きっといつか焦がれ思い返す   作:しんそく

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七話 借り物の疾走

 

 六月の終わりに、校内記録会があった。

 朝のミーティングで、榊美冬はいつものように淡々と言った。

 

「今日は現在地を確認する日です」

 

 灯里は、その言い方が嫌いだった。

 

 現在地。

 自分がどこにいるのかを、数字で示される日。

 

 速い子は速い場所にいる。遅い子は遅い場所にいる。伸びた子は伸びた場所にいて、止まった子は止まった場所にいる。

 

 誰も責めはしない。ただ、数字が出る。

 それだけだから、逆に逃げ場がない。

 

 灯里は記録用紙をクリップボードに挟んだ。今日も自分は走らない。他人の現在地を書く側にいる。

 

 それなら平気だ。

 そう思うことにした。

 

 

 女子百メートルは三組に分かれていた。

 

 日野かなたは二組目。

 真柴紗季は最終組。

 

 空は薄く曇っていて、風は弱い。グラウンドの白線は朝のうちに引き直され、いつもよりはっきりと土の上に浮いていた。

 

 かなたは招集場所の端で、スパイクの紐を何度も触っていた。

 

 結び目はもう十分きついはずだった。それでも指先だけが、そこへ戻る。ほどけるのを恐れているというより、自分の身体がちゃんとそこにあるか確かめているように見えた。

 

 灯里は少し離れたところから見ていた。

 

 いつもなら、一つくらい指摘する。

 右足。肩。二歩目。怖がるな。急ぐな。上に逃げるな。

 

 けれど、今日は記録会だった。

 灯里の言葉を、上から貼りつける日ではない。

 

「日野さん」

 

 それでも呼んでいた。

 かなたが近づいてくる。

 

「はい」

「今日は、今日の身体で走ればいい」

「今日の身体」

「昨日の身体でも、理想の身体でもなくて」

 

 かなたは黙った。

 言葉を頭で理解するのではなく、身体のどこかに置く場所を探しているようだった。

 

「怖かったら、怖いまま出て。欲が出てもいい。でも、欲に乗られない」

「はい」

「あと、」

 

 灯里はそこで一度、言葉を切った。

 走らない人間が、何を言っているのだろう。

 かなたに声をかけるたび、そう思う。

 

 それでも、言わずにはいられなかった。

 

「最後の十メートル、なかったことにしないで」

 

 かなたは灯里を見た。

 その目の奥で、何かが細く張った。

 

「はい」

 

 かなたは招集場所へ戻っていく。

 灯里はクリップボードを握り直した。

 

 走るのは、かなた。

 灯里ではない。

 

 分かっている。

 分かっているのに、ピストルが鳴る前から息が浅かった。

 

 

 二組目がスタートラインについた。

 かなたは五レーン。

 

「位置について」

 

 灯里はストップウォッチを構えた。

 

 記録係のつもりだった。

 けれど、ピストルが鳴る前から、もう記録係の心ではなかった。

 

「用意」

 

 腰が上がる。

 空気が細くなる。

 ピストル。かなたが出た。

 

 一歩目は良かった。

 右足が地面を探さない。二歩目で少し硬さは出たが、浮ききらない。十メートルまで、隣の選手とほとんど並んでいた。

 

 二十メートル。

 まだ悪くない。

 

 三十メートルで上体が早く起きかける。いつもの癖。けれど今日は、そこで大きく崩れなかった。

 

 四十。

 五十。

 

 綺麗ではない。

 

 百メートルを楽に運ぶ身体では、まだない。かなたはひとつひとつの動きを必死に繋いでいる。地面を拾い、腕を振り、崩れそうになった形を次の一歩で戻しながら、前へ行く。

 

 六十を過ぎたあたりで、腕が大きくなった。

 

 欲が出た。

 灯里にはよく分かった。

 

 行ける、と思ったのかもしれない。

 自己ベストが見えたのかもしれない。

 

 その瞬間、肩が上がる。

 

 七十。

 

 走りが乱れる。

 灯里は声を出しそうになり、歯を噛んだ。

 

 八十。

 

 かなたの顔が歪む。

 

 九十。

 

 最後の十メートル。

 脚が流れた。腕が広がった。顔も上がった。形は悪い。

 

 でも、逃げてはいなかった。

 かなたは崩れた身体を抱えたまま、最後の一歩まで前に出した。

 

 ゴール。

 

 灯里はストップウォッチを止めた。

 手元の数字を見る。

 

 十三秒二九。

 

 一瞬、息が止まった。

 かなたの自己ベストだった。

 

 

「十三秒二九」

 

 記録を読み上げると、周囲がざわついた。

 

「え、日野さん自己ベスト?」

「速くなってるじゃん」

「前、十三秒四くらいじゃなかった?」

 

 かなたはゴールの先で、肩で息をしていた。

 

 周囲の声は聞こえているはずだった。けれど、すぐには笑わない。小さく頭を下げるだけで、まだ呼吸を整えている。

 

 灯里は記録用紙に数字を書いた。

 

 日野かなた。

 十三秒二九。

 

 ペン先が紙に引っかかる。

 

 かなり良い。

 これまでのかなたから見れば、はっきり伸びている。スタートだけの子ではなくなり始めている。最後の十メートルも、崩れたが投げなかった。

 

 褒めるべきだ。

 

 だというのに、灯里の手には力が入っていた。

 記録用紙の端が曲がる。

 

 違う。

 

 まだ足りない。

 

 そう思ってしまった。

 走ったのは、かなたなのに。

 

 灯里は自分の指を見た。

 

 何で私が悔しがっているのだろう。

 

 かなたが顔を上げた。

 見ていたのは、灯里ではなかった。

 

 最終組の招集場所。

 そこに紗季がいた。

 首に黄色いタオルをかけ、軽く脚を振っている。いつも通りの顔。緊張していないわけではないはずなのに、そう見えない。

 

 かなたの手が、ゆっくり握られた。

 祝福の声の中で、かなたは紗季を見ている。

 

 

 最終組。

 紗季は四レーンだった。

 

 ピストルが鳴ると、紗季が出た。

 かなたとは違った。

 

 最初の十メートルだけなら、かなたにも鋭さがある。

 けれど、その先が違う。

 

 二十メートルで加速がほどけない。

 三十メートルで身体が自然に立つ。

 四十、五十で周りを置いていく。

 六十から先も、崩れるのではなく、速度を抱えたまま落ちていく。

 

 百メートルを走る身体。

 

 灯里にはそう見える。

 かなたは、まだ十メートルの延長で百メートルを走ろうとしている。

 紗季は、百メートルを百メートルとして走っている。

 

 ゴール。

 

「十二秒四九」

 

 周囲が小さく沸き、灯里はいつも通りに記録した。

 

 真柴紗季。

 十二秒四九。

 

 そのすぐ上に、かなたの十三秒二九がある。

 

 数字の差は、〇・八秒。

 百メートルでは、あまりにも遠い。

 

 灯里は記録用紙を見下ろした。

 

 日野かなた、十三秒二九。

 真柴紗季、十二秒四九。

 

 その間に、昔の自分の数字が割り込んでくる。

 

 十三秒〇五。

 

 消そうとしても、消えなかった。

 

 

 

 記録会が終わると、かなたの姿が見えなくなった。

 

 探す必要はない。

 かなたは一年生だ。友達もいる。榊もいる。灯里が探す理由はない。

 

 そう思いながら、足は水道の方へ向かっていた。

 グラウンドの端、体育館裏に近い水道。

 昼間でも少し影になる場所だった。

 

 かなたはそこにいた。

 蛇口の前ではなく、その奥の壁際でしゃがみ込んでいる。片手を地面につき、もう片方の手で口元を押さえていた。

 

 吐きそうなのか、泣きそうなのか、灯里には分からなかった。

 

「大丈夫?」

 

 言ってすぐ、最悪の第一声だと思った。

 

 大丈夫なわけがない。

 

 かなたは頷かなかった。

 首を横にも振らなかった。

 

「自己ベストじゃん」

 

 口にした瞬間、違うと思った。

 それは周囲と同じ言葉だった。十三秒二九。速くなった。良かった。自己ベスト。祝うべきこと。

 

 全部、正しい。

 でも、今のかなたには届かない。

 

「十分──」

「違います」

 

 かなたの声が、灯里の言葉を切った。

 強い声ではなかった。むしろ小さな、風やざわめきにほどけてしまいそうな声。

 けれど、その小ささの中に硬い芯があった。

 

 灯里は黙った。

 かなたが、灯里の言葉を拒んだ。

 

 初めてだった。

 かなたの手が、地面の砂を掴む。

 

「十分じゃないです」

 

 灯里は、喉の奥が詰まるのを感じた。

 自分が今、何を言おうとしたのか分かった。

 

 自己ベストじゃん。

 十分じゃん。

 頑張ったじゃん。

 

 優しい言葉。

 正しい言葉。

 かつて自分が隠れるために使った言葉。

 

 それを、かなたにも被せようとした。

 

「全部出しました」

 

 かなたは言った。

 

「自己ベストでした。今までで一番速かったです」

 

 かなたは自分の手を見た。

 スタートラインに触れた手。百メートルを走った身体の一部。

 

 その手を、確かめるように見ている。

 

「それでも、真柴先輩には全然届きませんでした」

 

 灯里は水道の音を聞いていた。

 遠くで誰かの笑い声がする。紗季を囲む声かもしれない。自己ベストを祝う声かもしれない。

 

 かなたは続けた。

 

「だから」

 

 一度、言葉が止まった。

 灯里は次の言葉を待った。

 

「今日の私は、ちゃんと弱かったんです」

 

 その言葉が、灯里の中に刺さった。

 

 ちゃんと弱かった。

 灯里は、その言葉を持っていなかった。

 

 中学最後の大会の日、灯里は出遅れた。出遅れたから負けた。そう言える場所に逃げ込んだ。

 

 全部出して負けることを、しなかった。

 ちゃんと弱くなることを、避けた。

 

 目の前のかなたは、十三秒二九を抱えている。

 

 自己ベストを出し、今までで一番速く走り、それでも届かなかった弱さを、なかったことにしようとしていない。

 

「馬鹿みたい」

 

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 かなたが顔を上げる。

 

「本当に、馬鹿みたい」

「はい」

「褒めてない」

「分かります」

「分かってるなら返事しないで」

 

 かなたは黙った。

 

 灯里はしゃがんだ。

 水道の影で、二人の高さが近くなる。

 

「最後の十メートル」

 

 灯里は言った。

 

「崩れた」

「はい」

「腕、広がった。脚も流れた。顔も上がった」

「はい」

「でも、逃げてはいなかった」

 

 かなたは息を止めたように見えた。

 灯里は視線を逸らさなかった。

 

「前は、崩れそうになると身体が先に諦めてた。今日は崩れたまま走った。最後まで、脚を出した」

 

 かなたの手が、膝の上で握られる。

 

「だから、良かった」

 

 言ってから、灯里はすぐに足した。

 

「十分って意味じゃない」

 

 かなたが灯里を見る。

 

「届かなかったのは本当。紗季とはまだ遠い。百メートル全部で見たら、まだ弱い」

「はい」

「でも、その弱さを誤魔化さなかった」

 

 灯里の声が少し低くなった。

 

「それは、良かった」

 

 かなたはしばらく黙っていた。

 

 涙はまだ落ちていない。

 けれど、目の奥に何かが溜まっているように見えた。

 

 喜びなのか、悔しさなのか、安堵なのか。

 灯里には分からない。

 

「先輩」

「何」

 

「悔しいです」

「うん」

 

「自己ベストなのに」

「うん」

 

「嬉しいのに、悔しいです」

 

 灯里は頷いた。

 

 それでいい、と言いそうになった。

 言わなかった。

 

 それでいいかどうかを決めるのは、灯里ではない。

 かなたの百メートルは、かなたのものだ。

 

 そう分かっているのに、灯里の胸は痛かった。

 自分のことのように。

 

 いや、自分のことにしたがっているように。

 

 

 

 

 

 

 校内記録会の翌日、かなたはいつも通りグラウンドにいた。

 

 灯里にはそれが、意外なことのように思われた。

 昨日、あれだけ悔しがっていたのに。

 自己ベストで負けて、ちゃんと弱かったと言ったのに。

 

 今日も白線の前にいる。

 

 灯里なら、隠れた。

 少なくとも、もう少し時間が必要だった。

 

 でも、かなたは走る準備をしていた。

 

「日野さん」

 

 声をかけると、かなたが顔を上げた。

 

「はい」

「今日は悪いところを直そうとしなくていい」

 

 かなたの眉がわずかに動く。

 

「直さないんですか」

「伸ばす日じゃなくて、残す日」

 

「残す」

「昨日の走りを、身体が勝手に変な思い出にしないようにする。七割で三本。確認だけ」

 

 かなたは白線を見た。

 昨日の百メートルを思い出しているようにも、何も考えていないようにも見えた。

 

「分かりました」

 

 返事は素直だった。

 その素直さが、最近の灯里には少し怖い。

 三本目は、七割のはずなのに八割に近かった。

 

「やりすぎ」

 

 戻ってきたかなたに、灯里は言った。

 

「すみません」

「謝るならやらない」

「はい」

「今日はもう終わり」

 

 かなたは頷いた。

 

 その頷きが、少し硬い。

 まだ走りたそうだと、灯里には分かった。

 

 止めた方がいい。

 そう分かっているのに、その硬い目を見て、続きを見たいと思ってしまう。

 

 昨日、自己ベストで負けた子が、翌日にどんなふうに走るのか。

 その先が見たい。

 

 自分では見に行けなかった場所へ、この子はまだ進もうとしている。

 

 灯里はクリップボードを胸に抱えた。

 違う。

 

 かなたの百メートルは、かなたのものだ。

 

 

 

 

 地区大会まで、およそ三週間になった。

 

 榊が出場候補を絞り始めると、部内の空気が変わった。

 いつもの練習が、数字の匂いを帯びる。タイム。順位。標準記録。県大会。そういう言葉が、グラウンドの端に積もっていく。

 

 かなたは候補に残っていた。

 まだ正式発表ではない。けれど、校内記録会の十三秒二九は大きかった。スタートの鋭さもある。伸びしろもある。

 

 かなたは浮かれていなかった。あくまで、灯里にはそう見えた。

 ただ、一本ごとの密度が上がった。

 

 走る前の沈黙が長くなる。ノートの文字が増える。灯里の指摘を聞くときの目が、前より深くなる。

 その目で見られると、灯里は逃げにくい。

 

「今日の三本目です」

 

 かなたが言った。

 

「三十メートル以降で、身体が浮きました」

 

 自分で分かっているなら聞くな、と灯里は思った。

 でも、かなたは灯里の前に立つ。自分の感覚と、灯里が見たものを照らし合わせるように。

 

「昨日は欲が出て浮いた」

 

 灯里は答えた。

 

「今日は怖くて浮いてる」

「……怖い」

「地区大会、意識してるでしょ」

 

 かなたは少し黙った。

 否定はしなかった。

 

「速くなりたい、じゃなくて、遅くなりたくないになってる」

 

 かなたの指が、ノートの角を押さえる。

 

「どうすればいいですか」

 

 その言葉を、灯里は最近よく聞く。

 答えを求める声。灯里の言葉を待つ目。

 そこには信頼があるのかもしれない。依存もあるのかもしれない。もっと別のものも、少しはあるのかもしれない。

 

 灯里には分からない。分からないまま、甘いと思ってしまう。

 

「三十から先を分ける」

「分ける」

「スタートから全部通すと、日野さんは最初の良さに引っ張られる。二十から五十。そこで身体を立てる練習をする。あと、最後の二十」

 

「最後の二十」

「落ちるところ。今は落ちるのが怖くて大きくなる。小さく速く、落ちる」

 

 かなたは黙って聞いていた。

 その目が、灯里の中の余計なものまで拾い上げるようで、怖かった。

 

「榊先生に聞いてからね」

 

 灯里は付け足した。

 

「勝手に本数増やさない」

「はい」

「全部、私に預けないで」

 

 かなたが顔を上げる。

 

「はい」

 

 返事は同じだった。

 でも、わずかに遅れた。

 

 

 榊は、灯里の提案を半分だけ採用した。

 

「二十から五十は入れていい。ただし、本数は増やさない。置き換える」

「はい」

「最後の二十も、意識づけ程度。疲れてから追加でやらせない」

「分かってます」

「分かっていることと、できることは違う」

 

 灯里は黙った。それこそ、身に染みてわかっている。100メートルを走る選手は、みんな。

 榊は顔を上げる。

 

「日野は飲み込みが早い」

「はい」

「でも、早い子ほど危ない。自分が変わっていく感覚に酔う」

 

 その言葉が、かなたに向けられたものなのか、灯里に向けられたものなのか、分からなかった。

 

 榊は続けた。

 

「あなたも同じ」

「私ですか」

 

「日野が変わるのを見て、あなたも酔う可能性がある」

「酔ってません」

「今はね」

 

 榊の声は冷静だった。

 

「見るなら、止めるところまで見なさい」

 

 灯里は何も言い返せなかった。

 止めるところまで。

 

 見えるから口を出す。

 良くなるから続ける。

 かなたが求めるから答える。

 

 それだけなら簡単だった。

 けれど、止めることは難しい。

 

 伸びかけた一本を切ること。

 もう少しで掴みそうな顔をしているかなたに、「終わり」と言うこと。

 

 それは、灯里が一番苦手なことかもしれなかった。

 

 

 

 練習は少しずつ変わった。

 

 二十メートルから五十メートルまでの加速移行。

 最初はぎこちなかった。スタートの鋭さが使えない距離で、かなたの身体は迷う。二十メートル地点から入ると、どこで地面を押せばいいのか分からないように見えた。

 

「上に逃げない」

「はい」

 

「急がない。もう出てる途中なんだから」

「はい」

 

「三十で立とうとしない。勝手に立つまで待つ」

「はい」

 

 かなたは吸収した。真綿が水を吸い込むが如く、一本ごとに変わる。

 

 それが恐ろしかった。

 昨日言った言葉が、今日の身体に入っている。朝に指摘したことが、放課後には少し形になる。完璧ではない。まだ弱い。まだ遠い。

 

 けれど、変わっている。

 灯里の中で、何かが熱を持つ。

 

 この子を速くできるかもしれない。

 

 そう思った。

 すぐに否定する。

 

 速くなるのは、かなた自身だ。

 灯里ではない。

 

 それでも、かなたの走りが良くなるたび、灯里の身体の奥で、走っていない足が疼いた。

 

 自分が届かなかった場所へ。

 

 この子なら。

 

 そこまで考えて、灯里は顔をしかめた。

 

 

 

 

 夜、灯里は机の上に記録用紙の写しを広げた。

 校内記録会の結果。

 

 日野かなた、十三秒二九。

 真柴紗季、十二秒四九。

 

 その横に、灯里は何も書かなかった。

 書かなくても、数字は浮かんでくる。

 

 岸本灯里、十三秒〇五。

 

 中学の自己ベスト。

 十二秒台まであと少しだった数字。

 

 かなたの十三秒二九は、そこに近づいている。

 あと、〇・二四秒。

 

 百メートルでは大きい。簡単に縮まる差ではない。灯里はそれを知っている。

 けれど、知っているからこそ怖かった。

 

 かなたは伸びている。

 灯里が止まった場所へ、近づいている。

 

 記録用紙の上で、かなたの数字と自分の数字が並ぶ。

 並べてはいけない。

 

 そう思うのに、灯里は頭の中で何度も並べていた。

 

 十三秒二九。

 十三秒〇五。

 十二秒四九。

 十二秒台の佐伯。

 

 過去と現在が、他人の身体を通って一本の線になる。

 

 灯里は記録用紙を裏返した。

 

 意味がない。

 

 かなたはかなたで、灯里ではない。

 

 分かっているのに、十三秒二九という数字が、灯里の奥にしまったままの箱を内側から叩いていた。

 

 

 

 地区大会の出場者が発表された。

 部室前の掲示板に、榊が印刷した紙を貼った。

 

 女子百メートル。

 

 真柴紗季。

 日野かなた。

 

 二つの名前を見た瞬間、かなたの指がわずかに動いた。

 灯里は少し後ろから見ていた。

 

 かなたは騒がなかった。

 喜んで跳ねたりもしなかった。

 

 ただ、紙に書かれた自分の名前を見ている。

 その横で、紗季が明るく言った。

 

「一緒だね、日野さん」

「はい」

「最初、置いてかれないようにしなきゃ」

 

 冗談めかした言い方だった。

 かなたは困ったように首を振る。

 

「真柴先輩には、まだ」

「まだ、でしょ」

 

 紗季は笑った。

 灯里はそのやり取りを見ていた。

 

 紗季の言葉は自然だった。

 速い側の余裕にも聞こえる。けれど、ただの余裕ではないことも、最近の灯里には少し分かる。紗季は紗季で、自分の速さを背負っている。

 

 それでも今の灯里には、かなたが紗季を見ていることの方が気になった。

 

 かなたの目が、紗季の背中を追う。

 その視線を見て、喉の奥が狭くなる。

 

 当然だ。

 

 紗季は速い。

 かなたが見るべき相手だ。

 競技者として正しい。

 

 そう理屈を並べても、胸のざらつきは消えなかった。

 

 灯里は掲示板の紙へ目を戻す。

 

 日野かなた。

 地区大会。

 

 この子は、自分が逃げた場所へ行く。

 

 

 

 

 

 地区大会が近づくにつれ、かなたのタイムは十三秒一台に入った。

 練習での手動計測だから、正式な記録ではない。風もある。条件も違う。あてにはならない。

 

 それでも、数字は数字だった。

 

 十三秒一八。

 

 灯里はストップウォッチを見て、声を出せなかった。

 かなたがゴールの先から戻ってくる。

 

「今の、どうでしたか」

 

 灯里は数字を見る。

 中学の自分に、さらに近づいた。

 

「悪くない」

「どこが悪かったですか」

「最後、左脚が少し流れた」

「はい」

「でも、全体は良かった」

 

 かなたは灯里を見る。

 もっと聞きたがっている目だった。

 

 灯里は迷った。

 

 疲労はある。

 左脚の流れも気になる。

 ここで終わるべきだ。

 

 でも、今の一本は良かった。

 もう一本、同じ感覚で走れば、もっと何か掴めるかもしれない。

 

 十三秒一台。

 十二秒台。

 自分が届かなかった場所。

 

 灯里は口を開いた。

 

「もう一本」

 

 言ってしまった。

 かなたの目が強くなる。

 

「はい」

 

 すぐにスタート地点へ戻っていく。

 灯里はその背中を見ながら、喉の奥が乾くのを感じた。

 

 かなたが構え、合図とほぼ同時に走り出す。

 

 一歩目は良い。

 二歩目も悪くない。

 三十メートルまで滑らか。

 

 けれど四十を過ぎたあたりで、左脚の返りがわずかに遅れた。

 

 五十。

 流れた。

 

 灯里の背中に冷たいものが走る。

 

「やめ!」

 

 声が出た。

 

 かなたは減速した。

 大きく崩れたわけではない。転んでもいない。足を引きずるほどでもない。

 

 けれど、左のハムストリングスに手を当てていた。

 灯里は駆け寄った。

 

「痛い?」

「張っただけです」

「痛いか聞いてる」

「……少し」

 

 灯里は息を飲んだ。

 榊がすぐに来た。

 

「日野、座って」

 

 かなたが頷く。

 

 榊は状態を確認し、無理に歩かせず、アイシングを指示した。大きな怪我ではない。軽い張り。大会に絶望的なものではない。

 

 それでも、灯里の手は冷たくなっていた。

 榊が灯里を見る。

 

「最後の一本、あなたが指示した?」

 

 灯里は答えられなかった。

 沈黙が答えだった。

 

「必要だった?」

 

 必要。

 その言葉が、胸の内側で跳ね返る。

 灯里は唇を噛んだ。

 

「……必要じゃ、なかったです」

 

 榊は怒鳴らなかった。

 それが余計にきつかった。

 

「見る目があることと、選手を見られることは違う」

 

 灯里は顔を上げられなかった。

 

「日野はあなたを信じている。だからこそ、あなたが判断を間違えると危ない」

「はい」

「信頼されることに酔わないで」

 

 その言葉は、まっすぐ灯里に入った。

 酔っていない。

 

 そう言えなかった。

 

 

 

 帰り道、かなたは灯里の隣を歩いていた。

 

 大きな怪我ではなかったので、歩くことはできた。ただ、榊からは明日の練習を休むように言われている。

 

 かなたはいつもより静かだった。

 灯里も話せなかった。

 

 夕方の道に、二人の足音だけが落ちる。

 

「最後」

 

 かなたが言った。

 

 灯里は横を見た。

 

「崩れました」

「うん」

「すみません」

 

 その言葉に、灯里は立ち止まった。

 

 かなたも止まる。

 

「謝らないで」

 

 声が思ったより強くなった。

 

「私が判断間違えただけ」

 

 かなたは灯里を見ていた。

 

「でも、走ったのは私です」

「走らせたのは私」

「先輩が走れと言ったから、走ったわけでは」

 

 灯里は遮った。

 

「走ったでしょ」

 

 かなたは黙った。

 

「私が言えば、日野さんは走る」

「……はい」

「だから、私が止めなきゃいけなかった」

 

 言っていて、胸が痛かった。

 自分の言葉が、かなたを動かす。

 

 そのことを嬉しいと思っていた。

 特別だと思っていた。

 自分の目がほしいと言われて、甘さを感じていた。

 

 その結果が、これだった。

 

「明日は休み」

 

 灯里は言った。

 

「榊先生にも言われました」

「私からも言う。休み」

「走らないんですか」

「走らない」

「確認は」

「休むことを確認する」

 

 かなたは目を瞬かせた。

 

「走るために休む」

 

 灯里は続けた。

 

「大会に出るために。今日の分を取り返すためじゃなくて、ちゃんと走るために」

 

 かなたはしばらく黙っていた。

 それから言った。

 

「休んでるかどうか、見てくれますか」

 

 灯里は呆れた。

 呆れて、少し笑いそうになった。

 

「何それ」

「自分だと、走りたくなるので」

「最低」

「はい」

「褒めてない」

「分かります」

 

 灯里は息を吐いた。

 

「見るよ」

 

 かなたが顔を上げる。

 灯里は視線を逸らさなかった。

 

「走ってないところも、見る」

 

 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 

 かなたは何も言わなかった。

 ただ、目元がわずかに緩んだように見えた。

 

  

 

 翌日、かなたは本当に走らなかった。

 

 グラウンドの端でストレッチをし、補強も軽めにし、スパイクは履かなかった。何度か白線の方を見たが、走らなかった。

 

 灯里は、そのたびに見ていた。

 走っているかなたより、走らないでいるかなたの方が危うく見える。

 

 白線に引っ張られながら、踏みとどまっている。

 真剣は、走ることだけではない。

 

 止まることも、休むことも、たぶん真剣の一部なのだ。

 そう思えたのは、榊が止めてくれたからで、まどかが帰り際に「顔、死んでるよ」と声をかけてくれたからで、灯里一人では危なかったからだ。

 

 その事実は痛かった。

 

 

 

 地区大会三日前、かなたは通常メニューに戻った。

 

 軽めの刺激入れ。

 スタート確認を二本。三十メートルまで。

 最後に七割の流しを一本。

 

 左脚に大きな問題はなかった。

 

 榊が頷き、紗季が「よかったね」と笑い、まどかが「無茶したら足引っかけるから」と言った。

 

 かなたは小さく頭を下げた。

 そのあと、灯里のところへ来た。

 

「大会の日も、見てくれますか」

 

 灯里はクリップボードを持ったまま、かなたを見た。

 

「私でいいの」

「先輩がいいです」

 

 即答だった。

 

 灯里の胸の奥が、また甘くなる。

 その甘さを、今度はそのまま飲み込まなかった。

 

「私のためじゃなくて?」

 

 かなたは少しだけ首を傾げた。

 灯里は言った。

 

「日野さんの百メートルとして、見る。私の昔とか、私の記録とか、そういうのを混ぜないで」

 

 かなたは黙っていた。

 意味がどこまで届いたのか、灯里には分からない。

 それでも、言っておかなければならない気がした。

 

「遅くても、崩れても、最後まで見る」

 

 かなたの指が、ノートの角を押さえる。

 

「最後まで?」

「最後まで」

「負けても?」

「負けても」

「全部出して、負けても?」

 

 灯里の喉が詰まった。

 その問いは、灯里自身に向けられているようだった。

 

 中学最後の大会。

 出遅れた自分。

 全部出して負けることから逃げた自分。

 

 灯里は息を吸った。

 

「見る」

 

 声は小さかった。

 

 でも、逃げなかった。

 

「全部出して負けても、見る」

 

 かなたは頷いた。

 

「お願いします」

 

 灯里は頷き返した。

 

 その約束が、どれくらい重いのか。たぶん、まだ分かっていなかった。

 

 

 

 その夜、灯里はクローゼットの奥の箱を開けた。

 

 しばらく触っていなかった箱だった。

 古いスパイク。記録証。捨てられなかった練習ノート。

 

 灯里はまず、スパイクを取り出した。

 靴底は硬くなっていた。ピンも古い。もうまともに使う気にはなれない。それでも手に持つと、指が覚えている。

 

 白線の前に立つ感覚。

 ブロックに足をかける感覚。

 用意で腰を上げる瞬間。

 ピストルの音。

 

 動かなかった身体。

 灯里はスパイクを置いた。

 

 次に、記録証を出す。

 

 女子百メートル。

 岸本灯里。

 十三秒〇五。

 

 紙は少し曲がっていた。

 

 十三秒〇五。

 

 十二秒台まで、あと少しだった自分。

 そこから逃げた自分。

 

 かなたの十三秒二九が、その数字の近くまで来ている。

 灯里は記録証を見つめた。

 

 この子は、自分が逃げた場所へ行く。

 今度は、打ち消すのに時間がかかった。

 

 かなたはかなた。

 灯里ではない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、かなたの百メートルを見ることで、自分が救われようとしているのではないか。

 

 灯里は古いスパイクを箱へ戻そうとした。

 戻せなかった。

 

 手の中のスパイクは軽かった。

 軽いのに、ひどく重かった。

 

 灯里は箱の前に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

 

 地区大会まで、あと三日。

 

 かなたは走る。

 

 灯里は見なければならない。自分のためではなく、かなたのために。

 

 そう決めたはずなのに、白線の向こうに、自分の過去がまだ立っていた。

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