きっといつか焦がれ思い返す 作:しんそく
六月の終わりに、校内記録会があった。
朝のミーティングで、榊美冬はいつものように淡々と言った。
「今日は現在地を確認する日です」
灯里は、その言い方が嫌いだった。
現在地。
自分がどこにいるのかを、数字で示される日。
速い子は速い場所にいる。遅い子は遅い場所にいる。伸びた子は伸びた場所にいて、止まった子は止まった場所にいる。
誰も責めはしない。ただ、数字が出る。
それだけだから、逆に逃げ場がない。
灯里は記録用紙をクリップボードに挟んだ。今日も自分は走らない。他人の現在地を書く側にいる。
それなら平気だ。
そう思うことにした。
女子百メートルは三組に分かれていた。
日野かなたは二組目。
真柴紗季は最終組。
空は薄く曇っていて、風は弱い。グラウンドの白線は朝のうちに引き直され、いつもよりはっきりと土の上に浮いていた。
かなたは招集場所の端で、スパイクの紐を何度も触っていた。
結び目はもう十分きついはずだった。それでも指先だけが、そこへ戻る。ほどけるのを恐れているというより、自分の身体がちゃんとそこにあるか確かめているように見えた。
灯里は少し離れたところから見ていた。
いつもなら、一つくらい指摘する。
右足。肩。二歩目。怖がるな。急ぐな。上に逃げるな。
けれど、今日は記録会だった。
灯里の言葉を、上から貼りつける日ではない。
「日野さん」
それでも呼んでいた。
かなたが近づいてくる。
「はい」
「今日は、今日の身体で走ればいい」
「今日の身体」
「昨日の身体でも、理想の身体でもなくて」
かなたは黙った。
言葉を頭で理解するのではなく、身体のどこかに置く場所を探しているようだった。
「怖かったら、怖いまま出て。欲が出てもいい。でも、欲に乗られない」
「はい」
「あと、」
灯里はそこで一度、言葉を切った。
走らない人間が、何を言っているのだろう。
かなたに声をかけるたび、そう思う。
それでも、言わずにはいられなかった。
「最後の十メートル、なかったことにしないで」
かなたは灯里を見た。
その目の奥で、何かが細く張った。
「はい」
かなたは招集場所へ戻っていく。
灯里はクリップボードを握り直した。
走るのは、かなた。
灯里ではない。
分かっている。
分かっているのに、ピストルが鳴る前から息が浅かった。
二組目がスタートラインについた。
かなたは五レーン。
「位置について」
灯里はストップウォッチを構えた。
記録係のつもりだった。
けれど、ピストルが鳴る前から、もう記録係の心ではなかった。
「用意」
腰が上がる。
空気が細くなる。
ピストル。かなたが出た。
一歩目は良かった。
右足が地面を探さない。二歩目で少し硬さは出たが、浮ききらない。十メートルまで、隣の選手とほとんど並んでいた。
二十メートル。
まだ悪くない。
三十メートルで上体が早く起きかける。いつもの癖。けれど今日は、そこで大きく崩れなかった。
四十。
五十。
綺麗ではない。
百メートルを楽に運ぶ身体では、まだない。かなたはひとつひとつの動きを必死に繋いでいる。地面を拾い、腕を振り、崩れそうになった形を次の一歩で戻しながら、前へ行く。
六十を過ぎたあたりで、腕が大きくなった。
欲が出た。
灯里にはよく分かった。
行ける、と思ったのかもしれない。
自己ベストが見えたのかもしれない。
その瞬間、肩が上がる。
七十。
走りが乱れる。
灯里は声を出しそうになり、歯を噛んだ。
八十。
かなたの顔が歪む。
九十。
最後の十メートル。
脚が流れた。腕が広がった。顔も上がった。形は悪い。
でも、逃げてはいなかった。
かなたは崩れた身体を抱えたまま、最後の一歩まで前に出した。
ゴール。
灯里はストップウォッチを止めた。
手元の数字を見る。
十三秒二九。
一瞬、息が止まった。
かなたの自己ベストだった。
♦
「十三秒二九」
記録を読み上げると、周囲がざわついた。
「え、日野さん自己ベスト?」
「速くなってるじゃん」
「前、十三秒四くらいじゃなかった?」
かなたはゴールの先で、肩で息をしていた。
周囲の声は聞こえているはずだった。けれど、すぐには笑わない。小さく頭を下げるだけで、まだ呼吸を整えている。
灯里は記録用紙に数字を書いた。
日野かなた。
十三秒二九。
ペン先が紙に引っかかる。
かなり良い。
これまでのかなたから見れば、はっきり伸びている。スタートだけの子ではなくなり始めている。最後の十メートルも、崩れたが投げなかった。
褒めるべきだ。
だというのに、灯里の手には力が入っていた。
記録用紙の端が曲がる。
違う。
まだ足りない。
そう思ってしまった。
走ったのは、かなたなのに。
灯里は自分の指を見た。
何で私が悔しがっているのだろう。
かなたが顔を上げた。
見ていたのは、灯里ではなかった。
最終組の招集場所。
そこに紗季がいた。
首に黄色いタオルをかけ、軽く脚を振っている。いつも通りの顔。緊張していないわけではないはずなのに、そう見えない。
かなたの手が、ゆっくり握られた。
祝福の声の中で、かなたは紗季を見ている。
最終組。
紗季は四レーンだった。
ピストルが鳴ると、紗季が出た。
かなたとは違った。
最初の十メートルだけなら、かなたにも鋭さがある。
けれど、その先が違う。
二十メートルで加速がほどけない。
三十メートルで身体が自然に立つ。
四十、五十で周りを置いていく。
六十から先も、崩れるのではなく、速度を抱えたまま落ちていく。
百メートルを走る身体。
灯里にはそう見える。
かなたは、まだ十メートルの延長で百メートルを走ろうとしている。
紗季は、百メートルを百メートルとして走っている。
ゴール。
「十二秒四九」
周囲が小さく沸き、灯里はいつも通りに記録した。
真柴紗季。
十二秒四九。
そのすぐ上に、かなたの十三秒二九がある。
数字の差は、〇・八秒。
百メートルでは、あまりにも遠い。
灯里は記録用紙を見下ろした。
日野かなた、十三秒二九。
真柴紗季、十二秒四九。
その間に、昔の自分の数字が割り込んでくる。
十三秒〇五。
消そうとしても、消えなかった。
記録会が終わると、かなたの姿が見えなくなった。
探す必要はない。
かなたは一年生だ。友達もいる。榊もいる。灯里が探す理由はない。
そう思いながら、足は水道の方へ向かっていた。
グラウンドの端、体育館裏に近い水道。
昼間でも少し影になる場所だった。
かなたはそこにいた。
蛇口の前ではなく、その奥の壁際でしゃがみ込んでいる。片手を地面につき、もう片方の手で口元を押さえていた。
吐きそうなのか、泣きそうなのか、灯里には分からなかった。
「大丈夫?」
言ってすぐ、最悪の第一声だと思った。
大丈夫なわけがない。
かなたは頷かなかった。
首を横にも振らなかった。
「自己ベストじゃん」
口にした瞬間、違うと思った。
それは周囲と同じ言葉だった。十三秒二九。速くなった。良かった。自己ベスト。祝うべきこと。
全部、正しい。
でも、今のかなたには届かない。
「十分──」
「違います」
かなたの声が、灯里の言葉を切った。
強い声ではなかった。むしろ小さな、風やざわめきにほどけてしまいそうな声。
けれど、その小ささの中に硬い芯があった。
灯里は黙った。
かなたが、灯里の言葉を拒んだ。
初めてだった。
かなたの手が、地面の砂を掴む。
「十分じゃないです」
灯里は、喉の奥が詰まるのを感じた。
自分が今、何を言おうとしたのか分かった。
自己ベストじゃん。
十分じゃん。
頑張ったじゃん。
優しい言葉。
正しい言葉。
かつて自分が隠れるために使った言葉。
それを、かなたにも被せようとした。
「全部出しました」
かなたは言った。
「自己ベストでした。今までで一番速かったです」
かなたは自分の手を見た。
スタートラインに触れた手。百メートルを走った身体の一部。
その手を、確かめるように見ている。
「それでも、真柴先輩には全然届きませんでした」
灯里は水道の音を聞いていた。
遠くで誰かの笑い声がする。紗季を囲む声かもしれない。自己ベストを祝う声かもしれない。
かなたは続けた。
「だから」
一度、言葉が止まった。
灯里は次の言葉を待った。
「今日の私は、ちゃんと弱かったんです」
その言葉が、灯里の中に刺さった。
ちゃんと弱かった。
灯里は、その言葉を持っていなかった。
中学最後の大会の日、灯里は出遅れた。出遅れたから負けた。そう言える場所に逃げ込んだ。
全部出して負けることを、しなかった。
ちゃんと弱くなることを、避けた。
目の前のかなたは、十三秒二九を抱えている。
自己ベストを出し、今までで一番速く走り、それでも届かなかった弱さを、なかったことにしようとしていない。
「馬鹿みたい」
口から出たのは、そんな言葉だった。
かなたが顔を上げる。
「本当に、馬鹿みたい」
「はい」
「褒めてない」
「分かります」
「分かってるなら返事しないで」
かなたは黙った。
灯里はしゃがんだ。
水道の影で、二人の高さが近くなる。
「最後の十メートル」
灯里は言った。
「崩れた」
「はい」
「腕、広がった。脚も流れた。顔も上がった」
「はい」
「でも、逃げてはいなかった」
かなたは息を止めたように見えた。
灯里は視線を逸らさなかった。
「前は、崩れそうになると身体が先に諦めてた。今日は崩れたまま走った。最後まで、脚を出した」
かなたの手が、膝の上で握られる。
「だから、良かった」
言ってから、灯里はすぐに足した。
「十分って意味じゃない」
かなたが灯里を見る。
「届かなかったのは本当。紗季とはまだ遠い。百メートル全部で見たら、まだ弱い」
「はい」
「でも、その弱さを誤魔化さなかった」
灯里の声が少し低くなった。
「それは、良かった」
かなたはしばらく黙っていた。
涙はまだ落ちていない。
けれど、目の奥に何かが溜まっているように見えた。
喜びなのか、悔しさなのか、安堵なのか。
灯里には分からない。
「先輩」
「何」
「悔しいです」
「うん」
「自己ベストなのに」
「うん」
「嬉しいのに、悔しいです」
灯里は頷いた。
それでいい、と言いそうになった。
言わなかった。
それでいいかどうかを決めるのは、灯里ではない。
かなたの百メートルは、かなたのものだ。
そう分かっているのに、灯里の胸は痛かった。
自分のことのように。
いや、自分のことにしたがっているように。
♦
校内記録会の翌日、かなたはいつも通りグラウンドにいた。
灯里にはそれが、意外なことのように思われた。
昨日、あれだけ悔しがっていたのに。
自己ベストで負けて、ちゃんと弱かったと言ったのに。
今日も白線の前にいる。
灯里なら、隠れた。
少なくとも、もう少し時間が必要だった。
でも、かなたは走る準備をしていた。
「日野さん」
声をかけると、かなたが顔を上げた。
「はい」
「今日は悪いところを直そうとしなくていい」
かなたの眉がわずかに動く。
「直さないんですか」
「伸ばす日じゃなくて、残す日」
「残す」
「昨日の走りを、身体が勝手に変な思い出にしないようにする。七割で三本。確認だけ」
かなたは白線を見た。
昨日の百メートルを思い出しているようにも、何も考えていないようにも見えた。
「分かりました」
返事は素直だった。
その素直さが、最近の灯里には少し怖い。
三本目は、七割のはずなのに八割に近かった。
「やりすぎ」
戻ってきたかなたに、灯里は言った。
「すみません」
「謝るならやらない」
「はい」
「今日はもう終わり」
かなたは頷いた。
その頷きが、少し硬い。
まだ走りたそうだと、灯里には分かった。
止めた方がいい。
そう分かっているのに、その硬い目を見て、続きを見たいと思ってしまう。
昨日、自己ベストで負けた子が、翌日にどんなふうに走るのか。
その先が見たい。
自分では見に行けなかった場所へ、この子はまだ進もうとしている。
灯里はクリップボードを胸に抱えた。
違う。
かなたの百メートルは、かなたのものだ。
地区大会まで、およそ三週間になった。
榊が出場候補を絞り始めると、部内の空気が変わった。
いつもの練習が、数字の匂いを帯びる。タイム。順位。標準記録。県大会。そういう言葉が、グラウンドの端に積もっていく。
かなたは候補に残っていた。
まだ正式発表ではない。けれど、校内記録会の十三秒二九は大きかった。スタートの鋭さもある。伸びしろもある。
かなたは浮かれていなかった。あくまで、灯里にはそう見えた。
ただ、一本ごとの密度が上がった。
走る前の沈黙が長くなる。ノートの文字が増える。灯里の指摘を聞くときの目が、前より深くなる。
その目で見られると、灯里は逃げにくい。
「今日の三本目です」
かなたが言った。
「三十メートル以降で、身体が浮きました」
自分で分かっているなら聞くな、と灯里は思った。
でも、かなたは灯里の前に立つ。自分の感覚と、灯里が見たものを照らし合わせるように。
「昨日は欲が出て浮いた」
灯里は答えた。
「今日は怖くて浮いてる」
「……怖い」
「地区大会、意識してるでしょ」
かなたは少し黙った。
否定はしなかった。
「速くなりたい、じゃなくて、遅くなりたくないになってる」
かなたの指が、ノートの角を押さえる。
「どうすればいいですか」
その言葉を、灯里は最近よく聞く。
答えを求める声。灯里の言葉を待つ目。
そこには信頼があるのかもしれない。依存もあるのかもしれない。もっと別のものも、少しはあるのかもしれない。
灯里には分からない。分からないまま、甘いと思ってしまう。
「三十から先を分ける」
「分ける」
「スタートから全部通すと、日野さんは最初の良さに引っ張られる。二十から五十。そこで身体を立てる練習をする。あと、最後の二十」
「最後の二十」
「落ちるところ。今は落ちるのが怖くて大きくなる。小さく速く、落ちる」
かなたは黙って聞いていた。
その目が、灯里の中の余計なものまで拾い上げるようで、怖かった。
「榊先生に聞いてからね」
灯里は付け足した。
「勝手に本数増やさない」
「はい」
「全部、私に預けないで」
かなたが顔を上げる。
「はい」
返事は同じだった。
でも、わずかに遅れた。
榊は、灯里の提案を半分だけ採用した。
「二十から五十は入れていい。ただし、本数は増やさない。置き換える」
「はい」
「最後の二十も、意識づけ程度。疲れてから追加でやらせない」
「分かってます」
「分かっていることと、できることは違う」
灯里は黙った。それこそ、身に染みてわかっている。100メートルを走る選手は、みんな。
榊は顔を上げる。
「日野は飲み込みが早い」
「はい」
「でも、早い子ほど危ない。自分が変わっていく感覚に酔う」
その言葉が、かなたに向けられたものなのか、灯里に向けられたものなのか、分からなかった。
榊は続けた。
「あなたも同じ」
「私ですか」
「日野が変わるのを見て、あなたも酔う可能性がある」
「酔ってません」
「今はね」
榊の声は冷静だった。
「見るなら、止めるところまで見なさい」
灯里は何も言い返せなかった。
止めるところまで。
見えるから口を出す。
良くなるから続ける。
かなたが求めるから答える。
それだけなら簡単だった。
けれど、止めることは難しい。
伸びかけた一本を切ること。
もう少しで掴みそうな顔をしているかなたに、「終わり」と言うこと。
それは、灯里が一番苦手なことかもしれなかった。
練習は少しずつ変わった。
二十メートルから五十メートルまでの加速移行。
最初はぎこちなかった。スタートの鋭さが使えない距離で、かなたの身体は迷う。二十メートル地点から入ると、どこで地面を押せばいいのか分からないように見えた。
「上に逃げない」
「はい」
「急がない。もう出てる途中なんだから」
「はい」
「三十で立とうとしない。勝手に立つまで待つ」
「はい」
かなたは吸収した。真綿が水を吸い込むが如く、一本ごとに変わる。
それが恐ろしかった。
昨日言った言葉が、今日の身体に入っている。朝に指摘したことが、放課後には少し形になる。完璧ではない。まだ弱い。まだ遠い。
けれど、変わっている。
灯里の中で、何かが熱を持つ。
この子を速くできるかもしれない。
そう思った。
すぐに否定する。
速くなるのは、かなた自身だ。
灯里ではない。
それでも、かなたの走りが良くなるたび、灯里の身体の奥で、走っていない足が疼いた。
自分が届かなかった場所へ。
この子なら。
そこまで考えて、灯里は顔をしかめた。
夜、灯里は机の上に記録用紙の写しを広げた。
校内記録会の結果。
日野かなた、十三秒二九。
真柴紗季、十二秒四九。
その横に、灯里は何も書かなかった。
書かなくても、数字は浮かんでくる。
岸本灯里、十三秒〇五。
中学の自己ベスト。
十二秒台まであと少しだった数字。
かなたの十三秒二九は、そこに近づいている。
あと、〇・二四秒。
百メートルでは大きい。簡単に縮まる差ではない。灯里はそれを知っている。
けれど、知っているからこそ怖かった。
かなたは伸びている。
灯里が止まった場所へ、近づいている。
記録用紙の上で、かなたの数字と自分の数字が並ぶ。
並べてはいけない。
そう思うのに、灯里は頭の中で何度も並べていた。
十三秒二九。
十三秒〇五。
十二秒四九。
十二秒台の佐伯。
過去と現在が、他人の身体を通って一本の線になる。
灯里は記録用紙を裏返した。
意味がない。
かなたはかなたで、灯里ではない。
分かっているのに、十三秒二九という数字が、灯里の奥にしまったままの箱を内側から叩いていた。
地区大会の出場者が発表された。
部室前の掲示板に、榊が印刷した紙を貼った。
女子百メートル。
真柴紗季。
日野かなた。
二つの名前を見た瞬間、かなたの指がわずかに動いた。
灯里は少し後ろから見ていた。
かなたは騒がなかった。
喜んで跳ねたりもしなかった。
ただ、紙に書かれた自分の名前を見ている。
その横で、紗季が明るく言った。
「一緒だね、日野さん」
「はい」
「最初、置いてかれないようにしなきゃ」
冗談めかした言い方だった。
かなたは困ったように首を振る。
「真柴先輩には、まだ」
「まだ、でしょ」
紗季は笑った。
灯里はそのやり取りを見ていた。
紗季の言葉は自然だった。
速い側の余裕にも聞こえる。けれど、ただの余裕ではないことも、最近の灯里には少し分かる。紗季は紗季で、自分の速さを背負っている。
それでも今の灯里には、かなたが紗季を見ていることの方が気になった。
かなたの目が、紗季の背中を追う。
その視線を見て、喉の奥が狭くなる。
当然だ。
紗季は速い。
かなたが見るべき相手だ。
競技者として正しい。
そう理屈を並べても、胸のざらつきは消えなかった。
灯里は掲示板の紙へ目を戻す。
日野かなた。
地区大会。
この子は、自分が逃げた場所へ行く。
地区大会が近づくにつれ、かなたのタイムは十三秒一台に入った。
練習での手動計測だから、正式な記録ではない。風もある。条件も違う。あてにはならない。
それでも、数字は数字だった。
十三秒一八。
灯里はストップウォッチを見て、声を出せなかった。
かなたがゴールの先から戻ってくる。
「今の、どうでしたか」
灯里は数字を見る。
中学の自分に、さらに近づいた。
「悪くない」
「どこが悪かったですか」
「最後、左脚が少し流れた」
「はい」
「でも、全体は良かった」
かなたは灯里を見る。
もっと聞きたがっている目だった。
灯里は迷った。
疲労はある。
左脚の流れも気になる。
ここで終わるべきだ。
でも、今の一本は良かった。
もう一本、同じ感覚で走れば、もっと何か掴めるかもしれない。
十三秒一台。
十二秒台。
自分が届かなかった場所。
灯里は口を開いた。
「もう一本」
言ってしまった。
かなたの目が強くなる。
「はい」
すぐにスタート地点へ戻っていく。
灯里はその背中を見ながら、喉の奥が乾くのを感じた。
かなたが構え、合図とほぼ同時に走り出す。
一歩目は良い。
二歩目も悪くない。
三十メートルまで滑らか。
けれど四十を過ぎたあたりで、左脚の返りがわずかに遅れた。
五十。
流れた。
灯里の背中に冷たいものが走る。
「やめ!」
声が出た。
かなたは減速した。
大きく崩れたわけではない。転んでもいない。足を引きずるほどでもない。
けれど、左のハムストリングスに手を当てていた。
灯里は駆け寄った。
「痛い?」
「張っただけです」
「痛いか聞いてる」
「……少し」
灯里は息を飲んだ。
榊がすぐに来た。
「日野、座って」
かなたが頷く。
榊は状態を確認し、無理に歩かせず、アイシングを指示した。大きな怪我ではない。軽い張り。大会に絶望的なものではない。
それでも、灯里の手は冷たくなっていた。
榊が灯里を見る。
「最後の一本、あなたが指示した?」
灯里は答えられなかった。
沈黙が答えだった。
「必要だった?」
必要。
その言葉が、胸の内側で跳ね返る。
灯里は唇を噛んだ。
「……必要じゃ、なかったです」
榊は怒鳴らなかった。
それが余計にきつかった。
「見る目があることと、選手を見られることは違う」
灯里は顔を上げられなかった。
「日野はあなたを信じている。だからこそ、あなたが判断を間違えると危ない」
「はい」
「信頼されることに酔わないで」
その言葉は、まっすぐ灯里に入った。
酔っていない。
そう言えなかった。
帰り道、かなたは灯里の隣を歩いていた。
大きな怪我ではなかったので、歩くことはできた。ただ、榊からは明日の練習を休むように言われている。
かなたはいつもより静かだった。
灯里も話せなかった。
夕方の道に、二人の足音だけが落ちる。
「最後」
かなたが言った。
灯里は横を見た。
「崩れました」
「うん」
「すみません」
その言葉に、灯里は立ち止まった。
かなたも止まる。
「謝らないで」
声が思ったより強くなった。
「私が判断間違えただけ」
かなたは灯里を見ていた。
「でも、走ったのは私です」
「走らせたのは私」
「先輩が走れと言ったから、走ったわけでは」
灯里は遮った。
「走ったでしょ」
かなたは黙った。
「私が言えば、日野さんは走る」
「……はい」
「だから、私が止めなきゃいけなかった」
言っていて、胸が痛かった。
自分の言葉が、かなたを動かす。
そのことを嬉しいと思っていた。
特別だと思っていた。
自分の目がほしいと言われて、甘さを感じていた。
その結果が、これだった。
「明日は休み」
灯里は言った。
「榊先生にも言われました」
「私からも言う。休み」
「走らないんですか」
「走らない」
「確認は」
「休むことを確認する」
かなたは目を瞬かせた。
「走るために休む」
灯里は続けた。
「大会に出るために。今日の分を取り返すためじゃなくて、ちゃんと走るために」
かなたはしばらく黙っていた。
それから言った。
「休んでるかどうか、見てくれますか」
灯里は呆れた。
呆れて、少し笑いそうになった。
「何それ」
「自分だと、走りたくなるので」
「最低」
「はい」
「褒めてない」
「分かります」
灯里は息を吐いた。
「見るよ」
かなたが顔を上げる。
灯里は視線を逸らさなかった。
「走ってないところも、見る」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
かなたは何も言わなかった。
ただ、目元がわずかに緩んだように見えた。
翌日、かなたは本当に走らなかった。
グラウンドの端でストレッチをし、補強も軽めにし、スパイクは履かなかった。何度か白線の方を見たが、走らなかった。
灯里は、そのたびに見ていた。
走っているかなたより、走らないでいるかなたの方が危うく見える。
白線に引っ張られながら、踏みとどまっている。
真剣は、走ることだけではない。
止まることも、休むことも、たぶん真剣の一部なのだ。
そう思えたのは、榊が止めてくれたからで、まどかが帰り際に「顔、死んでるよ」と声をかけてくれたからで、灯里一人では危なかったからだ。
その事実は痛かった。
♦
地区大会三日前、かなたは通常メニューに戻った。
軽めの刺激入れ。
スタート確認を二本。三十メートルまで。
最後に七割の流しを一本。
左脚に大きな問題はなかった。
榊が頷き、紗季が「よかったね」と笑い、まどかが「無茶したら足引っかけるから」と言った。
かなたは小さく頭を下げた。
そのあと、灯里のところへ来た。
「大会の日も、見てくれますか」
灯里はクリップボードを持ったまま、かなたを見た。
「私でいいの」
「先輩がいいです」
即答だった。
灯里の胸の奥が、また甘くなる。
その甘さを、今度はそのまま飲み込まなかった。
「私のためじゃなくて?」
かなたは少しだけ首を傾げた。
灯里は言った。
「日野さんの百メートルとして、見る。私の昔とか、私の記録とか、そういうのを混ぜないで」
かなたは黙っていた。
意味がどこまで届いたのか、灯里には分からない。
それでも、言っておかなければならない気がした。
「遅くても、崩れても、最後まで見る」
かなたの指が、ノートの角を押さえる。
「最後まで?」
「最後まで」
「負けても?」
「負けても」
「全部出して、負けても?」
灯里の喉が詰まった。
その問いは、灯里自身に向けられているようだった。
中学最後の大会。
出遅れた自分。
全部出して負けることから逃げた自分。
灯里は息を吸った。
「見る」
声は小さかった。
でも、逃げなかった。
「全部出して負けても、見る」
かなたは頷いた。
「お願いします」
灯里は頷き返した。
その約束が、どれくらい重いのか。たぶん、まだ分かっていなかった。
その夜、灯里はクローゼットの奥の箱を開けた。
しばらく触っていなかった箱だった。
古いスパイク。記録証。捨てられなかった練習ノート。
灯里はまず、スパイクを取り出した。
靴底は硬くなっていた。ピンも古い。もうまともに使う気にはなれない。それでも手に持つと、指が覚えている。
白線の前に立つ感覚。
ブロックに足をかける感覚。
用意で腰を上げる瞬間。
ピストルの音。
動かなかった身体。
灯里はスパイクを置いた。
次に、記録証を出す。
女子百メートル。
岸本灯里。
十三秒〇五。
紙は少し曲がっていた。
十三秒〇五。
十二秒台まで、あと少しだった自分。
そこから逃げた自分。
かなたの十三秒二九が、その数字の近くまで来ている。
灯里は記録証を見つめた。
この子は、自分が逃げた場所へ行く。
今度は、打ち消すのに時間がかかった。
かなたはかなた。
灯里ではない。
分かっている。
分かっているのに、かなたの百メートルを見ることで、自分が救われようとしているのではないか。
灯里は古いスパイクを箱へ戻そうとした。
戻せなかった。
手の中のスパイクは軽かった。
軽いのに、ひどく重かった。
灯里は箱の前に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
地区大会まで、あと三日。
かなたは走る。
灯里は見なければならない。自分のためではなく、かなたのために。
そう決めたはずなのに、白線の向こうに、自分の過去がまだ立っていた。