きっといつか焦がれ思い返す 作:しんそく
日野かなたの十メートルを、灯里はその後も何度か見返した。
スマートフォンを開いたとき、たまたま動画が目に入った。
部員共有用のフォルダに新しい動画が上がっていないか確認した。
フォームの変化を見るために、一度だけ再生した。
理由はいくらでもあった。
けれど、同じ動画を七回も見る理由にはならなかった。
画面の中で、かなたは何度でも白線から飛び出した。
指先が地面を離れる。
肩が前に落ちる。
一歩目が土を叩く。
二歩目で詰まらない。
三歩目で腰が前へ入る。
十メートル。
止まる。
たったそれだけの二秒間。
悪いところを探すために見ているはずだった。
なのに気づくと、良くなった場所を探していた。
そこを見つけるたび、灯里の中に小さな熱が残る。
自分が走ったわけでもない。
自分のタイムが伸びたわけでもない。
それなのに、かなたが速くなったことを、自分のことみたいに受け取っている。
灯里はスマートフォンを伏せた。
部屋の照明は消していた。机の上の小さなライトだけがついている。開いた教科書は、ほとんど進んでいない。シャープペンシルの先が、ノートの同じ場所で止まっていた。
窓の外では、遠くを車が通る音がする。
灯里は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
浮かんできたのは、スマートフォンの中のかなたではなかった。
もっと古い映像。
テレビに繋がれたビデオカメラ。
夕食後のリビング。
母の声。
画面の中を走る、幼い自分。
小学生の頃、灯里は走るのが好きだった。
校庭の端から端まで全力で走る。風が耳の横を流れて、足裏が土を叩く。呼吸が苦しくなる少し手前に、身体が一番軽くなる瞬間があった。腕を振れば、その分だけ自分が前へ運ばれていく。身体と地面の間から、余計なものがなくなる。
ただ、楽しかった。
誰かに勝つことも嬉しかった。
けれど、それより先に、前へ進むことそのものが嬉しかった気がする。
休み時間になると、男子も女子も関係なく校庭へ飛び出した。鬼ごっこ。リレーごっこ。ドッジボールの外野から内野へ戻るための短い全力疾走。灯里はいつも、気づけば走っていた。
「灯里ちゃん、速いから鬼やって」
「えー」
そう言いながらも、嫌ではなかった。
速いから鬼になる。
速いから追いかける側になる。
速いから頼まれる。
それは灯里の中で、ほとんど喜びと同じだった。
運動会で一位になった後、周りの言葉は少しずつ増えた。
「灯里ちゃんはリレー確定だね」
「岸本さん、アンカーやってくれる?」
「灯里がいれば勝てるって」
そう言われるたび、灯里は恥ずかしそうな顔をした。
嬉しいときに、そのまま嬉しい顔をするのが苦手だった。自慢しているみたいに見えるかもしれない。調子に乗っていると思われるかもしれない。だから、少し困ったように笑う。
でも内側では、ちゃんと嬉しかった。
自分には役割がある。
クラスの中に居場所がある。
足が速いというだけで、灯里の名前は呼ばれた。
ある冬の日、体育でリレーをした。
灯里のチームは、最初から遅れていた。第二走者、第三走者とバトンが渡るたび、差は広がっていく。灯里はアンカーだった。待っている間、クラスメイトが口々に言った。
「灯里ならいける」
「抜けるよ」
「お願い、勝って」
その言葉で、身体に火がつく。
バトンを受け取った瞬間、前に三人いた。
一人目はすぐ抜いた。
二人目にはカーブで追いついた。
三人目の背中は、最後の直線で近づいてきた。
周りの声が大きくなる。
灯里。
灯里。
灯里。
名前が飛んでくる。
最後の数メートルで追い抜いた。
ゴールした瞬間、チームの子たちが灯里に抱きついてきた。
「やば、灯里すごい」
「ほんとに抜いた」
「速すぎ」
灯里は笑った。
そのときは、少しだけ素直に笑えた。
放課後、家に帰って母に話した。
「すごいじゃない」
母は夕飯の支度をしながら言った。
包丁がまな板を叩く音がする。玉ねぎの匂いが台所に広がっていた。
「みんなに褒められた」
「灯里は足が速いものね」
母の笑顔に悪意はなかった。
いつも通りの、優しい褒め方だった。
灯里も嬉しくて、何度も同じ話をした。
母は仕事で忙しかった。
帰りが遅い日も多かったし、宿題を隣でずっと見てくれるような余裕はなかった。授業参観に来られないこともあった。テストの点が良くても、「頑張ったね」と言ってくれた後、すぐ洗濯物を畳みに戻ることもあった。
それでも母は、灯里をちゃんと大事にしてくれていた。
ご飯を作ってくれた。熱を出せば仕事を休んでくれた。学校で必要なものは、いつも忘れず用意してくれた。
ただ、走ったときだけは違った。
母の目が、まっすぐ灯里の方を向いた。
運動会のビデオを何度も見た。
リレーの話を何度も聞いてくれた。
親戚に電話で、「灯里、今年も一番だったの」と話していた。
それを聞くのが好きだった。
リビングの隅で宿題をしているふりをしながら、母が自分のことを話す声に耳を澄ませる。
「そうなの、すごく速くてね」
母の声は、少し誇らしげだった。
灯里は鉛筆を握りながら、ノートの端に小さな丸を描いた。
自分は母の自慢なのだと思った。
足が速いから。
それは、たぶん正しくなかった。
母は足が速い灯里だけを好きだったわけではない。そんなことは、今なら分かる。あの頃だって、ちゃんと考えれば分かったはずだ。
けれど子供の灯里は、そこまで器用ではなかった。
褒められたこと。
見てもらえたこと。
自慢されたこと。
その全部が、「足が速い」という一点に結びついていった。
だから灯里は、もっと速くなりたかった。
もっと褒められたかった。
もっと見てもらいたかった。
もっと、「灯里はすごい」と言われたかった。
その気持ちは、恥ずかしいものではなかった。
少なくとも、そのときは。
♦
中学に入って、灯里は陸上部に入った。
理由は単純だった。
足が速かったから。
小学校までの速い子が、中学で陸上部に入る。自然な流れだった。周囲もそう思っていた。母も「灯里なら向いてるんじゃない」と言った。
灯里自身も、当然のようにそうした。
最初の数ヶ月は、すべてがうまくいった。
陸上部の中でも、灯里は速かった。一年生の中では目立っていたし、先輩にも「フォームが綺麗」と言われた。顧問には大会への出場を勧められた。
初めてスパイクを履いた日のことを、灯里はまだ覚えている。
足裏にピンが並び、地面に刺さる感触がした。普通の運動靴とは違う。土を掴むというより、地面に噛みつく感じだった。軽く走っただけで、身体が勝手に前へ運ばれた。
実際、タイムは伸びた。
十三秒台後半。
十三秒台中盤。
十三秒台前半。
大会に出るたび、自己ベストを更新した。
母は喜んだ。
灯里も、それだけでよかった。
だが、中学一年の秋、初めて県の大きな大会に出たとき、思い知った。
自分より速い子は、いくらでもいる。
予選のレーンに並んだ瞬間から、空気が違った。
隣の選手は、灯里より背が高かった。脚が長い。腕の振りが鋭い。スタート前の表情も、灯里の知っている同級生たちとは違っていた。
ピストルが鳴る。
灯里は悪くないスタートを切った。
けれど三十メートルの手前で、隣の子はもう前にいた。
追いつけなかった。
最後まで、その背中は離れていった。
結果は自己ベストだった。
順位は、真ん中より少し上。
顧問は言った。
「初めての県大会でこれは立派だ。まだ伸びるよ」
母も言った。
「自己ベストなんでしょう? すごいじゃない」
チームメイトも言った。
「灯里、速かったよ」
その時は、きちんと笑えた。
けれどその日の夜、布団の中で目を閉じると、隣のレーンの背中が浮かんだ。
前へ遠ざかっていく背中。
自分より速い人間の背中。
初めて見るものではなかったはずだ。
小学生の頃だって、年上の子には負けた。男子に負けることもあった。遊びの中でなら、何度も抜かれた。
けれど、あの日は違った。
同じ学年。
同じ女子。
同じ百メートル。
同じ場所で走って、届かなかった。
自己ベストなのに、届かなかった。
それが、灯里にはうまく飲み込めなかった。
次は勝てばいい。
そう思った。
朝練に出る。放課後も残る。フォームを直す。スタートを練習する。筋トレをする。ストレッチをする。動画を見る。ノートをつける。
ひたすら練習した。
今のかなたほどではない、はずだ。
けれど、どうだっただろう。
中学の頃の灯里も、似たようなことをしていた気がする。
毎日タイムを書いた。悪かったところをメモした。スタートの反応を何度も確認した。腕振りの角度を鏡の前で確かめた。
あの頃の自分も、十分に真剣だった。
その事実に触れると、息が少し詰まる。
二年生になると、灯里は地区では勝てる選手になった。
学校でも、また「速い灯里」と呼ばれるようになった。
ただ、その言葉は小学生の頃とは違って聞こえた。
速いね。
すごいね。
リレーお願いね。
それだけでは済まなくなった。
勝てるよね。
決勝行けるよね。
県でも通用するよね。
灯里なら大丈夫だよね。
──大丈夫だよね。
その言葉を聞くたびに、灯里はうなずいた。
走る前は、いつも怖かった。
でも、怖いと言うことはできなかった。
怖いと言って負けたら、本当に怖かったから負けたみたいになる。怖いと言わずに勝てば、誰も気づかない。
だから試合前の灯里は、決まって笑顔でいた。
「緊張してる?」と聞かれたら、「まあ少し」と答える。
本当は、まったく少しではなかった。
心臓がうるさかった。歩くたびに息が詰まった。手のひらに汗をかいた。スタートブロックに足を置くと、指先が冷たくなった。
それでも走った。
勝てるうちは、走れた。
勝てるうちは、怖さより嬉しさが上回った。
問題は、勝てなくなってからだった。
♦
中学二年の夏、灯里は一人の選手に出会った。
今でも、名前を覚えている。
佐伯千夏。
隣の市の中学の選手だった。
背は灯里と同じくらい。特別に筋肉質なわけでもない。初めて見たときは、正直、そこまで速そうには見えなかった。
けれど、走るとまるで違った。
スタートから滑るように前へ出る。
中盤で速度が落ちない。
最後の二十メートルで、むしろ浮き上がるように伸びる。
教育番組で見た、肉食獣の疾走に似ていた。
初めて同じレースで走ったとき、灯里は完敗した。
タイムにすれば、ほんの数コンマ。
数字の上では、絶望するほどの差ではない。
けれど、走っている最中にはっきり分かった。
──届かない。
自分が一歩進む間に、相手はもう半歩先へいる。腕を強く振っても、脚を回しても、その差は縮まらない。ゴールが近づくほど、灯里の身体は重くなり、佐伯千夏の背中は遠くなった。
レース後、佐伯は灯里に笑いかけた。
「岸本さんだよね。速いね」
たぶん、本当にそう思って言ったのだろう。
嫌味だとは思えなかった。
灯里は努めて笑った。
「佐伯さんの方が速いでしょ」
「でも最後、来るかと思った」
「ううん、全然無理だった」
「また走ろうね」
佐伯はそう言って、チームメイトの方へ戻っていった。
また走ろうね。
灯里はその言葉を、嬉しいと思えなかった。
きっと、次も負ける。
それから、灯里のタイムは少しずつ伸び悩んだ。
練習していないわけではない。むしろ、以前より真面目にやった。スタート練習も増やした。食事にも気をつけた。睡眠時間も削らないようにした。動画を見て、フォームの細部を直した。
それでも、あるところから伸びが鈍くなった。
十三秒一。
十三秒〇九。
十三秒〇五。
十二秒台が見えるのに、届かない。
代わりに十二秒台へ入ったのは、佐伯千夏だった。
地区大会で十二秒八を出したと聞いた日、灯里は部室でシューズの紐を結び直していた。中学時代のチームメイトが、その話をしていた。
「佐伯さん、またベスト出したんだって」
「うわ、十二秒八? やば」
「でもさ、岸本も行けるんじゃない?」
そう言われたとき、灯里は笑った。
「どうかな」
声は、ちゃんと普通だった。
けれど、シューズの紐を結ぶ指に力が入りすぎて、爪の端が白くなった。
佐伯千夏は伸びていく。
自分は、止まりかけている。
そのまま、中学三年の春が来た。
最後の一年だった。
顧問は言った。
「岸本、今年は県決勝狙えるぞ」
チームメイトは言った。
「佐伯さんに勝てるといいね」
母は言った。
「最後の年だものね。悔いのないようにね」
どれも普通の言葉だった。
普通で、正しくて、優しかった。
だから逃げ場がなかった。
「うん」
灯里はうなずいた。
走るのが好きだった。
速いと言われるのが嬉しかった。
勝つのが楽しかった。
どれも嘘ではない。
なのに、いつからか、スタートラインに立つ前に思うことは一つだけになっていた。
──負けたら、どうしよう。