きっといつか焦がれ思い返す 作:しんそく
中学最後の大会の日は、よく晴れていた。
雲は少なく、日差しが強い。競技場のタータンは熱を持ち、スパイク越しにもその熱が伝わってくる。スタンドには保護者や部員たちがいて、名前を呼ぶ声があちこちで上がっていた。
灯里は決勝に残った。
自己ベストではなかったが、予選も準決勝も悪くなかった。身体は動いている。足も痛くない。風も悪くない。言い訳にできるものは、どこにもなかった。
決勝の招集所に、佐伯千夏がいた。
佐伯は相変わらず、特別な顔をしていなかった。緊張していないわけではないのだろう。ただ、その緊張を含めて自然にそこに立っているように見えた。
灯里が「そうあろう」としている姿に、少し似ていた。
「岸本さん」
佐伯が声をかけてきた。
「決勝、一緒だね」
「うん」
「最後だね」
「そうだね」
「楽しみ」
佐伯は笑った。
灯里も笑い返す。
結局、理解できなかった。
勝てるかどうか分からない勝負に、全部を出すこと。
負けたら自分の限界がはっきりしてしまう場所へ、自分から歩いていくこと。
今まで積み上げてきたものが、たった十数秒で測られること。
何が楽しいのだろう。
分からない。
分からない自分が、もう負けている気がした。
決勝のレーンに立つ。
灯里は五レーンだった。佐伯千夏は四レーン。
近すぎる、と思った。
否が応でも目に入る。足音も、息遣いも聞こえる。逃げ場がない。
スタートブロックに足を置く。右足。左足。位置はいつも通り。何度も練習した角度。身体は覚えている。手順も覚えている。
大丈夫。
灯里は自分に言った。
大丈夫。
何が大丈夫なのかは分からなかった。
スタンドから声が聞こえる。
行けるよ。
勝てるよ。
悔いがないように。
落ち着いて。
遠いはずの声が、耳元で鳴っているようだった。
母も来ているはずだった。
どこにいるかは見なかった。見つけたら、身体が動かなくなる気がした。
「位置について」
灯里はブロックの前に立った。
白線を見る。
百メートル先のゴールを見る。
ゴールは、遠かった。
小学生の頃は、五十メートルが短く感じた。前へ出るだけでよかった。ゴールテープの向こうに母がいて、走れば褒めてもらえた。
今は違う。
この百メートルの中に、今までの全部が詰まっている。
褒められたこと。
期待されたこと。
勝ったこと。
負けたこと。
伸びなかったタイム。
佐伯千夏の背中。
母の声。
速い自分。
速くなくなるかもしれない自分。
全部出して負けたら。
灯里は思った。
全部出して負けたら、私は本当に遅い。
急に浮かんだ考えではなかった。
ずっと胸の底に沈んでいたものが、スタートラインに立った瞬間、顔を出したのだ。
全力で走って負けたら、もう言い訳ができない。
調子が悪かったわけではない。
怪我をしていたわけでもない。
練習不足だったわけでもない。
運が悪かったわけでもない。
全部出した。
それでも届かなかった。
そうなったら、どうなる。
灯里は何になる。
速くない岸本灯里は――
「用意」
腰を上げた。
世界が細くなる。
指先がタータンに触れている。熱い。スパイクのピンがブロックに噛む。背中に汗が伝う。呼吸が浅い。喉が乾く。
隣に佐伯がいる。
見なくても分かる。
勝てない。
その言葉が、身体の内側で音になった。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
それでも走らなければならない。
全力で。
全力で、負けなければならない。
ピストルが鳴った。
その瞬間、灯里の身体は遅れた。
一瞬だった。
外から見れば、ただの出遅れだったと思う。緊張で反応が遅れた。大事な大会でスタートを失敗した。よくあることだ。それだけの話だ。
けれど灯里は、その一瞬を今でも覚えている。
ピストルが鳴った瞬間。
身体が動くより先に、胸の底で何かがほどけた。
出遅れた。
これで、負けてもいい。
出遅れたから負けたのだと言える。
本当の自分は、まだ負けていない。
その安堵は、あまりにも醜かった。
醜いのに、確かにあった。
灯里は遅れて飛び出した。
走った。
走りながら、もう分かっていた。
佐伯千夏は前にいる。
他の選手も前にいる。
灯里の身体は、それなりに動いていた。途中から立て直そうとした。腕を振った。脚を回した。最後まで走った。ゴールした。
けれど、もう駄目だった。
結果は惨敗だった。
タイムは悪くない。
ただし、順位は悪かった。
周囲は言った。
「スタート、もったいなかったね」
「出遅れたのに、よく戻したよ」
「次があればね」
次はなかった。
中学最後の大会だった。
母は言った。
「惜しかったね。でも頑張ったね」
灯里は頷いた。
「うん」
きっと、惜しくはなかった。
自分が頑張ったかどうかも、分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
灯里は、本当の意味では負けていない。
そう思うことで、自分を守った。
そして同時に、もう二度と走れなくなった。
♦
スマートフォンの画面が暗くなっていた。
灯里は机に肘をつき、額を手のひらで覆った。古い記憶を思い出すと、身体の奥が冷えていく。
誰かに責められたわけではない。
顧問も、母も、チームメイトも、みんな優しかった。スタートの失敗を責める人はいなかった。むしろ、出遅れたのによく走ったと言われた。
だから灯里は、その言葉に隠れた。
出遅れたのによく走った。
便利な言葉だった。
全力で負けたわけではない。
スタートで失敗しただけ。
本当はもっと走れた。
そうやって守った。
なのに、今になって日野かなたが出てきた。
百メートルは短いから、嘘を吐く場所がないと言った。
あの子は知らない。
嘘は入る。
たった一瞬でいい。
ピストルが鳴ってから身体が動くまでの、ほんのわずかな空白。そこに、逃げるための嘘はちゃんと入る。
灯里はそれを知っている。
かなたはまだ、全部を出して負ける怖さを知らないのだろうか。
それとも知っていて、なお走っているのだろうか。
分からない。
分からないから、苛立つ。
机の上に伏せたスマートフォンが震えた。
まどかからのメッセージだった。
『明日の朝練、日野さん来るって。灯里も来る?』
灯里は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
行かない、と打とうとした。
そもそも朝練は自由参加だ。灯里が行く必要はない。かなたのスタートを見る義務もない。自分がいなくても、部活は回る。
指先が画面の上で止まる。
『起きたら』
送信してから、灯里はスマートフォンを机に伏せた。
起きたら行く。
起きられなかったら行かない。
本気で行くわけではない。
たまたま起きたら、行くだけ。
灯里は椅子にもたれた。
昔から、何も変わっていない。
逃げ道を作るのだけは、うまくなっている。
♦
翌朝、灯里は起きた。
目覚ましより、少し早く。
行かない理由が一つ消えた。
洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、寝不足の顔をしていた。目元が重い。前髪が跳ねている。灯里は水滴を拭き取りながら、鏡の中の自分を見た。
速そうには見えない。
ふと、そんなことを思った。
すぐに馬鹿らしくなる。
速そうな顔とは何だ。
真柴紗季は速そうに見える。
日野かなたは、普段は速そうに見えない。けれど白線の前に立つと、何かが変わる。
灯里はどうだったのだろう。
中学の頃、自分は速そうに見えていただろうか。
今は、どう見えているのだろう。
見ているだけの人間。
走らない先輩。
少し怒っていて、苦しそうな顔で、他人の走りに口を出す人間。
それ以外に、何かあるだろうか。
朝食を食べ、家を出る。
母はまだ眠そうな顔で、「早いね」と言った。
「朝練」
「走るの?」
「違う」
「そっか」
母はそれ以上聞かなかった。
灯里は靴を履いた。
玄関の扉を開けると、朝の空気が入ってくる。昨日より少し涼しい。雨上がりの匂いがした。
学校に着くと、グラウンドにはもう数人の姿があった。
予想通り、トラックの端に日野かなたがいた。
タオルで額の汗を拭いている。灯里に気づくと、かなたは小さく頭を下げた。
「おはようございます」
「……おはよ」
灯里は返した。
近づくつもりはなかった。
けれど、気づけば白線の方へ歩いていた。
かなたは何も言わない。
ただ、灯里が来るのを待っているように見えた。
「先輩」
「何」
「今日は、走ってもいいですか」
灯里は返事に詰まった。
聞く相手が違う。
榊に聞け。
そう言えばよかった。
けれど、この問いはもう、ただの確認ではなくなっていた。かなたがどういう気持ちで灯里に投げているのか、灯里には分からない。分からないまま、受け取ってしまっている。
「地面、まだ少し湿ってるから」
「はい」
「全力はやめた方がいい」
「七割なら」
「七割でスタート練習する意味ある?」
「あります」
「あるって言い切るんだ」
「動きだけなら」
灯里はため息をついた。
「三本だけ」
言ってから、しまったと思った。
自分が本数を決めている。
かなたは小さくうなずいた。
「はい」
「今のは榊先生が来るまでの仮。先生が駄目って言ったら終わり」
「はい」
「あと、走るなら本当に七割。全力っぽい七割じゃなくて、七割」
「全力っぽい七割」
「絶対やるでしょ」
「……気をつけます」
わずかな間があった。
灯里は聞き逃さなかった。
「今の間、何」
「いえ」
「やっぱりやる気だったでしょ」
「少し」
「正直でよろしい」
皮肉で言ったのに、かなたは真面目にうなずいた。
そのせいで、灯里の皮肉はどこにも刺さらず、朝の空気に落ちた。
かなたは三本だけ走った。
榊が来る頃には、すでにノートを開いている。
灯里は横目で見た。
先輩、三本だけと言った。
七割。
三歩目の音、少し軽い。
欲張らない。
地面が湿っている日は、右足が後ろに逃げる。
そこに、自分の言葉がいくつも残っている。
灯里は目を逸らした。
見ているだけなら安全なはずだった。
走るのは日野かなたで、自分ではない。
測られるのは日野かなたで、自分ではない。
負けるのも、傷つくのも、届かないのも、自分ではない。
そのはずなのに、かなたのノートに灯里の言葉が増えるたび、自分の一部がそこに書き込まれていくようだった。
「灯里」
榊が声をかける。
「今日、早いね」
「たまたまです」
「たまたま、日野の横にいたの」
「たまたまです」
榊は笑わなかった。
ただ、かなたのノートと、灯里の顔を順番に見た。
「見えるものがあるのは、悪いことじゃない」
榊は言った。
「でも、見えるからって全部背負わなくていい」
灯里は返事をしなかった。
榊はそれ以上、何も言わなかった。
朝練が始まる。
部員たちがトラックに散っていく。紗季が軽やかに流しを始める。まどかがストップウォッチを配る。かなたは白線の前で、静かに息を吐く。
灯里は記録用紙を握った。
全部背負わなくていい。
その言葉は優しかった。
優しいのに、少し冷たかった。
なぜなら灯里は、まだ何も背負っていない。
ただ見ているだけだ。
ただ、誰かの真剣さのそばで、走らない自分を守っているだけだ。
それなのに、もう重い。
かなたが走る。
灯里は見る。
その単純な反復が、いつか自分の逃げ道をひとつずつ塞いでいく。
朝のグラウンドに、手拍子が響いた。
日野かなたが飛び出す。
灯里は、その一歩目から目を逸らせなかった。