きっといつか焦がれ思い返す   作:しんそく

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六話 走らない君も

 

 昼休み、灯里は一年の教室前にいた。

 榊に頼まれた大会参加希望の用紙を、一年の短距離組へ渡すためだ。

 

 部室で渡せば済む。放課後でもいい。わざわざ一年の廊下まで来る必要はない。

 

 分かっていて、灯里はそこにいた。

 かなたの教室は、廊下の奥にある。

 

 中を覗くつもりはなかった。

 けれど、扉が開いていて、窓際の席に座る日野かなたが見えた。

 

 かなたは、教室の中では白線の前に立つときほどはっきりしていなかった。

 

 机に肘を置き、弁当箱の蓋を閉じたまま、近くの女子たちの会話を聞いている。輪の中にいるようで、少し外にいる。誰かが笑うと、かなたも少し遅れて顔を上げる。

 

 笑ったのかどうか、灯里には分からない。

 

「日野さんって、陸上だよね」

 

 クラスメイトの一人が言い、かなたは緩慢に頷いた。

 

「はい」

「百メートル? 一瞬じゃない? 練習そんなきついの?」

 

 悪意のない声だった。

 たぶん、本当に不思議なのだろう。

 百メートルは一瞬。

 走って終わり。

 長距離より楽そう。

 

 そう思う人間は多い。灯里だって何度も似たような言葉を掛けられてきた。

 

 かなたは少しだけ口を開いた。

 けれど、すぐには言葉が出なかった。

 その間に別の子が言う。

 

「あ、でもスタートとか難しいんじゃない? クラウチングスタート? あれ、体育でやると変な感じするよね」

「分かる、手つくやつ」

 

 話題は、かなたの答えを待たずに進んでいく。

 かなたは目を伏せた。

 

 怒ったようには見えなかった。傷ついたようにも見えなかった。

 

 ただ、出すはずだった言葉を、どこへ置けばいいのか分からなくなったように見えた。

 

 少しして、かなたは言った。

 

「一瞬なので……難しいです」

 

 誰かが「へえ」と返した。

 会話はすぐに別の方向へ流れた。

 かなたはそれ以上、何も言わなかった。

 

 机の端に置かれたスマートフォンが震えた。通知を見て、かなたはすぐに画面を伏せた。

 

 表情は変わらない。

 変わらないことが、灯里には少し嫌だった。

 

 誰も悪くない。

 クラスメイトは意地悪ではない。分かりやすく傷つけるものは、そこにはない。

 

 だから余計に、かなたの言葉の遅れだけが残った。

 走っているときだけ、かなたは遅れない。

 

 白線の前に立つと、言葉より先に身体で答える。迷いも、怖さも、弱さも、全部、足の裏から出ていく。

 

 灯里は廊下で立ち止まったまま、かなたを見ていた。

 走っていないのに。

 目で追っていた。

 

 そのことに気づいて、灯里は用紙を握り直した。

 何をしているのだろう。

 見ているのは、走りだけではなかったのか。

 

「岸本先輩?」

 

 教室の入り口近くにいた一年生に声をかけられ、灯里は我に返った。

 

「これ、短距離の一年に。榊先生から」

「あ、ありがとうございます」

 

 用紙を渡す。

 かなたがこちらを見た。

 目が合う。

 灯里はすぐに視線を逸らした。

 

 用事は終わった。

 だから帰ればいい。

 

 廊下を戻りながら、灯里は自分の足音だけを聞いていた。

 

 

 

 その日の放課後、かなたの走りは硬かった。

 最初のスタートから分かった。

 

 一歩目が悪いわけではない。足の位置も、肩の高さも、昨日から大きく崩れていない。けれど、身体の中に余計なものが残っている。

 地面へ落ちる前に、どこかで言葉を探しているような硬さだった。

 

 二本目も同じ。

 三本目は、さらに悪くなった。

 かなたはゴールの先で止まり、すぐに灯里を見た。

 

 いつもの目。

 答えを待つ目。

 

 灯里は記録用紙を見下ろした。言うべきことはいくつもある。

 

 二歩目が遅い。

 上体が立つのが早い。

 腕が外へ逃げている。

 焦っている。

 怖がっている。

 

 けれど、そのどれも今は少し違う気がした。

 

「一本だけ」

 

 灯里は言った。

 かなたが戻ってくる。

 

「何も直そうとしないで走って」

 

 かなたは目を瞬かせた。

 

「何も、ですか」

「そう。スタートも、二歩目も、腕も、全部どうでもいい。今ある身体で走って」

「でも」

「でも禁止」

 

 灯里は自分で言って、まどかみたいだと思った。

 

「一本だけ。タイムも取らない」

 

 かなたは迷ったように見えた。直すために走る子だ。

 悪いところを見つけ、ノートに書き、次で潰す。それが、かなたのやり方になりつつあった。

 

 何も直さないで走る。

 そんな指示が正しいのか、灯里にも分からなかった。

 ただ、今のかなたには、直すための言葉が多すぎるように見えた。

 

「分かりました」

 

 かなたは白線へ戻った。

 構える。

 いつもより躊躇いがあった。

 

 合図。同時にかなたが出た。

 一歩目は雑だった。二歩目も硬い。フォームだけ見れば、悪い。普段なら、灯里はすぐに止めたくなったはずだ。

 

 けれど、十メートルを過ぎたあたりで、少し変わった。

 身体が前へ出る。

 

 正しい形ではない。

 綺麗でもない。

 けれど、かなたは走っていた。

 

 何かを直そうとしているのではなく、誰かの言葉を探しているのでもなく、ただ前へ進んでいた。

 

 灯里は記録用紙を持つ手に力を入れた。

 走っている間だけ、かなたは説明しなくていいのかもしれない。

 

 百メートルは短い。

 だから嘘を入れる場所がないと、かなたは言った。

 

 でも、それだけではない。

 短いから、身体が先に答えてくれる。

 

 ゴールの先で、かなたは大きく息を吐いた。

 振り返るのが、いつもより少し遅かった。

 

 灯里は、それだけで少し胸が詰まった。

 

「悪かったですか」

 

 戻ってきたかなたが聞いた。

 灯里は少し考えて、曖昧な答えを返した。

 

「フォームは悪かった」

「はい」

「二歩目も遅い。腕も硬い。三十メートルで上体が立った」

「はい」

「でも、今日の中では一番走ってた」

 

 かなたの目が、少しだけ動いた。

 

「走ってた」

「うん」

 

 灯里は温かい言葉を探した。

 いつもなら、悪いところを言えばいい。

 

 具体的に。冷たく。正確に。

 でも今は、それだけでは足りない気がした。

 

「直そうとしすぎると、身体が人の言葉を待つ」

 

 言ってから、自分で少し嫌になった。

 人の言葉。

 その中には、灯里の言葉も入っている。

 

「今日は、待たない方が良かった」

 

 かなたはノートを開こうとした。

 灯里は言った。

 

「今は書かなくていい」

「忘れます」

「忘れてもいいよ」

 

 かなたが顔を上げる。

 

「いいんですか」

「全部残そうとすると、重いでしょ」

 

 自分で言って、灯里はかなたのノートを思い出した。

 灯里の言葉が、残っていく紙面。

 残ることを嬉しいと思った自分。

 

 それが少し怖くなった。

 

「忘れたら、また走ればいい」

 

 かなたは黙っていた。

 納得したのか、できていないのか、灯里には分からない。

 少しして、かなたはノートを閉じた。

 

「先輩」

「何」

「昼休み、教室に来ていましたか」

 

 灯里の手が止まった。

 

「用紙を渡しに行っただけ」

「はい」

「別に、見てたわけじゃない」

 

 言ってから、言い訳が早すぎたと思った。

 かなたは灯里を見ていた。

 

「見ていました」

「見てないって」

「先輩、廊下にいました」

「だから用紙を」

「私を見ていました」

 

 灯里は口を閉じた。

 否定するのが、急に面倒になった。

 

 かなたの言い方は責めているようではなかった。ただ、見た事実を言っているだけのように聞こえた。

 

「……見えただけ」

「はい」

「教室だと、日野さん、輪郭薄いね」

 

 言ってしまってから、少しきつかったかと思った。

 かなたは怒らなかった。

 

 ただ、目を伏せた。

「輪郭、ですか」

「そう、輪郭」

「そうかもしれません」

 

 その声は静かだった。

 灯里は胸の奥がざらついた。

 

「別に、悪い意味で言ったんじゃ」

「分かります」

「分かるの?」

「たぶん」

 

 かなたはグラウンドの白線を見た。

 

「教室だと、言葉が遅れます」

 

 灯里は黙った。続く言葉に見当がつかなかった。

 

「何か聞かれても、答えを探している間に、話が進みます。怒っているわけでも、嫌なわけでもないんです。でも、言葉が遅れます」

 

 かなたの声は淡々としていた。だからこそ、痛い。

 

「走ってる間は、助かります」

「助かる?」

「はい。……一瞬なので」

 

 かなたは白線を見たまま言った。

 昼休みと同じ言葉だった。

 

「走っている間は、説明しなくていいので。言葉が遅れても、身体は遅れたら遅れたまま出ます」

 

 灯里は、かなたの横顔を見た。

 

 走っていないかなた。

 白線の外にいるかなた。

 

 そこにいるのに、どこか薄く見える少女。

 灯里は、その横顔まで見ていたいと思ってしまった。

 

 それは走りを見ることとは違う。

 違うのに、目を逸らせなかった。

 

「真剣って」

 

 灯里は呟いた。

 

「痛そう」

 

 かなたがこちらを見る。

 灯里は視線を外さなかった。

 

「そんなに走ることに真剣でいるの、痛そう」

 

 かなたは少し考えたように黙った。

 それから言った。

 

「痛いです」

 

 灯里は息を止めた。

 

「痛くないなら、たぶん真剣じゃないので」

 

 簡単に言う。

 

 その簡単さに、灯里は腹が立った。

 自分にはできなかったことを、かなたは普通の顔で言う。

 

「恥ずかしい」

 

 灯里は言った。

 かなたは頷いた。

 

「恥ずかしいとは思います」

「じゃあ、やめれば」

 

 言った瞬間、自分で分かった。

 

 かなたを試している。

 あるいは、自分の代わりに否定してほしがっている。

 

 真剣なんて恥ずかしい。

 痛いならやめればいい。

 そう言えば、昔の自分まで少し楽になる気がした。

 

 かなたは、すぐには答えなかった。

 灯里を見て、それから白線を見た。

 

「やめたら、もっと分からなくなるので」

 

 強い答えではなかった。

 だから、嘘には聞こえなかった。

 

 ♦

 

 練習後、かなたは残っていた。

 全体メニューは終わっている。榊が片づけを指示し、部員たちは器具庫へ向かっていた。紗季は汗を拭きながら、まどかに何か話している。

 

 かなたは、スパイクを履いたまま立っていた。

 ノートはバッグの中。

 でも、目はまだ走っている。

 

 灯里は近づいた。

 

「何してるの」

「一本だけ」

「今日は終わり」

「確認だけです」

「確認って言えば何でも許されると思ってる?」

 

 かなたは少しだけ黙った。

 

「さっきの、何も直さない一本を、もう一度」

「だから終わり」

「でも」

「でも禁止って言った」

 

 灯里の声が少し強くなった。

 かなたはレーンの方を見た。

 その横顔に、諦めはなかった。むしろ、走れないことに耐えているように見えた。

 

 まただ。

 走りたくて、白線に引っ張られている。

 

 灯里は苛立った。

 かなたにではなく、それを放っておけない自分に。

 

 かなたの手が少し動いた。

 灯里の袖へ伸びかけて、途中で止まる。

 

 ほんの数センチの距離で、触れなかった。

 灯里は、その指先を見てしまった。

 

 見なければよかったと思った。

 

「日野」

 

 榊の声が飛んだ。

 かなたの背筋が伸びる。

 榊が歩いてきた。

 

「今日はここまで。居残り禁止」

「でも、一本だけ」

「禁止」

 

 榊の声は静かだった。怒鳴るよりも余程響く。

 

「真剣と自棄を一緒にするな」

 

 かなたは口を閉じた。

 榊は続ける。

 

「走りたいのは分かる。でも、今の一本は練習じゃない。焦りをなだめるための一本になる」

 

 榊は少しだけ声を柔らかくした。

 

「走るために休みなさい」

 

 かなたはようやく頷いた。

 

「はい」

 

 スパイクの紐をほどく。その動作は、少し遅かった。

 灯里は横で見ていた。

 

 榊が止めてくれてよかった。

 同時に、少しだけ悔しかった。

 止めたのが自分ではなかったことに。

 

 そんなことを思う資格はない。

 

 灯里は分かっていた。

 

 

 

 片づけのあと、灯里は器具庫の前で一人になった。

 まどかはボトルを洗いに行き、紗季は一年生を連れて部室へ戻った。榊も職員室へ向かっていた。

 

 グラウンドには、かなたが残っていた。

 走ってはいない。

 

 ベンチに座り、スパイクを脱いだ足を揃えている。ノートも開いていない。ただ、白線の方を見ている。

 

 灯里はまた、白線の外にいるかなたを見ていた。

 

 昼休みの教室で、言葉が遅れていたかなた。

 家からの短い連絡に、短く返していたかなた。

 袖に触れかけて、触れなかったかなた。

 走れないまま、白線を見ているかなた。

 

 その全部が、灯里の中で、走っているときのかなたとつながっていく。

 これ以上見たら、戻れなくなる。

 

 灯里は鞄を肩にかけた。

 帰ろうとしたとき、かなたがこちらを見た。

 

 目が合う。沈黙が、妙に長く感じた。

 百メートルより、ずっと長く。

 

 灯里は先に目を逸らした。

 

 真剣は痛い。

 

 そう言ったのは自分だった。

 

 けれど本当は、見ているだけでも痛かった。

 

 走っていないくせに。

 

 白線の外にいるくせに。

 

 灯里は用紙の入った鞄の紐を握り直した。

 

 指の腹が少し痛い。

 

 さっきまで何も持っていなかったはずなのに、手の中だけが擦りむけている気がした。

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