きっといつか焦がれ思い返す   作:しんそく

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7/2改稿


五話 寄せては返す

 

 中学最後の大会の日は、よく晴れていた。

 

 雲は少なく、日差しが強い。競技場のタータンは熱を持ち、スパイク越しにもその熱が伝わってくる。スタンドには保護者や部員たちがいて、名前を呼ぶ声があちこちで上がっていた。

 

 灯里は決勝に残った。

 

 自己ベストではなかったが、予選も準決勝も悪くなかった。身体は動いている。足も痛くない。風も悪くない。言い訳にできるものは、どこにもなかった。

 

 決勝の招集所に、佐伯千夏がいた。

 

 佐伯は相変わらず、特別な顔をしていなかった。緊張していないわけではないのだろう。ただ、その緊張を含めて自然にそこに立っているように見えた。

 

 灯里が「そうあろう」としている姿に、少し似ていた。

 

「岸本さん」

 

 佐伯が声をかけてきた。

 

「決勝、一緒だね」

「うん」

「最後だね」

「そうだね」

「楽しみ」

 

 佐伯は笑った。

 灯里も笑い返す。

 

 結局、理解できなかった。

 

 勝てるかどうか分からない勝負に、全部を出すこと。

 負けたら自分の限界がはっきりしてしまう場所へ、自分から歩いていくこと。

 今まで積み上げてきたものが、たった十数秒で測られること。

 

 何が楽しいのだろう。

 

 分からない。

 分からない自分が、もう負けている気がした。

 

 決勝のレーンに立つ。

 

 灯里は五レーンだった。佐伯千夏は四レーン。

 

 近すぎる、と思った。

 

 否が応でも目に入る。足音も、息遣いも聞こえる。逃げ場がない。

 

 スタートブロックに足を置く。右足。左足。位置はいつも通り。何度も練習した角度。身体は覚えている。手順も覚えている。

 

 大丈夫。

 

 灯里は自分に言った。

 

 大丈夫。

 

 何が大丈夫なのかは分からなかった。

 

 スタンドから声が聞こえる。

 

 行けるよ。

 勝てるよ。

 悔いがないように。

 落ち着いて。

 

 遠いはずの声が、耳元で鳴っているようだった。

 

 母も来ているはずだった。

 どこにいるかは見なかった。見つけたら、身体が動かなくなる気がした。

 

「位置について」

 

 灯里はブロックの前に立った。

 

 白線を見る。

 百メートル先のゴールを見る。

 

 ゴールは、遠かった。

 

 小学生の頃は、五十メートルが短く感じた。前へ出るだけでよかった。ゴールテープの向こうに母がいて、走れば褒めてもらえた。

 

 今は違う。

 

 この百メートルの中に、今までの全部が詰まっている。

 

 褒められたこと。

 期待されたこと。

 勝ったこと。

 負けたこと。

 伸びなかったタイム。

 佐伯千夏の背中。

 母の声。

 速い自分。

 速くなくなるかもしれない自分。

 

 全部出して負けたら。

 

 灯里は思った。

 

 全部出して負けたら、私は本当に遅い。

 

 急に浮かんだ考えではなかった。

 ずっと胸の底に沈んでいたものが、スタートラインに立った瞬間、顔を出したのだ。

 

 全力で走って負けたら、もう言い訳ができない。

 

 調子が悪かったわけではない。

 怪我をしていたわけでもない。

 練習不足だったわけでもない。

 運が悪かったわけでもない。

 

 全部出した。

 それでも届かなかった。

 

 そうなったら、どうなる。

 

 灯里は何になる。

 

 速くない岸本灯里は――

 

「用意」

 

 腰を上げた。

 

 世界が細くなる。

 

 指先がタータンに触れている。熱い。スパイクのピンがブロックに噛む。背中に汗が伝う。呼吸が浅い。喉が乾く。

 

 隣に佐伯がいる。

 

 見なくても分かる。

 

 勝てない。

 

 その言葉が、身体の内側で音になった。

 

 勝てない。

 勝てない。

 勝てない。

 

 それでも走らなければならない。

 全力で。

 

 全力で、負けなければならない。

 

 ピストルが鳴った。

 

 その瞬間、灯里の身体は遅れた。

 

 一瞬だった。

 

 外から見れば、ただの出遅れだったと思う。緊張で反応が遅れた。大事な大会でスタートを失敗した。よくあることだ。それだけの話だ。

 

 けれど灯里は、その一瞬を今でも覚えている。

 

 ピストルが鳴った瞬間。

 身体が動くより先に、胸の底で何かがほどけた。

 

 出遅れた。

 

 これで、負けてもいい。

 

 出遅れたから負けたのだと言える。

 本当の自分は、まだ負けていない。

 

 その安堵は、あまりにも醜かった。

 

 醜いのに、確かにあった。

 

 灯里は遅れて飛び出した。

 

 走った。

 

 走りながら、もう分かっていた。

 

 佐伯千夏は前にいる。

 他の選手も前にいる。

 

 灯里の身体は、それなりに動いていた。途中から立て直そうとした。腕を振った。脚を回した。最後まで走った。ゴールした。

 

 けれど、もう駄目だった。

 

 結果は惨敗だった。

 

 タイムは悪くない。

 ただし、順位は悪かった。

 

 周囲は言った。

 

「スタート、もったいなかったね」

「出遅れたのに、よく戻したよ」

「次があればね」

 

 次はなかった。

 

 中学最後の大会だった。

 

 母は言った。

 

「惜しかったね。でも頑張ったね」

 

 灯里は頷いた。

 

「うん」

 

 きっと、惜しくはなかった。

 自分が頑張ったかどうかも、分からなかった。

 

 ただ、一つだけ分かっていた。

 

 灯里は、本当の意味では負けていない。

 

 そう思うことで、自分を守った。

 

 そして同時に、もう二度と走れなくなった。

 

 ♦

 

 スマートフォンの画面が暗くなっていた。

 

 灯里は机に肘をつき、額を手のひらで覆った。古い記憶を思い出すと、身体の奥が冷えていく。

 

 誰かに責められたわけではない。

 顧問も、母も、チームメイトも、みんな優しかった。スタートの失敗を責める人はいなかった。むしろ、出遅れたのによく走ったと言われた。

 

 だから灯里は、その言葉に隠れた。

 

 出遅れたのによく走った。

 

 便利な言葉だった。

 

 全力で負けたわけではない。

 スタートで失敗しただけ。

 本当はもっと走れた。

 

 そうやって守った。

 

 なのに、今になって日野かなたが出てきた。

 

 百メートルは短いから、嘘を吐く場所がないと言った。

 

 あの子は知らない。

 

 嘘は入る。

 

 たった一瞬でいい。

 

 ピストルが鳴ってから身体が動くまでの、ほんのわずかな空白。そこに、逃げるための嘘はちゃんと入る。

 

 灯里はそれを知っている。

 

 かなたはまだ、全部を出して負ける怖さを知らないのだろうか。

 それとも知っていて、なお走っているのだろうか。

 

 分からない。

 分からないから、苛立つ。

 

 机の上に伏せたスマートフォンが震えた。

 

 まどかからのメッセージだった。

 

『明日の朝練、日野さん来るって。灯里も来る?』

 

 灯里は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 

 行かない、と打とうとした。

 

 そもそも朝練は自由参加だ。灯里が行く必要はない。かなたのスタートを見る義務もない。自分がいなくても、部活は回る。

 

 指先が画面の上で止まる。

 

『起きたら』

 

 送信してから、灯里はスマートフォンを机に伏せた。

 

 起きたら行く。

 起きられなかったら行かない。

 

 本気で行くわけではない。

 たまたま起きたら、行くだけ。

 

 灯里は椅子にもたれた。

 

 昔から、何も変わっていない。

 

 逃げ道を作るのだけは、うまくなっている。

 

 ♦

 

 翌朝、灯里は起きた。

 

 目覚ましより、少し早く。

 

 行かない理由が一つ消えた。

 

 洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、寝不足の顔をしていた。目元が重い。前髪が跳ねている。灯里は水滴を拭き取りながら、鏡の中の自分を見た。

 

 速そうには見えない。

 

 ふと、そんなことを思った。

 

 すぐに馬鹿らしくなる。

 

 速そうな顔とは何だ。

 

 真柴紗季は速そうに見える。

 日野かなたは、普段は速そうに見えない。けれど白線の前に立つと、何かが変わる。

 

 灯里はどうだったのだろう。

 

 中学の頃、自分は速そうに見えていただろうか。

 今は、どう見えているのだろう。

 

 見ているだけの人間。

 走らない先輩。

 少し怒っていて、苦しそうな顔で、他人の走りに口を出す人間。

 

 それ以外に、何かあるだろうか。

 

 朝食を食べ、家を出る。

 母はまだ眠そうな顔で、「早いね」と言った。

 

「朝練」

「走るの?」

「違う」

「そっか」

 

 母はそれ以上聞かなかった。

 

 灯里は靴を履いた。

 玄関の扉を開けると、朝の空気が入ってくる。昨日より少し涼しい。雨上がりの匂いがした。

 

 学校に着くと、グラウンドにはもう数人の姿があった。

 

 予想通り、トラックの端に日野かなたがいた。

 タオルで額の汗を拭いている。灯里に気づくと、かなたは小さく頭を下げた。

 

「おはようございます」

「……おはよ」

 

 灯里は返した。

 

 近づくつもりはなかった。

 けれど、気づけば白線の方へ歩いていた。

 

 かなたは何も言わない。

 ただ、灯里が来るのを待っているように見えた。

 

「先輩」

「何」

「今日は、走ってもいいですか」

 

 灯里は返事に詰まった。

 

 聞く相手が違う。

 榊に聞け。

 

 そう言えばよかった。

 

 けれど、この問いはもう、ただの確認ではなくなっていた。かなたがどういう気持ちで灯里に投げているのか、灯里には分からない。分からないまま、受け取ってしまっている。

 

「地面、まだ少し湿ってるから」

「はい」

「全力はやめた方がいい」

「七割なら」

「七割でスタート練習する意味ある?」

「あります」

「あるって言い切るんだ」

「動きだけなら」

 

 灯里はため息をついた。

 

「三本だけ」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 自分が本数を決めている。

 

 かなたは小さくうなずいた。

 

「はい」

「今のは榊先生が来るまでの仮。先生が駄目って言ったら終わり」

「はい」

「あと、走るなら本当に七割。全力っぽい七割じゃなくて、七割」

「全力っぽい七割」

「絶対やるでしょ」

「……気をつけます」

 

 わずかな間があった。

 

 灯里は聞き逃さなかった。

 

「今の間、何」

「いえ」

「やっぱりやる気だったでしょ」

「少し」

「正直でよろしい」

 

 皮肉で言ったのに、かなたは真面目にうなずいた。

 そのせいで、灯里の皮肉はどこにも刺さらず、朝の空気に落ちた。

 

 かなたは三本だけ走った。

 

 榊が来る頃には、すでにノートを開いている。

 灯里は横目で見た。

 

 先輩、三本だけと言った。

 七割。

 三歩目の音、少し軽い。

 欲張らない。

 地面が湿っている日は、右足が後ろに逃げる。

 

 そこに、自分の言葉がいくつも残っている。

 

 灯里は目を逸らした。

 

 見ているだけなら安全なはずだった。

 

 走るのは日野かなたで、自分ではない。

 測られるのは日野かなたで、自分ではない。

 負けるのも、傷つくのも、届かないのも、自分ではない。

 

 そのはずなのに、かなたのノートに灯里の言葉が増えるたび、自分の一部がそこに書き込まれていくようだった。

 

「灯里」

 

 榊が声をかける。

 

「今日、早いね」

「たまたまです」

「たまたま、日野の横にいたの」

「たまたまです」

 

 榊は笑わなかった。

 ただ、かなたのノートと、灯里の顔を順番に見た。

 

「見えるものがあるのは、悪いことじゃない」

 

 榊は言った。

 

「でも、見えるからって全部背負わなくていい」

 

 灯里は返事をしなかった。

 

 榊はそれ以上、何も言わなかった。

 

 朝練が始まる。

 部員たちがトラックに散っていく。紗季が軽やかに流しを始める。まどかがストップウォッチを配る。かなたは白線の前で、静かに息を吐く。

 

 灯里は記録用紙を握った。

 

 全部背負わなくていい。

 

 その言葉は優しかった。

 

 優しいのに、少し冷たかった。

 

 なぜなら灯里は、まだ何も背負っていない。

 

 ただ見ているだけだ。

 ただ、誰かの真剣さのそばで、走らない自分を守っているだけだ。

 

 それなのに、もう重い。

 

 かなたが走る。

 

 灯里は見る。

 

 その単純な反復が、いつか自分の逃げ道をひとつずつ塞いでいく。

 

 朝のグラウンドに、手拍子が響いた。

 

 日野かなたが飛び出す。

 

 灯里は、その一歩目から目を逸らせなかった。

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