きっといつか焦がれ思い返す 作:しんそく
昼休み、灯里は一年の教室前にいた。
榊に頼まれた大会参加希望の用紙を、一年の短距離組へ渡すためだ。
部室で渡せば済む。放課後でもいい。わざわざ一年の廊下まで来る必要はない。
分かっていて、灯里はそこにいた。
かなたの教室は、廊下の奥にある。
中を覗くつもりはなかった。
けれど、扉が開いていて、窓際の席に座る日野かなたが見えた。
かなたは、教室の中では白線の前に立つときほどはっきりしていなかった。
机に肘を置き、弁当箱の蓋を閉じたまま、近くの女子たちの会話を聞いている。輪の中にいるようで、少し外にいる。誰かが笑うと、かなたも少し遅れて顔を上げる。
笑ったのかどうか、灯里には分からない。
「日野さんって、陸上だよね」
クラスメイトの一人が言い、かなたは緩慢に頷いた。
「はい」
「百メートル? 一瞬じゃない? 練習そんなきついの?」
悪意のない声だった。
たぶん、本当に不思議なのだろう。
百メートルは一瞬。
走って終わり。
長距離より楽そう。
そう思う人間は多い。灯里だって何度も似たような言葉を掛けられてきた。
かなたは少しだけ口を開いた。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
その間に別の子が言う。
「あ、でもスタートとか難しいんじゃない? クラウチングスタート? あれ、体育でやると変な感じするよね」
「分かる、手つくやつ」
話題は、かなたの答えを待たずに進んでいく。
かなたは目を伏せた。
怒ったようには見えなかった。傷ついたようにも見えなかった。
ただ、出すはずだった言葉を、どこへ置けばいいのか分からなくなったように見えた。
少しして、かなたは言った。
「一瞬なので……難しいです」
誰かが「へえ」と返した。
会話はすぐに別の方向へ流れた。
かなたはそれ以上、何も言わなかった。
机の端に置かれたスマートフォンが震えた。通知を見て、かなたはすぐに画面を伏せた。
表情は変わらない。
変わらないことが、灯里には少し嫌だった。
誰も悪くない。
クラスメイトは意地悪ではない。分かりやすく傷つけるものは、そこにはない。
だから余計に、かなたの言葉の遅れだけが残った。
走っているときだけ、かなたは遅れない。
白線の前に立つと、言葉より先に身体で答える。迷いも、怖さも、弱さも、全部、足の裏から出ていく。
灯里は廊下で立ち止まったまま、かなたを見ていた。
走っていないのに。
目で追っていた。
そのことに気づいて、灯里は用紙を握り直した。
何をしているのだろう。
見ているのは、走りだけではなかったのか。
「岸本先輩?」
教室の入り口近くにいた一年生に声をかけられ、灯里は我に返った。
「これ、短距離の一年に。榊先生から」
「あ、ありがとうございます」
用紙を渡す。
かなたがこちらを見た。
目が合う。
灯里はすぐに視線を逸らした。
用事は終わった。
だから帰ればいい。
廊下を戻りながら、灯里は自分の足音だけを聞いていた。
その日の放課後、かなたの走りは硬かった。
最初のスタートから分かった。
一歩目が悪いわけではない。足の位置も、肩の高さも、昨日から大きく崩れていない。けれど、身体の中に余計なものが残っている。
地面へ落ちる前に、どこかで言葉を探しているような硬さだった。
二本目も同じ。
三本目は、さらに悪くなった。
かなたはゴールの先で止まり、すぐに灯里を見た。
いつもの目。
答えを待つ目。
灯里は記録用紙を見下ろした。言うべきことはいくつもある。
二歩目が遅い。
上体が立つのが早い。
腕が外へ逃げている。
焦っている。
怖がっている。
けれど、そのどれも今は少し違う気がした。
「一本だけ」
灯里は言った。
かなたが戻ってくる。
「何も直そうとしないで走って」
かなたは目を瞬かせた。
「何も、ですか」
「そう。スタートも、二歩目も、腕も、全部どうでもいい。今ある身体で走って」
「でも」
「でも禁止」
灯里は自分で言って、まどかみたいだと思った。
「一本だけ。タイムも取らない」
かなたは迷ったように見えた。直すために走る子だ。
悪いところを見つけ、ノートに書き、次で潰す。それが、かなたのやり方になりつつあった。
何も直さないで走る。
そんな指示が正しいのか、灯里にも分からなかった。
ただ、今のかなたには、直すための言葉が多すぎるように見えた。
「分かりました」
かなたは白線へ戻った。
構える。
いつもより躊躇いがあった。
合図。同時にかなたが出た。
一歩目は雑だった。二歩目も硬い。フォームだけ見れば、悪い。普段なら、灯里はすぐに止めたくなったはずだ。
けれど、十メートルを過ぎたあたりで、少し変わった。
身体が前へ出る。
正しい形ではない。
綺麗でもない。
けれど、かなたは走っていた。
何かを直そうとしているのではなく、誰かの言葉を探しているのでもなく、ただ前へ進んでいた。
灯里は記録用紙を持つ手に力を入れた。
走っている間だけ、かなたは説明しなくていいのかもしれない。
百メートルは短い。
だから嘘を入れる場所がないと、かなたは言った。
でも、それだけではない。
短いから、身体が先に答えてくれる。
ゴールの先で、かなたは大きく息を吐いた。
振り返るのが、いつもより少し遅かった。
灯里は、それだけで少し胸が詰まった。
「悪かったですか」
戻ってきたかなたが聞いた。
灯里は少し考えて、曖昧な答えを返した。
「フォームは悪かった」
「はい」
「二歩目も遅い。腕も硬い。三十メートルで上体が立った」
「はい」
「でも、今日の中では一番走ってた」
かなたの目が、少しだけ動いた。
「走ってた」
「うん」
灯里は温かい言葉を探した。
いつもなら、悪いところを言えばいい。
具体的に。冷たく。正確に。
でも今は、それだけでは足りない気がした。
「直そうとしすぎると、身体が人の言葉を待つ」
言ってから、自分で少し嫌になった。
人の言葉。
その中には、灯里の言葉も入っている。
「今日は、待たない方が良かった」
かなたはノートを開こうとした。
灯里は言った。
「今は書かなくていい」
「忘れます」
「忘れてもいいよ」
かなたが顔を上げる。
「いいんですか」
「全部残そうとすると、重いでしょ」
自分で言って、灯里はかなたのノートを思い出した。
灯里の言葉が、残っていく紙面。
残ることを嬉しいと思った自分。
それが少し怖くなった。
「忘れたら、また走ればいい」
かなたは黙っていた。
納得したのか、できていないのか、灯里には分からない。
少しして、かなたはノートを閉じた。
「先輩」
「何」
「昼休み、教室に来ていましたか」
灯里の手が止まった。
「用紙を渡しに行っただけ」
「はい」
「別に、見てたわけじゃない」
言ってから、言い訳が早すぎたと思った。
かなたは灯里を見ていた。
「見ていました」
「見てないって」
「先輩、廊下にいました」
「だから用紙を」
「私を見ていました」
灯里は口を閉じた。
否定するのが、急に面倒になった。
かなたの言い方は責めているようではなかった。ただ、見た事実を言っているだけのように聞こえた。
「……見えただけ」
「はい」
「教室だと、日野さん、輪郭薄いね」
言ってしまってから、少しきつかったかと思った。
かなたは怒らなかった。
ただ、目を伏せた。
「輪郭、ですか」
「そう、輪郭」
「そうかもしれません」
その声は静かだった。
灯里は胸の奥がざらついた。
「別に、悪い意味で言ったんじゃ」
「分かります」
「分かるの?」
「たぶん」
かなたはグラウンドの白線を見た。
「教室だと、言葉が遅れます」
灯里は黙った。続く言葉に見当がつかなかった。
「何か聞かれても、答えを探している間に、話が進みます。怒っているわけでも、嫌なわけでもないんです。でも、言葉が遅れます」
かなたの声は淡々としていた。だからこそ、痛い。
「走ってる間は、助かります」
「助かる?」
「はい。……一瞬なので」
かなたは白線を見たまま言った。
昼休みと同じ言葉だった。
「走っている間は、説明しなくていいので。言葉が遅れても、身体は遅れたら遅れたまま出ます」
灯里は、かなたの横顔を見た。
走っていないかなた。
白線の外にいるかなた。
そこにいるのに、どこか薄く見える少女。
灯里は、その横顔まで見ていたいと思ってしまった。
それは走りを見ることとは違う。
違うのに、目を逸らせなかった。
「真剣って」
灯里は呟いた。
「痛そう」
かなたがこちらを見る。
灯里は視線を外さなかった。
「そんなに走ることに真剣でいるの、痛そう」
かなたは少し考えたように黙った。
それから言った。
「痛いです」
灯里は息を止めた。
「痛くないなら、たぶん真剣じゃないので」
簡単に言う。
その簡単さに、灯里は腹が立った。
自分にはできなかったことを、かなたは普通の顔で言う。
「恥ずかしい」
灯里は言った。
かなたは頷いた。
「恥ずかしいとは思います」
「じゃあ、やめれば」
言った瞬間、自分で分かった。
かなたを試している。
あるいは、自分の代わりに否定してほしがっている。
真剣なんて恥ずかしい。
痛いならやめればいい。
そう言えば、昔の自分まで少し楽になる気がした。
かなたは、すぐには答えなかった。
灯里を見て、それから白線を見た。
「やめたら、もっと分からなくなるので」
強い答えではなかった。
だから、嘘には聞こえなかった。
♦
練習後、かなたは残っていた。
全体メニューは終わっている。榊が片づけを指示し、部員たちは器具庫へ向かっていた。紗季は汗を拭きながら、まどかに何か話している。
かなたは、スパイクを履いたまま立っていた。
ノートはバッグの中。
でも、目はまだ走っている。
灯里は近づいた。
「何してるの」
「一本だけ」
「今日は終わり」
「確認だけです」
「確認って言えば何でも許されると思ってる?」
かなたは少しだけ黙った。
「さっきの、何も直さない一本を、もう一度」
「だから終わり」
「でも」
「でも禁止って言った」
灯里の声が少し強くなった。
かなたはレーンの方を見た。
その横顔に、諦めはなかった。むしろ、走れないことに耐えているように見えた。
まただ。
走りたくて、白線に引っ張られている。
灯里は苛立った。
かなたにではなく、それを放っておけない自分に。
かなたの手が少し動いた。
灯里の袖へ伸びかけて、途中で止まる。
ほんの数センチの距離で、触れなかった。
灯里は、その指先を見てしまった。
見なければよかったと思った。
「日野」
榊の声が飛んだ。
かなたの背筋が伸びる。
榊が歩いてきた。
「今日はここまで。居残り禁止」
「でも、一本だけ」
「禁止」
榊の声は静かだった。怒鳴るよりも余程響く。
「真剣と自棄を一緒にするな」
かなたは口を閉じた。
榊は続ける。
「走りたいのは分かる。でも、今の一本は練習じゃない。焦りをなだめるための一本になる」
榊は少しだけ声を柔らかくした。
「走るために休みなさい」
かなたはようやく頷いた。
「はい」
スパイクの紐をほどく。その動作は、少し遅かった。
灯里は横で見ていた。
榊が止めてくれてよかった。
同時に、少しだけ悔しかった。
止めたのが自分ではなかったことに。
そんなことを思う資格はない。
灯里は分かっていた。
片づけのあと、灯里は器具庫の前で一人になった。
まどかはボトルを洗いに行き、紗季は一年生を連れて部室へ戻った。榊も職員室へ向かっていた。
グラウンドには、かなたが残っていた。
走ってはいない。
ベンチに座り、スパイクを脱いだ足を揃えている。ノートも開いていない。ただ、白線の方を見ている。
灯里はまた、白線の外にいるかなたを見ていた。
昼休みの教室で、言葉が遅れていたかなた。
家からの短い連絡に、短く返していたかなた。
袖に触れかけて、触れなかったかなた。
走れないまま、白線を見ているかなた。
その全部が、灯里の中で、走っているときのかなたとつながっていく。
これ以上見たら、戻れなくなる。
灯里は鞄を肩にかけた。
帰ろうとしたとき、かなたがこちらを見た。
目が合う。沈黙が、妙に長く感じた。
百メートルより、ずっと長く。
灯里は先に目を逸らした。
真剣は痛い。
そう言ったのは自分だった。
けれど本当は、見ているだけでも痛かった。
走っていないくせに。
白線の外にいるくせに。
灯里は用紙の入った鞄の紐を握り直した。
指の腹が少し痛い。
さっきまで何も持っていなかったはずなのに、手の中だけが擦りむけている気がした。