強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第10話です。
今回は、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》が本格的に描かれます。
神の恩恵も魔法も持たないバンだからこそ、黒獣の理に引っかからない。
ただし、効かないから楽勝ではありません。


第10話 喰えない男

黒獣が、赤い旅人を見ていた。

 

ただの獲物ではない。

ただの虫でもない。

進路上の小石でもない。

 

無視しようとすれば、確かに足元を刺してくるもの。

踏み潰そうとすれば、わずかに足をずらしてくるもの。

潰れたはずなのに、立つもの。

 

ベヒーモスの赤黒い眼に、バンの姿が映っていた。

 

バンは血を吐き捨て、クレシューズを肩に担ぎ直す。

 

「ようやく覚えたか、俺の顔」

 

喉は焼けている。

肺は重い。

肋骨は何本か嫌な音を立てている。

右腕のしびれもまだ残っていた。

 

だが、立てる。

動ける。

腹も、まだ減る。

 

なら、問題ない。

 

ベヒーモスの喉の奥で、低い音が鳴った。

 

それは咆哮ではなかった。

唸りでもない。

もっと深い、もっと嫌な音。

 

大地の底に巨大な穴が開き、そこへ空気も砂も命も吸い込まれていくような音だった。

 

黒い砂が、ベヒーモスへ向かって流れ始めた。

 

風が逆巻く。

割れた岩から黒い筋が抜ける。

死んだ魔物の残骸から、濁った光が剥がれる。

黒い砂漠そのものが、ベヒーモスの口ではなく、体へ吸い寄せられていく。

 

バンは目を細めた。

 

「……飯の時間か?」

 

遠くの岩陰で、イリスが息を呑んだ。

 

「魔力捕食……!」

 

ディオスが眉をひそめる。

 

「何だ、それ」

 

「ベヒーモスが周囲の魔力を喰らう現象です。魔石、魔道具、魔法、神の恩恵によって強化された身体の流れまで乱すと聞いています」

 

「聞いてるって、見たことは」

 

「あるわけがありません。見た者の大半は帰っていません」

 

「嫌な説明だな」

 

ディオスは自分の腰に下げた魔石灯を見た。

灯りは、先ほどよりさらに弱くなっている。ほとんど消えかけていた。

 

「つまり、俺らが近づいたら」

 

「魔力を吸われます。身体の内側で、恩恵の流れが乱れるでしょう。上級冒険者ほど、違和感は大きいはずです」

 

「最悪じゃねぇか」

 

「ええ」

 

イリスはバンを見た。

 

「ただし、あの人は……」

 

「恩恵なし」

 

「魔法の気配もありません」

 

「魔石灯も持ってない」

 

ディオスが乾いた笑いを漏らした。

 

「喰うもんがねぇってか」

 

黒い砂漠の中心で、バンはベヒーモスを見上げていた。

 

周囲の空気が変わっている。

 

普通なら、ここで力を抜かれるのだろう。

魔法を使う者なら、魔力が乱れる。

恩恵を受けた者なら、身体の奥にある成長の流れ、神の文字の巡り、そういうものを引っかき回されるのかもしれない。

 

だが、バンにはない。

 

神の恩恵もない。

ステイタスもない。

魔法もない。

ファミリアの紋章もない。

 

背中に刻まれた神聖文字など、最初からない。

 

ベヒーモスが喰らおうとしているものが、バンの中にはほとんど存在しなかった。

 

もちろん、命はある。

血も肉も、痛みもある。

だが、黒獣がまず奪おうとする「この世界の力」は、バンの身体に引っかからない。

 

ベヒーモスの眼が、わずかに揺れた。

 

喰えない。

 

その異物感が、黒獣の本能に触れた。

 

バンは口元を歪める。

 

「悪いな。俺、神様の味付けされてねぇんだ」

 

次の瞬間、ベヒーモスが動いた。

 

今度は足ではない。

 

全身から、黒い波が放たれた。

 

魔力捕食《マナ・グラトニー》。

 

見えない牙が、周囲一帯に噛みつく。

黒い砂が渦を巻き、空気が引き裂かれ、魔石灯の残り火が完全に消える。

 

遠くのイリスが膝をついた。

 

「っ……!」

 

「イリス!」

 

ディオスが彼女の肩を支える。

彼自身も顔をしかめていた。身体の奥にある恩恵の流れが、細い針でかき混ぜられているような不快感があった。

 

「近いだけでこれかよ……!」

 

「下がります。これ以上は、こちらが保ちません」

 

二人は岩陰からさらに後退した。

だが視線だけは、バンから離せない。

 

黒い波は、バンも呑み込んだ。

 

ロングコートが激しくはためく。

頬の傷から流れた血が、黒い風に引かれる。

肺の中の空気が奪われるような感覚。

 

だが、身体の芯は揺れない。

 

バンは片足を踏みしめた。

 

「風が強ぇな」

 

それだけだった。

 

ベヒーモスの眼に、赤黒い光が濃くなる。

 

喰えない。

吸えない。

乱せない。

 

なら、潰す。

 

黒獣が前脚を振り上げた。

 

バンは走った。

 

真正面ではない。

斜めへ。

脚の内側へ潜るように。

 

前脚が地面を叩き潰す。

衝撃波が背中を押し、黒砂が刃のように飛ぶ。

 

バンはクレシューズを横へ伸ばし、ベヒーモスの外殻の隙間へ引っかけた。しなる棍を支点に、身体を振り上げる。

 

黒獣の脚を駆け上がる。

 

「でけぇ階段だな」

 

外殻の突起を踏み、黒い毒砂を蹴り、さらに上へ。

ベヒーモスが脚を振った。

 

バンの身体が吹き飛ばされかける。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

スナッチ。

 

奪うのは、脚の力ではない。

振り払う勢いの端。

重さが流れる向き。

ほんの一瞬、ほんの一筋。

 

それだけで、身体を外へ弾く力が鈍る。

 

バンはクレシューズを伸ばし、別の突起へ絡めた。

自分の身体を無理やり引き寄せる。

 

腕に激痛が走った。

 

「っ……!」

 

肩が軋む。

筋肉が裂けかける。

奪った勢いが、バンの身体にも流れ込む。

 

万能ではない。

全部を奪えば、身体が壊れる。

少し奪っても、反動は来る。

 

それでも、足場は取れた。

 

バンはベヒーモスの肩口へ跳び移り、クレシューズを振りかぶった。

 

「ここならどうだ」

 

同じ場所を狙う。

外殻の割れ目。

第9話でつけた、わずかな傷。

 

一撃目。

 

鈍い音。

黒い外殻が砕ける。

 

二撃目。

 

赤黒い液体が噴き出す。

毒気が鼻を焼く。

 

三撃目。

 

ベヒーモスが、初めて明確に身じろぎした。

 

巨体が震える。

その揺れだけで、バンの足元が崩れる。岩山の上に立っていたはずが、突然地震に襲われたようだった。

 

「おっと」

 

バンはクレシューズを突き立てて踏ん張る。

 

だが、ベヒーモスの肩口から黒い砂が噴き出した。

 

傷口から砂が出ている。

 

血ではない。

肉でもない。

黒い砂漠そのものが、体内から溢れているようだった。

 

バンは顔をしかめる。

 

「中まで砂かよ。ほんと食えねぇな」

 

黒砂が爆ぜた。

 

バンの身体が吹き飛ばされる。

空中で回転し、黒い砂漠へ落ちる。

 

受け身は取った。

だが、左肩から地面に叩きつけられ、息が詰まる。

 

ベヒーモスが振り返る。

 

巨大な頭部。

二本の角。

赤黒い眼。

 

その口が開いた。

 

咆哮ではない。

吸い込みだった。

 

周囲の魔力が、さらに強くベヒーモスへ引き込まれる。

 

黒い砂に埋もれていた魔石が、ぴしりと割れた。

遠くの壊れた魔石灯が砕ける。

黒砂に汚染された獣の残骸が、光も灰も残さず吸われて消える。

 

バンの身体からも、何かを奪おうとする力がまとわりつく。

 

だが、やはり空振りする。

 

バンは立ち上がりながら笑った。

 

「だから、俺は食ってもうまくねぇって」

 

ベヒーモスが低く唸る。

 

その唸りには、明確な不快が混じっていた。

 

ディオスは遠くからそれを見て、顔を引きつらせた。

 

「ベヒーモスが困ってるように見えるんだが」

 

「困惑、あるいは苛立ちに近い反応です」

 

「黒獣を困らせるなよ、何なんだあいつ」

 

「喰えない男、ということでしょう」

 

「誰がうまいこと言えって言った」

 

イリスは真顔で記録していた。

 

「魔力捕食《マナ・グラトニー》は、赤い旅人に対して十分な効果を発揮していない。理由は、神の恩恵、魔法、魔石装備を持たないためと推測」

 

「推測って便利だな」

 

「それ以上の言葉がありません」

 

バンは再び走った。

 

今度は足元を狙う。

いきなり本体を削るには硬すぎる。なら、動きをずらす。

 

ベヒーモスが前脚を振る。

バンは紙一重で避ける。

衝撃波だけで吹き飛ばされかけるが、クレシューズを地面に打ち込み、軌道を変える。

 

右へ。

左へ。

黒い砂を蹴り、岩を踏み、崩れる地面を越える。

 

ベヒーモスの一歩は、地形を変える。

バンの一歩は、その隙間を縫う。

 

真正面から力比べをすれば、勝負にならない。

なら、力をぶつける場所を選ぶ。

 

バンはベヒーモスの後ろ脚近くへ潜り込んだ。

 

「その踏ん張り、借りるぜ」

 

スナッチ。

 

後ろ脚が地面を掴む力。

巨体を支える重心の流れ。

その一部を、ほんの一瞬だけ奪う。

 

バンの身体に、ありえない重さが流れ込んだ。

 

視界が赤くなる。

 

「っ、が……!」

 

膝が砕けそうになる。

背骨が軋む。

内臓が押し潰されるような負荷。

 

それでも奪った。

 

ベヒーモスの後ろ脚が、わずかに滑る。

 

巨体が、ほんの少し傾いた。

 

山が揺れた。

 

黒い砂漠全体が、信じられないものを見たように震える。

 

バンは血を吐きながら笑った。

 

「ほら、足元お留守だぜ」

 

クレシューズを振るう。

 

後ろ脚の関節部へ、渾身の一撃を叩き込む。

 

外殻が割れた。

赤黒い液体が飛ぶ。

ベヒーモスの脚が、さらにわずかに沈む。

 

だが、次の瞬間、黒獣の尾が動いた。

 

尾。

 

山の背後から伸びる、巨大な黒い鞭。

それが横薙ぎに振るわれた。

 

バンは避けようとした。

 

間に合わない。

 

クレシューズを盾のように構える。

尾が叩きつけられる。

 

衝撃。

 

音が消えた。

 

バンの身体は、黒い砂漠を横切るように吹き飛んだ。

岩を砕き、砂丘を削り、地面に何度も叩きつけられる。

 

最後に、黒い岩壁へ背中からめり込んだ。

 

咳が出た。

血が出た。

 

視界が白くなる。

 

身体のあちこちが痛い。

いや、痛い場所が多すぎて、どこが無事なのか分からない。

 

それでも、手はクレシューズを離していなかった。

 

バンは岩壁からずるりと落ちる。

片膝をつく。

 

すぐには立てなかった。

 

黒い砂が、足元から上がってくる。

傷にまとわりつく。

血を汚す。

体温を奪う。

 

ベヒーモスがゆっくり向き直る。

 

赤い旅人がまだ動いていることを、黒獣は知っていた。

 

今度こそ、潰す。

 

その意思が、黒い砂漠を通じて伝わってくる。

 

バンは息を吸った。

喉が焼ける。

肺が痛む。

 

だが、笑った。

 

「……喰えねぇ奴だな、俺もお前も」

 

ベヒーモスは魔力を喰う。

命を削る。

大地を腐らせる。

水を毒にし、酒をまずくし、飯を奪う。

 

だが、バンは喰えない。

神の味付けがない。

魔法の香りもない。

恩恵の流れもない。

 

しかも、潰しても立つ。

 

ベヒーモスにとって、こんなに喰えない相手はいなかった。

 

バンにとっても、こんなに食えない相手はいなかった。

 

肉はまずそう。

血は毒。

骨も邪魔。

魔石も酒代になるか怪しい。

 

「ほんと、最悪の食材だぜ」

 

バンは立ち上がった。

 

ゆっくりと。

膝を伸ばし、背を起こし、肩で息をしながら。

 

ディオスが呆然と呟く。

 

「また立った……」

 

イリスは、もうすぐには記録できなかった。

 

ベヒーモスの魔力捕食を受けた。

脚を揺らした。

尾で吹き飛ばされた。

岩壁に叩きつけられた。

 

それでも、まだ立っている。

 

バンはクレシューズを肩に担ぐ。

 

「おい、黒獣」

 

声は掠れていた。

だが、届いた。

 

「飯にも酒にもならねぇなら、せめて道くらい空けろ」

 

ベヒーモスが咆哮した。

 

怒りだった。

 

今度こそ、明確な怒り。

 

黒い砂漠が渦を巻く。

魔力捕食《マナ・グラトニー》がさらに強まる。

空気が引き裂かれ、地面が軋み、遠くの岩が砕ける。

 

だが、その中心で、バンは笑っていた。

 

喰えない男が、喰らう黒獣の前に立っていた。




第10話は、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》と、恩恵なし・魔法なしのバンの相性を描きました。
ただし、効きにくいだけで楽勝ではなく、スナッチの反動とベヒーモスの純粋な質量でバンの身体は確実に削られています。
次回、第11話「黒獣討伐」で、第二部最大の戦闘に入ります。
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