翌日の朝練には、日野かなたの姿があった。
灯里が校門をくぐったのは、始業よりかなり早い時間だった。朝練を見るためではない。家にいても落ち着かなかったから、早く出ただけだ。そういうことにした。
グラウンドには、まだ数人しかいない。
紗季が軽くジョグをしている。まどかが器具庫前でドリンクの準備をしている。そしてトラックの端に、日野かなたがいた。
かなたは一人で立っていた。走ってはいない。
白線の前で、ただスタート姿勢に入っている。指先を地面に近づけ、腰を上げ、前を見る。その姿勢を数秒保って、戻る。深呼吸する。また構える。
灯里は足を止めた。
昨日の雨で、地面はまだ湿っている。全力で蹴れば滑るかもしれない。走るには向かない。だから、かなたは走っていない。
灯里が昨日、言ったからだ。
これ以上やっても悪くなる。
自分の走りくらい、自分で見なよ。
その言葉を受け取ったうえで、かなたは一人で、走らずにスタートの形だけを確かめている。
馬鹿みたいだ。
律儀すぎる。真剣すぎる。そのくせ、自分で動画を撮っている感じもしない。
灯里は鞄の紐を握った。
見ない方が良いと思うのに、視線は勝手に引き寄せられる。
かなたの右足の位置。左肩の高さ。腕の置き方。腰の角度。呼吸。姿勢を解くときの表情。
走っていないのに、かなたは走っているように見えた。イメージトレーニングに釣られていることに気が付いて、
「おはよ、灯里」
紗季がジョグを終えて近づいてきた。
「早いじゃん」
「たまたま」
「たまたま、朝練の時間に?」
「うるさい」
紗季は笑った。
それから、かなたの方を見る。
「あの子、最近すごいね」
「何が」
「んー、目が怖い?」
「褒めてる?」
「半分くらい」
紗季はタオルで汗を拭いた。彼女が愛用している黄色のタオルは、もはやトレードマークになっている。
「日野さんって、まだそんな速いわけじゃないけどさ。たまに、スタートだけ変に鋭いときあるんだよね。こっちが油断してると、十メートルくらいまで横にいる」
「後半で置いていくくせに」
「まあね」
紗季は悪びれずに言った。
嫌味ではない。真柴紗季は速い。強い人間は、事実を述べることを許される。
「でも、ああいう子、伸びると怖いよ」
「伸びればね」
「灯里って、ほんとすぐそういう言い方する」
「事実でしょ」
「はいはい」
紗季は肩をすくめた。
そのとき、かなたが姿勢を解いて、こちらを見た。
目が合う。
かなたは頭を下げた。
それだけだった。
近づいてこない。昨日のように「見てください」とも言わない。ただ、挨拶だけをして、また白線の方へ向き直る。
灯里は、それが少し気に入らなかった。
自分で突き放したのに。懐かれると面倒だと思ったのに。
来なければ来ないで、胸の奥がざらつく。
「灯里?」
「なに」
「今、めちゃくちゃ面倒くさい顔してる」
「……元からでしょ」
「あっはは! そうかも」
紗季が笑う。
灯里は返事をしなかった。
朝練が始まっても、かなたは灯里へ近づいてこなかった。榊の指示を聞き、紗季にブロックの位置を尋ね、まどかに動画を撮ってもらっている。
灯里は記録用紙を持って立っていた。
見るつもりはなかった。
でも、見えてしまう。見てしまう。
かなたの一本目は悪かった。昨日の「置いて抜ける」を意識しすぎて、一歩目が弱い。二本目は逆に蹴りすぎて、上体が詰まる。三本目は少しましだが、左腕がまた逃げる。
誰も言わない。
榊は部全体を見ている。紗季は別の一年生を指導している。まどかは動画を撮っているが、フォームを細かく見る役ではない。
かなたは動画を確認しながら、眉間にしわを寄せていた。
違う。
灯里は心の中で言った。
動画で正面から見ても分からない。今の問題は腕そのものではなく、腰の逃げ方だ。左腕が外へ行くのは結果で、原因は二歩目の接地で腰が引けていることにある。
かなたはもう一度スタートラインに立った。
また同じ失敗をする。
灯里は唇を噛んだ。
黙っていればいい。
見ないと言った。
関わらないと決めた。
日野かなたが間違えようと、遠回りしようと、灯里の責任ではない。
手拍子。
かなたが出る。
二歩目、腰が引ける。
「違う」
──ああ、まただ。
自分の声に、自分で驚いた。
直ぐに、自分の愚かさにため息が溢れた。ほんのささやかな決心さえ翻してしまう自分に。情に、後悔に流される弱さに。
かなたが止まる。
部員たちも少しだけこちらを見る。
昨日と全く同じことをしている。一度口に出してしまった以上、引っ込められない。
「腕じゃない。腰。二歩目で地面を怖がってる。左腕を直そうとしても無駄。先に腰を前に入れて」
かなたは立ったまま、灯里を見ていた。
「腰」
「そう。地面を踏む前に、もう逃げる準備してる。そこが遅い」
「逃げる準備」
「言葉に反応しなくていい」
「はい」
かなたはうなずいた。
それから、ほんの少しだけ表情を変えた。
嬉しそう、というほど分かりやすくはない。口元が緩んだわけでもない。ただ、目の奥にあった硬いものが、少しだけほどけたように見えた。
そう見たかっただけだ。
「ありがとうございます」
「別に」
顔を背けた。
まどかが遠くでにやにやしているのが見えた。
灯里が睨むと、まどかは笑顔で親指を立てた。
最悪だった。
いつものアドバイスの一環だ、という言い訳が、虚しいことはわかっていた。
♦
その日から、日野かなたは灯里の近くで走るようになった。
改めて、見るように頼まれたわけではない。
少なくとも、言葉では。
かなたは「見てください」とは言わなくなった。代わりに、灯里の視界に入る場所で練習する。スタート位置を少しずらし、戻ってくるときに灯里の横を通り、給水のときには少し離れたところでノートを開く。
それらを偶然と片付けるのは難しかった。
練習後、灯里が記録用紙をまとめていると、かなたは少し離れたベンチでノートを書いていた。小さな字で、びっしりと何かを記している。
見ないつもりだった。
だが、ベンチの横を通ったとき、目に入った。
一歩目、急いだ。二歩目、地面を怖がる。腰が後ろに残る。左腕は原因ではない。先輩は、逃げる準備と言った。たぶん合っている。
灯里は足を止めた。
「日野さん」
「はい」
「それ、毎日書いてるの」
「はい」
「走った感想?」
「感想ではないです」
かなたはノートを閉じなかった。むしろ、少しだけ灯里の方へ向けた。数日前から、文字数が増えているように見えた。
「記録です」
「タイムだけじゃなくて?」
「タイムは結果なので」
かなたはノートの端を指で押さえた。
「結果だけだと、何が起きたか分からなくなります」
灯里は黙った。
上達のためのアプローチとしては正しい、と思う。タイム、コンディション。それらは結果であって、振り返ったところで、速かったか遅かったかくらいの情報しか返してくれない。
このノートの中身が有用かは置いておいて、誤った努力ではない、はずだ。ノートには、タイムだけではなく、身体感覚が細かく書かれていた。
地面が遠い。肩が先に行く。三歩目で音が濁る。最後、怖がった。走っている途中、少し静かだった。今日はうるさかった。先輩に見られていたから、逃げる場所がなかった。
最後の一文を見て、灯里は視線を逸らした。
先輩に見られていたから。
それは責められているようにも、感謝されているようにも、ただの観察記録のようにも見えた。かなたがどういうつもりで書いたのか、灯里には分からない。
分からないのに、自分の名前がそこにあることだけは分かった。
それが落ち着かなかった。自分の何気ない言葉が、重く受け止められ、かなたのノートに残る。
「変なノート」
「そうですか」
「うん。変」
「でも、ないと忘れます」
「何を?」
「走っていたときの私を」
灯里は返事をしなかった。
かなたは、何でもないことのように言った。
「ゴールしたあと、いつも分からなくなります。良かったのか悪かったのか、悔しかったのか怖かったのか。走ってる間は分かるんですけど、終わると散らばります」
かなたはノートを見下ろした。
「だから書きます。残しておかないと、なかったことになりそうで」
灯里は、何か言おうとしてやめた。
かなたの言葉は、たまに深いところへ落ちてくる。投げている本人は、どこに落ちるか分かっていない。だから避けにくい。
「走ってる間だけ、分かるんだ」
「はい」
「何が」
かなたは少し考えた。
「自分がいる場所です」
「……変なの」
「はい」
かなたは素直にうなずいた。
「自分でも、そう思います」
その返事が少しおかしくて、灯里は笑いそうになった。けれど笑わなかった。笑えば、その真剣さを馬鹿にしたことになる気がした。……それは、いけないことだろうか。自分が嫌っていたのは──余計な思考を振り払った。
代わりに、ノートの一文を指差す。
「ここ」
「はい」
「三歩目で音が濁るって、何」
「接地の音です。二歩目までは、乾いてるんですけど、三歩目で重くなります」
「耳で聞いてるの?」
「分かりません。耳じゃなくて、身体で聞こえてます」
「余計分からない」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
灯里はため息をついた。
「でも、たぶん合ってる。三歩目で足が身体の真下より少し前に出てる。そこでブレーキになってるから、音が重い」
かなたの目が、はっきりと変わった。灯里の方を見つめ返し、それどころか、覗き込むように光が宿る。暗い場所に、小さな火が入ったように灯里には見えた。
「それです」
「どれ」
「それが知りたかったです」
かなたはノートを開き、すぐに書き始めた。
三歩目、真下より前。ブレーキ。音が重い理由。
灯里はその横顔を見ていた。
かなたは、灯里の言葉を一つも落とさないように書いているように見えた。まるで大事な薬の処方を写しているみたいだった。
大袈裟だと思う。
けれど、その大袈裟さが少しだけ心地よかった。
自分の見る力が、誰かに必要とされている。
その感覚は、危ないほど甘かった。恐ろしい、と思う自分がいる。見ないふりをしようとする自分も。
「先輩」
「なに」
「明日も、近くで走っていいですか」
「私の許可いらないでしょ」
「でも、嫌なら離れます」
灯里はすぐには答えなかった。
嫌なら。
嫌なのだろうか。
日野かなたの真剣さは苦手だ。あの目で見られると、胸の奥がざわつく。走っていない自分が、どこかで責められているような気がする。
けれど、かなたの走りを見るのは、必ずしも嫌ではなかった。
「……邪魔にならないなら」
灯里の言葉に、かなたは頷いた。
「邪魔にはなりません」
「そこは、邪魔にならないようにします、でしょ」
「すみません」
「別に、いいけど」
灯里は記録用紙を持ち直した。
「あと、練習後に勝手に本数増やさないで」
「はい」
「納得するまで、とか言わない」
「はい」
「榊先生のメニュー以上にやりたいなら、先生に聞いてから」
「はい」
「本当に分かってる?」
「分かってます」
かなたは灯里を見た。
「先輩が見てくれるなら、無駄な本数は減らせると思います」
灯里は返事に詰まった。
まただ。
この子は、何の躊躇もなく灯里の手首を掴んでくる。言葉で。視線で。真剣さで。
まるで、灯里が見なければ、かなたはまた雨の中でも走り出すと言っているみたいだった。
「責任転嫁しないで」
声が少し硬くなった。
「走るのは日野さんでしょ」
「はい」
「私が見ても見なくても、日野さんの走りは日野さんのものだから」
かなたは黙った。
その沈黙に、灯里は自分で言った言葉の重さを知る。
日野さんの走りは、日野さんのもの。
そんな当たり前のことを、なぜわざわざ言わなければならなかったのか。
まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。
かなたはやがて、小さくうなずいた。
「はい」
今度の「はい」は、いつもより少しだけ低かった。
♦
その週の終わり、日野かなたの十メートルは変わっていた。
決して大きな変化ではない。
タイムにすれば、誤差と言われても仕方がない。榊に言わせれば、手動計測の一回分で騒ぐな、という話になるだろう。
それでも、灯里には分かった。
一歩目のあと、身体が詰まらない。二歩目で地面に居座らない。三歩目で腰が後ろに残る癖も、ほんの少しだけ薄くなっている。
ほんの少しだけだ。目に見える上達とは言えない。
なのに、灯里の目はそこを拾ってしまう。
嫌になる。
見なければいいものを、見てしまう。見えてしまえば、言いたくなる。言ってしまえば、日野かなたはまたこちらを見る。
あの、何かを待っている目で。
金曜の放課後、短距離組は十メートルの計測を行った。
正式なタイムではない。スタート練習の一環として、加速の入りを確認するためのものだ。手動計測だから誤差も大きい。それでも、部員たちは少し浮き足立っていた。
紗季が最初に走った。
鋭い出だしだった。無駄のない加速。身体が前へ倒れ、その倒れた分だけ脚が地面を拾っていく。速い人間の走りだった。
「一秒九三」
灯里が読み上げると、一年生たちが声を上げた。
「速っ」
「十メートルってそんな数字出るんですか」
「真柴先輩やば」
紗季は得意げに笑う。
「まあね」
「調子乗らない」
榊が言う。
「はい」
紗季は笑ったまま返事をした。
次々に走る。
二秒一。二秒二。二秒三。
かなたの番が来た。灯里はストップウォッチを構えた。これまでと同じように。
かなたはスタートブロックに足をかける。指先を置く。息を吐く。
灯里は胸の奥が少し静かになるのを感じる。
かなたは、走っている間だけ世界が静かになると言った。けれど灯里にとっても、かなたが走る直前だけ周囲の音が薄くなるような気がした。
それは、どこか覚えのある感覚だった。
榊の手が鳴る。かなたが飛び出した。
一歩目、二歩目、三歩目。腰が前へ入る。十メートル。
灯里はボタンを押した。
「二秒〇三」
読み上げた瞬間、周囲が小さくざわめいた。
「え、速くない?」
「今の、日野さん?」
「十メートルだけなら結構上じゃん」
かなたはゴール地点で止まっていた。肩で息をしながら、最初に榊を見た。次に真柴紗季を見た。
最後に、灯里を見た。
そういう順番まで見てしまう自分を、自覚する。
かなたが戻ってくる。
「今の一本は」
褒めてほしいとは言わない。良かったですかとも言わない。ただ、今の一本は、とだけ言う。続きを灯里に委ねる。
黙っていればいい。
手動だから誤差があると言えばいい。
十メートルだけで満足するなと先に釘を刺せばいい。
逃げ道はいくらでもあった。
けれど灯里は、結局そこから逃げられなかった。
「綺麗だった」
かなたの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。目元が動いたわけでも、口元が緩んだわけでもない。ただ、かなたの中で何かが止まったように見えた。
喜んだのかもしれない。
驚いただけかもしれない。
灯里には分からない。
分からないのに、自分の言葉がかなたのどこかへ届いたことだけは分かってしまった。
「今の一本はね」
灯里はすぐに付け足した。
「二本続くかは別。あと、百メートルはまだ九十メートル残ってる」
「はい」
「浮かれない」
「はい」
「その『はい』、むかつく」
「すみません」
謝罪の声色は少しだけ軽かった。灯里にはそう聞こえた。
それがまた、腹立たしかった。
日野かなたは、たった一言であんな顔をする。
それが、少し嬉しいと思ってしまった。
最低だ、と思う。
誰かの走りを見ているだけなら安全なはずだった。
自分は走らない。
自分は測られない。
自分は負けない。
そのはずなのに、かなたが走るたび、灯里の中のどこかまで一緒に計測されている気がした。
真剣なんて、馬鹿らしい。
そう思うのに、かなたの次の一本を待っている自分がいた。
♦
練習後、まどかが灯里の横に並んだ。
「綺麗だった、だって」
「聞いてたの」
「聞こえた。日野さん、すごい顔してたね」
「変な顔?」
「んー」
まどかは少し考えるふりをした。
「恋する乙女みたいな顔」
「ばっかじゃないの」
灯里は即座に言った。
まどかは笑った。
「冗談だよ、冗談。……半分くらい」
「全部冗談にして」
「え〜、無理かなあ」
灯里は無視して歩いた。
けれど、耳の奥に残っていた。
恋する乙女。
そんな軽い言葉で片づけられるものではない。
かなたが欲しがっているのは、優しさでも、甘さでも、恋でもない。たぶんもっと切実で、もっと厄介なものだ。
見られたい。
正確に見られたい。
自分の走りが、確かにそこにあったのだと、誰かに証明してほしい。
灯里には、それが少しだけ分かってしまう。
小学生の運動会。
母のビデオカメラ。
画面の中を走る自分。
あれは、自分が速かった証拠だった。自分が輝いていた証拠だった。見てもらえた証拠だった。
だから何度も見た。
何度も、何度も。
忘れないように、消えないように。
「……馬鹿みたい」
灯里は小さく呟いた。
まどかが聞き返す。
「何が?」
「真剣って」
灯里はグラウンドを見た。
かなたはまだ、榊に何かを質問していた。今日の走りについてだろう。手振りを交えながら、自分の二歩目を説明している。その顔は、さっき灯里に「綺麗だった」と言われたときとは違う。もう次の一本のことを考えている顔だった。
「馬鹿みたいだなって」
まどかは少しだけ黙った。
それから言った。
「でも、もう嫌いじゃなさそう」
灯里は返事をしなかった。
嫌いではない。
そう認めるには、まだ早すぎた。
その夜、灯里はスマートフォンに送られてきた練習動画を開いた。まどかが部員共有用に撮ったものだった。
かなたの十メートル。
タイムは二秒〇三。
灯里は一度だけ再生した。
それから、もう一度再生した。
また、もう一度。
小さな画面の中で、日野かなたが白線から飛び出す。たった十メートル。二秒にも満たない時間。すぐに終わる。
それなのに、その短さの中に、かなたは何かを全部詰め込もうとしているように見えた。
灯里は動画を止めた。暗くなった画面に、自分の顔が映る。
ひどい顔だった。
ひどく、羨ましそうな顔だった。
スマートフォンを伏せた。
胸の奥が、またうるさくなっていた。