その日の講義は、それ以外ほとんど頭に入らなかった。
世界はひとつではない。
アクロマが口にしたその言葉だけが、まるで耳の奥へ残響のように残り続け、教室の窓から差し込む午後の日差しも、教師の声も、級友たちの笑い声さえもどこか遠く感じられる。
もちろん、それは現実味のない話だった。
パラレルワールド。
別の歴史。
異なる可能性。
そんなものは古い伝承や空想科学の中だけの存在であり、少なくとも昨日までのレイなら笑って終わらせていただろう。
しかし。
昨日拾ったあの石だけは説明がつかない。
レイは授業が終わると、人目を避けるように中庭の隅へ向かった。
制服のポケットから取り出した石は、昼間よりも僅かに光を増していた。
「やっぱり……」
指先へ伝わる微かな熱。
生き物の鼓動のような振動。
どう考えても普通の鉱石ではない。
「ニャローテ」
肩の上にいたニャローテも、不安そうに石を見つめ、小さく鼻を鳴らす。
その時だった。
石の中心から、紫色の光が一瞬だけ脈打つ。
「……!」
反射的に握り締める。
同時に、頭の奥へ何かが流れ込んできた。
知らない景色。
見たこともない街。
巨大な塔。
青い炎。
空を覆う結晶。
そして――。
崩れていく世界。
「うっ……!」
膝をつく。
頭痛。
吐き気。
視界が激しく揺れる。
数秒だった。
それだけで映像は途切れる。
「今のは……何だ」
幻覚とは思えなかった。
あまりにも鮮明だった。
誰かの記憶を、一瞬だけ覗き見たような感覚。
「やはり、共鳴しましたか」
突然聞こえた声に、レイは飛び上がるように振り返った。
そこには、いつの間にかアクロマが立っていた。
昼間と同じ白衣。
しかし講堂で見せた研究者らしい表情ではなく、何かを確かめるようにレイを見つめている。
「……あなた」
「安心してください。石を返せと言いに来たわけではありません」
「これを知っているんですか」
レイは石を見せる。
アクロマは小さく頷いた。
「知っていますとも。ですが、その石がそこに存在している理由までは、私にも分かりません」
「これは何なんです」
「質問を変えましょう」
アクロマは逆に問い返す。
「君は、その石を拾ってから何か見ませんでしたか」
レイは言葉に詰まる。
なぜ分かった。
今の映像を。
「……見ました」
「そうでしょうね」
まるで最初から分かっていたような口ぶりだった。
「それは夢ではありません」
「じゃあ何なんです」
アクロマは少しだけ空を見上げる。
夕焼けが広がり始めていた。
「記憶です」
「誰かの?」
「いいえ」
一拍置いて、彼は静かに言う。
「世界の、です」
レイは意味が分からなかった。
世界に記憶がある?
そんな話を誰が信じるというのか。
だがアクロマは冗談を言っているようには見えない。
「君は非常に興味深い存在です」
「どういう意味です」
「本来、その石は誰とも共鳴しません」
その一言に、レイの背筋が冷える。
「にもかかわらず、君は世界の断片を視た」
アクロマは眼鏡を指で押し上げる。
「偶然とは思えません」
その瞬間だった。
――ゴォン。
重く鈍い音が、大地の底から響いた。
二人は同時に振り返る。
遠く。
パルデアの大穴。
そこから紫色の光が、夕焼け空へ一本の柱となって立ち昇っていた。
学園中が騒然となる。
教師たちの悲鳴。
避難を促す放送。
空を飛ぶポケモンたちが一斉に逃げ始める。
アクロマだけは、その光景を見つめながら小さく呟いた。
「……予定より、随分早い」
「え?」
レイが聞き返した時には、彼は既に歩き始めていた。
「来なさい、レイ君」
振り返ることなく言う。
「ここから先は、君にも見届けてもらう必要があります」
世界は、静かに軋むだけでは終わらなかった。
その歪みは、ついに誰の目にも見える形となって現れ始めていた。