アクロマの表情は変わらなかった。
だが、答えるまでにほんの僅かな間があった。
「どこで、その言葉を知りましたか」
「昨日、あなたが持っていた資料に書いてありました」
「なるほど。拾い読みは感心しませんね」
「落とした資料を見ただけです」
「それも拾い読みと言います」
冗談なのか、本気なのか分からない。
レイは視線を逸らさずに続ける。
「俺が見た景色と関係があるんでしょう」
「そう考える理由は」
「あなたが隠そうとしているからです」
言った直後、自分でも随分と乱暴な理屈だと思った。
しかしアクロマは怒らなかった。
むしろ少しだけ興味深そうにレイを見つめる。
「良い観察です」
「答えになっていません」
「答えられないのです」
「どうして」
「まだ、説明できる段階にないからです」
「説明できないのか、したくないのか、どちらですか」
「両方ですよ」
あっさりと認められ、レイは言葉を失った。
アクロマは書架から一冊の本を抜き取りながら、淡々と話を続ける。
「科学者は、分からないことを分かったように語ってはいけません。現在起きている現象を境界と呼んでいますが、それが本当に世界と世界を隔てるものなのか、あるいは時間、空間、記憶、可能性といった別の何かなのか、我々にも断定できていない」
「それでも、何かは分かっているんでしょう」
「ええ」
「なら教えてください」
「知識として教えても、君は理解できないでしょう」
その言葉には、馬鹿にするような響きはなかった。
だからこそ、余計に腹が立った。
「やってみなければ分からないじゃないですか」
「その通りです」
アクロマは本を閉じる。
「ですが君は、既に知識ではなく現象として理解し始めている」
「……どういう意味ですか」
「今はまだ、説明できません」
同じ答えだった。
レイが更に問い掛けるより早く、アクロマは背を向ける。
「一つだけ助言をしておきましょう」
「君が見たもの、聞いたもの、石が反応した時刻、その時に近くにいたポケモン、天候、場所、感情。すべて記録しておきなさい」
「それで何が分かるんですか」
「何も分からないかもしれません」
アクロマは足を止めずに答える。
「ですが、説明できないものを説明できるようにするには、説明できないまま記録するところから始めるしかないのです」
そのまま書架の向こうへ姿を消す。
結局、何一つ答えてはくれなかった。
だが、完全に拒絶されたわけでもない。
少なくとも、自分が見ているものを否定はしなかった。
レイは再び端末へ視線を戻す。
画面には、アクロマの論文が表示されたままだった。
異なる環境。
異なる姿。
異なる結論。
そして。
異なる世界。
最後の言葉だけは、論文には書かれていない。
しかし、それこそがアクロマの研究の先にあるものなのではないかと、レイには思えた。
◇◇◇
夜。
レイはアクロマに言われた通り、昨日までに起きたことを端末へ記録していた。
石を拾った場所。
最初に光った時刻。
講堂で熱を持ったこと。
燃える街を見たこと。
ガケガニとの戦い。
帽子を被った青年。
書き出してみると、自分が経験したこととは思えないほど現実離れしていた。
「これを誰かに見せたら、信じてもらえると思うか」
ベッドの上で丸くなっていたニャローテへ尋ねる。
ニャローテは眠そうに片目だけを開くと、答えの代わりに大きな欠伸をした。
「だよな」
端末を閉じる。
机の上には、布へ包んだ石が置かれている。
今日はもう何も起きない。
そう思った瞬間だった。
布の隙間から、青白い光が漏れ出す。
「……!」
レイは咄嗟に立ち上がる。
石が震えていた。
これまでとは違う。
小さな脈動ではない。
机そのものを揺らすほど激しく震え、室内を満たす光が、次第に青から紫へと変わっていく。
ニャローテも飛び起き、レイの前へ立つように身構えた。
「大丈夫だ」
そう声を掛けた直後、視界が白く染まった。
音が消える。
足元の感覚が消える。
そして。
潮の匂いがした。
青い海。
白い砂浜。
風に揺れる南国の木々。
遠くでは、見たことのないポケモンたちが鳴いている。
そこはパルデアではなかった。
今まで見た燃える世界とも違う。
穏やかで、美しく、どこまでも明るい島。
その浜辺に、一人の少年が倒れていた。
赤い帽子。
砂に汚れた服。
その傍らには、傷付いたポケモンたちのモンスターボールが転がっている。
少年の指が、僅かに動く。
ゆっくりと顔を上げる。
しかし、その表情を見ようとした瞬間、強い光が視界を遮った。
映像が崩れる。
海も。
島も。
少年も。
引き裂かれた紙片のように、ばらばらになって消えていく。
最後に聞こえたのは、波の音ではなかった。
遠くから響く、誰かの声。
――帰らなければ。
その言葉だけを残し、レイの意識は自室へ引き戻された。
机へ両手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
目の前には、光を失った石。
足元には、心配そうにこちらを見上げるニャローテ。
夢ではない。
幻覚でもない。
誰かが、確かにあの島にいた。
そして。
帰らなければならない場所を、今も探している。
レイは震える指で端末を開き、新しい記録を書き始めた。
時刻。
天候。
石の色。
見えた景色。
そして最後に聞こえた、短い言葉。
だが、記録を書き終えようとしたその時。
何も触れていないはずの画面へ、見知らぬ文字が一行だけ浮かび上がった。
——観測座標を確認しました。
次の瞬間には、それも消えていた。