パルデア地方で発生している異常は、もはや大穴の周辺だけに留まるものではなくなっていた。
東部では、身体の一部を紫色の結晶に覆われたパフュートンの群れが街道を塞ぎ、西部では本来ならば夜間にしか活発に動かないはずの野生ポケモンたちが昼間から一斉に姿を現し、南部では複数のトレーナーが、テラスタル化を解除できなくなったポケモンと遭遇したという。
幸いなことに、今のところ人やポケモンの命に関わる被害は出ていない。
だが、誰もそれを「大丈夫」とは言えなかった。
アカデミーからは、不要不急の外出を控えるよう改めて通達があり、授業も一部を除いて休講となっている。
大穴の異変について調査が続けられていること。
野生ポケモンへ不用意に近付かないこと。
見慣れない結晶や鉱石を発見した場合は、触れずに最寄りの研究機関へ連絡すること。
端末へ届けられた注意事項を読みながら、レイは最後の一文で指を止めた。
見慣れない結晶や鉱石。
それは恐らく、机の上に置かれているこの石も含まれるのだろう。
布の上に置かれたそれは、朝の光を受けても七色には輝かず、ただどこにでもある透明な鉱石のように静かに佇んでいた。
昨日、ガケガニと戦った際に見せた反応が嘘だったかのように、熱もなければ、脈動もない。
だからといって、普通の石であるはずがなかった。
それを証明するように、ニャローテは机の端へ座ったまま、朝から一度も視線を逸らそうとしない。
「そんなに見ても、何も起きないぞ」
レイがそう言うと、ニャローテは不満そうに尻尾を揺らした。
「分かってるよ。俺だって気になってる」
メガストーンらしき鉱石。
大穴から立ち昇った光。
空に重なって見えた、燃える世界。
紫色の結晶へ侵されたポケモン。
そして、帽子を被った正体不明の青年。
どれも一つだけなら、見間違いや偶然で片付けることができたのかもしれない。
しかし、これほど続けば話は別だった。
何かが起きている。
それだけは間違いない。
問題は、その何かが自分とどう関わっているのかということだった。
石を拾ったから、映像を見るようになったのか。
それとも。
自分だから、石を見つけたのか。
考えても答えは出ない。
誰かへ相談しようにも、証拠と呼べるものはこの石だけであり、それすら正式にメガストーンと確認されたわけではない。
アクロマならば、何か知っているはずだった。
昨日、資料へ記されていた「境界面」という単語。
レイが見たもう一つの景色。
彼はそれらの間にある繋がりを理解している。
にもかかわらず、何も話そうとはしない。
ただレイを見ていた。
実験結果を観察するような目で。
「……調べてみるしかないか」
誰かが答えを教えてくれるまで待つのではなく、自分で調べる。
そう決めたのは昨日だ。
ならば、今すべきことは一つしかない。
レイは石を布へ包み直し、鞄の奥へ入れると、ニャローテと共に部屋を出た。
◇◇◇
アカデミーの図書室は、普段とは比べものにならないほど静かだった。
休講の影響で生徒の姿はほとんどなく、広い室内にはページをめくる微かな音と、古い空調設備が立てる低い駆動音だけが残されている。
レイは検索端末の前へ座ると、最初に「メガシンカ」と入力した。
表示された資料は多かった。
カロス地方で発見された特殊進化。
トレーナーが持つキーストーンと、ポケモンに対応したメガストーンが共鳴することによって、一時的に限界を超えた進化を引き起こす現象。
ホウエン地方にも同様の伝承が存在し、古代からメガシンカに関わる石が複数確認されている。
一方で、それ以外の地方における天然のメガストーンの発見例は極めて少なく、パルデア地方では公式な確認例はない。
「やっぱり、ない……」
小さく呟く。
自分が拾った石が本当にメガストーンであるなら、それは存在するはずのないものだった。
次に「エリアゼロ」「結晶」「空間異常」と検索する。
こちらは閲覧制限の掛かった資料が多く、一般生徒が確認できるのは、五年前の事件後に公開された概要だけだった。
パラドックスポケモン。
タイムマシン。
楽園防衛プログラム。
テラスタルエネルギー。
多くの資料を読み進めても、世界の境界という言葉は一度も出てこない。
やはり、一般には公開されていない情報なのだろう。
「境界……」
検索欄へ入力する。
結果は地理学や生態学の資料ばかりだった。
地域と地域の境界。
生息域の境界。
海と陸の境界。
その中で一つだけ、異質な論文が表示される。
題名は『異なる進化系統におけるポケモンの潜在能力と環境的分岐』。
著者。
アクロマ。
レイはその名前を見て、迷わず資料を開いた。
内容のほとんどは難解で、専門知識のないレイには理解できなかったが、途中にある一文だけが目に留まった。
——ポケモンの可能性は、現在観測されている進化や生態によってのみ限定されるものではない。環境が異なれば、同一の存在であっても異なる姿、異なる能力、異なる結論へ到達する可能性がある。
パルデアにも、リージョンフォームとは異なる姿を持つポケモンは存在する。
だが、この論文が述べているのは、もっと広い意味での可能性であるように思えた。
同じポケモン。
違う環境。
異なる結論。
それは、人間にも当てはまるのだろうか。
同じ人間が、違う選択をした世界。
自分が存在しない世界。
あるいは、自分とは異なる人生を歩む自分がいる世界。
昨日、空に重なって見えたあの景色が、そうした可能性の一つだとすれば。
「見つけましたか」
突然背後から声を掛けられ、レイは椅子から立ち上がりかけた。
振り返ると、書架の間にアクロマが立っている。
相変わらず足音すら聞こえなかった。
「何をですか」
「君が探している答えです」
「……見つかっていたら、こんなに資料を読んでいません」
「それは残念です」
言葉とは裏腹に、残念そうな様子はまるでない。
アクロマはレイが開いている論文を一瞥すると、僅かに目を細めた。
「随分と古いものを見つけましたね」
「あなたが書いたんでしょう」
「ええ。もっとも、当時の私は随分と視野が狭かったようですが」
「これ以上に広くなるんですか」
「世界は、思っているより広いものですから」
その言い方が、また引っ掛かった。
世界。
彼はいつもその言葉を、地方や国といった意味では使っていない。
レイは立ち上がる。
今度こそ聞かなければならない。
「博士、一つだけ聞いてもいいですか」
「一つで済むのであれば」
「境界って、何なんですか」