パルデア地方の朝は早い。
東の海から昇った陽光が山々の尾根をゆっくりと照らし始める頃には、オレンジアカデミーの広い中庭にも既に多くの生徒たちが集まり、それぞれの相棒となるポケモンと肩を並べながら、今日もまた始まる一日に胸を躍らせていた。
それは、五年前の『大穴事件』を乗り越えたこの地方では、ごく当たり前の光景だった。
かつて人々が恐れ、決して近付こうとはしなかったパルデアの大穴は、今では厳重な管理の下で研究施設として整備され、テラスタルエネルギーの応用技術は生活のあらゆる場面へと浸透し、かつて「伝説」と呼ばれていた現象は、少しずつではあるものの、科学として理解され始めていた。
もちろん、まだ分からないことの方が多い。
だが、人は未知を恐れるだけでは終わらない。
理解しようとする。
それが、人間という生き物なのだ。
「……レイ!」
背後から聞き慣れた声に振り返ると、こちらへ大きく手を振りながら友人が駆け寄ってくるのが見え、レイは肩に乗っていたニャローテを軽く支えながら、小さく笑みを浮かべた。
「また考え事?」
「そんな顔してたか?」
「してたしてた。授業始まる前くらい、もっと気楽にしてればいいのに」
そう言われても、自分ではあまり自覚がない。
昔からそうだった。
誰かに言われるまで、自分が物思いに耽っていることに気付かない。
だからこそ、今もまた、視線は無意識のうちに遠く、大穴のある方角へ向いていた。
あの巨大な穴の底では、今も世界中の研究者たちが調査を続けている。
古代。
未来。
テラスタル。
楽園防衛プログラム。
人類がまだ知らない何か。
ニュースでは毎日のように新しい発見が報じられ、その度に世界は少しずつ姿を変えていく。
だが、その変化が本当に正しい方向へ向かっているのか、それを断言できる人間は誰もいなかった。
午前中の講義は、テラスタルエネルギーの応用についてだった。
教壇に立つ教師は近年発見された結晶構造について熱心に説明していたが、レイの耳には半分ほどしか入ってこない。
窓の外。
青く澄み切った空。
その向こうに浮かぶ白い雲。
平和だ。
少なくとも、この瞬間だけを見れば。
だからこそ、不意に胸を過った小さな違和感が気になった。
――静かすぎる。
理由は分からない。
何かが起きる。
そんな予感だけが、朝からずっと胸の奥に引っ掛かって離れない。
授業を終え、放課後。
ニャローテを連れて帰路についたレイは、街外れの緩やかな丘へ差しかかったところで足を止めた。
「……なんだ?」
ニャローテも耳を立て、小さく鳴く。
草むらの奥で、何かが光っていた。
夕暮れの陽射しを反射しているだけではない。
自ら淡く輝いている。
レイは慎重に草を掻き分け、それを拾い上げる。
掌に収まるほどの、小さな石。
七色にも見える不思議な輝き。
どこかで見たことがある。
いや、映像資料で見た。
図鑑で見た。
だが、この地方では存在するはずがない。
「……これって」
メガストーン。
カロス地方やホウエン地方でのみ確認されている、メガシンカを引き起こす特殊な石。
パルデアでは確認例すらない。
そんなものが、どうしてこんな場所に落ちている。
その瞬間だった。
――ピシッ。
空のどこかで、ガラスに細い亀裂が走るような音がした。
レイは反射的に顔を上げる。
青空には何もない。
鳥が飛び。
雲が流れ。
穏やかな夕焼けが広がっているだけ。
だが。
ほんの一瞬だけ。
空の彼方で、紫色の結晶が脈打つように明滅した気がした。
次の瞬間には、それも消えていた。
「……見間違い、か」
そう呟いても、胸のざわめきは消えない。
ニャローテもまた、低く唸りながら空を見つめ続けていた。
それは誰にも知られない、小さな異変だった。
けれど、その日を境に、世界は静かに軋み始めることになる。
まだ誰も、そのことを知らなかった。