ミアレシティで観測された異常についての説明を聞いてから、レイはこれまで以上に、自分の身の回りで起きている出来事を『パルデアの異変』とだけ捉えることが出来なくなっていた。
大穴から伸びた紫色の光も、身体を結晶に覆われた野生ポケモンも、空へ重なって見えた見知らぬ世界も、自分が拾ったメガストーンに似た石も、そのすべてが同じ根から伸びているのだとすれば、地図の上に引かれた地方という境界など、今起きている現象にとっては何の意味もないのかもしれない。
そして何より、昨夜見たあの島が気になっていた。
青い海。
白い砂浜。
見慣れない植物。
そして、浜辺へ倒れていた赤い帽子の少年。
あれまでが、どこか別の場所で本当に起きた出来事なのだとしたら。
彼は誰なのか。
なぜ自分は、彼を何度も見るのか。
「……分からないことばっかりだな」
アカデミーの廊下を歩きながら呟くと、隣を歩いていたニャローテが小さく鳴き、慰めるというより、いまさら何を言っているのかとでも言いたげにレイを見上げた。
「そういう顔するなよ。俺だって分かってる」
最近は独り言が増えた気がする。
もっとも、ニャローテが傍にいる以上、完全な独り言とは言えないのかもしれない。
午前中の授業は相変わらず一部が休講となっていて、外へ出る実習もすべて延期されているため、以前なら騒がしかった校舎にもどこか落ち着かない静けさが漂っている。
異常現象そのものは継続していた。
昨日も西部で野生ポケモンの結晶化が確認され、一時的に街道が閉鎖されたという。
幸い、負傷者はいない。
だが、それを喜んでよいのかは分からない。
被害が出るまで危険ではないと言い続けることが正しいとも思えなかった。
そんなことを考えながら階段を上っていると、端末が短く震えた。
アカデミーからの呼び出しだった。
——本日十二時三十分。
——第一会議室へ来るように。
理由は書かれていない。
「……またか」
最近、呼び出されてばかりだ。
普通の学生生活から、少しずつ遠ざかっている気がする。
◇◇◇
指定された第一会議室へ入った瞬間、レイは自分が思っていたよりも随分と大きな話へ巻き込まれつつあることを理解した。
アクロマがいた。
それだけなら、まだ予想の範囲内だった。
だが、そのほかにもアカデミーの教員や研究者が数名おり、中央に設置された大型モニターには、見覚えのない男性の姿が映し出されている。
柔和そうな表情。
明るい髪。
研究者というより、どこか人好きのする教師のような雰囲気を持つ人物だった。
「おや、君がレイ君かな?」
部屋へ入ってきたレイを見るなり、画面の向こうの男は興味深そうに顔を近付ける。
「はい」
「なるほどなるほど。思っていたより普通だね」
「……どういう意味ですか」
「ああ、悪い意味じゃないよ。アクロマ博士から随分と面白い話を聞いていたから、もっとこう、見るからに不思議な雰囲気の子が来るのかと思ってね」
レイは反射的にアクロマを見る。
彼は何も悪びれる様子がない。
「俺のことを話したんですか」
「必要な範囲で」
「どこまでが必要な範囲なんです」
「判断するのは私です」
「でしょうね」
もう、この男にいちいち腹を立てても仕方ないような気がしてきた。
モニターの男が楽しそうに笑う。
「いやあ、いいね。アクロマ博士にそこまで普通に言い返せる人はなかなかいないよ」
「それで、あなたは?」
「ああ、そうだったね。自己紹介がまだだった」
男は姿勢を正す。
「僕はシアノ。イッシュ地方にあるブルーベリー学園で校長をしている」
「ブルーベリー学園……」
名前は知っている。
パルデアから遠く離れたイッシュ地方の海域に建設された学園で、巨大な海中施設の内部へ複数の環境を再現し、世界各地のポケモンを研究しながら育成していることで有名だった。
アカデミーにも留学制度があり、実際にブルーベリー学園へ渡った生徒も少なくない。
「どうして、その校長先生が俺を?」
「それについては、私から説明しましょう」
アクロマが端末を操作する。
モニターの一部へ、新しい映像が表示された。
海。
いや。
巨大なガラスのような天井越しに見える海だった。
その下には人工的に整備された大地が広がり、森や岩場、水辺が一つの巨大空間へ収められている。
ブルーベリー学園のテラリウムドーム。
映像の中央で、何人もの研究員が何かを調べていた。
「二日前、ブルーベリー学園でも異常なエネルギー変動が確認されました」
アクロマが言う。
「パルデアと同じものですか」
「完全には一致していません」
「またそれですか」
「科学とは、似ているものを同じだと決め付けない学問なのですよ」
言いたいことは分かるが、少しくらい分かりやすく説明してほしい。
映像が拡大される。
研究員たちが囲んでいたもの。
地面から伸びる、小さな結晶だった。
紫色。
レイは思わず身を乗り出す。
「これ……」
「見覚えがありますね」
「あのガケガニと同じ……?」
「成分は違います」
「でも似てる」
「ええ」
アクロマは頷く。
「そして、ブルーベリー学園で検出された波形には、パルデアのテラスタルエネルギーだけでは説明できない特徴が含まれていました」
画面へ複数の線が表示される。
レイには何を示しているのか全く分からない。
しかし、そのうち一本を見ながら、シアノの表情が少しだけ真剣なものへ変わった。
「問題は、この部分だね」
「分かるんですか?」
「僕だって校長になる前は研究者だからね」
軽い口調だったが、視線は画面から離れない。
「この波形、以前ミアレシティから提供された資料とかなり近い」
「ミアレ……」
昨日聞いた名前。
暴走メガシンカ。
異次元ミアレ。
「つまり、カロスとブルーベリー学園でも同じことが?」
「そこまで単純なら良かったのですが」
アクロマが言葉を継ぐ。
「もう一つ、奇妙な点があります」
別のデータ。
「異常発生時、ブルーベリー学園の観測装置が、イッシュ地方には存在しないはずのエネルギー源を一瞬だけ捉えています」
「どこから?」
「分かりません」
「……そればっかりですね」
「だから調査をしているのです」
もっともだった。
レイは黙る。
シアノはそんな二人のやり取りを面白そうに眺めた後、ゆっくりと口を開いた。
「そこで、こっちから一つ提案があるんだ」
「提案?」
「レイ君。ブルーベリー学園へ来てみないかい?」
あまりにも突然の話で、意味を理解するまで数秒かかった。
「……俺が?」
「もちろん強制じゃないよ。ただ、君が持っている石と、こちらで確認された結晶を同じ環境で調べてみたい」
「俺は研究者じゃありません」
「知ってるよ」
シアノは笑う。
「君に研究をしてほしいわけじゃない。正確には、君とその石が同じ場所に存在した時、何が起こるのかを確認したいんだ」
言い方を変えただけで、実験台と言われている気がする。
レイがアクロマを見る。
「あなたも行くんですか」
「その予定です」
「だったら、最初から決まってたんじゃないですか」
「君が断れば別の方法を考えます」
嘘ではないだろう。
だが、レイが断らないことも見透かされている気がした。
昨日、アクロマは言った。
動くのであれば、まず知りなさい、と。
そして今、自分が知らないものを知るための道が提示されている。
パルデアを離れる。
今までほとんど考えたこともなかった。
生まれてからずっと、この地方で暮らしてきた。
ニュースや映像で他地方を見たことはあっても、そこはどこか遠い世界のように感じていた。
だが。
もしかすると今、その遠い世界で起きていることと、自分の身の回りで起きている異変が繋がろうとしている。
「……行きます」
答えるまで、それほど時間は掛からなかった。
シアノの表情が明るくなる。
「よし、決まりだね」
「ただ、一つ聞いていいですか」
「もちろん」
「どうしてブルーベリー学園なんです?」
「どうして、とは?」
「ミアレでも同じようなことが起きているなら、カロスへ行った方が早いんじゃないですか」
シアノが少し黙る。
代わりに答えたのはアクロマだった。
「ブルーベリー学園には、世界各地から人と資料が集まります」
「資料?」
「ホウエン、カロス、アローラ、ガラル。もちろんパルデアも」
地方の名前が並ぶ。
「そして、過去に似た現象が起きていないかを調べるには、一つの地方だけを見るより都合が良い」
なるほど、と頷きかけて。
ふと。
レイの頭の中で、昨夜の景色が蘇った。
南国の島。
赤い帽子。
「アローラ……」
無意識に声が漏れる。
アクロマの視線が動いた。
「何か?」
「いえ」
まだ断言できない。
あの島がアローラだという証拠などない。
ただ。
名前を聞いた瞬間、不思議なくらい昨夜の映像と重なっただけだった。
「出発はいつですか」
「早い方がいいね」
シアノが答える。
「準備が整い次第、こちらから迎えを出すよ」
「迎え?」
「海の底にある学園だからね。歩いて来るのはちょっと難しい」
楽しそうに笑っている。
レイはまだ見ぬブルーベリー学園を想像しようとしたが、どうしても上手くいかなかった。
海の底にある学園。
各地方から集まった学生。
パルデアにはない資料。
そして。
もしかすると、自分が見続けているあの少年へ繋がる何か。
会議が終わり、レイが部屋を出ようとした時だった。
「レイ君」
アクロマに呼び止められる。
「何ですか」
「石は必ず持ってきてください」
「言われなくてもそのつもりです」
「それと」
僅かな間。
「昨夜見た少年について、今は他の人には話さない方がいいでしょう」
レイは足を止める。
「どうしてです」
「確証がありません」
「それだけ?」
「それだけで十分です」
アクロマはいつもの調子で答えた。
だが。
レイには分かってしまった。
彼は何かを知っている。
少なくとも、赤い帽子の少年という情報を聞いた瞬間から、態度が僅かに変わっている。
「博士」
「はい」
「あなた、あの人が誰なのか知ってるんじゃないですか」
アクロマは答えなかった。
沈黙。
数秒。
そして。
「知っている、と言えば嘘になります」
静かな声だった。
「ですが」
眼鏡の奥の瞳が、レイを真っ直ぐに見る。
「心当たりはあります」
「誰ですか」
「まだ話せません」
「またそれですか」
「ええ。またです」
まったく悪びれない。
レイは小さく溜息を吐くと、今度こそ部屋を出る。
扉が閉じる。
廊下へ出てしばらく歩いたところで、鞄の中から微かな振動が伝わった。
立ち止まる。
石だった。
布越しでも分かる。
一度。
二度。
鼓動のように震えた。
◇◇◇
そして、遠く離れたイッシュ地方。
ブルーベリー学園の海中研究区画で、誰も触れていない観測装置がひとりでに起動した。
暗い画面へ無数の文字列が流れ、やがて、一つの単語だけを残して停止する。
それは地方名でも、座標でもなかった。
ただ、一人の人間の名前だった。
——ユウキ。