主人公はバン本人。
本作のバンは神の恩恵なし、ステイタスなし、ファミリア無所属、不死身なしの旅人として進みます。
第1話 腹が減った
空が裂けた。
いや、空だけではない。
大地も、風も、戦場に満ちていた殺気も、すべてが白く歪んだ。
耳を裂くような咆哮。
肌を焼くような混沌の気配。
視界の端で、何か巨大なものが蠢いた。
バンは舌打ちした。
「ったく、しつけぇな」
エンジ色のロングコートが、荒れ狂う風にばたつく。
胸元の開いた高襟。スタッズ付きの赤いレザーパンツ。太い茶革のベルトと、銀のバックル。
いつもの格好のまま、バンは迫る混沌の波を睨んだ。
足場が砕ける。
空間が、布を無理やり引き裂いたように裂ける。
そこに生まれたのは、闇でも光でもなかった。
色のない穴。
世界と世界の境目を、雑にこじ開けたような裂け目。
誰かの声が聞こえた気がした。
だが、言葉になる前に、音は白く弾けた。
「おいおい……」
バンの口元が、わずかに歪む。
「酒も飲んでねぇのに、飛ばされんのは勘弁だぜ」
次の瞬間、混沌の裂け目が戦場ごとバンを呑み込んだ。
音が消えた。
光が消えた。
重さも、熱も、血の匂いも、すべてが一度なくなった。
そして。
風が吹いた。
「……あ?」
バンは立っていた。
足の裏に、柔らかい草の感触がある。
鼻に入るのは、血と焦げた大地の匂いではない。青い草の匂い。湿った土の匂い。どこか甘い花の匂い。
目の前には、果てしない草原が広がっていた。
空は高い。
雲は白い。
風は穏やかで、さっきまでの戦場の気配など欠片もない。
遠くに一本、大きな木が立っている。
その下を、名前も知らない小さな鳥が横切った。
バンはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を鳴らす。
「……どこだ、ここ」
返事はない。
あるのは、草を撫でる風の音だけ。
バンは周囲を見渡した。
山の形が違う。
空気の味が違う。
大地の奥に流れる命の気配も、どこか違う。
見知らぬ土地、というだけではない。
世界そのものが違う。
長い旅の中で、バンはそういう違和感を嗅ぎ分けることができた。
煉獄のような、常識の通じない場所も知っている。
だからこそ分かる。
ここは、自分の知っている世界ではない。
「……ここ、俺の知ってる世界じゃねぇな」
呟きは、草原の風に薄く流れた。
戻る方法を探す必要はある。
置いてきたものもある。
約束も、家族も、仲間も、簡単に忘れられるものではない。
だが、焦って空を殴ったところで裂け目が開くわけでもない。
まずは、この世界が何なのかを知らなければならない。
バンはそう考え――。
ぐう、と腹が鳴った。
沈黙。
草原の真ん中で、バンは自分の腹を見下ろした。
「……腹減ったな」
世界が変わろうが、空間に呑まれようが、腹は減る。
むしろ、さっきまで暴れていた分、余計に減っていた。
バンは頭をかき、周囲を見渡す。
「とりあえず、食い物探すか」
帰る方法を考えるのは、そのあとでいい。
腹が減っていては、いい考えも浮かばない。
バンは草原を歩き出した。
しばらく進むと、草の揺れ方が変わった。
風ではない。
何かがいる。
バンは足を止めず、視線だけを横へ向けた。
草むらの奥。
地面すれすれを、黒い影が走った。
次の瞬間、それは跳び出してきた。
狼に似ていた。
だが、狼ではない。
毛並みは灰色にくすみ、目は濁った赤。口からは泡のような唾液が垂れ、爪は妙に硬そうに黒ずんでいる。
何より、命の匂いが薄い。
獣のようで、獣ではない。
腹を満たせる肉の匂いが、ほとんどしなかった。
「んだよ。食えんのか、お前」
バンの軽口に答えるように、怪物が牙を剥いた。
低く唸り、草を蹴って飛びかかってくる。
バンは避けなかった。
右足を半歩引き、肩を落とす。
怪物の牙が首元へ迫った瞬間、バンの拳が横から入った。
鈍い音。
怪物の身体が空中で折れ、地面に叩きつけられる。
それだけで終わった。
「弱ぇな」
バンはしゃがみ込む。
肉が取れるなら、まあ悪くない。
そう思って怪物の首根っこを掴もうとした。
その瞬間、怪物の身体が崩れた。
灰になった。
毛皮も、肉も、骨も、血も。
全部、乾いた砂のように崩れて風に散った。
残ったのは、小さな紫色の石だけだった。
バンはしばらく、それを眺めていた。
「……あ?」
石を拾う。
光沢がある。中に薄い光が揺れている。
食える匂いはしない。
バンは石を歯で軽く噛んでみた。
硬い。
「……石か。食えねぇな」
ぽい、と投げ捨てる。
紫色の石は草の中に転がった。
バンは灰になった跡を見下ろし、眉を寄せる。
「肉も骨も残らねぇのかよ。使えねぇな、この世界の化け物」
戦える相手なら歓迎だ。
だが、倒しても食えないとなると話が違う。
少なくとも、今のバンにとっては、強敵より食材の方が価値がある。
その後も、似たような怪物が二度襲ってきた。
一匹は角のある犬のようなもの。
もう一匹は、痩せた小鬼のような姿をしていた。
どちらも、倒すと灰になった。
どちらも、石だけを残した。
バンは三つ目の石を見て、深いため息をついた。
「この石、酒代になるのかねぇ」
なるかどうかは分からない。
そもそも、この世界に酒場があるのかも分からない。
だが、とりあえず食えないことだけは分かった。
バンは石を拾わなかった。
腹の足しにならないものを持ち歩く気にはならない。
日が少し傾き始めたころ、ようやくまともな匂いがした。
血の匂い。
草を食む小動物の匂い。
生き物の、ちゃんとした肉の匂いだ。
バンの目が細くなる。
「……いるな」
草原の端、低い茂みのそば。
灰色の野兎が一匹、耳を立てていた。
それは怪物ではなかった。
濁った目も、黒い爪も、変な気配もない。
ただの兎だ。
バンは口の端を上げた。
「こっちはちゃんと肉になるだろ」
次の瞬間、バンの姿が消えた。
野兎が跳ねるより早く、バンの手がその首を取る。
骨を折る音は小さかった。
苦しませる暇もない。
バンは野兎を片手にぶら下げ、満足そうに頷く。
「悪くねぇ」
火を起こす場所を探す。
近くに浅い窪地があり、風を避けられそうだった。
乾いた枝も落ちている。大きな木の根元には、香りの強い草が何種類か生えていた。
バンは手際よく枝を集めた。
火を起こす道具は、旅の中で身につけたやり方がいくらでもある。
乾いた草をほぐし、小枝を組み、火種を作る。
やがて、小さな火がぱちりと音を立てた。
バンは野兎の血を抜き、皮を剥ぎ、内臓を処理する。
動きに迷いはない。
荒っぽいが、雑ではない。
肉を枝に刺し、火のそばへ立てる。
近くで摘んだ香草を指で潰し、肉の表面にすり込んだ。
塩はない。
酒もない。
油もない。
「調味料がねぇのは痛ぇな」
ぼやきながらも、焼ける匂いは悪くなかった。
兎の脂が落ち、火が小さく跳ねる。
香草の青い匂いと、肉の焼ける匂いが混ざる。
バンは火を見つめながら、草の上に座り込んだ。
さっきの裂け目。
白く歪んだ視界。
混沌の気配。
あれが何だったのかは分からない。
元の世界に戻る方法も分からない。
だが、どこかに人がいるなら、情報はある。
人がいれば、酒もある。
酒があれば、少しは落ち着いて考えられる。
バンは焼けた肉を火から外し、かじった。
熱い肉汁が舌に落ちる。
塩気は足りない。
香草も少し青臭い。
だが、腹が減っている時の焼き肉は、それだけで十分うまい。
「……悪くねぇ」
もう一口。
骨に近い部分は少し硬い。
脂は少ない。
だが、ちゃんと血の通った生き物の味がした。
倒すと灰になる化け物より、ずっといい。
「けど、酒が欲しいな」
火の向こうに広がる草原を見ながら、バンは呟いた。
空の色が変わり始めている。
青が薄れ、端の方から橙がにじむ。
夕暮れだ。
このまま野宿でも構わない。
煉獄に比べれば、草原の夜など寝床としては上等だ。
だが、酒がない。
情報もない。
ついでに言えば、塩もない。
それは少し困る。
バンは兎肉を最後まで食べ、骨を火のそばへ放った。
指についた脂を舐め、立ち上がる。
その時、風向きが変わった。
かすかに、煙の匂いがした。
草を焼く匂いではない。
焚き火。かまど。人の暮らしの火。
バンは顔を上げた。
遠くの地平線。
草原の向こう。
薄い煙が一本、空へ昇っている。
人がいる。
人がいるなら、村か、町か、少なくとも小屋はある。
火がある。
鍋がある。
もしかしたら、酒もある。
歩きながら、バンは何度か背後を振り返った。
そこに裂け目はない。
混沌の気配もない。
ただ、風に揺れる草と、夕暮れの光だけが広がっている。
まるで、最初からここにいたかのようだった。
「雑な飛ばし方しやがって」
文句を言ってみても、返事をする相手はいない。
バンは歩きながら、腰のあたりに手をやった。
そこで、ほんの少しだけ眉を動かす。
ない。
いつもなら、そこにあるはずの感触がなかった。
聖棍クレシューズ。
長い付き合いの相棒。
戦場の混乱で手放した覚えはない。
だが、今は手元にない。
「……あいつも飛ばされたか」
バンは大きく息を吐いた。
武器がないからといって、困ることは少ない。
素手でも大抵の相手はどうにかなる。
さっきの灰になる化け物程度なら、殴るだけで十分だった。
だが、相棒がいないというのは、気分が悪い。
「ま、どっかに落ちてんだろ。見つけた奴が売ってくれてりゃ楽なんだがな」
そう言って笑う。
普通なら、見知らぬ世界で武器を失ったなど致命的な状況だ。
だが、バンの足取りは軽い。
焦っても腹は膨れない。
怒っても酒は湧かない。
なら、まず歩くしかない。
草原には、ところどころに小さな花が咲いていた。
青いもの、黄色いもの、白いもの。
バンはそのうち一つを摘み、匂いを嗅いだ。
「食えそうじゃねぇな」
花を放る。
次に見つけた木の実も割ってみたが、渋い匂いが強すぎたので捨てた。
食えるものと食えないもの。
毒のあるものとないもの。
異世界だろうと、鼻と舌と経験は役に立つ。
バンは、そういうことを誰に教わったわけでもない。
旅の中で覚えた。
死にかけながら覚えた。
食わなければ死ぬ場所も、食えば死ぬものも、嫌というほど知っている。
だからこそ、さっきの紫の石には腹が立った。
「倒して石だけってのはねぇよな。せめて肝くらい残せってんだ」
誰に向けた文句でもない。
だが、言わずにはいられなかった。
夕暮れが濃くなる。
遠くの煙は、まだ消えていない。
そこには誰かがいる。
誰かが火を使い、何かを煮るか焼くかしている。
想像しただけで、腹がまた少し鳴った。
「さっき食ったばっかだろうが」
自分の腹にそう言って、バンは笑った。
バンは煙の方角へ歩き出した。
「さて、と」
肩を回し、口の端を上げる。
「酒と情報、どっちもありゃいいんだけどな」
夕暮れの草原を、赤い服の旅人が進んでいく。
神の恩恵もなく。
ステイタスもなく。
ファミリアもなく。
ただ腹を空かせ、酒を求めて。
強欲の旅人は、まだ自分がこの世界の歴史を変えることになるとは知らなかった。
第1話は、バンがダンまち世界へ転移し、この世界の「モンスターは基本的に肉にならない」という違和感に触れる導入回です。
次回は、初めての人里と、飯の礼の話になります。