サイレンが鳴り響いていた。
アカデミー中に設置された警報装置が、今まで一度も聞いたことのない警戒音を繰り返し鳴らし続け、生徒たちは教師の誘導によって次々と校舎へ戻されていく。
だが、レイだけは動けなかった。
いや、動かなかったと言うべきか。
視線はただ一点。
パルデアの大穴へ注がれていた。
空へ向かって伸びる紫色の光の柱。
夕焼け空を真っ二つに裂くようなその光景は、美しいという感情よりも先に、本能的な恐怖を呼び起こしていた。
「レイ!」
教師が叫ぶ。
「何をしている! 早く避難しなさい!」
その声で我に返る。
振り返った時には、先ほどまで隣にいたアクロマの姿はもうなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……どこへ」
その疑問は最後まで口にできなかった。
地面が揺れた。
ゴゴゴゴゴ……という低い振動が足元から伝わってくる。
校舎の窓ガラスが細かく震え、木々の葉がざわめき始める。
「地震!?」
誰かが叫ぶ。
しかし違う。
レイは揺れの方向に違和感を覚えていた。
横ではない。
下から押し上げられるような振動。
まるで大穴そのものが鼓動しているかのようだった。
ニャローテも肩から飛び降り、低く唸る。
その視線は一点。
光の柱。
その周囲の空間だった。
「……?」
最初は陽炎だと思った。
空気が揺らいでいるだけ。
だが違う。
景色そのものが歪んでいた。
夕焼け空の一部だけが、水面へ石を落としたように波打っている。
誰もその異変に気付いていない。
レイだけが、それを見ていた。
やがて歪みはゆっくりと広がり始める。
空。
雲。
山。
すべてが重なって見える。
そして。
もう一つの景色が映り込んだ。
「…………!」
思わず息を呑む。
そこにあったのはパルデアではなかった。
燃えている。
街が。
空が。
建物が。
巨大な結晶に覆われた都市。
炎の中を逃げ惑う人々。
咆哮を上げる見知らぬポケモン。
その世界は確かに存在していた。
数秒後。
景色は元へ戻る。
夕焼け。
静かな森。
いつものパルデア。
だが、レイだけは理解してしまった。
あれは幻ではない。
昨夜見た映像と同じだ。
世界が、重なっている。
その時だった。
制服のポケットの中で、石が熱を帯びる。
取り出した瞬間、七色だった輝きが一瞬だけ深い紅色へ変わった。
同時に、レイの脳裏へ一つの言葉が響く。
――楽園。
「……誰だ!」
思わず叫ぶ。
返事はない。
しかし声は確かに聞こえた。
男とも女ともつかない声。
遠い昔から語り掛けてくるような、不思議な響き。
ニャローテが突然、空へ向かって威嚇した。
レイも反射的に顔を上げる。
歪みの中心。
紫色の空間に、一瞬だけ人影が立っていた。
長身。
赤い髪。
黒いスーツ。
その人物は、こちらを見ているようにも見えた。
だが、瞬きをした次の瞬間には消えていた。
「……今の」
胸がざわつく。
写真で見たことがある。
世界中へ配信された指名手配の映像。
五年前、消息を絶った男。
フレア団の首領——フラダリ。
あり得ない。
死んだはずだ。
なのに、どうして。
どうして今、この場所に。
レイが呆然と立ち尽くす中、大穴から立ち昇る紫色の光はなおも空を貫き続けていた。
その異変は、まだ始まりに過ぎない。
世界は静かに、そして確実に、本来交わるはずのない『もう一つの世界』と重なり始めていた。