翌朝になっても、空は何事もなかったように晴れ渡っていた。
昨日、大穴から立ち昇った紫色の光は既に消え失せ、ニュース番組でも『一時的なエネルギー異常』という短い説明が繰り返されるばかりで、街には少しずつ日常が戻り始めている。
人という生き物は、安心できる理由を探すのが上手い。
専門家が「問題ありません」と言えば信じるし、「原因を調査中です」と言えば、その結果が出るまでは考えることを止めてしまう。
それが悪いことだとは思わない。
そうしなければ、誰も平穏な毎日など送れないのだから。
だが、レイだけは違った。
昨夜、自分は見てしまった。
空の裂け目を。
紫色の結晶に覆われた世界を。
そして、あの正体の分からない人影を。
あれを「見間違いだった」と片付けるには、あまりにも鮮明すぎた。
「……やっぱり、気になるよな」
朝食を終えたレイは、自室の机へ布包みを広げる。
中から現れたのは、草むらで拾ったあの石だった。
昨日ほどではない。
しかし、今もなお淡い光を宿している。
ニャローテは机へ飛び乗ると、石へ鼻先を近付け、小さく首を傾げた。
「お前も気になるか」
返事をするように短く鳴く。
その時、端末が着信を告げた。
画面にはアカデミーからの一斉通知。
昨日発生した異常現象について、本日午後より自由参加の説明会を実施します。
それだけだった。
原因も。
対策も。
何一つ書かれていない。
「説明会、か……」
レイは端末を閉じる。
きっと昨日と同じだ。
「調査中です」
「心配ありません」
そんな言葉が並ぶだけ。
それでも、行かないという選択肢はなかった。
◇◇◇
午後。
講堂へ向かう途中、レイは中庭で一人の人物を見つける。
白衣姿の男。
アクロマだった。
彼は昨日と変わらず静かな表情で、植え込みの脇へしゃがみ込み、何かを採取している。
土を。
草を。
それから、小さな紫色の結晶片を。
研究員が声を掛ける。
「博士、こちらのサンプルも回収できました」
「ありがとうございます」
短いやり取り。
それだけだった。
レイは思わず足を止める。
昨日、自分を見ていた男。
何か知っているはずの男。
しかし、アクロマはレイへ気付いても何も言わない。
軽く会釈を返しただけで、再び地面の観察へ戻ってしまう。
「……」
昨日とは逆だった。
話し掛けるべきなのはこちらなのに、不思議と声が出ない。
研究者の纏う空気が、それを拒んでいるように思えた。
結局、何も言えないまま講堂へ向かう。
説明会は三十分ほどで終わった。
予想通りだった。
異常現象は現在調査中。
危険性は確認されていない。
不要な外出は控えるように。
昨日のニュースと何も変わらない。
生徒たちも半ば呆れた様子で席を立ち始める。
「結局、何も分からないってことか」
「まあ、そんなもんだろ」
そんな会話が聞こえてくる。
レイだけは納得できなかった。
本当に何も分かっていないのだろうか。
それとも。
分かっていて話せないのだろうか。
講堂を出ようとした時だった。
視界の端で、アクロマが研究員へ一枚の資料を渡す姿が見えた。
資料は風に煽られ、一枚だけ床へ落ちる。
誰も気付かない。
レイは拾い上げようとして、そのまま手を止めた。
紙面には一枚の航空写真。
昨日、自分が見た大穴の上空だった。
その中央へ、赤い文字で一行だけ書かれている。
——境界面拡大を確認
境界。
その言葉が胸へ引っ掛かる。
昨日、自分が見た『もう一つの世界』。
あれは、本当に存在するのかもしれない。
資料を拾い上げた研究員は、何事もなかったようにアクロマへ返した。
アクロマはその瞬間だけ、レイと目が合う。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
まるで。
君も見たのですね――そう言っているかのように。
その日、レイは初めて自分の意志で決めた。
誰かが真実を教えてくれるのを待つのではない。
自分で、この異変を追ってみよう、と。