった。白線だけが、薄く残っている。

 

 あそこに昨日、日野かなたがいた。

 

 構えて、走って、止まって、戻る。

 構えて、走って、止まって、戻る。

 

 同じことの繰り返し。効率の悪い、身体をすり減らすような反復。

 

 真剣、あるいは、全身全霊。便利な言葉だ。何かに取り憑かれた人間を、少しだけ綺麗に見せられる。泥だらけでも、吐きそうでも、負けて泣いても、真剣だからと言えば許される。愚行が美談になる。

 

 灯里は、そういうものが嫌いだった。

 

「日野さん、灯里のこと見てたよ」

 

 まどかが言った。

 

「何で?」

「知らない。昨日から気にしてるっぽい」

「私じゃなくてストップウォッチじゃない?」

「ストップウォッチにあんな目はしないでしょ」

「あんな目って、なに」

「野良猫が、餌くれる人間を見つけたときみたいな目」

「嫌な例え」

「でも、合ってそうじゃない?」

 

 まどかは楽しそうだった。

 

「懐かれると面倒だよ」

「懐かれないから」

「懐かれそうな人って、だいたいそう言う」

 

 無愛想で、口煩くて、冷たい。懐かれる要素は皆無だ。自分を客観視できないほど幼稚じゃない。

 

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

 灯里は残りのパンを口に押し込む。焼きそばのソースが妙に甘い。

 

 日野かなたが、こちらを見ている。

 まどかの言葉は、放課後まで頭の隅に残った。

 

 ♦

 

 放課後の練習は、曇り空の下で始まった。

 

 湿度が高い。空気が重く、息を吸うと肺の内側に水の膜が張るような感じがした。グラウンドの土も乾ききっていない。スパイクが沈むほどではないが、蹴った感触は少し鈍そうだった。

 

 榊美冬は空を見上げて、メニューを短めに切り替えた。

 

「今日は流しとスタート確認まで。雨が来たらそこで終わり。無理に本数は積まない」

「はい」

 

 部員たちが返事をする。

 灯里は記録用紙を持って、トラックの内側に立った。

 短距離組が二人ずつ並び、五十メートルの流しを行う。七割程度の速度で、フォームを確認するための走りだ。灯里はタイムを取らず、目で追った。

 

 日野かなたは三組目だった。

 

 昨日よりも、右足の置き方が安定している。左腕はまだ外へ逃げるが、本人なりに抑えようとしているのは見えた。二歩目で上体が浮く癖も、昨日よりはましだった。

 

 灯里は口の中で、ち、と小さく舌を鳴らした。

 直してきている。

 昨日の、たった一度の指摘を。

 

 かなたは五十メートルを流して、ゆっくり戻ってくる。その途中で、灯里の方を見た。

 

 目が合う。

 灯里はすぐに逸らした。

 かなたがまだ見ているかどうかは、確認しなかった。確認したら、負けだと思った。

 

「灯里」

 

 隣から声がした。榊が真横に立っていた。

 

「日野の左腕、昨日よりましになった?」

「……多少は」

「あなた、何か言った?」

「ちょっとだけです」

「そう」

 

 榊はかなたの方を見た。

 

「日野、飲み込みは早いんだけど、放っておくと量で解決しようとする。危なかったら止めてあげて」

「……私がですか?」

「見えるんでしょう」

 

 榊はさらりと言った。

 灯里は返事に詰まった。

 

 見えるんでしょう。

 昨日のかなたと似たことを言う。

 

 見えるから何なのだろう。

 

 走っている人間の悪いところを言うのは簡単だ。上体が浮いている。腕が逃げている。腰が落ちている。接地が流れている。そういうものは、経験があれば分かる。もしかすると、経験がなくても。自覚するのは難しいけれど、他人が好き勝手に言うことは簡単だ。

 

 けれど、それを言った先のことまで、灯里が背負う必要はない。

 

 日野かなたが何のために走り、どこまで走れば満足するのか。

 どこから先が壊れる場所で、いつ止めなければならないのか。

 

 そんなものまで見えるわけがない。灯里は教員でも、指導者でもない。

 

 けれど、視線は勝手にかなたへ戻った。

 

 次はスタート確認だった。

 スタートブロックを使い、十メートルから二十メートルまでの加速を見る。榊が全体を見て、灯里とまどかが補助に回る。真柴紗季は一年生にブロック位置を教えていた。

 

 やがてかなたの番が来る。

 かなたはスタートブロックに足をかけ、しゃがみ込んだ。

 

 背中が低くなる。指先が白線の手前に触れ、肩が少しだけ上がる。

 呼吸が沈む。

 

 その瞬間、灯里は周囲の音が一枚薄くなったように感じた。

 

 もちろん、実際には何も変わっていない。隣では一年生が小声で話しているし、遠くで野球部が声を出している。風も吹いている。グラウンドの外を車が通る音も聞こえる。

 

 それなのに、かなたの周りだけ、余分なものが削ぎ落とされたように見えた。

 

 真剣だ、と思った。

 

 見ている方が恥ずかしくなるくらいに。

 

 榊の手が鳴り、かなたが飛び出した。

 

 一歩目、二歩目。やはり少し浮く。

 三歩目、左腕が外へ逃げる。

 十メートル、止まる。

 

 かなたは振り返らないまま、肩で息をした。

 

「日野」

 

 榊が声をかける。

 

「もう少し二歩目を我慢。上体を起こすのが早い」

「はい」

 

 かなたは返事をして、それから、灯里の方を見た。

 何かを待っていた。

 

 灯里は何も言わなかった。

 

 かなたは少しだけ唇を結んだように見えた。けれど、それが不満なのか、集中を切らさないためなのか、灯里には分からない。

 

 かなたはすぐにスタートラインへ戻った。

 

 二本目。今度は二歩目を我慢しようとしすぎて、全身が固まっていた。力で低さを作っている。あれでは地面に居座るだけだ。

 

 灯里は黙っていた。

 見ないと言ったわけではないが、関わる義務もない。

 

 かなたが戻ってくる。

 

 榊は別の部員を見ていた。紗季は一年生のブロックを直している。まどかはスマートフォンで動画を撮っている。

 

 誰も言わない。黙って、かなたは三本目に入った。

 そしてまた同じ失敗をする。

 

 灯里は唇を噛んだ。

 

 違う。

 我慢じゃない。固めるんじゃない。上体を低くすることが目的になっている。前に運ぶための低さでなければ意味がない。二歩目で地面を押し続けるから詰まる。置いて、抜ける。そこを間違えている。

 

 かなたが構え、飛び出す。そしてまた同じ失敗をする。

 二歩目で詰まる。

 

「違う」

 

 声が出ていた。

 自分の声に、自分で少し驚く。

 

 かなたが立ち止まり、灯里へと振り返った。

 周囲の部員も、わずかにこちらを見た。

 

 言ってしまった以上、途中でやめる方が不自然だった。灯里は記録用紙を脇に挟み、かなたの方へ歩いた。

 

「我慢って言われたからって、固めない。上体を低くするんじゃなくて、前に運ぶ。二歩目で地面を押す時間が長すぎる。もっと短く」

 

 かなたは黙って聞いていた。

 まばたきが少ない。灯里の言葉を一つも落とさないような顔だった。そう見えただけかもしれない。

 

「短く」

「……復唱しなくていい」

「はい」

「押すんじゃなくて、置いて抜ける」

「置いて、抜ける」

「だから、復唱しなくていいって」

「すみません」

 

 灯里はため息をついた。

 かなたはすぐにスタートラインへ戻った。

 

 四本目を構える。背中が低くなる。手拍子と同時にひなたが飛び出す。

 さっきよりは、いい。

 三歩目でまだ少し腰が残るが、詰まりは減った。左腕の逃げ方も小さい。

 

 頷きそうになった己を、灯里は努めて押さえつけた。そうこうしているうちに、かなたが戻ってくる。

 

「今のは」

 

 聞き方が、少しずるいと思った。

 良かったですか、とは言わない。褒めてください、とも言わない。ただ、今のは、とだけ言う。続きを灯里に委ねてくる。

 

「…………マシだった」

 

 灯里は短く答えた。

 

「どこがですか」

「二歩目。地面との喧嘩が減った」

「喧嘩」

「……詰まりが、減った」

「いえ、分かります」

 

 かなたは真顔で言った。

 

 灯里は少しだけ困った。

 笑うところではなかったのか。比喩が変だとか、先輩の説明は分かりにくいとか、そういう反応をする場面ではないのか。

 

 けれどかなたは、灯里の言葉を身体の感覚として受け取ったように見えた。

 

 それがまた、やりにくかった。

 

「じゃあ、次も同じように」

「同じは無理です」

「何で」

「今のは、今の一本なので」

 

 かなたは真面目な顔で言った。

 灯里は一瞬、返す言葉を失った。

 

 変な子だ。

 

 ただ、その言い分は間違っていない。

 同じ一本などない。地面も、身体も、呼吸も、毎回わずかに違う。大事なのは、同じことを繰り返すことではなく、違う一本の中で同じ結果に近づけることだ。

 それを、かなたは知識ではなく、感覚で言っているように見えた。ひとつ違うのは、ほかの誰も、それをわざわざ口にしないということだ。

 

「……あっそ」

 

 スタート確認が終わる少し前、雨が降り始めた。

 最初は、頬に当たるか当たらないかくらいの細い雨だった。だが、雲の色を見る限り長くは持たない。榊が手を叩く。

 

「今日はここまで。ダウンは屋根の下で。道具片づけたら解散」

 

 部員たちが動き出す。

 灯里はストップウォッチと記録用紙をまとめ、器具庫へ向かった。湿った風が頬に触れる。グラウンドの土の匂いが、雨で少し重くなっていく。

 

 器具庫に入ると、後ろから足音がついてきた。

 振り返らなくても分かった。

 

「なに」

「先輩」

 

 日野かなたの声だった。

 

「今日、ありがとうございました」

「榊先生に言って」

「先生にも言います」

「じゃあそれでいい」

 

 灯里はハードルの支柱を壁に立てかける。

 

 かなたは器具庫の入口に立ったまま動かなかった。雨粒が髪の先についている。濡れているのに、気にしていないように見えた。あるいは、気にする優先順位が低いだけかもしれない。

 

「先輩」

「……なに」

「明日も見てくれますか」

 

 手を止める。

 面倒なことになった。はっきりそう思った。

 

「見ない」

「どうしてですか」

「私はコーチや先生じゃないから」

「でも、見えます」

「……見えるって、なに。特別なことのように言うけど、そんなの誰にでもできることだし。見えるからって、見る義務はない」

 

 言い方がきついことは分かっていた。

 

 黙ってしまったかなたを意識しないようにして、灯里はマーカーコーンを棚に戻す。赤、青、黄色。順番に重ねる。こういう単純な作業はいい。何も考えなくて済む。

 

 後ろで、かなたがまだ立っている。

 帰ればいいのに、と思う。

 けれど、帰らないでほしいと思っている自分がいる気もして、灯里はさらに苛立った。

 

「先輩は、」

 

 躊躇するような声音。その後に降ってくる言葉を予想し、灯里はつかの間、息を止めた。

 

「走るのが嫌いですか」

 

 灯里は、手に持っていたコーンを落としかけた。予想した上で、予想外の言葉が飛んできたからだった。

 

「……あんたに関係ないでしょ」

「すみません」

「そういうの、人に聞かない方がいいよ」

「はい」

「はいって、分かってないでしょ」

「分かってないです」

 

 正直すぎる返事だった。苛立ちよりも一瞬、呆れが勝った。

 

 灯里は振り返る。

 かなたは、灯里を見ていた。責める目ではない。好奇心とも少し違う。何か分からないものを、分からないまま見ようとしている目だった。灯里のことを、分かろうとしていた。

 

 それは、困る。

 

 灯里は、走っていない理由を言葉にされたくなかった。嫌いだからでも、飽きたからでも、才能がないからでもない。そのどれも、完全な嘘ではない。けれど本当でもない。

 

 本当のところを見られるくらいなら、嘘のまま放っておいてほしかった。

 

「でも、気になりました」

 

 かなたは言った。

 

「先輩、走ってる人を見るとき、少し怒ってるので」

 

 灯里は眉を寄せた。

 

「怒ってない」

「そうですか」

「そう」

「じゃあ、苦しそうです」

 

 雨音が強くなった。風が吹き付け、波のように雨粒が壁を打つ。

 器具庫の薄い屋根を、細かな雨粒が叩いている。乾いた土の匂いが消え、濡れたグラウンドの匂いが濃くなる。

 

 灯里は、しばらく何も言えなかった。

 

 苦しそう。

 

 自分はそんな顔をしているのか。

 

 紗季が走るときも。後輩が走るときも。かなたが白線に立つときも。

 

 少し怒っている。

 苦しそう。

 

 どちらも、外れていない気がした。

 

「日野さん」

 

 灯里は声を低くした。

 

「そういうの、やめた方がいい」

「そういうのって」

「人の中に勝手に踏み込むこと」

 

 かなたは少し目を伏せた。

 

「すみません」

「謝るくらいなら最初からしないで」

「はい」

「あと、私は明日も見ない」

 

 器具庫の鍵を手に取った。冷たい感触が手のひらに触れる。

 

「自分の走りくらい、自分で見なよ」

 

 言ってから、ひどい言葉だと思った。

 走っている人間は、自分の走りを見られない。

 

 灯里はそれを知っている。知っているからこそ、かなたが何を求めているのかも、少しだけ分かってしまう。

 

 だから突き放した。灯里が与えられるものではない。与えていいものでは、ない。

 

 雨音だけが横たわる沈黙の中、かなたはしばらく黙っていた。馬の足音のように、一定の規則性をもって雨粒が走る。

 

 やがて、かなたは小さく頭を下げた。

 

「分かりました」

 

 その声は、昨日より少し遠かった。

 灯里は器具庫を出て、鍵を閉めた。

 かなたはまだ、そこに立っている。

 

「帰りなよ」

「はい」

 

 灯里は背を向けた。

 校舎へ向かって歩く。

 雨はもう、傘なしでは少し厳しいくらいに強くなっていた。灯里は走らなかった。濡れながら、歩いた。

 

 背後で足音はしなかった。

 更衣室の前まで来て、灯里は一度だけ振り返った。

 グラウンドの方は雨で霞んでいた。器具庫の前に、人影はもうなかった。

 

 日野かなたは、灯里とは違う種類の人間だ。真剣になることを恐れていないように見える。負けることも、弱さも、恥も、全部走りの中に差し出せるように見える。

 

 ああいう子を見ていると、昔の自分が腐っていく音が聞こえる。

 

 だから、見ない方がいい。

 これで良かったんだ。

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