今回は、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》が本格的に描かれます。
神の恩恵も魔法も持たないバンだからこそ、黒獣の理に引っかからない。
ただし、効かないから楽勝ではありません。
黒獣が、赤い旅人を見ていた。
ただの獲物ではない。
ただの虫でもない。
進路上の小石でもない。
無視しようとすれば、確かに足元を刺してくるもの。
踏み潰そうとすれば、わずかに足をずらしてくるもの。
潰れたはずなのに、立つもの。
ベヒーモスの赤黒い眼に、バンの姿が映っていた。
バンは血を吐き捨て、クレシューズを肩に担ぎ直す。
「ようやく覚えたか、俺の顔」
喉は焼けている。
肺は重い。
肋骨は何本か嫌な音を立てている。
右腕のしびれもまだ残っていた。
だが、立てる。
動ける。
腹も、まだ減る。
なら、問題ない。
ベヒーモスの喉の奥で、低い音が鳴った。
それは咆哮ではなかった。
唸りでもない。
もっと深い、もっと嫌な音。
大地の底に巨大な穴が開き、そこへ空気も砂も命も吸い込まれていくような音だった。
黒い砂が、ベヒーモスへ向かって流れ始めた。
風が逆巻く。
割れた岩から黒い筋が抜ける。
死んだ魔物の残骸から、濁った光が剥がれる。
黒い砂漠そのものが、ベヒーモスの口ではなく、体へ吸い寄せられていく。
バンは目を細めた。
「……飯の時間か?」
遠くの岩陰で、イリスが息を呑んだ。
「魔力捕食……!」
ディオスが眉をひそめる。
「何だ、それ」
「ベヒーモスが周囲の魔力を喰らう現象です。魔石、魔道具、魔法、神の恩恵によって強化された身体の流れまで乱すと聞いています」
「聞いてるって、見たことは」
「あるわけがありません。見た者の大半は帰っていません」
「嫌な説明だな」
ディオスは自分の腰に下げた魔石灯を見た。
灯りは、先ほどよりさらに弱くなっている。ほとんど消えかけていた。
「つまり、俺らが近づいたら」
「魔力を吸われます。身体の内側で、恩恵の流れが乱れるでしょう。上級冒険者ほど、違和感は大きいはずです」
「最悪じゃねぇか」
「ええ」
イリスはバンを見た。
「ただし、あの人は……」
「恩恵なし」
「魔法の気配もありません」
「魔石灯も持ってない」
ディオスが乾いた笑いを漏らした。
「喰うもんがねぇってか」
黒い砂漠の中心で、バンはベヒーモスを見上げていた。
周囲の空気が変わっている。
普通なら、ここで力を抜かれるのだろう。
魔法を使う者なら、魔力が乱れる。
恩恵を受けた者なら、身体の奥にある成長の流れ、神の文字の巡り、そういうものを引っかき回されるのかもしれない。
だが、バンにはない。
神の恩恵もない。
ステイタスもない。
魔法もない。
ファミリアの紋章もない。
背中に刻まれた神聖文字など、最初からない。
ベヒーモスが喰らおうとしているものが、バンの中にはほとんど存在しなかった。
もちろん、命はある。
血も肉も、痛みもある。
だが、黒獣がまず奪おうとする「この世界の力」は、バンの身体に引っかからない。
ベヒーモスの眼が、わずかに揺れた。
喰えない。
その異物感が、黒獣の本能に触れた。
バンは口元を歪める。
「悪いな。俺、神様の味付けされてねぇんだ」
次の瞬間、ベヒーモスが動いた。
今度は足ではない。
全身から、黒い波が放たれた。
魔力捕食《マナ・グラトニー》。
見えない牙が、周囲一帯に噛みつく。
黒い砂が渦を巻き、空気が引き裂かれ、魔石灯の残り火が完全に消える。
遠くのイリスが膝をついた。
「っ……!」
「イリス!」
ディオスが彼女の肩を支える。
彼自身も顔をしかめていた。身体の奥にある恩恵の流れが、細い針でかき混ぜられているような不快感があった。
「近いだけでこれかよ……!」
「下がります。これ以上は、こちらが保ちません」
二人は岩陰からさらに後退した。
だが視線だけは、バンから離せない。
黒い波は、バンも呑み込んだ。
ロングコートが激しくはためく。
頬の傷から流れた血が、黒い風に引かれる。
肺の中の空気が奪われるような感覚。
だが、身体の芯は揺れない。
バンは片足を踏みしめた。
「風が強ぇな」
それだけだった。
ベヒーモスの眼に、赤黒い光が濃くなる。
喰えない。
吸えない。
乱せない。
なら、潰す。
黒獣が前脚を振り上げた。
バンは走った。
真正面ではない。
斜めへ。
脚の内側へ潜るように。
前脚が地面を叩き潰す。
衝撃波が背中を押し、黒砂が刃のように飛ぶ。
バンはクレシューズを横へ伸ばし、ベヒーモスの外殻の隙間へ引っかけた。しなる棍を支点に、身体を振り上げる。
黒獣の脚を駆け上がる。
「でけぇ階段だな」
外殻の突起を踏み、黒い毒砂を蹴り、さらに上へ。
ベヒーモスが脚を振った。
バンの身体が吹き飛ばされかける。
「ちょいと借りるぜ」
スナッチ。
奪うのは、脚の力ではない。
振り払う勢いの端。
重さが流れる向き。
ほんの一瞬、ほんの一筋。
それだけで、身体を外へ弾く力が鈍る。
バンはクレシューズを伸ばし、別の突起へ絡めた。
自分の身体を無理やり引き寄せる。
腕に激痛が走った。
「っ……!」
肩が軋む。
筋肉が裂けかける。
奪った勢いが、バンの身体にも流れ込む。
万能ではない。
全部を奪えば、身体が壊れる。
少し奪っても、反動は来る。
それでも、足場は取れた。
バンはベヒーモスの肩口へ跳び移り、クレシューズを振りかぶった。
「ここならどうだ」
同じ場所を狙う。
外殻の割れ目。
第9話でつけた、わずかな傷。
一撃目。
鈍い音。
黒い外殻が砕ける。
二撃目。
赤黒い液体が噴き出す。
毒気が鼻を焼く。
三撃目。
ベヒーモスが、初めて明確に身じろぎした。
巨体が震える。
その揺れだけで、バンの足元が崩れる。岩山の上に立っていたはずが、突然地震に襲われたようだった。
「おっと」
バンはクレシューズを突き立てて踏ん張る。
だが、ベヒーモスの肩口から黒い砂が噴き出した。
傷口から砂が出ている。
血ではない。
肉でもない。
黒い砂漠そのものが、体内から溢れているようだった。
バンは顔をしかめる。
「中まで砂かよ。ほんと食えねぇな」
黒砂が爆ぜた。
バンの身体が吹き飛ばされる。
空中で回転し、黒い砂漠へ落ちる。
受け身は取った。
だが、左肩から地面に叩きつけられ、息が詰まる。
ベヒーモスが振り返る。
巨大な頭部。
二本の角。
赤黒い眼。
その口が開いた。
咆哮ではない。
吸い込みだった。
周囲の魔力が、さらに強くベヒーモスへ引き込まれる。
黒い砂に埋もれていた魔石が、ぴしりと割れた。
遠くの壊れた魔石灯が砕ける。
黒砂に汚染された獣の残骸が、光も灰も残さず吸われて消える。
バンの身体からも、何かを奪おうとする力がまとわりつく。
だが、やはり空振りする。
バンは立ち上がりながら笑った。
「だから、俺は食ってもうまくねぇって」
ベヒーモスが低く唸る。
その唸りには、明確な不快が混じっていた。
ディオスは遠くからそれを見て、顔を引きつらせた。
「ベヒーモスが困ってるように見えるんだが」
「困惑、あるいは苛立ちに近い反応です」
「黒獣を困らせるなよ、何なんだあいつ」
「喰えない男、ということでしょう」
「誰がうまいこと言えって言った」
イリスは真顔で記録していた。
「魔力捕食《マナ・グラトニー》は、赤い旅人に対して十分な効果を発揮していない。理由は、神の恩恵、魔法、魔石装備を持たないためと推測」
「推測って便利だな」
「それ以上の言葉がありません」
バンは再び走った。
今度は足元を狙う。
いきなり本体を削るには硬すぎる。なら、動きをずらす。
ベヒーモスが前脚を振る。
バンは紙一重で避ける。
衝撃波だけで吹き飛ばされかけるが、クレシューズを地面に打ち込み、軌道を変える。
右へ。
左へ。
黒い砂を蹴り、岩を踏み、崩れる地面を越える。
ベヒーモスの一歩は、地形を変える。
バンの一歩は、その隙間を縫う。
真正面から力比べをすれば、勝負にならない。
なら、力をぶつける場所を選ぶ。
バンはベヒーモスの後ろ脚近くへ潜り込んだ。
「その踏ん張り、借りるぜ」
スナッチ。
後ろ脚が地面を掴む力。
巨体を支える重心の流れ。
その一部を、ほんの一瞬だけ奪う。
バンの身体に、ありえない重さが流れ込んだ。
視界が赤くなる。
「っ、が……!」
膝が砕けそうになる。
背骨が軋む。
内臓が押し潰されるような負荷。
それでも奪った。
ベヒーモスの後ろ脚が、わずかに滑る。
巨体が、ほんの少し傾いた。
山が揺れた。
黒い砂漠全体が、信じられないものを見たように震える。
バンは血を吐きながら笑った。
「ほら、足元お留守だぜ」
クレシューズを振るう。
後ろ脚の関節部へ、渾身の一撃を叩き込む。
外殻が割れた。
赤黒い液体が飛ぶ。
ベヒーモスの脚が、さらにわずかに沈む。
だが、次の瞬間、黒獣の尾が動いた。
尾。
山の背後から伸びる、巨大な黒い鞭。
それが横薙ぎに振るわれた。
バンは避けようとした。
間に合わない。
クレシューズを盾のように構える。
尾が叩きつけられる。
衝撃。
音が消えた。
バンの身体は、黒い砂漠を横切るように吹き飛んだ。
岩を砕き、砂丘を削り、地面に何度も叩きつけられる。
最後に、黒い岩壁へ背中からめり込んだ。
咳が出た。
血が出た。
視界が白くなる。
身体のあちこちが痛い。
いや、痛い場所が多すぎて、どこが無事なのか分からない。
それでも、手はクレシューズを離していなかった。
バンは岩壁からずるりと落ちる。
片膝をつく。
すぐには立てなかった。
黒い砂が、足元から上がってくる。
傷にまとわりつく。
血を汚す。
体温を奪う。
ベヒーモスがゆっくり向き直る。
赤い旅人がまだ動いていることを、黒獣は知っていた。
今度こそ、潰す。
その意思が、黒い砂漠を通じて伝わってくる。
バンは息を吸った。
喉が焼ける。
肺が痛む。
だが、笑った。
「……喰えねぇ奴だな、俺もお前も」
ベヒーモスは魔力を喰う。
命を削る。
大地を腐らせる。
水を毒にし、酒をまずくし、飯を奪う。
だが、バンは喰えない。
神の味付けがない。
魔法の香りもない。
恩恵の流れもない。
しかも、潰しても立つ。
ベヒーモスにとって、こんなに喰えない相手はいなかった。
バンにとっても、こんなに食えない相手はいなかった。
肉はまずそう。
血は毒。
骨も邪魔。
魔石も酒代になるか怪しい。
「ほんと、最悪の食材だぜ」
バンは立ち上がった。
ゆっくりと。
膝を伸ばし、背を起こし、肩で息をしながら。
ディオスが呆然と呟く。
「また立った……」
イリスは、もうすぐには記録できなかった。
ベヒーモスの魔力捕食を受けた。
脚を揺らした。
尾で吹き飛ばされた。
岩壁に叩きつけられた。
それでも、まだ立っている。
バンはクレシューズを肩に担ぐ。
「おい、黒獣」
声は掠れていた。
だが、届いた。
「飯にも酒にもならねぇなら、せめて道くらい空けろ」
ベヒーモスが咆哮した。
怒りだった。
今度こそ、明確な怒り。
黒い砂漠が渦を巻く。
魔力捕食《マナ・グラトニー》がさらに強まる。
空気が引き裂かれ、地面が軋み、遠くの岩が砕ける。
だが、その中心で、バンは笑っていた。
喰えない男が、喰らう黒獣の前に立っていた。
第10話は、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》と、恩恵なし・魔法なしのバンの相性を描きました。
ただし、効きにくいだけで楽勝ではなく、スナッチの反動とベヒーモスの純粋な質量でバンの身体は確実に削られています。
次回、第11話「黒獣討伐」で、第二部最大の戦闘に入ります。