ホウエン地方という地名が端末の中央に表示されてから、レイはしばらく画面を見つめたまま動けずにいた。そこに映し出されているのは、かつてホウエン地方で発生した大規模な気象災害と、その収束に関わったとされる少年の記録だったが、映像に残された赤い帽子の後ろ姿は、先ほどアローラ地方の記録で目にした人物とあまりにもよく似ており、偶然の一致として片付けるには不自然な点が多すぎた。
「……ホウエン地方、ですか」
レイが呟くと、隣に立っていたアクロマは画面から目を離さないまま、小さく頷いた。
「ええ。どうやら、ここから調べるべきことが増えそうですね。ただし、現在の段階では、同一人物であると断定するには情報が不足しています。記録の一致率が高いことと、そこに記録されている人物が実際に同じ人間であることは、必ずしも同義ではありませんから」
「でも、アローラの映像にも、この人が映っていたんですよね?」
「その可能性は高いでしょう。問題は、なぜホウエン地方の古い記録に残されている人物が、アローラ地方で観測された異常現象にも関わっているのか、という点です」
アクロマは端末を操作し、画面に表示されていた映像を閉じると、代わりにいくつもの資料を並べて表示した。そこにはホウエン地方で観測された異常気象の推移や、カロス地方で発生した大規模なエネルギー反応、さらにはアローラ地方で確認された空間の歪みに関する報告が含まれていたが、レイには、それらが一人の少年を中心に結びついている理由がまだ理解できなかった。
「アクロマさんは、この人を知っているんですか?」
問いかけた瞬間、アクロマの指が止まった。
「……以前、彼についての資料を目にしたことはあります。しかし、今ここで私の記憶だけを根拠に説明するのは適切ではありません。まずは確認できる事実を積み重ねるべきでしょう」
「そう、ですか」
曖昧な返答だったが、レイはそれ以上追及しなかった。アクロマが何かを隠しているようにも感じられたものの、それが悪意によるものなのか、それとも確証のない情報を口にしたくないという研究者としての慎重さなのか、今のレイには判断できなかったからだ。
そのとき、足元にいたニャローテが小さく鳴き、レイの鞄へと鼻先を近づけた。中にしまっていた石が、再び微かな熱を帯び始めていた。
「また……?」
鞄から取り出した石は、先ほどまでの淡い光とは異なり、表面の奥で何かがゆっくりと脈打っているように見えた。レイが掌の上で向きを変えると、その光は端末の方へ向けたときだけ僅かに強まり、まるで画面に表示された記録のどれかに反応しているようだった。
「興味深いですね」
アクロマは身を乗り出し、石と端末を交互に見つめた。
「映像を閉じても反応が続いている。つまり、特定の映像そのものではなく、現在読み込まれている何らかの情報に反応している可能性があります」
「情報に、ですか?」
「もちろん、石が文字を読んでいるという意味ではありませんよ。記録を読み出す際に装置が発する微弱な信号や、観測対象に関連づけられたエネルギーの情報が、何らかの形で作用しているのかもしれません」
アクロマは楽しげに説明したが、レイにはその半分も理解できなかった。ただ、石が偶然光っているわけではないということだけは、これまでの出来事から確信しつつあった。
「アクロマさん、少しいいでしょうか」
部屋の奥で別の端末を調べていたネリネが声を上げた。普段と変わらない落ち着いた口調だったが、その視線は画面の一点に固定されている。
「ホウエン地方の記録を検索していたところ、関連資料の中に、イッシュ地方の古い研究報告が混在していました」
「イッシュ地方の?」
「はい。登録された時期はかなり古いようですが、現在の観測装置で使われている分類と似た項目があります。ただ、資料の保存先がブルーベリー学園ではなく、別の研究機関になっています」
ネリネが画面を共有すると、中央の端末に古びた研究報告書が表示された。資料にはいくつもの欠落があり、本文の一部も閲覧できない状態だったが、表題に記された地名だけははっきりと読み取れた。
『イッシュ地方・海底遺跡』
「海底遺跡……?」
レイが首を傾げると、アクロマはそれまでの楽しげな表情を僅かに引き締めた。
「なるほど。懐かしい資料が出てきましたね」
「知っているんですか?」
「ええ。イッシュ地方の海底には、古代の文明に関係すると考えられている遺跡が存在します。もっとも、ここに記されている研究は、一般に知られている考古学的な調査とは少々性質が異なるようですが」
アクロマは報告書を拡大し、欠落していない部分を読み進めた。そこには、遺跡内部で確認された特殊なエネルギー反応と、そのエネルギーが過去に行われたある実験と関係していた可能性が記されていた。
「……エネルギーの抽出、転用、そして生体反応との同期。随分と大胆なことを考えたものですね」
「何か問題があるんですか?」
「問題があるかどうかは、研究の目的と方法によります。ただ、自然界に存在する未知のエネルギーを、人間の都合で利用しようとする試みには、常に予測できない危険が伴うものです」
その言葉を聞いたレイは、少し意外に思った。アクロマなら、未知のエネルギーを発見したことそのものに興奮し、危険性よりも研究の可能性を優先するのではないかと考えていたからだ。
「アクロマさんでも、そういうことを考えるんですね」
「おや、私が何も考えずに実験を繰り返す人間だと思っていましたか?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
「ふふ。構いませんよ。昔の私なら、そう言われても仕方がなかったかもしれません」
アクロマは笑ったが、その表情にはどこか遠い記憶を振り返るようなものがあった。
「かつて私は、ポケモンが持つ力を最大限に引き出す方法を研究していました。道具による強化、特殊なエネルギーの利用、外部からの刺激による能力の増幅……考えられる方法は数多く試しましたが、最終的に、私の予想を超える力を見せたのは、そうした装置とは無関係な一人のトレーナーだったのです」
「トレーナー?」
「ええ。彼は特別な機械を持っていたわけでも、未知のエネルギーを利用していたわけでもありません。ただ、自分のポケモンを信じて戦っていました。そして、その結果は、私の計算を大きく上回るものだった」
アクロマはそこで言葉を区切り、レイの足元に座っているニャローテへ視線を落とした。
「レイくん。君は、そのニャローテの力をどこまで引き出せると思いますか?」
「え?」
「仮に、彼女の能力を数値として完全に把握できたとして、その数値が彼女の限界を意味するのでしょうか」
突然の問いに、レイは返答に困った。ニャローテと一緒に旅をしてきた中で、予想以上の力を発揮してくれたことは何度もあったが、それが数値では説明できないものなのかと聞かれても、うまく答えられなかった。
「……分かりません。でも、ニャローテなら、きっともっと強くなれると思います」
レイがそう答えると、ニャローテは得意げに胸を張った。
「それで十分です」
アクロマは満足そうに頷き、再び画面へ向き直った。
「私も、あのとき初めて理解したのかもしれません。研究によってポケモンの力を解き明かすことと、トレーナーがポケモンの可能性を信じることは、必ずしも対立するものではないのだと」
その話をもう少し聞いてみたいと思ったが、レイが口を開くよりも早く、ネリネが別の資料を表示した。
「アクロマさん。こちらの記録も確認してください」
今度の資料は、海底遺跡の研究報告とは異なり、イッシュ地方の中央部で観測された現象についてまとめられていた。古い観測機器による測定結果が並び、その中には通常の空間では説明できない反応が含まれているらしい。
「……ハイリンク」
アクロマがその名前を口にした。
「ハイリンク、ですか?」
「イッシュ地方の中央部に存在する、不思議な力を持つ場所です。古くから特殊な現象が報告されており、周辺で採取されるデルダマと呼ばれる物質についても、さまざまな研究が行われてきました」
「デルダマ……」
「もっとも、これまでの研究で、その性質が完全に解明されたわけではありません。資料によっては名称の表記にも揺れがあり、研究の目的もそれぞれ異なります」
アクロマは資料を読み進めていたが、ある箇所で指を止めた。
「……これは」
先ほどまでの説明口調とは違う、低い声だった。
「どうしたんですか?」
「いえ、少し気になる記述を見つけましてね」
画面には、観測装置の記録とともに、短い文章が残されていた。
『観測対象の消失後、同一地点において異なる位相の反応を確認』
その下には、通常の研究報告ではあまり見かけない項目が続いていた。
『帰還先の座標については、観測対象の認識に依存する可能性がある』
「……帰還先?」
レイは思わず声に出した。
「どこかへ行った人が、戻ってくるということですか?」
「そう読めますね。ただし、これだけでは何が行われたのか分かりません。単なる転送実験だった可能性もありますし、測定機器の誤作動ということも考えられます」
そう言いながらも、アクロマの表情は明らかに変わっていた。彼は資料の登録番号を調べ、保存先の情報を呼び出すと、眉を僅かに上げた。
「なるほど。これは少々、面白いことになってきました」
「何か分かったんですか?」
「この資料は、ブルーベリー学園で作成されたものではありません。古い研究記録を後から取り込んだようですね。しかも、元の資料には閲覧制限がかけられています」
「閲覧制限……?」
「研究に関わった人物の個人情報を保護するためか、あるいは実験内容そのものに問題があったのか。理由は分かりませんが、少なくとも一般公開を前提とした資料ではなさそうです」
ネリネが画面の端に表示された情報を確認し、静かに口を開いた。
「元の資料を管理している機関へ問い合わせることは可能です。ただ、回答が得られるまでには時間がかかると思います」
「そうですね。ですが、その前に一つ確認しておきたいことがあります」
アクロマは端末を操作し、先ほどのホウエン地方の記録と、ハイリンクの観測資料を並べて表示した。
「レイくん。もう一度、その石を見せてもらえますか?」
「はい」
レイが石を差し出すと、アクロマはそれを直接手に取るのではなく、机の上に置かれた小型の測定装置へ載せるように促した。
石が装置の中央に置かれると、表面に淡い光が浮かび上がり、測定画面には不規則な波形が現れた。アクロマはその変化を確認しながら、ホウエン地方の記録を一つずつ閉じていったが、石の反応はほとんど変わらなかった。
「……やはり、映像そのものが原因ではありませんね」
続いて、ハイリンクの資料を閉じる。
その瞬間、波形の振幅が小さくなった。
「えっ?」
レイは思わず画面へ顔を近づけた。
「今、弱くなりましたよね?」
「ええ。ただし、偶然の変動かもしれません。もう一度確認しましょう」
アクロマが資料を開くと、石は再び光を強めた。さらに別の資料を表示したところ、今度は波形が大きく乱れ、測定装置から短い警告音が鳴った。
「……これは、どういうことなんでしょう」
「まだ分かりません。しかし、少なくとも、この石がハイリンクに関する何らかの情報と関連している可能性は、考慮する価値がありそうです」
アクロマはそう答えたものの、レイには、その目がいつも以上に真剣なものになっているように見えた。
海底遺跡、ハイリンク、そしてホウエン地方の少年。互いに何の関係もないように思えるそれらが、手の中に収まるほど小さな石によって結びつき始めているという事実は、レイに期待よりも先に、得体の知れない不安を抱かせた。
「アクロマさん」
「何でしょう?」
「もし、この石が本当に誰かと関係しているなら……その人は、今もどこかにいるんでしょうか」
アクロマはすぐには答えなかった。
「……存在していることと、私たちがいる世界にいることは、必ずしも同じではありません」
その返答に、レイは思わず顔を上げた。
「それって、どういう……」
「今はまだ、仮説の段階です。ですが、もしこの観測記録が示している現象が事実ならば、私たちは少々厄介な問題に直面しているのかもしれませんね」
アクロマはそこで一度言葉を止めると、端末に表示された古い研究資料の登録情報を確認した。
「……とはいえ、ここで考え込んでいても仕方がありません。幸いなことに、イッシュ地方には、こうした問題について話を聞けそうな人物がいます」
「研究者の人ですか?」
「いいえ。研究者ではありませんよ」
アクロマは微笑んだ。
「むしろ、研究者である私に、ポケモンの可能性について教えてくれた人物です」
レイは先ほどの話を思い出した。特別な装置も使わず、アクロマの予想を超える力を見せたというトレーナーのことだ。
「その人が、何か知っているんですか?」
「知っているかもしれませんし、何も知らないかもしれません。しかし、彼はかつてイッシュ地方で起きた事件の中心にいた人物ですから、少なくとも当時の事情については、私よりも詳しい部分があるでしょう」
アクロマは端末から目を離し、窓の向こうへ視線を向けた。厚いガラスの先には、海中に広がるブルーベリー学園の施設が見え、そのさらに向こうでは、深い青色の水が静かに揺れている。
「……彼とは、もう随分長いこと会っていませんね」
その声には、普段のアクロマからはあまり感じられない懐かしさが滲んでいた。
「連絡を取ってみるんですか?」
「ええ。彼なら、案外喜んで来てくれるかもしれません。何しろ、ポケモンバトルとなれば、相手が誰であろうと遠慮しない人ですから」
アクロマは小さく笑い、通信端末を取り出した。
しかし、連絡先を開こうとしたところで、その手が止まった。
「……おや?」
「どうしたんですか?」
「どうやら、先方から連絡が来ているようです」
画面には、少し前に受信した一通のメッセージが表示されていた。アクロマはその内容を読み、しばらく黙っていたが、やがて堪えきれなくなったように笑い始めた。
「ふふ……ははは! これは驚きました。どうやら、私が考えていることは、すっかりお見通しだったようですね!」
「え?」
「彼は今、イッシュ地方にいるそうです。それも、ブルーベリー学園へ向かう予定があるとか」
アクロマは端末をレイへ向けた。
そこには、短い文章が記されていた。
『久しぶりです、アクロマさん。そちらで面白い研究をしていると聞きました。せっかくなので、少し顔を出してもいいですか?』
文章の末尾には、差出人の名前が表示されていた。
『キョウヘイ』
「キョウヘイ……さん?」
レイがその名前を読み上げると、アクロマは満足そうに頷いた。
「ええ。かつて私を負かしたトレーナーです。そして、イッシュ地方を救った英雄の一人でもあります」
そう言って、アクロマは通信端末を閉じた。
「どうやら、退屈する暇はなさそうですね」
レイは再び机の上の石へ目を向けた。先ほどまで不規則に脈打っていた光は、いつの間にか静かになっていたが、その奥にはまだ、何かが眠っているように思えた。
海の底にある学園で、ホウエン地方の少年の記録を追っていたはずが、今度はイッシュ地方の過去へとつながる道が開かれようとしている。自分の知らないところで、いくつもの出来事が重なり合っているのだとしたら、この石がレイの手元にやって来たことにも、何か理由があるのかもしれなかった。
「……ニャローテ」
呼びかけると、ニャローテはレイの足元から顔を上げた。
「なんだか、すごいことになってきたね」
ニャローテは小さく鳴き、まるで当然だと言わんばかりに尻尾を揺らした。その姿を見て、レイはようやく少しだけ笑うことができた。
まだ分からないことばかりだったが、少なくとも、ここで立ち止まるつもりはなかった。