きっといつか焦がれ思い返す   作:しんそく

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7/2改稿


四話 フラッシュバック

 

 日野かなたの十メートルを、灯里はその後も何度か見返した。

 

 スマートフォンを開いたとき、たまたま動画が目に入った。

 部員共有用のフォルダに新しい動画が上がっていないか確認した。

 フォームの変化を見るために、一度だけ再生した。

 

 理由はいくらでもあった。

 

 けれど、同じ動画を七回も見る理由にはならなかった。

 

 画面の中で、かなたは何度でも白線から飛び出した。

 

 指先が地面を離れる。

 肩が前に落ちる。

 一歩目が土を叩く。

 二歩目で詰まらない。

 三歩目で腰が前へ入る。

 十メートル。

 止まる。

 

 たったそれだけの二秒間。

 

 悪いところを探すために見ているはずだった。

 なのに気づくと、良くなった場所を探していた。

 

 そこを見つけるたび、灯里の中に小さな熱が残る。

 

 自分が走ったわけでもない。

 自分のタイムが伸びたわけでもない。

 それなのに、かなたが速くなったことを、自分のことみたいに受け取っている。

 

 灯里はスマートフォンを伏せた。

 

 部屋の照明は消していた。机の上の小さなライトだけがついている。開いた教科書は、ほとんど進んでいない。シャープペンシルの先が、ノートの同じ場所で止まっていた。

 

 窓の外では、遠くを車が通る音がする。

 

 灯里は椅子の背にもたれ、目を閉じた。

 

 浮かんできたのは、スマートフォンの中のかなたではなかった。

 

 もっと古い映像。

 テレビに繋がれたビデオカメラ。

 夕食後のリビング。

 母の声。

 画面の中を走る、幼い自分。

 

 小学生の頃、灯里は走るのが好きだった。

 

 校庭の端から端まで全力で走る。風が耳の横を流れて、足裏が土を叩く。呼吸が苦しくなる少し手前に、身体が一番軽くなる瞬間があった。腕を振れば、その分だけ自分が前へ運ばれていく。身体と地面の間から、余計なものがなくなる。

 

 ただ、楽しかった。

 

 誰かに勝つことも嬉しかった。

 けれど、それより先に、前へ進むことそのものが嬉しかった気がする。

 

 休み時間になると、男子も女子も関係なく校庭へ飛び出した。鬼ごっこ。リレーごっこ。ドッジボールの外野から内野へ戻るための短い全力疾走。灯里はいつも、気づけば走っていた。

 

「灯里ちゃん、速いから鬼やって」

「えー」

 

 そう言いながらも、嫌ではなかった。

 

 速いから鬼になる。

 速いから追いかける側になる。

 速いから頼まれる。

 

 それは灯里の中で、ほとんど喜びと同じだった。

 

 運動会で一位になった後、周りの言葉は少しずつ増えた。

 

「灯里ちゃんはリレー確定だね」

「岸本さん、アンカーやってくれる?」

「灯里がいれば勝てるって」

 

 そう言われるたび、灯里は恥ずかしそうな顔をした。

 

 嬉しいときに、そのまま嬉しい顔をするのが苦手だった。自慢しているみたいに見えるかもしれない。調子に乗っていると思われるかもしれない。だから、少し困ったように笑う。

 

 でも内側では、ちゃんと嬉しかった。

 

 自分には役割がある。

 クラスの中に居場所がある。

 足が速いというだけで、灯里の名前は呼ばれた。

 

 ある冬の日、体育でリレーをした。

 

 灯里のチームは、最初から遅れていた。第二走者、第三走者とバトンが渡るたび、差は広がっていく。灯里はアンカーだった。待っている間、クラスメイトが口々に言った。

 

「灯里ならいける」

「抜けるよ」

「お願い、勝って」

 

 その言葉で、身体に火がつく。

 

 バトンを受け取った瞬間、前に三人いた。

 

 一人目はすぐ抜いた。

 二人目にはカーブで追いついた。

 三人目の背中は、最後の直線で近づいてきた。

 

 周りの声が大きくなる。

 

 灯里。

 灯里。

 灯里。

 

 名前が飛んでくる。

 

 最後の数メートルで追い抜いた。

 

 ゴールした瞬間、チームの子たちが灯里に抱きついてきた。

 

「やば、灯里すごい」

「ほんとに抜いた」

「速すぎ」

 

 灯里は笑った。

 そのときは、少しだけ素直に笑えた。

 

 放課後、家に帰って母に話した。

 

「すごいじゃない」

 

 母は夕飯の支度をしながら言った。

 包丁がまな板を叩く音がする。玉ねぎの匂いが台所に広がっていた。

 

「みんなに褒められた」

「灯里は足が速いものね」

 

 母の笑顔に悪意はなかった。

 いつも通りの、優しい褒め方だった。

 

 灯里も嬉しくて、何度も同じ話をした。

 

 母は仕事で忙しかった。

 帰りが遅い日も多かったし、宿題を隣でずっと見てくれるような余裕はなかった。授業参観に来られないこともあった。テストの点が良くても、「頑張ったね」と言ってくれた後、すぐ洗濯物を畳みに戻ることもあった。

 

 それでも母は、灯里をちゃんと大事にしてくれていた。

 ご飯を作ってくれた。熱を出せば仕事を休んでくれた。学校で必要なものは、いつも忘れず用意してくれた。

 

 ただ、走ったときだけは違った。

 

 母の目が、まっすぐ灯里の方を向いた。

 

 運動会のビデオを何度も見た。

 リレーの話を何度も聞いてくれた。

 親戚に電話で、「灯里、今年も一番だったの」と話していた。

 

 それを聞くのが好きだった。

 

 リビングの隅で宿題をしているふりをしながら、母が自分のことを話す声に耳を澄ませる。

 

「そうなの、すごく速くてね」

 

 母の声は、少し誇らしげだった。

 

 灯里は鉛筆を握りながら、ノートの端に小さな丸を描いた。

 

 自分は母の自慢なのだと思った。

 

 足が速いから。

 

 それは、たぶん正しくなかった。

 

 母は足が速い灯里だけを好きだったわけではない。そんなことは、今なら分かる。あの頃だって、ちゃんと考えれば分かったはずだ。

 

 けれど子供の灯里は、そこまで器用ではなかった。

 

 褒められたこと。

 見てもらえたこと。

 自慢されたこと。

 

 その全部が、「足が速い」という一点に結びついていった。

 

 だから灯里は、もっと速くなりたかった。

 

 もっと褒められたかった。

 もっと見てもらいたかった。

 もっと、「灯里はすごい」と言われたかった。

 

 その気持ちは、恥ずかしいものではなかった。

 少なくとも、そのときは。

 

 ♦

 

 中学に入って、灯里は陸上部に入った。

 

 理由は単純だった。

 足が速かったから。

 

 小学校までの速い子が、中学で陸上部に入る。自然な流れだった。周囲もそう思っていた。母も「灯里なら向いてるんじゃない」と言った。

 

 灯里自身も、当然のようにそうした。

 

 最初の数ヶ月は、すべてがうまくいった。

 

 陸上部の中でも、灯里は速かった。一年生の中では目立っていたし、先輩にも「フォームが綺麗」と言われた。顧問には大会への出場を勧められた。

 

 初めてスパイクを履いた日のことを、灯里はまだ覚えている。

 

 足裏にピンが並び、地面に刺さる感触がした。普通の運動靴とは違う。土を掴むというより、地面に噛みつく感じだった。軽く走っただけで、身体が勝手に前へ運ばれた。

 

 実際、タイムは伸びた。

 

 十三秒台後半。

 十三秒台中盤。

 十三秒台前半。

 

 大会に出るたび、自己ベストを更新した。

 

 母は喜んだ。

 灯里も、それだけでよかった。

 

 だが、中学一年の秋、初めて県の大きな大会に出たとき、思い知った。

 

 自分より速い子は、いくらでもいる。

 

 予選のレーンに並んだ瞬間から、空気が違った。

 

 隣の選手は、灯里より背が高かった。脚が長い。腕の振りが鋭い。スタート前の表情も、灯里の知っている同級生たちとは違っていた。

 

 ピストルが鳴る。

 

 灯里は悪くないスタートを切った。

 

 けれど三十メートルの手前で、隣の子はもう前にいた。

 追いつけなかった。

 最後まで、その背中は離れていった。

 

 結果は自己ベストだった。

 順位は、真ん中より少し上。

 

 顧問は言った。

 

「初めての県大会でこれは立派だ。まだ伸びるよ」

 

 母も言った。

 

「自己ベストなんでしょう? すごいじゃない」

 

 チームメイトも言った。

 

「灯里、速かったよ」

 

 その時は、きちんと笑えた。

 

 けれどその日の夜、布団の中で目を閉じると、隣のレーンの背中が浮かんだ。

 

 前へ遠ざかっていく背中。

 自分より速い人間の背中。

 

 初めて見るものではなかったはずだ。

 小学生の頃だって、年上の子には負けた。男子に負けることもあった。遊びの中でなら、何度も抜かれた。

 

 けれど、あの日は違った。

 

 同じ学年。

 同じ女子。

 同じ百メートル。

 同じ場所で走って、届かなかった。

 

 自己ベストなのに、届かなかった。

 

 それが、灯里にはうまく飲み込めなかった。

 

 次は勝てばいい。

 

 そう思った。

 

 朝練に出る。放課後も残る。フォームを直す。スタートを練習する。筋トレをする。ストレッチをする。動画を見る。ノートをつける。

 

 ひたすら練習した。

 

 今のかなたほどではない、はずだ。

 

 けれど、どうだっただろう。

 

 中学の頃の灯里も、似たようなことをしていた気がする。

 

 毎日タイムを書いた。悪かったところをメモした。スタートの反応を何度も確認した。腕振りの角度を鏡の前で確かめた。

 

 あの頃の自分も、十分に真剣だった。

 

 その事実に触れると、息が少し詰まる。

 

 二年生になると、灯里は地区では勝てる選手になった。

 学校でも、また「速い灯里」と呼ばれるようになった。

 

 ただ、その言葉は小学生の頃とは違って聞こえた。

 

 速いね。

 すごいね。

 リレーお願いね。

 

 それだけでは済まなくなった。

 

 勝てるよね。

 決勝行けるよね。

 県でも通用するよね。

 灯里なら大丈夫だよね。

 

 ──大丈夫だよね。

 

 その言葉を聞くたびに、灯里はうなずいた。

 

 走る前は、いつも怖かった。

 

 でも、怖いと言うことはできなかった。

 怖いと言って負けたら、本当に怖かったから負けたみたいになる。怖いと言わずに勝てば、誰も気づかない。

 

 だから試合前の灯里は、決まって笑顔でいた。

 

「緊張してる?」と聞かれたら、「まあ少し」と答える。

 

 本当は、まったく少しではなかった。

 

 心臓がうるさかった。歩くたびに息が詰まった。手のひらに汗をかいた。スタートブロックに足を置くと、指先が冷たくなった。

 

 それでも走った。

 

 勝てるうちは、走れた。

 勝てるうちは、怖さより嬉しさが上回った。

 

 問題は、勝てなくなってからだった。

 

 ♦

 

 中学二年の夏、灯里は一人の選手に出会った。

 

 今でも、名前を覚えている。

 

 佐伯千夏。

 

 隣の市の中学の選手だった。

 

 背は灯里と同じくらい。特別に筋肉質なわけでもない。初めて見たときは、正直、そこまで速そうには見えなかった。

 

 けれど、走るとまるで違った。

 

 スタートから滑るように前へ出る。

 中盤で速度が落ちない。

 最後の二十メートルで、むしろ浮き上がるように伸びる。

 

 教育番組で見た、肉食獣の疾走に似ていた。

 

 初めて同じレースで走ったとき、灯里は完敗した。

 

 タイムにすれば、ほんの数コンマ。

 数字の上では、絶望するほどの差ではない。

 

 けれど、走っている最中にはっきり分かった。

 

 ──届かない。

 

 自分が一歩進む間に、相手はもう半歩先へいる。腕を強く振っても、脚を回しても、その差は縮まらない。ゴールが近づくほど、灯里の身体は重くなり、佐伯千夏の背中は遠くなった。

 

 レース後、佐伯は灯里に笑いかけた。

 

「岸本さんだよね。速いね」

 

 たぶん、本当にそう思って言ったのだろう。

 嫌味だとは思えなかった。

 

 灯里は努めて笑った。

 

「佐伯さんの方が速いでしょ」

「でも最後、来るかと思った」

「ううん、全然無理だった」

「また走ろうね」

 

 佐伯はそう言って、チームメイトの方へ戻っていった。

 

 また走ろうね。

 

 灯里はその言葉を、嬉しいと思えなかった。

 

 きっと、次も負ける。

 

 それから、灯里のタイムは少しずつ伸び悩んだ。

 

 練習していないわけではない。むしろ、以前より真面目にやった。スタート練習も増やした。食事にも気をつけた。睡眠時間も削らないようにした。動画を見て、フォームの細部を直した。

 

 それでも、あるところから伸びが鈍くなった。

 

 十三秒一。

 十三秒〇九。

 十三秒〇五。

 

 十二秒台が見えるのに、届かない。

 

 代わりに十二秒台へ入ったのは、佐伯千夏だった。

 

 地区大会で十二秒八を出したと聞いた日、灯里は部室でシューズの紐を結び直していた。中学時代のチームメイトが、その話をしていた。

 

「佐伯さん、またベスト出したんだって」

「うわ、十二秒八? やば」

「でもさ、岸本も行けるんじゃない?」

 

 そう言われたとき、灯里は笑った。

 

「どうかな」

 

 声は、ちゃんと普通だった。

 

 けれど、シューズの紐を結ぶ指に力が入りすぎて、爪の端が白くなった。

 

 佐伯千夏は伸びていく。

 自分は、止まりかけている。

 

 そのまま、中学三年の春が来た。

 

 最後の一年だった。

 

 顧問は言った。

 

「岸本、今年は県決勝狙えるぞ」

 

 チームメイトは言った。

 

「佐伯さんに勝てるといいね」

 

 母は言った。

 

「最後の年だものね。悔いのないようにね」

 

 どれも普通の言葉だった。

 

 普通で、正しくて、優しかった。

 

 だから逃げ場がなかった。

 

「うん」

 

 灯里はうなずいた。

 

 走るのが好きだった。

 速いと言われるのが嬉しかった。

 勝つのが楽しかった。

 

 どれも嘘ではない。

 

 なのに、いつからか、スタートラインに立つ前に思うことは一つだけになっていた。

 

 ──負けたら、どうしよう。

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