ブルーベリー学園へ向かうことが決まってから、レイの日常は、それまでとは違った意味で慌ただしくなった。
国外へ出るための手続きはアカデミーとブルーベリー学園がほとんど済ませてくれたものの、だからといって本人が何も準備しなくていいわけではなく、着替えや日用品を鞄へ詰め、ニャローテのフードや回復用品を確認し、旅先でも困らないよう端末へ必要なデータを移しているうちに、気付けば机の上には持っていくものと置いていくものが入り乱れ、どこから手を付ければいいのか分からない有様になっていた。
「……旅行って、もっと楽しいものだと思ってた」
床に座ったまま呟くと、ベッドの上からこちらを眺めていたニャローテが小さく鳴いた。
「お前はいいよな。自分の荷物、ほとんど俺が持つんだから」
抗議するように尻尾を揺らす相棒を見て少しだけ笑った後、レイは机の隅へ置いていた布包みへ目を向けた。
あの石だけは荷物の奥へしまう気になれず、ブルーベリー学園へ必ず持ってくるようアクロマから念を押されていることもあって、結局は制服の内側にある小さなポケットへ収めることにした。
昨夜、廊下で感じた二度の脈動を最後に、石は再び普通の鉱石のように沈黙しており、その反応が何を意味していたのかは今も分からないものの、自分の知らないところで何かがこちらへ近付いているような感覚だけが、胸の奥へ薄く残り続けていた。
準備を終えたのは、日付が変わる少し前だった。
ベッドへ横になってからもなかなか眠れず、レイは暗い天井を見上げながら、まだ一度も訪れたことのないイッシュ地方と、そこにあるブルーベリー学園について考えていた。
パルデアとは違う土地には違うポケモンや文化があり、世界各地から人間が集まるブルーベリー学園には、自分の知らない知識や記録も数多く残されているという。
そこへ行けば、自分が見ているものの正体も、この石の秘密も、何度となく幻視の中へ現れる赤い帽子の少年についても、今より少しくらいは輪郭を掴めるのだろうか。
そして何より気になるのは、アクロマが心当たりがあると言った人物だった。
あの男は全部ではないにしても、自分よりずっと多くのことを知っていて、それを意図的に小出しにしているように見えるため、腹立たしく感じることもある。
けれど、嘘を吐いているようには思えず、説明できないものを分かったように語らないことこそが、あの研究者なりの誠実さなのかもしれなかった。
「……俺が見つければいいだけか」
誰に聞かせるでもなく呟き、今度こそ目を閉じると、枕元ではニャローテが既に丸くなり、規則正しい寝息を立てていた。
翌朝、レイがアカデミーの正門前へ到着すると、アクロマは既に待っていた。
彼の足元に置かれている荷物は小型のケース一つだけで、レイが背負っている旅行鞄と比べれば、これから遠く離れた地方へ向かうのではなく、近所へ散歩にでも出掛けるような軽装だった。
「それだけですか」
「研究に必要な機材は先に送っています」
「着替えとかは?」
「ありますよ」
「その中に?」
「人間は、君が思っているほど大量の衣服を必要としません」
「そういう問題かな……」
アクロマは気にせず歩き始め、レイもその後を追って迎えの車両へ乗り込んだ。
早朝のテーブルシティを抜けて郊外へ出ると、窓の外を流れていた建物は次第に少なくなり、代わって緩やかな丘陵と草原が視界を占めるようになった。遠ざかっていくアカデミーの巨大な校舎を振り返りながら、レイはこれまで何度も眺めてきた景色が、今日に限って妙に名残惜しく感じられることへ気付いていた。
ここへ戻ってくる頃には、少しでも答えを手にしているのだろうか。それとも、今よりもっと分からないことを抱え込んで帰ってくることになるのだろうか。
「緊張していますか」
隣から突然訊かれ、レイは窓の外へ向けていた視線を戻した。
「少し」
「初めてのイッシュですか」
「パルデアから出ること自体、ほとんど初めてです」
「それは良い」
「何がです?」
「知らない場所を見ることは、思考の前提を壊してくれます」
アクロマは窓の外へ目を向けたまま、研究者にとって自分が当然だと思っているものほど厄介な障害はなく、ポケモンとはこういうものだ、世界とはこういうものだ、人間とはこういうものだと決めてしまえば、その外側に存在する可能性は見えなくなるのだと、普段と変わらない淡々とした調子で続けた。
「だから世界はひとつじゃない、って話になるんですか」
「さて、どうでしょう」
「そこは答えないんですね」
「まだ証明できていませんから」
レイは苦笑しながら、この男との話し方が少しずつ分かってきたような気がしていた。
やがて車両はパルデア地方の空の玄関口へ到着し、二人は手続きを済ませて、イッシュ地方へ向かう長距離便へ乗り込んだ。
レイにとって、ポケモンの力を借りずにこれほど高い場所まで昇る経験はほとんどなく、離陸直後には座席へ身体を押し付けられる感覚に思わず肘掛けを掴んだものの、隣に座ったアクロマは慣れているのか、早々に端末を開いてミアレシティから届いたらしい資料へ目を通し始めていた。
窓際へ座ったニャローテは最初こそ低く唸っていたが、機体が雲を抜ける頃には態度が一変し、窓へ鼻先を近付けて眼下へ広がる景色を飽きることなく眺めている。
「お前、さっきまで怖がってたじゃないか」
ニャローテは振り返ると、そんな事実はなかったと言わんばかりに澄ました顔をした。
「調子いいなあ」
窓の向こうでは、見慣れたパルデアの大地が少しずつ小さくなり、山も街も、遠くに霞む大穴さえも、上空から見れば地図へ描かれた模様のように見えていた。
あれほど大きな異変が起きたというのに、大穴の上空には紫色の亀裂らしいものは見えず、今はただ雲の影が静かに流れているだけで、その穏やかさがかえって不気味に思える。
レイは無意識に胸元へ触れたが、石は沈黙したままだった。
「博士」
「はい」
「昨日のミアレの話なんですけど」
端末を操作していたアクロマの指が止まる。
「何でしょう」
「昔も似たようなことが起きたって言ってましたよね。だったら、その時の原因を調べれば、今回のことも分かるんじゃないですか」
「そう単純ではありません」
「やっぱり?」
「ミアレシティで確認された空間異常と、パルデアで現在観測されている現象には共通点があります。しかし、同一のものと断定するには差異が多すぎる。加えて、当時の現象にはメガエネルギーが強く関与していましたが、今回はそこへテラスタルエネルギーまで混在している」
アクロマは端末を閉じると、窓の向こうへ広がる雲海へ視線を向けた。
「むしろ私が興味を持っているのは、なぜ本来異なるはずの現象が似始めているのか、という点です」
「メガシンカとテラスタルが?」
「それだけなら、まだ話は簡単なのですがね」
「……他にもあるんですか」
「あるかもしれない、という段階です」
やはり、それ以上は教えてくれない。
レイが諦めて背もたれへ身体を預けると、窓の外からはパルデアの陸地も既に消え、どこまでも続く雲と、その遥か下に覗く海だけが広がっていた。
それからの飛行は長く、途中で簡単な機内食を取り、ニャローテが初めて見る菓子へ興味を示すのを宥め、眠ったり目を覚ましたりしているうちに窓から差し込む光の角度まで変わり、ようやく着陸態勢へ入った頃には、長時間座り続けた疲労が身体のあちこちへ残っていた。
雲の下へ降りていくと、やがて海岸線が見え、その向こうにはパルデアとは明らかに異なる都市の姿が広がっていく。
整然と伸びる道路の周囲には大小様々な建物が密集し、遠方にはさらに巨大な市街地が霞んで見える一方、その間には森や河川も残されていて、人の営みとポケモンたちの暮らす自然が複雑に入り交じっていた。
「……イッシュ」
思わず、その地方の名前が口から漏れた。
地図でも映像でも何度も見たことがある場所ではあったが、実際に自分の目で見下ろす景色には、画面越しでは感じられなかった確かな重さがあった。
着陸後、空港へ降り立つと、まず空気そのものが違うように感じられた。
もちろん、本当に成分が大きく異なるわけではないのだろうが、飛び交う言葉や案内表示の意匠、行き交う人々が連れているポケモンまでパルデアとは少しずつ違っていて、それらすべてが重なることで、遠くまで来たのだという実感を否応なくレイへ与えていた。
空港のロビーでは、見覚えのないポケモンを見つけるたびにニャローテが足を止めるため、その都度レイが呼び戻す羽目になる。
「おい、勝手に行くなって。まだ目的地じゃないんだから」
ニャローテは少し不満そうに戻ってくる。
「興味深いですか」
前を歩いていたアクロマが振り返る。
「俺よりニャローテの方が旅行を楽しんでる気がします」
「それで良いのではありませんか。未知のものへ興味を示すのは、生物として健全な反応です」
「博士に言われると、全部研究対象みたいに聞こえるんですけど」
「気のせいでしょう」
絶対に気のせいではないと思ったものの、レイはそれ以上追及せず、再び歩き出した。
空港からさらに車両で移動すると、巨大な都市の景観は徐々に遠ざかり、窓の向こうには再び海が広がり始めた。
そこでようやく、レイはブルーベリー学園が単に『イッシュ地方にある学園』ではないことを実感する。
「ここから、まだ移動するんですか?」
「ええ。ブルーベリー学園はイッシュ近海にありますから」
「てっきり、街の中にあるのかと」
「海中にあると説明したはずですが」
「聞きましたけど、実際に来るまで実感がなくて」
港には学園の紋章が入った専用の連絡船が停泊しており、一般の旅客船とは違って、学生や研究者らしい乗客の姿が多かった。
荷物を預けて乗船すると、船はほどなく港を離れ、イッシュの陸地が少しずつ後方へ遠ざかっていく。
朝にはパルデアにいたというのに、空を越えてイッシュへ降り立ち、そこからさらに海へ出ているという事実が、レイにはどこか現実離れして感じられた。
ほんの一日前まで自室で荷造りに苦戦していたことさえ、随分と昔の出来事のように思える。
潮風には少し冷たさがあり、長時間の移動でぼんやりしていた頭を醒ましてくれた。
海の色はパルデアで見慣れたものと大きく違うわけではなかったが、水平線の向こうに自分の知らない土地が続き、そのさらに先にも別の地方や別の暮らしがあるのだと思うと、同じ景色さえ少し違って見える。
ニャローテも初めて見る海上からの風景が気になるのか、甲板の手摺へ前足を掛け、潮風を受けながら忙しなく耳を動かしていた。
「落ちるなよ」
声を掛けると、そんな失敗をするものかと言いたげに振り返ったため、レイは笑いながらも、その身体を念のため片腕で支えた。
しばらくすると船が速度を落とし始めたものの、周囲を見渡しても島らしいものはなく、港はおろか、目的地らしい建造物すら見当たらない。
「もう着くんですか?」
「ええ」
「でも、何もないですよ」
「下です」
「下?」
アクロマが海面を指差し、レイが手摺から身を乗り出すように覗き込んだ直後、青黒い海の奥で幾つもの光が順番に灯り始め、それまで海そのものに隠されていた巨大な構造物の輪郭が、深海から浮かび上がってくるかのように姿を現した。
「……なんだ、これ」
実際に施設が浮上しているわけではなく、船が所定の位置へ近付いたことで海中に設置された照明が順番に点灯したのだと分かっても、その光景が与える衝撃は変わらない。
暗い海の底へ広がる巨大な円形施設は、レイが想像していた学園とはあまりにも違っており、校舎というより一つの都市、あるいは海底へ作られた巨大な研究基地と呼んだ方がしっくりくるほどだった。
「ようこそ、ブルーベリー学園へ」
いつの間にか隣へ来ていたアクロマが言う。
「ここが……」
朝、パルデアのアカデミーを出発した時には、自分がどれほど遠くへ向かうのか実感できていなかった。
しかし、故郷の大地を離れ、長い空路を越えてイッシュの地を踏み、さらに海へ出た末にようやく辿り着いた巨大な海中施設を目の当たりにすると、本当にパルデアの外へ来たのだという事実が、今さらになって強く胸へ迫ってきた。
そして、この先には、自分がこれまで知らなかったものが待っている。
船は海上施設へ接岸し、そこから専用エレベーターへ乗り換えた。
下降が始まると、透明な壁の向こうを魚ポケモンの群れが横切り、太陽の光が少しずつ遠ざかっていく中、ニャローテは最初こそ興味深そうに外を眺めていたが、巨大な魚影が目の前を横切った瞬間にはさすがに驚いたらしく、レイの足元へ素早く戻ってきた。
「怖いのか?」
小さく威嚇される。
「悪かったって」
さらに下降したところでエレベーターが停止し、扉が開いた先には、海底にいるとは思えないほど明るく開放的な空間が広がっていた。
高い天井の下を大勢の学生たちが行き交い、世界各地から集まった者たちの制服が入り交じる中、その傍らを見慣れたものから初めて見るものまで、様々なポケモンが当たり前のように歩いている。
「すごい……」
レイが思わず呟いたところで、人混みの向こうから聞き覚えのある声が飛んできた。
「やあ、待ってたよ!」
大きく手を振りながら近付いてきたシアノは、通信越しで見た時と変わらず、校長という肩書きから想像するよりもずっと気さくな雰囲気を纏っている。
「長旅お疲れさま、レイ君。それにニャローテも」
「よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくていいよ。ここでは君も学生なんだから」
「学生?」
「せっかく来たんだ。ただ研究室に閉じ込められて観察されるだけじゃつまらないだろう?」
「俺、観察される予定だったんですか」
「言葉の綾だよ」
レイが横を見ると、アクロマは何も言わず、シアノの言葉を否定する様子もなかった。
「……本当に?」
「さあ、まずは中を案内しよう。研究の話はその後だ」
シアノに促され、レイたちは学園の奥へ進んでいく。
途中ですれ違う学生たちの会話には聞き慣れない地方名やポケモンの名前が混ざっており、ほんの数分歩いただけでも、ここがパルデアとは全く違う場所なのだと思い知らされる。
やがて巨大な扉が開き、その先へ広がっていた景色を目にした瞬間、レイは思わず足を止めた。
海底にいるはずなのに、頭上には青い空と白い雲が広がり、その下には緑の草原がどこまでも続き、遠方には岩山まで霞んで見えている。
「テラリウムドームだよ」
シアノが少し誇らしげに言う。
「四つの異なる環境を人工的に再現している。世界各地から来たポケモンたちが、出来るだけ自然に近い状態で暮らせるようにね」
ニャローテがレイの横から飛び出し、初めて見る景色へ目を輝かせた、その時だった。
服の内側へしまっていた石が突然震え、レイは反射的に胸元へ手を当てる。
「……っ」
一度、二度、そして三度と規則的に続く脈動は、これまでの反応とは明らかに異なり、まるでこの場所のどこかに存在する何かへ近付いていることを知らせているようだった。
「レイ君?」
シアノが振り返る。
「石が……」
言い終わる前に学園中へ警告音が響き、学生たちが一斉に足を止めると、それまで朗らかだったシアノの表情から笑みが消えた。
「この警報……研究区画だ」
アクロマは既に端末を取り出しており、画面を確認した彼の目が僅かに見開かれる。
「どうしたんですか」
「昨日採取された結晶が反応しています」
「俺の石に?」
「それだけではありません」
アクロマが画面をレイへ向ける。
そこに並んだ複雑な波形や数字の意味は分からなかったが、その下に表示された文字だけは読むことができた。
――二次観測対象を検出。
「二次……?」
レイが呟いた瞬間、石が強く脈打ち、視界からテラリウムドームの草原が掻き消えた。
代わりに現れたのは、激しい雨に煙る巨大な都市だった。
空へ伸びる高層ビルの間を雨水が白い幕のように落ち、濡れた道路には街の光が滲んでいる。その中央を、これまで何度も幻視の中で目にしてきた赤い帽子の少年が、誰かを追い掛けるように懸命に走っていた。
だが、今度は少年一人ではなく、その少し前方には長いコートを羽織った男がいて、雨を切るように走りながら一度だけ後方へ顔を向けた。
その輪郭が見えそうになった瞬間、街全体が大きく歪み、建物も道路も降りしきる雨さえも別の景色と重なるように揺らいだかと思うと、男の低い声だけが、その崩れかけた世界の中で妙にはっきりと響いた。
――まだ追ってくるのか。
直後、映像は唐突に途切れた。
「……っ!」
急激に現実へ引き戻されたレイは平衡感覚を失ってよろめき、その場へ片膝をついたが、すぐにニャローテが駆け寄って身体を支えるように寄り添ってくる。
「大丈夫……ちょっと、目眩がしただけだから」
呼吸を整えながら顔を上げると、シアノが心配そうにこちらを見ていた一方で、アクロマだけは明らかに異なる反応を示していた。
「何を見ましたか」
「また……あの人です」
「帽子の少年?」
「はい。でも、今度は別の人もいました」
「特徴は?」
「男です。長いコートを着ていて、雨の中をあの少年に追われていました」
そこまで説明したところで、アクロマの表情が僅かに強張ったことにレイは気付いた。
「博士?」
「続けてください」
「大きな街でした。高い建物がたくさんあって、それから……男が振り返った時、声が聞こえたんです」
「何と?」
「まだ追ってくるのか、って」
その言葉を聞いたアクロマはしばらく沈黙し、視線だけを端末の画面へ落とした。
やがて、隣にいたシアノが慎重に口を開く。
「心当たりがあるのかい?」
「あります」
レイはすぐに立ち上がった。
「誰なんです」
「その前に確認しなければならないことがあります」
「また隠すんですか」
「今回は違います」
アクロマは研究区画へ続く通路へ視線を向けた。
「もし私の推測が正しいのであれば、あちらに答えの一部があります」
警報が鳴り続ける中、レイの胸元では石がまだ微かに震えていた。
その遥か先、厳重に封鎖された研究室の中央でも、前日に採取された紫色の結晶が呼応するように明滅し、その表面へ、誰も入力していない文字がゆっくりと浮かび上がっていく。
表示されたものは人の名前でも観測座標でもなく、レイがつい最近になって意識するようになった、遠い南国の地方を示す名前だった。
――アローラ。